随筆25 「吉野川橋と水上飛行機」

 私は昭和51年3月、15年ぶりに、ふるさと徳島へ帰った。その時の第一印象は、どこへ行っても、恐ろしいほど昔のままの姿が残っていることだった。まず高徳線のディーゼル車と線路そして国鉄の駅々が、昔のまんまの姿だった。頂上のあたりが少々にぎやかになっているとはいえ、眉山も城山も昔のまんまだった。ことに蔵本元町の商店街や庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のまんまだった。
 そんななかで一つだけ違っていたのは、吉野川橋の下流に吉野川大橋が完成していたことである。その後、立派なバイパスがこの橋と直結し、鳴門・徳島・小松島を結ぶ主要幹線はこちらの方に移っていったが、私の思い出に残るのはやはり古い吉野川橋である。
 まだ名田橋はなく“名田の渡し”だったころの話である。吉野川橋は、徳島市では吉野川にかかる唯一の橋だった。昭和3年12月に完成したこの橋は、増田淳の設計による曲弦ワーレントラス橋で、当時の技術の粋を集めて作られた。全長1071メートル。完成時は東洋一の長大橋であり、県民にとっては大きな誇りでもあった。  17個の橋けたからなる美しいアーチ橋は今も健在で、旧国道11号を結び、通勤通学時には車や自転車が列をなす。
 高校生のころだったろうか。一時、この橋のたもとに関西と結ぶ水上飛行機が発着していたことがあった。飛行機は風の向きに合わせて、ときには吉野川橋をくぐり抜けて着水することもあった。それはアクロバット飛行ともいってよいほど見事な操縦ぶりで、私などもよく見に行ったものである。
 乗客の定員は八人ほどの小型機であったが、飛行機が発着できるほど、吉野川は広く大きく、しかも水量が常に豊かで、水面も静かであったということだろう。今もその風景は変わらないのだが、飛行機の発着場はすでになくなり、そのあたりではたまに魚をつっている人や、ヨットやウインドーサーフィンを楽しむ若者を見かけるばかりである。
 ところで吉野川橋を設計した増田淳は明治16年9月25日香川県に生まれ、明治40年東京帝国大学土木工学科を卒業。翌年、橋梁研究のため渡米。帰国後は日本各地で橋の設計、施行に携わり、東京は隅田川の千住大橋をはじめ六十を越える橋をつくっている。徳島県でも大松川橋、勝浦川橋、三好橋、穴吹橋、吉野川橋、那賀川橋が彼の作品。電子計算機のない時代によくぞこれだけの橋をしかも形式の違う橋を設計したものと感心するばかりだ。 ちょっと見逃しがちなのだが、吉野川橋の北詰に豊川仲太郎の石碑が建っている。豊川仲太郎は板野郡沖島村(現在の徳島市川内町沖島)の人で、吉野川橋がかかる前に、この場所に個人で木造の賃取橋を架けていた。この賃取橋を古川橋と呼んだことから今も愛情を込めて土地の人は吉野川橋のことを古川橋という。豊川翁の子孫は今も健在で、私も親しいおつき合いをさせていただいている。