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随筆24 「少年のころの楽園蔵本」
蔵本は2歳から16歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争の徳島大空襲で西船場の家を焼かれた私達は、蔵本元町2丁目五番地に移住したのであった。
今もはっきりおぼえているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭の玉砂利をサクサクと踏んで帰ってきた。この日を母をはじめ家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時3歳だった私だが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。
その次に覚えているのは、マラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにふとんの上に私が重しとして乗っかかっている光景である。東南アジアのジャングルを生命からがら逃げ帰ってきた父の唯一の土産がこのマラリアだった。“寒い寒い”という父に子供の私ができるのは、これぐらいしかなかった。
少年の日の記憶は、そのあとは一挙にワンパク仲間と遊び回っていた思い出に飛ぶ。蔵本元町の商店街は佐古の三つ合い(今の八丁目)から島田石橋まで、切れ目なく商店が続いていた。今も一丁目から三丁目までの店は、ほとんどが昔のままで、懐かしい方々ばかりであるが、私達の遊び場はこの往環ではなく、路地裏や、蔵本の町を取り巻くように流れる田宮川と、その周辺であった。
当時の田宮川は大きな柳の枝が岸辺を覆い、澄んだ水が勢いよく流れていた。鯉や鮒やなまずなどがよく釣れ、いつも何十人という太公望がツリ糸を垂れていた。時おり、荷を積んだ船やイカダが往来すると、私達は歓声をあげながら岸辺を走りまわったものである。
蔵本には田宮川に沿って3つの港があった。港というより、荷揚げ場のようなものであるが、私達は「浜」と読んでいた。南から「油浜」「大浜」「テコアンの浜」である。
これらの浜は、明治の初期から昭和10年ごろまで大活躍し、九州の石炭、淡路のミガキ砂、鳴門の芋、勝浦の木材などがこの浜から荷揚げされ、蔵本近郊の工場などに運ばれたようである。しかし、私達の時代になると川を使う運送方法は次第にさびれていき、浜は私達にとって格好の遊び場となっていた。
浜では、カンケリ、メンコ、ケンケンパーなど、なんでもできた。夏休みなど、川で魚すくいをしたあと、水遊び、そして浜でチャンバラごっこ、朝から晩までこの浜で遊んだものだった。家の中でゴロゴロしていようものなら、「浜へ行って遊んできい」というのが蔵本の親達の決まり文句でもあったようだ。
最近、蔵本の町をすみからすみまで歩いてびっくりしたのは、懐かしい浜が跡形もなくつぶされ、住宅地に変わってしまっていたことである。とともに家庭や工場の排水で川の水は濁り、魚達の影もない。改修工事によってコンクリートで固められた川は、すでに排水路と化してしまったかのようである。
時代の進展とはいえ、少年時代の思い出をかくも無残に削り取られてしまうと、自分の身体の一部を削り取られたような情けない気持ちになる。今はもう浜の呼び名を知る人も少ない。
やはり“ふるさとは遠きにありて思うもの”なのだろうか。 いや、そうではない。実際、田宮川の下流の新町川は見事に復元しつつあるではないか。次は田宮川だ。断じてそうだ。もう一回コンクリートをはぎとって柳の木の土手を作ってみたい。流れる水もきれいにしたい。吉野川や鮎喰川から清水を引く方法だってあるはずだ。私は人知れず願っている。私の子供のころのように今の子供達にも岸辺でもう一度、魚釣りをする喜びを味わってもらいたい、と。
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