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随筆3 「野球に明け暮れた蔵本駅前広場」
JR・蔵本駅の駅前広場は、今は立派な駐車場に様変わりしたが、私の子供のころは、それはそれは広い格好の遊び場だった。中央に2つの樹木の植わった公園があり、周囲は広場だったと記憶している。その一番西の隅が、私達の“野球場
”だった。野球といっても今のようにユニホームやグローブなどはそろえられない。バットとボールだけの至極簡単なもので、ボールはどこにでも売っているゴムマリだ。
車もほとんど走らない時代だったから、ここの広場は私達の独占場だった。みんな学校から帰ると一目散に駆けつけた。野球は1チーム9人だから二チームつまり18人でするゲームなのだが、子供は創造力の天才だ。その日集まった人数が多ければ多いなりに、少なければ少ないなりに結構楽しんだ。多いときには内野も外野もゾロゾロ。どこへ打っても体に当たるほど。少ないときは、みんなで守りながら、一人ずつ抜けていっては打席に立った。勝敗とか技の巧拙などはもとから度外視である。野球をすること自体がともかく面白かった。春も夏も秋も冬も、ボールが見えなくなるまで徹底的に遊んだ。学校から帰っても学習塾やピアノや習字、そろばんの練習と子供のころからキリキリ舞いしている現代っ子から見れば、まことにのびやかで健康的な少年時代を送らせてもらったものだと思う。
蔵本駅にはもう一つ思い出がある。毎年、夏になるとこの駅前広場に阿波踊りの桟敷ができたことだ。戦後の何もない時代に、この阿波踊りのにぎやかさは、子供心にも文句なしにうれしかった。タル木が組まれ、紅白の幕がはられた桟敷には、中央に“新町橋”まで作られていた。
市内の中心部だけにマンモス桟敷ができる現在とは違って、泥くさいなかにも阿波踊り本来の庶民的な味わいのする蔵本駅前の桟敷だった。入場する連にはどの連にも暖かい拍手が送られた。熱演のどあいによってのど自慢よろしく、審査員がカネを鳴らすのだが、見物人はよく見ていて、カネの鳴り方が足らないと、もっとたたけとはやし立てた。
2歳のとき蔵本に疎開して以来、16歳までの15年間を、私はこの土地で過ごした。私の第二の生まれ故郷である。今でも蔵本の町並みは全て頭の中に焼きついている。住んでおられる方々も、みなそれぞれに懐かしい。ことに昭和55年6月、初めて衆議院の選挙に出馬したときは、肉親をもしのぐ御心配をいただいた。選挙の結果がわかった日、私が真っ先に駆けつけたのもこの蔵本の町であった。目を真っ赤に泣きはらしながら、私の手を引き寄せるようにして握りしめてくださった人々の暖かい手のぬくもりを今も私ははっきりおぼえている。以来、選挙のたびにお世話になっている蔵本の皆様の御長寿と御多幸を私はいつも祈っている。
野球と阿波踊り・・・遠い少年の日の蔵本の思い出は、蔵本の人々の懐かしいお顔とともに私の心にきょうもまた暖かい春風を送ってくれる。
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