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水の都・徳島市を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水ポンプが作動して浄化が進み、子魚がスイスイと泳ぐ姿も見られる。 |
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思い出2 「眉山は心の座標軸」 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 |
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思い出3 「野球に明け暮れた蔵本駅前広場」 JR・蔵本駅の駅前広場は、今は立派な駐車場に様変わりしたが、私の子供のころは、それはそれは広い格好の遊び場だった。中央に2つの樹木の植わった公園があり、周囲は広場だったと記憶している。その一番西の隅が、私達の“野球場
”だった。野球といっても今のようにユニホームやグローブなどはそろえられない。バットとボールだけの至極簡単なもので、ボールはどこにでも売っているゴムマリだ。
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随筆4 「質実剛健の県工気風」 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校は閑静な田園のなかにあった。田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い広い運動場が高いポプラ並木の果てまでつづいていた。
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随筆5 「計算尺と久保駿一郎先生」 県工といえば重量挙げにテニスと計算尺といわれた時代があった。いずれも全国優勝の経験がある。 |
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随筆6 「天際(そら)に流るる吉野川」 全長194Km。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。
♪千古の姿洋々と 天際(そら)に流るる吉野川 その雄大の精神(こころ)もて 磨け我等の魂(たま)と技術(わざ) おお青春の意気ミ(たか)く わが母校(県立徳島工業高校)では校歌に、こう吉野川を歌っている。小学校から中学校そして高等学校の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。
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随筆7 「ああ国鉄・鍛冶屋原線」 今はJRとなったが、昔の国鉄に鍛冶屋原線というのがあった。当時は板西駅といったが、今の板野駅を起点に、犬伏ー羅漢ー神宅ー鍛冶屋原といった駅々をつないで走るローカル線中のローカル線だった。むろん単線で、はじめのころはデゴイチが走った。あとになってディーゼル車がいつも一両か二両編成で、のこのこ走っていたように記憶している。
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随筆8 「陸の孤島・木屋平村に救援物資を運ぶ」 剣山の山ふところに抱かれた木屋平村を初めて訪れたのは、昭和51年10月。台風17号で穴吹川がはんらん、穴吹町古宮地区に大規模な土砂崩れがあった直後のことである。
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随筆9 「山が動く!! 半田町大惣へ」 「山に亀裂が入っているんですよ」「杉の大木が根こそぎ倒れ ています」「山がゴォーッ、ゴォーッと動いているんです。この
まま放っておいたらいつ大災害が起きるかわかりません」。── 公明党半田町議の林武次さんからそんな報告が県本部に入ったのは昭和57年7月のことだった。
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随筆10 「祖谷の山にうれしい“オシメ ”とこいのぼり」 “阿波路はすべて山の中であった ”──この20年間、徳島県をすみからすみまで歩き続けてきた私の実感である。
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随筆11 「秘境に都会育ちの花嫁さん」 西祖谷山村尾井ノ内。海抜700メートル。大歩危から祖谷に入るかつての有料道路のトンネルの上にある。今でこそきれいな道路が抜けたが、数年前までは、ウサギ道と呼ばれるほど曲がりくねった小道を上り下りしなければならなかった。 |
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随筆12 「鳴門の海に描く徳島の未来図」 阿波と淡路の はざまの海は 小学校の唱歌にも歌われ続けてきた鳴門海峡には今、全長1629メートルの大鳴門橋がかかっている。淡路島の向こうには、全長3910メートル世界一のつり橋である明石海峡大橋も完成し、神戸と鳴門は高速道路で直結。バスで1時間半という時代になった。
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随筆13 「懐かしき藍水苑の出会い」 ここに一枚の写真がある。昭和53年8月13日、加茂名中学校の同窓生が卒業20周年を記念して集まった写真である。場所は徳島市名東町の藍水苑。眉山の緑をバックに懐かしい顔が並んでいる。 私達の時代の加茂名は小学校と中学校が同一学区という事情もあって、同級生の全員が小学校以来、9年間、どこかで同じクラスとなっている。そんなわけでクラス別の同窓会というものはない。300人足らずの卒業生は互いによく顔を知り合っている関係から、同窓会には1組から6組まで全員が昭和33年度卒業生という形でつどい合うことにしている。
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随筆14 「よく遊びよく学んだ加茂名小時代」 流れも清き袋井の 今も歌い継がれているわが母校・加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のようになってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほどだった。 |
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随筆15 「牟岐へ雨中サイクリング」 今はJR・牟岐線も阿佐海岸鉄道で高知県甲浦駅まで延長されたが、高校生のころは牟岐駅が終着駅だった。
