随筆1 「新町川に永遠の平和を誓う」

 水の都・徳島市を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は、徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水ポンプが作動して浄化が進み、子魚がスイスイと泳ぐ姿も見られる。
 県庁のあるかちどき橋から富田橋、両国橋、新町橋、春日橋、仁心橋と新町川にかかる橋には一つ一つに忘れがたい思い出がある。
 ことに仁心橋は私の生まれた土地の橋でもあり、とりわけ熱い思いがつのる。私は太平洋戦争も末期の昭和18年5月9日、この橋のたもとの西船場町5丁目5番地に生まれた。
 生後2日目に「新生児メレナ」という病気にかかり、目から鼻から血を吹いたそうである。そんな私のために、毎日毎日、人力車で仁心橋を渡って往診に通ってくれたのが寺島本町西1丁目の古川穂束(ほつか)先生である。
 先生の必死の看病で一命をとりとめた私は、生後10ヶ月目に今度は「腸閉そく」になった。父はすでに出征していた。オロオロする母を勇気づけたのは「大丈夫だよ」と語る古川先生の一言だったそうだ。またしても古川先生は人力車で仁心橋を通い続けてくださったという。
 1歳の誕生日までに二度まで助けてくださった古川先生は、私の生涯忘れ得ぬ命の恩人なのだ。のちにこのことを徳島新聞の「私の風景」という随想に寄稿したところ、御子息の古川一郎先生から丁重なお便りをいただいた。「父のことを書いて下さってありがとうございました。今は亡き父の仏前に新聞の切り抜きを供えて報告しました。父も喜んでいることでしょう。私も父の遺志を継ぎ、小児科の医師として頑張ります」というものだった。その後、私の三男がサルモネラ菌による食中毒にかかった時、今度は御子息の古川先生に助けてもらった。我が家は親子二代、古川病院に生命を救われたわけである。
 ところでカキ船が並び藍倉が軒を並べていた平和でのどかな新町川界わいも、昭和20年の徳島空襲で全くの焼け野原となってしまった。私が2歳のときである。
 母の背に負われ防空壕で一命をとりとめたものの、家も財産も全てが一夜にして灰になってしまった。帰る家もなく食べるもの、着るもの何もなかった。新町川には焼けただれた死体が折り重なるように浮かんでいたという。
 そんな悪夢を洗い流すかのように今日も新町川はゆったりと流れている。終戦後、バラック住宅の建ち並んでいた藍場浜界わいは、緑地公園となり、今は世界的に有名になった平和のシンボル・阿波踊りの舞台ともなっている。
 誰もがちょっと見落とし勝ちなのだが、この公園の中央には、永遠の平和と刻まれた塔がそびえている。その塔の下に立つと戦争の悲惨さと残酷さを身をもって知った徳島市民の切なる声が聞こえてくるようである。
 古川先生が人力車で毎日毎日往診にかけつけてくださったあの仁心橋のたもとには、平和と文化の殿堂として郷土文化会館が建設されている。橋の南詰めに、つまり私の出生地には、父からの御縁で越後屋さんのビルに私の事務所と居宅を間借りさせていただいている。まことに不思議な御縁である。
 過去から現在へ。そして未来へと、時は一瞬のためらいもなく確実に流れる。その歴史を川面に刻みつけながら新町川もひたすらにながれゆこう。私はこのふるさとの川が二度と血で染まることのないよう心から”永遠の平和”を誓いたい。