随筆14 「よく遊びよく学んだ加茂名小時代」

 流れも清き袋井の
 ほとりにたてる 学び舎に
 育つわれらは そのかみの
 いさおしたてし 人のあと
 今もたたえて もろともに 
 学びの道を 進まなん

 今も歌い継がれているわが母校・加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のようになってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほどだった。
 私の小学校入学は昭和25年4月。桜の花が咲き乱れる校門を母に連れられて入った。入学した日「自分の名前がかけますか」といわれ、カタカナで「エンドウ カズヨシ」と書いたら、先生に笑われた記憶がある。おじいちゃん子だった私はおじいちゃんの教える通り、覚え込んでいたらしい。
 1年生から4年生までは、遊んでばかりいた。勉強が面白くなったのは5年生になってからだ。5年生の担任は森岡進先生。今は定年退職し、子供達に書道を教えておられるが、当時は教師になったばかりで私達の心の中にグイグイ飛び込んでこられる情熱と行動の人だった。
 授業のときも掃除のときも、これでもかこれでもかといわんばかりに自ら率先垂範される。その迫力が魅力でもあった。いつのまにかクラス全体が先生を父とした一つの家族のようになり、特に男の子は、先生の宿直の日が楽しみで、よく宿直室までおしかけていったものである。「家には言ってきたか」というので「ハイ」というと「よし、今日は徹夜でシゴイたる」と宿直室がにわかじたての教室となった。
 勉強にあきてきたなと思うと「よっしゃ。相撲するか」である。先生にみんなでよってたかってぶっ倒すと「負けたわ」と大きな体でしりもちをつく。ある日、しりもちをついたのが、障子の上で、障子がこなごなに壊れてしまったことがある。泣きベソをかく私達に「心配すな。あとは先生に任しとけ。君らはもう寝ろ」とさっさとフトンの中に押し込むのであった。次の日、起きてみると、障子はものの見事に修繕されていた。こなごなに折れたサンを一つ一つていねいに糸でくくりつけ、どこで手に入れたのか障子紙まできれいに張ってあった。  「先生いつなおしたんで」と聞くと「おかげで朝までかかったわ」と真っ赤な目をしている。私達が眠ってしまったあと、一人黙々と修繕されたのだろう。強い責任感と意外な器用さには脱帽するばかりだった。
 六年生の担任は小林ミユキ先生。すでに定年退職され、悠悠自適の生活を送っておられるが、字の美しい本の好きな先生であった。卒業のとき、私が全校生を代表して答辞を読むことになったときなど、何度も我が家まで来て一緒に文案を推敲してくれたことを懐かしく思い出す。
 同級生には東大を卒業して東京・丸の内の中小企業金融公庫に勤めていた福家隆晴君など優秀な人材がたくさんいた。福家君とはよく東京で食事をしたり、毎年、手づくりの年賀状をいただいてきたが、残念ながら数年前に逝去された。私も弔問に伺ったが、御両親の深い悲しみに胸がしめつけられた。
 当時の小学校は遊ぶことにも徹底したが、学ぶことにも徹底していた。私なども小学生時代に世界少年少女文学全集はじめ夏目漱石の全集などを読破した記憶がある。
 今でも「我輩は猫である」や「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」などの冒頭の部分を空で憶えている。読書百遍、意おのずから通ずというのだろうか。「それから」や「心」「明暗」など難しい作品も小学生の時代になんとなくわかったつもりでいた。
 20年ほど前、県下一のマンモス校となった母校を訪問する機会があった。その折、図書室を見学させてもらったのだが、私達の時代と違って、見事なまでに蔵書が整理されているのに驚いた。しかし、「最近の子供はあまり本を読まなくなりましたね」とこぼす先生の話にちょっぴり寂しい思いもした。
 テレビ文化の時代だけに「活字離れ」がここでも進んでいるようだ。しかし時代がどのように変わろうと、1冊の本を通して世界の人々と対話ができる読書の醍醐味は変わるものではない。人生の財産ともなる「良書に親しむ習慣」を私は小学生の時代にぜひともつけていただきたい、と心から念願するものである。