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随筆38 「明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん」
眼下に太平洋を見はるかす由岐町伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあふれている。国道55号線を阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかない。そんな迫力がこの海にはある。
この海を語るとき、私は一人の人物を語らずにはおられない。その人の名は大地鉄蔵さん。明治31年7月3日生まれ。80歳をはるかに越えてもかくしゃくたる気概で活躍されていた。
私が初めて鉄蔵さんにお会いしたのは、衆議院選挙に初出馬したおりである。朝の5時ごろであったろうか。地方遊説で伊座利のお水荘に宿泊していた私を訪ねてきてくださった方があった。玄関に出てみると、背広に身をかため、少し大きめの革靴にステッキをつかれた老紳士がていねいに会釈をされた。それが鉄蔵さんであった。
「朝食はおすみになりましたか。このへんは私が御案内いたしますから」と意気軒高である。前日、約400キロを走行、伊島から始まり、木頭村から赤松、日和佐へ抜け、深夜投宿した私を「もう着いたか、もう着いたか」と何度もホテルに確認されたうえ、朝一番で駆けつけてくださったという。
選挙が終わって、その後も二度ばかり、鉄蔵さんにお会いする機会があった。いつお会いしても血色のよい顔をほころばせながら「さあ!行きましょう」と伊座利や阿部の支持者宅を案内してくださる。例の背広にステッキ姿で、その健脚ぶりには、孫の年齢である私でさえまいるほどである。
4時間ぐらいぶっ通しで歩いても、汗一つかかない。呼吸一つ乱れない。そんな姿に私は明治の青年の気骨を見る思いがした。
鉄蔵さんは日和佐町の農家に生まれた。青雲の志を抱いて北海道は網走に近い女満別へ。無一文から土地を購入して農業を開拓。やがて結婚し男三人女二人の子供達とともにハルピンに集団移住する。ハルピンの冬は厳しく、ドアの金具に素手でさわると皮がむけるほどだったという。
やがて終戦。ソ連兵がハルピンの開拓団にも略奪にやってきた。3,000人の開拓団の生命を守るため食うか食われるかの瀬戸際の中で生き抜いてきた。ソ連兵の捕虜になったり銃殺されたりで、3,000人いた開拓団のうち無事、内地に帰ったのは2,000人にも満たなかったという。
それでも鉄蔵さんの家族7人はなんとか生まれ故郷の日和佐にたどりつき、伊座利の山に開拓団として入植した。自分の食糧を全部育ち盛りの子供達に与えた妻は栄養失調で寝たっきり。
そんななか丸太を倒して家を建て、山を焼いて土壌を作る。一年間は何の作物もとれない。やがて妻も健康を回復し、さつまいもが主食という生活ながらも伐採の仕事で生計が立てられるようになった。
その後、伊座利の開拓団で入植した30世帯はほとんどが離農し、残ったのは鉄蔵さんを含むわずか三所帯。「苦労しましたね」と尋ねると「いやあ、私も男だから、好きなようにして波乱万丈の人生を生きてきました。この人生結構、面白かったですよ」とおっしゃる。子供達も全員結婚し、孫が12人、ひ孫が7人。今はもっと増えているかも知れない。面倒みのよい鉄蔵さんは、当時、伊座利や阿部の町でも人気抜群。鉄蔵さんの、姿を見かけると若い娘さんまで走り寄って来て、「おじいちゃん、私の子供です」と赤ん坊を見せにくるほどだった。
今、伊座利を訪れると太平洋を見はらす景勝の地にお墓が立っている。81歳で亡くなった鉄蔵さんの妻・タキ子さんの墓である。「妻には苦労のかけ通しでした。せめて太平洋の見えるこの地でゆっくり休ませてやりたいんです」そう語っていた鉄蔵さんも、今はこの墓で眠っている。男のロマンを追って北海道へ、そしてハルピンへと渡った武骨な明治の青年は、ともに苦労を分かち合ってきた最愛の伴侶とともに、あれこれ過ぎ去った思い出を静かに語り合っていることだろう。
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