名西郡

青い目の人形・アリスの里帰り

 徳島市から神山町へ鮎喰川の清流を上ると緑の山々に囲まれた集落が一つまた一つと現れる。毎年、植樹祭が行われる徳島県立神山森林公園や四国一泉質がよいと評判の神山温泉に私はよく出かけるが、神山町と聞けば真っ先に思い出すのが「青い目の人形・アリス」である。

 

 童謡「青い目の人形」で知られる「青い目の人形」にはこんな実話がある。昭和二年(1927年)三月三日、日本の雛祭りの日にアメリカから日本に一万二千七百三十九体 の「青い目の人形」が届いた。

 

 この人形を贈る計画をしたのは、アメリカ人のシドニー・ルイス・ギューリック博士。博士は二十年間日本に滞在したあとアメリ カに帰国。そのとき、日本人移民の排斥運動に直面した。当時、日米間は非常に険悪な状態になっていたのである。

 

 “日本の子供達に平和を願うアメリカ人の心 を送ろう”そんな思いが通じたのだろうか。ギューリック博士の計画が発表されると、二百六十万人のアメリカ人がこの運動に参加し、日本の雛祭りに間に合う よう、ニューヨークとサンフランシスコの港から郵船会社五社の協力を得て「青い目の人形」が日本の港に届けられたのである。

 

 アリスちゃんはそのなかの一体で、ペンシルバニアからはるばる神山町の神領小学校に来た。ところが昭和十六年、日米間に太平洋戦争が始まると、全国に送 られた「青い目の人形」は敵国から来た人形ということから竹槍で突かれ、あるいは児童の目前で焼かれるなどまことに悲しい運命をたどった。

 

 そんななかアリ スちゃんを助けたのは当時、神領小学校の先生をしていた阿部ミツエさん。阿部先生は誰れにも言わずに自宅の物置に隠したのである。

 

 そのアリスちゃんがたまたま発見され「傾城・阿波の鳴門」で有名な人形浄瑠璃の人形作家・大江巳之助さんが、元のように泣き声が出るまでに修復されたという地元新聞の小さな囲み記事を私は偶然、目にした。

 

 “アリスちゃんをアメリカに里帰りさせてあげよう”。即座にそう決意した私は、神領小学校の校長先生に借用書を書いてお借りしたアリスちゃんを大事に持 参して衆議院予算委員会の質問に立った。昭和六十三年(1988年)二月二十九日のことである。

 

 その模様はテレビでも放映された。私の質問がきっかけとなり、全国の「青 い目の人形」がアメリカに里帰りすることが実現した。同時に「青い目の人形」が届けられた当時、日本の小学校の子供達が一銭運動でお金を集め五十八体の 「黒い目の人形」を「答礼人形」としてアメリカ各地に贈っていたのだが、その「黒い目の人形」も日本に里帰りすることが実現した。

 

 「答礼人形」の里帰り展は横浜市を皮切りに全国各地で展開され、徳島市でも徳島駅前のそごう百貨店で行われた。アメリカに里帰りしたアリスちゃん達「青い目の人形」の里帰り展も全米各地で行われ大きな感動を呼んだ。

 

 「日米関係ほど重要な二国間関係はない」。これは有名なマンスフィールド駐日大使の言葉である。

 

 マンスフィールド駐日大使には私が初めてアメリカに行く とき東京の駐日大使館でお会いした。「アメリカの生の姿をありのままに見て来てください」と語り、大使自ら珈琲を入れてくださったときのあの長身と柔和な 瞳を私は今も忘れることができない。

 

 日米関係の重要性は今も変わらない。永遠に大事にしていかなければならないと私も思う。そのためにも政治や経済だけで なく、人間と人間が心の深いところで交流し、理解し合うことが何より大切だと確信する。

吉野川第十堰と青山士さん

 吉野川第十堰は徳島県の板野郡上板町第十新田(北岸側)と名西郡石井町藍畑第十(南岸側)を結ぶ堰。吉野川を分流する ために設けられている。「第十堰」というが「第十」は地名であって吉野川にある十番目の堰というわけではない。

 

 この堰の改築計画が全国的な話題となった時 代があった。建設省や徳島県は抜本的な治水事業として現在の固定堰を可動堰に改築するといい、住民は計画の進め方が一方的で自分たちの意見が反映されてい ない、従って住民投票によって計画の是非を住民に聞くべきである、と訴えたのであった。

 

 古来、吉野川は暴れ川で、吉野川の歴史は洪水の歴史でもあった。屋根がそのまま船となる家屋や、軒先に小舟をぶら下げた家、お城のように高い石垣を築いて、その上に家を建てるなど、周辺の人達は大変な苦労を重ねて吉野川とつき合ってきた。

 

 洪水から住民の生命と財産を守る。そのために抜本的な治水事業として第十堰を改築すると建設省や徳島県は計画の正当性を訴えたが、住民投票の結果は反対が多数を占め、計画は白紙撤回された。

 

 ところでこうした公共事業を進めるに当たって、ぜひ思い起こしていただきたい人がいる。青山士(あきら)さんという内務省の技監である。

 

 青山さんは、明 治十一年(1878年)に静岡県で生まれ昭和三十八年(1963年)、八十四歳で亡くなっている。若い時に単身でパナマ運河の建設現場に行き、日本人として唯一人、土木工事を勉強して 帰国。戦前の二大国家プロジェクトといわれた荒川の放水路、信濃川の大河津分水路を完成させた。

 

 私が強調したいのは、青山さんの公共事業に対する取り組みの姿勢である。それは端的に記念碑に表れている。荒川の方には「比ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナ ル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ神武天皇紀元二千五百八十二季荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と書いてあって、最高責任者である青山 さんの名前はない。

 

 信濃川の方は私も平成六年(1994年)九月二十六日、見学させていただいたが、二つの記念碑がある。一つには表と裏があり、表には「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と 書いてある。裏には「人類ノ為メ國ノ為メ」と書いてある。人類のため、国のためというのが青山さんの考え方であり、当時の世相を思えば、まことに革新的な 思考といえよう。

 

 もう一つの碑は従業員一同の碑であるが「本工事竣工のため四星霜の久しきに亘りて吾等と吾等の僚友が払いし労苦と犠牲とを永遠に記念せん がために」と書かれていて、ここにも青山さんの名前はない。

 

 版画家の棟方志功さんも“人類ノ為メ國ノ為メ”という言葉はいい言葉だ、と何度も褒めている。私は全ての公共事業はこの精神で進めてもらいたいと思う。

 

 以上の話は私が平成十一年(1999年)二月十七日の衆議院予算委員会第八分科会の質問で紹介したもので会議録に掲載されている。

 

 吉野川第十堰改築計画は住民の理解と 協力が得られず、白紙撤回されたが、洪水の不安は解消されずに現在に至っている。住民の理解と協力を得て抜本的な治水のための公共事業が一日も早く実施さ れることを私は心から祈っている。