随筆2 「眉山は心の座標軸」

 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山  
   かけてこぐ舟 泊りしらずも(船王)
 万葉の昔から眉山は徳島の顔であった。春の桜、秋の紅葉も見事だが、私は清新の気みなぎる新緑がことのほか好きである。
 戦災で西船場の家を焼かれたときも、この眉山の山すそにあった防空壕で生命を助けてもらった。蔵本に疎開したあとも、眉山はすぐ目の前にあった。加茂名小学校、加茂名中学校の時代も、この山とともに私は育った。小学校や中学校の時代は昆虫採集や植物採集で駆け回った。今の西部公園のあたりから登り始め、頂上の五本松や一本松から熊笹をかき分け尾根伝いに茂助ケ原まで歩く。
 野うさぎが通るほどの小道を、気の合った友とともにワイワイいいながら歩いた。ウグイスの鳴き声が聞こえ、涼風が汗ばんだ膚に心地よかった。
 今、茂助ケ原にはテレビ塔が建ち、リフトまでできた。立派なドライブウェイも完成している。車で行けば20分もかからないほどだ。
 5時間も6時間も歩いて四苦八苦のうちにたどりついた茂助ケ原と、そこから眼下に広がる青い海を眺めた時の感動は、歳月を経てもなお胸中に脈うつ。
 徳工時代の思い出に眉山一周マラソンがある。徳島工業高校の校庭から出発し、佐古、大工町、二軒屋を通り城南高校の前から八万町、上八万町へと抜ける。鮎喰の堤防あたりにくると、どの顔も砂ぼこりで真っ黒だ。もう走れないと座り込む友が出るのもこの辺である。そんな友を最後についてきたトラックが荷台にかつぎあげてくれる。
 幸い、これにはお世話にならず、どうにか完走できた私だが、このときの自信は、その後の人生にとっても大きな力となったように思う。男も女も1人残らず全校生を参加させるというこのスパルタ教育は、現在では賛否両論だろうが、懐かしい思い出である。  高校卒業後、静岡、東京、名古屋、金沢と移り住み、15年ぶりにふるさとの土を踏んだ私を昔のままの姿で迎えてくれたのも、この眉山の緑であった。
 いつも視界の中に変わらざる物をもっているということは、何かしら安心するものだ。それは15年間の県外での生活では味わえなかった”ふるさとの味”でもあろうか。
 衆議院選挙に初出馬して以来、ほぼ20年間、県下を走り回り、歩き続けてきた私の頭の中には、徳島県の道路地図がそのまま刻印されている。その座標軸の原点はいうまでもなく眉山である。幸い眉山の頂上には、テレビ塔が建ち、夜間も煌々と灯りがきらめいている。
 どんな迷路に踏み込もうが、この灯りを発見すれば、自分のいる位置がわかる。私にとって眉山は、灯台でもある。県外での生活では、方向感覚はいつも右か左であった。例えば、「〇〇のガソリンスタンドを右に曲がって・・・」という風に。ところが徳島では、「〇〇を東へ、とか、西へ」という。眉山を原点とし、東西に走る吉野川を水平軸にした座標軸が県民の脳裏に焼きついているせいではないだろうか。少なくとも私自身はそう思っている。