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随筆16 「開発か自然保護か 揺れた橘湾」 橘湾というと、小学校の遠足で津之峰に登った日のことを思い出す。春先の暑い日だった。石灰質の白い岩膚に「サンキラ」の緑が印象的だった。徳島では「かしわ餅」にこの「サンキラ」の葉を使う。 |
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随筆17 「眉山西部公園とバレーボール特訓」 加茂名中学校の運動場は小川一つを隔てて眉山西部公園に続いていた。当時、運動場の周囲には人家もまばらで、見渡す限り、田んぼや畑が広がっていた。小さなあぜ道を抜けてよく西部公園まで登ったものである。 |
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随筆18 「忘れ得ぬ祖谷の味、ソバと“デコ回し”」 剣山のふところに抱かれた祖谷の良さは、1日や2日の観光旅行ではわかるまい。できれば1週間、短くても3日間ぐらいの日程をとって泊まり込みで祖谷を訪問することをお勧めしたい。
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随筆19 「今は昔、田宮と矢三の麦踏み風景」 私達が県立徳島工業高校に通っていたころの田宮や矢三町は見渡す限り田園が広がっていた。ヒバリのさえずる春は、馬や牛がのどかに「しろかき」をする風景があった。水の張られた田ではカエルのコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったらなかった。
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随筆20 「夢まぼろしの袋井用水」 15年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は、昭和51年3月、庄町4丁目に、妻と2人で新居を構えた。新居といっても二戸一の民間アパートである。
庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く、私にはもともとなじみの深いところだった。その点、東京生まれで徳島は生まれて初めての妻にとっては心配もあったろう。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで、1ヶ月もすると、10年の知己でもあるかのように気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていたのである。
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随筆21 「たくましい商人の街・船場」 船場は私の生まれ故郷である。二歳のとき太平洋戦争による徳島大空襲で船場の家は焼け落ちてしまった。 小泉周臣氏の著による「船場ものがたり」(徳島市民双書・九)には、巻末の船場町家並図に大正初期のものがあり、ここには、はっきりとわが家が示されている。211ページに恵西自転車店の記載があるが、私の父はこの屋号で自転車店を経営していたのである。父母から聞かされた懐かしい家並みも見事に再現されており、私としては生まれ故郷の街の姿を、あれこれ連想するばかりである。
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随筆22 「大歩危小歩危への旅」 ドライブイン「まんなか」から遊覧船が出ている。右に左に見事な舵さばきを見せながら船頭さんが、「大歩危小歩危」の見どころを語ってくれる。なかなかの名調子。私は東京や大阪からのお客さんには、きまってこの遊覧船を案内することにしている。
春はつつじの薄紫、夏はみずみずしい緑、そして秋は赤や黄の紅葉が燃え立つばかりに美しい。満山をおおう天然の色彩が岩と水に調和して日本を代表する渓谷の美をかもし出す。そんな大歩危小歩危の船下りは、いつ訪れても心踊るものがある。
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随筆23 「鴨島菊人形と江川遊園地」 秋の花は菊である。 ところで、「菊作りは土作り」といわれるように菊を愛し、菊を作ろうという方々は、まず、土作りに、細やかで粘り強い情熱を傾けてこられた。はじめに山へ入ってクヌギの落ち葉をかき集める。カサカサに乾いた落ち葉を2年間、庭に貯えておき、こなごなにくだいて腐葉土や砂を加え、適度に混ぜ合わせる。その土をさらに、ふるいにかけてきめの細かな土を作るという具合だ。この土にさらにたい肥や油カスなどを加え、育てようとする菊に見合う“土”を作るのである。
私には菊作りの経験がないので、聞きかじりなのだが、ともあれ“土作り”には長年の努力と情熱が込められていることは確かだ。
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随筆24 「少年のころの楽園蔵本」 蔵本は2歳から16歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争の徳島大空襲で西船場の家を焼かれた私達は、蔵本元町2丁目五番地に移住したのであった。
今もはっきりおぼえているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭の玉砂利をサクサクと踏んで帰ってきた。この日を母をはじめ家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時3歳だった私だが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。
その次に覚えているのは、マラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにふとんの上に私が重しとして乗っかかっている光景である。東南アジアのジャングルを生命からがら逃げ帰ってきた父の唯一の土産がこのマラリアだった。“寒い寒い”という父に子供の私ができるのは、これぐらいしかなかった。
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随筆25 「吉野川橋と水上飛行機」 私は昭和51年3月、15年ぶりに、ふるさと徳島へ帰った。その時の第一印象は、どこへ行っても、恐ろしいほど昔のままの姿が残っていることだった。まず高徳線のディーゼル車と線路そして国鉄の駅々が、昔のまんまの姿だった。頂上のあたりが少々にぎやかになっているとはいえ、眉山も城山も昔のまんまだった。ことに蔵本元町の商店街や庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のまんまだった。 |
