「こころの風景」全文

 

 思い出1 「新町川に永遠の平和を誓う」

 水の都・徳島市を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水ポンプが作動して浄化が進み、子魚がスイスイと泳ぐ姿も見られる。
 県庁のあるかちどき橋から富田橋、両国橋、新町橋、春日橋、仁心橋と新町川にかかる橋には一つ一つに忘れがたい思い出がある。
 ことに仁心橋は私の生まれた土地の橋でもあり、とりわけ熱い思いがつのる。私は太平洋戦争も末期の昭和18年5月9日、この橋のたもとの西船場町5丁目5番地に生まれた。
 生後2日目に「新生児メレナ」という病気にかかり目から鼻から血を吹いたそうである。そんな私のために、毎日毎日、人力車で仁心橋を渡って往診に通ってくれたのが寺島本町西1丁目の古川穂束(ほつか)先生である。
 先生の必死の看病で一命をとりとめた私は生後10ヶ月目に今度は「腸閉そく」になった。父はすでに出征していた。オロオロする母を勇気づけたのは「大丈夫だよ」と語る古川先生の一言だったそうだ。またしても古川先生は人力車で仁心橋を通い続けてくださったという。
 1歳の誕生日までに二度まで生命を助けてくださった古川先生は私の恩人でもある。のちにこのことを徳島新聞の「私の風景」という随想に寄稿したところ、御子息の古川一郎先生から丁重なお便りをいただいた。「父のことを書いて下さってありがとうございました。今は亡き父の仏前に新聞の切り抜きを供えて報告しました。父も喜んでいることでしょう。私も父の遺志を継ぎ、小児科の医師として頑張ります」というものだった。その後、私の三男がサルモネラ菌による食中毒にかかった時、今度は御子息の古川先生に助けてもらった。我が家は親子二代、古川病院に生命を救われたわけである。
 ところでカキ船が並び藍倉が軒を並べていた平和でのどかな新町川界わいも昭和20年の徳島空襲で全くの焼け野原となってしまった。私が2歳のときである。
 母の背に負われ防空壕で一命をとりとめたものの、家も財産も全てが一夜にして灰になってしまった。帰る家もなく食べるもの、着るもの何もなかった。新町川には焼けただれた死体が折り重なるように浮かんでいたという。
 そんな悪夢を洗い流すかのように今日も新町川はゆったりと流れている。終戦後、バラック住宅の建ち並んでいた藍場浜界わいは、緑地公園となり、今は世界的に有名になった平和のシンボル・阿波踊りの舞台ともなっている。
 誰もがちょっと見落し勝ちなのだが、この公園の中央には、永遠の平和と刻まれた塔がそびえている。その塔の下に立つと戦争の悲惨さと残酷さを身をもって知った徳島市民の切なる声が聞こえてくるようである。
 古川先生が人力車で毎日毎日往診にかけつけてくださったあの仁心橋のたもとには平和と文化の殿堂として郷土文化会館が建設されている。橋の南詰、つまり私の出生地には、父からの御縁で越後屋さんのビルに私の事務所と居宅を間借りさせていただいている。まことに不思議な御縁である。
 過去から現在へ。そして未来へと、時は一瞬のためらいもなく確実に流れる。その歴史を川面に刻みつけながら新町川もひたすらにながれゆこう。私はこのふるさとの川が二度と血で染まることのないよう心から”永遠の平和”を誓いたい。

 

