随筆19 「今は昔、田宮と矢三の麦踏み風景」

 私達が県立徳島工業高校に通っていたころの田宮や矢三町は見渡す限り田園が広がっていた。ヒバリのさえずる春は、馬や牛がのどかに「しろかき」をする風景があった。水の張られた田ではカエルのコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったらなかった。
 やがてカンカン照りの夏ともなると、稲はグングン生長し、緑のじゅうたんを敷きつめたようになった。そして稲穂の波を渡る風の涼しさに秋が感じられるころになると、黄金色に実った稲は次々に刈り取られ、ハザにかけられた稲穂が、そこら中にきれいな幾何学模様を描き出すのだった。
 木枯らし吹く冬には、サクサクと霜柱を踏んで進む麦踏みの風景があったことも忘れられない。
 そんな四季おりおりの田園の風景は、私にはことになじみ深いものとなっていた。というのは高校1年生のころ、わが家が蔵本から、田園地帯の真ん中の田宮町広坪(現在の北田宮2丁目)に移転したからである。 家の前も後ろも右も左も、ともかく四方が田んぼだった。西船場のときも蔵本のときも町の中だっただけに、全てが勉強になった。農家の方々との新たなお付き合いも始まった。土と取り組む人々のご苦労も身近で知ることができた。稲刈りや麦刈りのお手伝いもさせていただいたが、麦刈りのとき、腰が痛くなるのにもまいった。また麦の穂が体にささるとかゆくてかゆくて仕方がない。これにはいささか閉口したものである。
  当時、学校に通う田宮街道は舗装ができていなくて、砂煙のなかを自転車で往復した。夏休みになると競馬場跡にできたゴルフ場(徳島ゴルフ倶楽部吉野川コース)でキャディーのアルバイトをしたこともある。私は高校を卒業するとすぐ県外に飛び出したので田宮での生活は2年ちょっとの経験しかないが、それ以降も永く住みついた両親と3人の妹や弟にとっては、田宮は文字通り第二のふるさととなったのである。
  ところで見渡す限り田園が続いていた田宮や矢三の町も今は見違えるばかりに変わりつつある。JR高徳線は高架となり田宮街道は拡幅工事の真っ最中、スーパーや商店が建ち並び、田んぼは埋めたてられて閑静な住宅地帯となった。南田宮の運動公園には陸上競技場や、市民プールがあり、人々に親しまれている。
 ことに県立徳島工業高校、県立城北高校に加えて県立中央高校、県立城の内高校が相次いで開校し、若い人達の歓声が聞かれるのもうれしい。 矢三と応神を結ぶ四国三郎橋の完成で藍住町など吉野川北岸の町々と直結し、田宮街道の拡幅工事には一層拍車がかかっている。 次の課題は田宮川の水質浄化だ。幸い、徳島市北部浄水場が完成し、渭北、渭東の地域では公共下水道となった。次は田宮、矢三そして加茂名地区である。公共下水道ができあがると、田宮川やその先の袋井用水にも昔のような清流がよみがえることだろう。