随筆32 「木材団地になった津田海岸

 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々とした入浜式塩田で、働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが、今も印象に残っている。
 津田の大橋を越えると、津田山の絶壁が屏風のようにそそり立っていた。今ではちょっとした小山の感さえするが、当時は、はるかに高い断崖のように思われたものである。
 古い津田の町を縫うようにしてバスは松原に向かう。潮騒が聞こえてくると心は躍った。海はどこまでも青く澄み切っていた。波も静かである。広い砂浜で貝ひろいに興じたこともあった。めざすは「まて貝」である。砂にポツンと穴があいている。その穴に塩を放り込んでしばらく待っていると、貝がピューッと飛び出してくる。それを手でつかむのである。子供の私達にもなんなくとれるので、つい夢中になって時の経つのも忘れてしまうのだった。
 海が埋め立てられて、海岸がなくなってしまった今は、子供達にそんな遊びのあったことも教えられない。木材団地となった今は、あちこちに作られた貯木場に大きな原木が浮かんでいる。ほとんどが外国から運んできた洋材である。その木を製材する工場が建ち並び、区画整備された広い道路には原木や製品を運搬する大型トラックがうなりをあげて走っている。
 昔から徳島県は優れた木材の産地であった。しかも都合のよいことに吉野川や那賀川、勝浦川など多くの河川がゆったりと流れる水の都でもあった。山奥の木材を伐採するとイカダに組んで川を流した。馬車や荷車の時代は河川が重要な木材の運搬路であったわけだ。水の流れがゆるやかになる岸べには製材工場が建ち、徳島の木工産業を育ててきた。
 ところで時代の進展とともに川には、治山治水とかんがい用水確保のためダムが建設された。やがてイカダは姿を消し、それにとって変わったのが陸上輸送のトラックである。さらに木材自身も県下で伐採される杉や桧にとって変わって、安い外材がどんどん輸入されることになった。こうした時代の進展に伴い、市内の河川沿いに点在していた製材工場が海岸に集められ、津田の木材団地の誕生となったのである。
 その着想は当時としてはなかなか良かったに違いない。製材工場の転出に伴い市内地はびっくりするほど静かになった。新町川や福島川なども貯木場がなくなった関係から浄化が一段と進むことにもなった。美しい津田の海岸がなくなった反面、こうした利点もあったのだ。それ故に多くの市民も木材団地の誕生を歓迎したと聞く。
 気になることは、現在の木材団地が長期にわたる不況に見舞われ続けていることだ。経済の再生を急がねばならない。活力と安心の日本、そして徳島にしたい。政治家の責任はいよいよ重い。