 思い出2 「眉山は心の座標軸」

 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山  
   かけてこぐ舟 泊りしらずも(船王)
 万葉の昔から眉山は徳島の顔であった。春の桜、秋の紅葉も見事だが、私は清新の気みなぎる新緑がことのほか好きである。
 戦災で西船場の家を焼かれたときも、この眉山の山すそにあった防空壕で生命を助けてもらった。蔵本に疎開したあとも、眉山はすぐ目の前にあった。加茂名小学校、加茂名中学校の時代も、この山とともに私は育った。小学校や中学校の時代は昆虫採集や植物採集で駆け回った。今の西部公園のあたりから登り始め、頂上の五本松や一本松から熊笹をかき分け尾根伝いに茂助ケ原まで歩く。
 野うさぎが通るほどの小道を、気の合った友とともにワイワイいいながら歩いた。ウグイスの鳴き声が聞こえ、涼風が汗ばんだ膚に心地よかった。
 今、茂助ケ原にはテレビ塔が建ち、リフトまでできた。立派なドライブウェイも完成している。車で行けば20分もかからないほどだ。
 5時間も6時間も歩いて四苦八苦のうちにたどりついた茂助ケ原と、そこから眼下に広がる青い海を眺めた時の感動は、歳月を経てもなお胸中に脈うつ。
 徳工時代の思い出に眉山一周マラソンがある。徳島工業高校の校庭から出発し、佐古、大工町、二軒屋を通り城南高校の前から八万町、上八万町へと抜ける。鮎喰の堤防あたりにくると、どの顔も砂ぼこりで真っ黒だ。もう走れないと座り込む友が出るのもこの辺である。そんな友を最後についてきたトラックが荷台にかつぎあげてくれる。
 幸い、これにはお世話にならず、どうにか完走できた私だが、このときの自信は、その後の人生にとっても大きな力となったように思う。男も女も1人残らず全校生を参加させるというこのスパルタ教育は、現在では賛否両論だろうが、懐かしい思い出である。  高校卒業後、静岡、東京、名古屋、金沢と移り住み、15年ぶりにふるさとの土を踏んだ私を昔のままの姿で迎えてくれたのも、この眉山の緑であった。
 いつも視界の中に変わらざる物をもっているということは、何かしら安心するものだ。それは15年間の県外での生活では味わえなかった”ふるさとの味”でもあろうか。
 衆議院選挙に初出馬して以来、ほぼ20年間、県下を走り回り、歩き続けてきた私の頭の中には、徳島県の道路地図がそのまま刻印されている。その座標軸の原点はいうまでもなく眉山である。幸い眉山の頂上には、テレビ塔が建ち、夜間も煌々と灯りがきらめいている。
 どんな迷路に踏み込もうが、この灯りを発見すれば、自分のいる位置がわかる。私にとって眉山は、灯台でもある。県外での生活では、方向感覚はいつも右か左であった。例えば、「〇〇のガソリンスタンドを右に曲がって・・・」という風に。ところが徳島では、「〇〇を東へ、とか、西へ」という。眉山を原点とし、東西に走る吉野川を水平軸にした座標軸が県民の脳裏に焼きついているせいではないだろうか。少なくとも私自身はそう思っている。

 

