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随筆43 「“ミナミガタ”の心暖かき人々」
行けども行けども山また山が続く。那賀川沿いの国道195号を上ると、丹生谷の町が数珠つなぎにつながっている。阿南市から鷲敷町、相生町、上那賀町、木沢村、そして木頭村はもう徳島県の果て。四っ足トンネルを抜けると高知県である。
この道を私はもう何百回走ったことだろうか。道路沿いに展開される山里の風景は、私にとってもはや馴染み深いものとなっている。
阿波は古くから“キタガタ”と“ミナミガタ”に分けられる。吉野川北岸から西にかけてが一般に“キタガタ”と呼ばれる。「阿波のキタガタ起き上がりこぼし。寝たと思うたらもう起きた」などといわれるように、総じて“キタガタ”の人々は働き者だ。
この働き者というのも、実は働かなくては食っていけないという土地の貧しさから来ているもので“キタガタ”の人はへらこいなどといわれるように利に敏い一面もある。厳しい環境のもとで必然的に生まれた性格といえよう。
一方、“ミナミガタ”といわれるのは、那賀川以南で、温暖な風土と山海の幸に恵まれているせいか、どことなくのんびりしていて人柄も丸い。
ともかく抜けるような青空である。小鳥のさえずる声すら、どことなく愛嬌がある。畔道を歩くと、見知らぬ村人までが会釈を返してくれる。走り寄ってきて「どこまで行きよるんで」と丁寧に道まで教えてくれる人もいる。田植えの手を一休みしているグループのなかに入ると「まあ、一杯やらんで」とお茶やお菓子が出て青空座談会が始まる。
私は青い空と緑の大地に包まれた大自然のなかで年配の方々と語り合うのが大好きだ。木頭村の一番奥にある北川で81歳になるおばあちゃんから聞いた話が面白かった。
この村にお嫁に来たのは14歳の春だったという。隣の村から馬の背にゆられて、峠を越えてきた。向こうの方に紋付を着た男の人が4・5人いる。「どれが私の婿さんじゃろうか。」親が決めた婚礼である。婿さんに会うのはその日が初めてでどの人か皆目見当もつかない。「一番、不細工な人が私の亭主になる人でしたわ」おばあちゃんはカラカラ笑った。
その主人との間に9人のこどもができた。「私しゃ元気だったもんで、ワラ敷いて、全部一人で産み落としましたわ」。馬や牛の子供じゃああるまいし、人間様の子供の話である。
今の若い女性が聞けば、卒倒するような話だが、おばあちゃんは、いかにも楽しげに語ってくれた。主人は早死にし、9人の子供はおばあちゃん一人の手で育てあげたという。「御主人の名前は何ちゅうたんですか」と訪ねると「あんまり古い話で、忘れてしもうた」とおばあちゃんは私を煙に巻いてしまい、またしてもカラカラ笑ってばかりいる。
信じられないほど、大らかな話である。“ミナミガタ”の人はのんびりしていると聞いたが、ここまで来ると人生もまた楽しいものである。
ところで現実の問題となるとこの地方も厳しいものを抱えている。まず第一が林業の不振だ。木頭杉で知られるこの地には今も製材工場が、多いがどこも閑古鳥が鳴いている。たまに外材を満載したトラックが山を上ってくる。それを山の中で加工して再び海に戻す。そんな皮肉な操業も外材が丸太で輸入できなくなってきた現在では、すたれる一方である。
長びく景気不振の中にあって、土地の人々はこんな地場産業を思いついた。間伐材というのがある。捨てどころに困っていたこの間伐材を生木のまま接着し、魚のトロ箱を作ったのである。これが飛ぶように売れた。大手の会社からも注文が殺到した。
一見、のんびり見える土地の人々だが、その思考はなかなかに柔軟でしたたかでもある。最近は林業に代わる地場産業としてユズの栽培も盛んだ。集荷用のモノレールまでついた立派なユズ畑を私も見学させていただいたが、ミカンやスダチが生産過剰なのに比べ、ユズの前途には明るさがある。
ともあれ、大らかななかにも、進取の気風に富んだ丹生谷の人々が私は大好きである。
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