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随筆44 「白雪の中に緑のエンドウ」
南国・徳島には珍しい大雪だった。昭和56年1月のことである。私は町会議員の多田勝美さんとともに阿波町の支持者宅を年始のあいさつに駆け回っていた。
一面の銀世界である。野も山も新雪に色どられ、すがすがしい正月であった。私は新聞記者の時代に北陸の金沢で六年間を過ごし、雪には慣れているものの、暖かいふるさとの地で見る一面の銀世界はやはり格別の味わいがあった。
風が冷たい。オーバーのエリを立てながら田んぼ道を歩いていると、真っ白な世界に、規則正しい緑の点が続いていた。「何だろうか」。近寄ってみると、それは小さくて柔らかな芽であった。雪を割って顔を出したその若い緑の芽は、強い風に吹き飛ばされそうになりながらも、大地にへばりつくように根を張っていた。
「遠藤さん。これはエンドウ豆の芽ですよ」私と一緒にのぞき込むようにして多田さんが教えてくれた。阿波町はエンドウの特産地である。私が初めて衆議院の選挙に出たころも、エンドウの最盛期だった。支持者の皆さんが「ソラ豆じゃあないよ。エンドウ豆だよ」と歌にまで歌って私の名前を宣伝してくれたこともあった。
そんなことを思い出しながら、私達はエンドウの芽を見つめていた。そのとき町議会の副議長を務め、円満な人柄と高い見識で町民の信頼を一身に集めている多田さんが、わが子にさとすように私に教えてくれた言葉が今も忘れられない。
「遠藤さん。エンドウ豆はね。11月ごろに植えて、寒い冬を越すんですよ。そして春になったらグングン生長して初夏に実をつけるんです。寒い冬の間に、凍えながらも大地に根を張っているんですね。冬を越したものでなければ春になっても伸びないし、伸びてもすぐ倒れてしまいますよ」。
ああ何とありがたい自然の教訓だろうか。私は我を忘れて、その話に聞き入った。人生もまた然りといえよう。冬の寒さを知った者でなければ春の暖かさがわからない。それと同じように人生の冬を乗り切った者でなければ、人々の心の痛みを理解することはできまい。
私も今は冬の修行をさせていただいている。何のための冬の修行か。それは自分を鍛えるためである。人生の冬を越えた者でなければ人々の心は理解できない。人々の悩みを同苦できる自分に、成長させていただくために今、冬の修行をさせていただいているのだ。私はとっさにそう思った。
政治家というのは一面からいえば権力の座であることは間違いない。その権力は民衆の代弁者として民衆に奉仕するための権力でなければならないと私は考える。そのためには、政治家の第一条件は、民衆の心を知ること、民衆が何を求めているかを知悉していくことに尽きる。民衆の心のひだにまでふれていくことを第一義に考えていけば、正しい血の通った政治が行われることは間違いない。
現在の政治家には私利私欲の権化と化した人々があまりにも多すぎる。主権者である国民を忘れ、党利党略と私利私欲にうつつを抜かす姿は、最近、とみに露骨になりつつある。
私は生涯、民衆と直結する政治家でありたいと思う。何故なら民衆ほど強い味方はないからだ。そのためには、徹底して自己を磨き、人々から愛される人間に成長していかねばならない。
私にエンドウ豆を教えてくれた多田さんはもういない。しかし、小さなエンドウ豆の芽は今も私に「お前も頑張れ」と呼びかけてくれる。
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