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随筆26 「シャクナゲとミカンそして佐那河内米」 朝起きると、眼下に雲海が広がっていた。夜来の雨もやみ、山々を包んでいた霧が晴れていくと、そこには淡いピンク色をした花々が、におうように咲き誇っていた。シャクナゲの花であった。 |
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随筆27 「塩田跡に美しい学園都市」 鳴門といえば渦潮と塩田を思い出す。渦潮は昔のままだが、塩田はすっかり姿をかくしてしまった。今の小鳴門橋のたもとには見事な入浜式の塩田が広がっていた。小鳴門橋を渡った高島あたりも見渡す限り塩田だった。 |
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随筆28 「四国東門も今は昔」 その昔、淡路島は“阿波路島”と書き、京阪神から、阿波の国、つまり徳島県へ行く道しるべだったという。明石海峡大橋の開通で便数が減ったとはいえ、今も淡路島沿いの海路では、1日に何回もフェリーや高速船などが関西と徳島を直結している。 |
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随筆29 「関西で活躍する徳島県人」 中国と日本が一衣帯水の国であるように、関西と徳島は、まさに一衣帯水。経済的な交流はいうに及ばず、人的交流の面においても親子か親せきの関係にある。 |
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随筆30 「大坂峠と瀬戸内海 」 阿波から讃岐への道は海沿いに走る国道11号を除くと、全てが阿讃山脈を越えていく山あいの道である。なかでもJR・高徳線の走る大坂峠の道は徳島市生まれの私には一番なじみ深い。 |
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随筆31 「渭東は仏壇と鏡台の町 」 渭東は仏壇と鏡台の町。徳島市の地場産業といえば、まず木工業である。ことに福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地区」は木工業者が軒を並べていて、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転したが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。 |
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随筆32 「木材団地になった津田海岸 」 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々とした入浜式塩田で、働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが、今も印象に残っている。 |
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随筆33 「時代を写す徳島の顔、徳島駅 」 JR・徳島駅に降り立つと、眉山の緑をバックに、ワシントンヤシがそそり立っている。いかにも南国情緒豊かなこの風景が私は好きだ。 |
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随筆34 「南海に浮かぶ伊島の心暖かき人々 」 徳島県の東端・蒲生田岬のその先にポツンと浮かんでいるのがササユリで知られる伊島である。戸数は約百戸。ほとんどが漁師である。太平洋の黒潮を真っ正面から受けるこの島では、港の近辺に家々が集まり、土地にへばりつくように軒を寄せ合っている。
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随筆35 「徳工機械科と中西芳男先生 」 質実剛健は、私の学んだ徳島工業高校の当時の校風でもあった。工業立国の時代に、学力検査は勿論、身体検査も受けて、入学してきた生徒は、心身共に優れ、機械科は特に難関であった。 |
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随筆36 「徳島大学に法文学部を」 キャンパスを市民に開放した大学祭が今年も行われた。私も例年、出席させていただいているが、常々思うことは徳島大学に法文学部あるいは政経学部をぜひ開設してほしいということである。 |
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随筆37 「強者どもの夢の跡、勝瑞城」 私の本籍地は藍住町の勝瑞字幸島。決まって「いいところですね」といわれる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと注釈されることもある。 確かに四国第一といわれる徳島平野の中心に位置する勝瑞は肥沃な土地に恵まれ、生産物も豊富である。交通の便もよく、将来の発展が望まれる景勝の地といえよう。先の先の話だが鳴門の本四架橋に、四国新幹線が走るとすれば新徳島駅は、このへんになるかも知れない。もはや人口過密の徳島市内に新幹線を通すことはかなりの無理を伴うからである。 |
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随筆38 「明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん」 眼下に太平洋を見はるかす由岐町伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあふれている。国道55号線を阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかない。そんな迫力がこの海にはある。 |
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随筆39 「藍住町歴史館になった奥村家」 青は藍より出でて藍より青し。 藍なしでは徳島の歴史は語れない。私が衆議院選挙に当選した直後、初当選させていただいた御挨拶に奥村家を訪問したことがある。 |
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