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随筆31 「渭東は仏壇と鏡台の町
」
渭東は仏壇と鏡台の町。徳島市の地場産業といえば、まず木工業である。ことに福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地区」は木工業者が軒を並べていて、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転したが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。
この渭東木工の発祥をたずねてみるとなかなかに面白い。話は380年も昔にさかのぼるのだが、そのころ今の安宅町に阿波水軍の元締めである安宅役所が置かれた。この役所の作業場で軍船の造船や修理などが行われていたという。
仕事場では火の用心のため、月に3回ほど木くずの整理をして、それを従業員の船大工達に払い下げた。このとき船大工たちが木くずのなかに木切れを入れて持ち帰ることを「目こぼし」といって、わざと見逃してくれたらしい。
これを材料としてチリトリ・炭トリ・モロブタ・マナイタなどいわゆる「安宅(あたけ)物」と呼ばれた日用道具を作って売った。今でいうアルバイトであるが、徳島市史第一巻(徳島市史編さん室編)によるとこれが渭東木工の起源とされている。
明治になると、木工業の技術は一段と向上し、「阿波鏡台」は大阪の問屋街でも高い評価を受けるまでになった。以後、大正、昭和を通じて、鏡台のほかタンスや建具、下駄の生産が渭東地区を中心に発展。太平洋戦争中には軍部の命令で軍需品の下請け工場となり、弾薬箱や航空機部品の製造にあたらされたこともあったが、戦後は、木地・杢(もく)張・塗装・仕上げ加工という分業を進め、機械の導入や資金繰りの合理化を図り、ことに仏壇の製造では、全国でも有数の生産地となっている。
とはいうものの、家内労働力だけが頼りといった零細企業の多い木工業界は、景気の影響をモロに受ける。最近の長期にわたる景気不振にはどの事業所でも頭をかかえており、「木工はもはや斜陽産業。とわかっていても今さら商売がえもできないし、泣くに泣けん状態ですわ」という声が町にあふれている。
昭和57年3月、この町に木工会館が完成した。ここでは@情報収集及び提供活動A塗装に重点を置いた試験、研究及び技術指導の二点に的を絞って、木工業界の要請に応えている。
私達もよく集会の会場として使用させていただいているが、展示されている見本の商品が時代とともに年々変わっていくことに気づく。
木工業を取り巻く環境は依然としてまことに厳しいが、時代に即応する情報の収集と、時代を先取りしゆく創造力。それに、経営の体力が加われば、木工業界の前途も明るいものとなるに違いない。徳島の伝統的な地場産業の振興を祈らずにはいられない。
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