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随筆6 「天際(そら)に流るる吉野川」
全長194Km。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。
人呼んで四国三郎。利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎とともに日本を代表する三大河川の一つでもある。その水の清らかさと豊かさは徳島県人の誇りでもある。
♪千古の姿洋々と
天際(そら)に流るる吉野川
その雄大の精神(こころ)もて
磨け我等の魂(たま)と技術(わざ)
おお青春の意気ミ(たか)く
わが母校(県立徳島工業高校)では校歌に、こう吉野川を歌っている。小学校から中学校そして高等学校の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。
小学校の時代はもっぱら堤防でのツクシとり。中学校から高校時代は、暇をみてはハゼ釣りに興じた。
頭でっかち、どんぐり目のハゼは愛きょうのある魚である。七夕の笹竹に糸のテグス、鉛の代わりに小石を結びつけて、ゴミだめから掘り出してきたミミズをはりにくっつけただけの粗末この上ない魚具でも、面白いように釣れた。今のようにクーラーもビクもない。釣れた獲物は堤防にいくらでも生えている笹に通して帰る。
どこまでも続く堤防を、大漁の凱歌をあげながら帰るとき、真っ赤な夕日が広い吉野川を朱に染めあげる。その雄大な景色といったらなかった。
そんな子供のころの感動を再び味わったのは、中国大陸で夕日を見たときだった。昭和54年1月12日から、18日までの一週間、私は中日友好協会から招待され中国にいた。日中平和友好条約が締結されて3ヶ月、いよいよ日中両国の相互交流が始まろうとしている折り、日本の青年を代表して訪中したのであった。
北京から石家荘に向かう車中で、その夕日は私の心を激しくとらえた。首都劇場で北京歌舞団の歌舞を観賞、中日友好協会を訪問、孫平化副会長と会談、北京大学訪問、頤和園、中日友好人民公社訪問、民族文化宮で中日友好協会趙僕初副会長の招宴、万里の長城、
定陵博物館見学、明の十三陵、革命記念館「周総理記念展」見学、故宮参観、共青団並びに中国青年代表との懇談会、人民大公堂にて全国人民代表大会常務委員会、譚震林副委員長と会見・・・と続いた北京での連日の殺人的スケジュールから解放されて、快適な軟座車(日本のグリーン車)のシートに身をうずめているとき、突然車窓に広がったのがあの雄大な景観だった。
どこまでも続く地平線。今、まさに沈まんとする巨大な太陽。この二つのとり合わせはまさに大自然が織りなす劇的なドラマでもあった。その荘厳さと雄大さに私は息を飲む思いがした。
古来、自然は人間の教師ともいわれる。ことに温暖なアジアモンスーン地域では、自然を友として、自然と巧みに調和しつつ農耕が行われ、文化、文明が発達してきた。それだけに人々が自然に対して抱く感情もまた暖かいものがある。それは”自然は絶えず人間に挑戦するもの。自然を征服してこそ人間の幸福がえられる”といった近代文明がともすれば陥りがちな自然観とは全く対極に位置する発想といってよいだろう。
吉野川の夕陽が中国大陸の夕陽とオーバーラップしながら、話は人間と自然との関係をどう見るかといった形而上の問題にまで飛躍してしまった。私は、徳島の自然に抱かれながら育った人間の一人として、いつまでもふるさとの山河を愛し続けたい。文字では形容しがたい人間の境涯の広さと深さを、一幅の名画として直ちに見せてくれる吉野川の雄大さには、いつも心ひかれる私である。
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