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随筆52 「第九初演の地・板東のドイツ村」
年末に「第九」を聴くことが、このところ日本の風物詩となったようである。全国どこの都市でもそんな演奏風景が見られるようになった。
「第九」とはいうまでもなくベートーベンの「第九交響曲」。東西ドイツが合併し、ベルリンのブランデングルグ門で、歓喜の大合唱があったことは今も記憶に新しい。「第九」は今や世界中の人々に愛され、親しまれる文字通り「歓喜の歌」なのである。
ところで「第九」が日本で初めて演奏されたのは、徳島県鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所。大正7年(1918年)6月1日のことである。このときの模様は、現在、板東俘虜収容所跡に鳴門市が建設した“ドイツ村公園”内のドイツ館に動く人形で再現されている。資料によるとハイゼン指揮、徳島オーケストラの第2回シンフォニー・コンサートでベートーベンの「第九」が合唱つきで第四楽章まで演奏されたとある。
板東俘虜収容所のことは、平成6年(1994年)の直木賞受賞作品となった「二つの山河」(中村彰彦著)に詳しい。この本では大正6年6月から、大正9年2月まで2年8ヶ月間、模範的な俘虜収容所としてこの地上に存在した“バンドー”を舞台に、会津人の収容所長・松江豊寿とドイツ人俘虜が国境を越えた友情を結んでいく様子が、感動的につづられている。私は同じ会津人の渡部恒三衆議院副議長をドイツ館に案内したことがあるが、二つの山河のことも松江豊寿さんのこともよく知っておられて「徳島から帰った松江さんは、郷里の人達から推されて会津若松の市長になったんです。人情にあふれた人やった」と昨日のことのようにいわれるのには驚いた。先の大戦というと太平洋戦争でなく戊申(ぼしん)戦争のことをさすという、いかにも会津人らしいおとぼけぶりである。
「彼らも祖国のために戦ったのだから」とドイツ人俘虜に対して、いつも礼儀正しく、ヒューマニズムで接した松江所長は、たしかに立派だった。けれども、もっと立派だったのは、ドイツ人俘虜を“ドイツさん”と親しみを込めて呼び、何の分け隔てもなく歓待した土地の人々であろう。彼らを教師としてパンや菓子のつくり方、西洋野菜の栽培法、ハムやベーコンのつくり方に始まり、家具の製造や楽器の修理と演奏、製本や印刷技術、橋を架ける土木技術などの知識をどん欲に吸収していった土地の人達の開明さに私は脱帽する。
外国人に対して何の先入観ももたない。よいものはよいと率直に認識し評価する。この心の広さこそ徳島県人の誇りであり、世界に通用する精神だと私は確信する。
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