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随筆37 「強者どもの夢の跡、勝瑞城」
私の本籍地は藍住町の勝瑞字幸島。決まって「いいところですね」といわれる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと注釈されることもある。
たしかに勝瑞という地名にはそんないわれがあるらしい。私が衆議院選挙に初出馬したおり、先祖代々、この地に住んでおられる中川のおじいちゃんが、檄文を届けてくださったことがある。和紙に墨も黒々と達筆でしたためられたその文章は、はじめに勝瑞の縁起を示し、かつて天下を征したこの地から今まさに、現代の英雄が出でんとしている。という意味であったように記憶している。
おじいちゃんの名前は中川清さん。80歳を越えても、健康そのもの。毎日自転車で走り回っていた。地元ではなかなかの名士で交際範囲がべらぼうに広い。家は私の家のすぐ隣であった。私達がここに新築したときも、待ち構えていたように訪問してくださり、丹精込めて育ててきた植木をわざわざご自分で掘り起こして運んできてくださった。お陰様で、わが家では門から庭まで全て「ここはこの木、こっちはこれ」と中川のおじいちゃんが植えてくださった木々の緑でうまっている。中川のおじいちゃんは残念ながら逝去されたが、植木を見るたびに思い出す。
さて勝瑞の縁起であるが、その昔、勝利を願う武将の心を表現して名づけられたものと伝えられている。勝瑞は鎌倉時代の初期に小笠原氏の守護所が置かれた。建武二年(1335年)には細川和氏が阿波守となり後にその職を弟頼春に譲り、頼春の子頼之もまたその弟詮春に譲り、ここに阿波の守護所として勝瑞城(勝瑞阿波屋形)ができあがったという。
その子孫、九代目の持隆が家臣の三好義賢に謀殺されたのもこの地で、以後は三好氏の居城となり、西国三十六カ国の守護職としてこの勝瑞城で天下を制したというのである。
徳島の中心はその後、長宗我部元親の手で一宮城へ移り、さらに蜂須賀家政の入国によって渭津の徳島城へと移るのであるが、三好氏が長宗我部之親に敗退する天正10年(1582年)までの約250年間は勝瑞城が徳島の中心として栄え続けてきたわけである。
今、勝瑞城跡を訪ねると、まさしく、強者どもの夢の跡といった寂しい風情で、往時の面影は全く見られない。しかしながら史実は史実であり、私達はそんな歴史の刻まれたふるさとを大切にしたいと思う。
確かに四国第一といわれる徳島平野の中心に位置する勝瑞は肥沃な土地に恵まれ、生産物も豊富である。交通の便もよく、将来の発展が望まれる景勝の地といえよう。先の先の話だが鳴門の本四架橋に、四国新幹線が走るとすれば新徳島駅は、このへんになるかも知れない。もはや人口過密の徳島市内に新幹線を通すことはかなりの無理を伴うからである。
そうした意味からいえば、現在の勝瑞を中心とする藍住町、北島町、松茂町で新徳島市が誕生してもよい。あまりに手前味噌としかられるかも知れないが、地方分権をより確かにするためにも町村合併は進めなければならない。
かつて県下の中心として栄えた勝瑞が、時は流れ再び巡り来て徳島の中心地になる。そんな期待にどうこたえていくか。いっさいはこれからの取り組みにかかっているといってよい。
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