随筆4 「質実剛健の県工気風

 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校は閑静な田園のなかにあった。田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い広い運動場が高いポプラ並木の果てまでつづいていた。
 昭和34年4月から、37年3月までの3年間、私はここに学んだ。県工機械科といえば当時は城南高校と並ぶ狭き門だったように思う。50人の定員めざして県内外の中学校から優秀な人材が集まった。校内には寄宿舎があり、牟岐や伊島から来た友はここに寄宿して勉学に励んでいた。
 工業立国を国策として高度経済成長の道をひた走っていた時代だけに、中堅技術者の育成は時代の要請でもあったのだろう。機械科の卒業生には県外の一流大企業から求人が殺到した。卒業の半年も前に、1人残らず自分の望む大企業に就職が内定していた。それが県工機械科の魅力でもあった。
 私も、中学の進路指導の先生が城南高校から東京大学へのコースを強く勧めてくださったにもかかわらず、誰に相談することもなくあっさりと県工機械科を選んでいた。
 担任の中西芳男先生はじめ物理の中内理先生、数学の佐藤義照先生、金属の上崎孝一先生など優秀な先生方がいて、授業も結構面白かった。本来が楽天的な性格の故であろうか、私は受験勉強などというものは大嫌いで、いつも授業時間の中で全てを理解することに神経を集中させるタイプである。試験内容も、現在のようにクイズ番組を連想させるような暗記力をためすだけのものとは違って、理解力を問う論文形式のものが多かった。物を暗記することが嫌いで、特別な受験勉強など一日もしたことのない私が、どういうわけか入学の時も卒業の時も首席だったのはそのへんの事情によるものだろう。
 ともあれ、県工の校風というものは、一にも二にも質実剛健をもって範としていた。男女共学とはいうものの、生徒の大多数が男子であった。私達の機械科には、女性は一人もいなかった。実習の時間になると、各実習工場で油にまみれた作業服を着て、木型、鋳造、鍛造、溶接、手仕上、機械加工、原動機、材料試験などの技術習得に汗を流した。また、製図の時間には製図教室でカラス口をつかって図面を書いたりした。実習や製図は、こうした現場での作業を通して、実際に社会で働ける技術者を産み出していくために必要な精神の鍛錬が行われる場でもあった。
 教師への礼に始まり、礼に終わるという実習態度も剣道の試合を思わせる真剣さがうかがわれた。実習の先生方も真剣だった。現場では生半可な妥協は事故に結びつく。“頭で覚えるな、体で覚えるんだ ”と、土間のくぼみに薄氷が張る工場の中で、旋盤によるネジ切りの作業に一日中取り組んだ日もあった。
 そんな厳しさのなかで楽しい思い出は、弁論大会と運動会、そして修学旅行である。弁論大会には機械科を代表して現在、東京で活躍している石山康弘君とともに出場、1、2位を独占した。運動会では、競技部門でも応援合戦でも我々の機械科が圧倒的勝利を収めた。運動会のフィナーレを阿波踊りで飾ったのも我が機械科のアイデアであった。修学旅行は、東京・日光への旅。男と男の友情こもる思い出の残る旅でもあった。
 卒業してもう38年。我々の友情は年とともに深まっていく。有馬で名古屋で鳴門で、そして伊豆で同窓会を行ってきたが、懐かしさで一刻一刻を惜しむかのように夜を徹して語り合う友の姿は、あの修学旅行の延長のようだ。そろそろ、定年の話なども話題になり始めているが、いつまでもともに健康であることを祈り合っている。