随筆20 「夢まぼろしの袋井用水」

 15年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は、昭和51年3月、庄町4丁目に、妻と2人で新居を構えた。新居といっても二戸一の民間アパートである。 庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く、私にはもともとなじみの深いところだった。その点、東京生まれで徳島は生まれて初めての妻にとっては心配もあったろう。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで、1ヶ月もすると、10年の知己でもあるかのように気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていたのである。
  庄町には昭和51年3月から55年2月まで4年間住んだ。その間に長男伸一と二男洋二が誕生した。子供達に私自身の子供の頃の話を語って聞かせるとき大変に寂しい思いをすることが一つだけあった。それは、こんこんと清水が湧き出でていた袋井用水が当時の面影もないほどに枯れてしまっていたことである。 袋井用水は今から347年も昔の元禄5年(1652年) に島田村の庄屋・楠藤吉左衛門が私財を投げ打ち7年の歳月をかけて作ったものである。この事業は吉左衛門の子・善平、孫・繁左衛門と三代にわたって継続され、干ばつに苦しむ島田・庄・蔵本三村三百町歩の水田をうるおしたという。 私も小学生のころ、楠藤吉左衛門の苦労談を調査研究し、徳島新聞に写真つきで紹介されたことがあった。非難中傷の嵐を受けながらも農民のために初志を貫く吉左衛門、水脈をさぐりあてるために、耳を凍てつく大地にこすりつける吉左衛門。そんな人となりに感動しつつ鉛筆を走らせたことを、今も鮮やかに思い出す。
  小学生のころも中学生のころも、私達はいつも袋井用水とともにあった。鮎喰町の水源はどこまでも青く澄みわたり、夏でも震え上がるほどに冷たかった。深い用水に道路の上から飛び込むと、夏の熱さなんかは一度に吹き飛んだ。魚も一杯いた。舟を浮かべて遊んだこともあった。夜はホタルが飛び交い、ササの葉でよく追いかけたものだった。 加茂名小学校の校庭にも袋井用水は流れていた。運動場で走り回ったあと、誰もがこの用水に入って頭から冷たい水をかぶり合ったものだった。学校から帰るときも、この用水に笹舟を浮かべて誰のが速いかワイワイ競争し合いながら家路についたものだった。いつのまにかカバンを放り出して、メダカやフナやザリガニをとるのに夢中になっていたこともあった。
  そんな袋井用水も今はアシやカヤが生い茂る排水路になってしまった。すでに魚の影もなく、ときたま、ばかでかいおたまじゃくしがニョロニョロ動いているだけである。かつて水田に水を汲み上げる水車が並んでいた風景などもう知る人すらいない。 水源の枯れた最大の原因は都市化と生活水準の向上による水の利用度の大幅な増加に伴って、地下水を汲み上げすぎたことにあるらしい。地上の変化はそのまま地下の変化に直結している。
  私達人間は日々の生活の物質的な豊かさなどという目に見える部分には熱いまなざしをむけながら、目に見えない部分は忘れてしまっていることが多い。 自然からの強烈なシッペ返しを受ける前にぜひとも考え直さなければならない人類の課題だろう。
  私の手元に徳島市加茂名公民館内、袋井かるた会が発行した「いろはカルタ 袋井の流れ」がある。絵を飯原一夫先生が文を三好昭一郎先生が書かれたもので、私も楠藤家の方々とともに製作、販売のお手伝いをさせていただいた懐かしい思い出がある。 袋井用水に再び清流を!!は加茂名に住む人々の共通の思いだが、公共下水道の1日も早い完成により、何としても実現したいと考えている。

 子供のころ遊んだ水源の周辺は袋井公園として整備され、袋井用水水源地保勝会外三団体の方々が歌碑を建立している。
「袋井の水は尽きせじとこしえに翁の勲をたたへ流るる」。
保科千代次さんの歌だ。文字は私の加茂名小学校時代の恩師である森岡進先生が筆を執られた。袋井用水に再び清流を取り戻すことができれば、楠藤吉左衛門翁はいかほど喜ばれることであろうか。