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 思い出3 「野球に明け暮れた蔵本駅前広場

 JR・蔵本駅の駅前広場は、今は立派な駐車場に様変わりしたが、私の子供のころは、それはそれは広い格好の遊び場だった。中央に2つの樹木の植わった公園があり、周囲は広場だったと記憶している。その一番西の隅が、私達の“野球場 ”だった。野球といっても今のようにユニホームやグローブなどはそろえられない。バットとボールだけの至極簡単なもので、ボールはどこにでも売っているゴムマリだ。
 車もほとんど走らない時代だったから、ここの広場は私達の独占場だった。みんな学校から帰ると一目散に駆けつけた。野球は1チーム9人だから二チームつまり18人でするゲームなのだが、子供は創造力の天才だ。その日集まった人数が多ければ多いなりに、少なければ少ないなりに結構楽しんだ。多いときには内野も外野もゾロゾロ。どこへ打っても体に当たるほど。少ないときは、みんなで守りながら、一人ずつ抜けていっては打席に立った。勝敗とか技の巧拙などはもとから度外視である。野球をすること自体がともかく面白かった。春も夏も秋も冬も、ボールが見えなくなるまで徹底的に遊んだ。学校から帰っても学習塾やピアノや習字、そろばんの練習と子供のころからキリキリ舞いしている現代っ子から見れば、まことにのびやかで健康的な少年時代を送らせてもらったものだと思う。
 蔵本駅にはもう一つ思い出がある。毎年、夏になるとこの駅前広場に阿波踊りの桟敷ができたことだ。戦後の何もない時代に、この阿波踊りのにぎやかさは、子供心にも文句なしにうれしかった。タル木が組まれ、紅白の幕がはられた桟敷には、中央に“新町橋”まで作られていた。
 市内の中心部だけにマンモス桟敷ができる現在とは違って、泥くさいなかにも阿波踊り本来の庶民的な味わいのする蔵本駅前の桟敷だった。入場する連にはどの連にも暖かい拍手が送られた。熱演のどあいによってのど自慢よろしく、審査員がカネを鳴らすのだが、見物人はよく見ていて、カネの鳴り方が足らないと、もっとたたけとはやし立てた。
 2歳のとき蔵本に疎開して以来、16歳までの15年間を、私はこの土地で過ごした。私の第二の生まれ故郷である。今でも蔵本の町並みは全て頭の中に焼きついている。住んでおられる方々も、みなそれぞれに懐かしい。ことに昭和55年6月、初めて衆議院の選挙に出馬したときは、肉親をもしのぐ御心配をいただいた。選挙の結果がわかった日、私が真っ先に駆けつけたのもこの蔵本の町であった。目を真っ赤に泣きはらしながら、私の手を引き寄せるようにして握りしめてくださった人々の暖かい手のぬくもりを今も私ははっきりおぼえている。以来、選挙のたびにお世話になっている蔵本の皆様の御長寿と御多幸を私はいつも祈っている。   野球と阿波踊り・・・遠い少年の日の蔵本の思い出は、蔵本の人々の懐かしいお顔とともに私の心にきょうもまた暖かい春風を送ってくれる。

 

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 随筆4 「質実剛健の県工気風

 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校は閑静な田園のなかにあった。田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い広い運動場が高いポプラ並木の果てまでつづいていた。
 昭和34年4月から、37年3月までの3年間、私はここに学んだ。県工機械科といえば当時は城南高校と並ぶ狭き門だったように思う。50人の定員めざして県内外の中学校から優秀な人材が集まった。校内には寄宿舎があり、牟岐や伊島から来た友はここに寄宿して勉学に励んでいた。
 工業立国を国策として高度経済成長の道をひた走っていた時代だけに、中堅技術者の育成は時代の要請でもあったのだろう。機械科の卒業生には県外の一流大企業から求人が殺到した。卒業の半年も前に、1人残らず自分の望む大企業に就職が内定していた。それが県工機械科の魅力でもあった。
 私も、中学の進路指導の先生が城南高校から東京大学へのコースを強く勧めてくださったにもかかわらず、誰に相談することもなくあっさりと県工機械科を選んでいた。
 担任の中西芳男先生はじめ物理の中内理先生、数学の佐藤義照先生、金属の上崎孝一先生など優秀な先生方がいて、授業も結構面白かった。本来が楽天的な性格の故であろうか、私は受験勉強などというものは大嫌いで、いつも授業時間の中で全てを理解することに神経を集中させるタイプである。試験内容も、現在のようにクイズ番組を連想させるような暗記力をためすだけのものとは違って、理解力を問う論文形式のものが多かった。物を暗記することが嫌いで、特別な受験勉強など一日もしたことのない私が、どういうわけか入学の時も卒業の時も首席だったのはそのへんの事情によるものだろう。
 ともあれ、県工の校風というものは、一にも二にも質実剛健をもって範としていた。男女共学とはいうものの、生徒の大多数が男子であった。私達の機械科には、女性は一人もいなかった。実習の時間になると、各実習工場で油にまみれた作業服を着て、木型、鋳造、鍛造、溶接、手仕上、機械加工、原動機、材料試験などの技術習得に汗を流した。また、製図の時間には製図教室でカラス口をつかって図面を書いたりした。実習や製図は、こうした現場での作業を通して、実際に社会で働ける技術者を産み出していくために必要な精神の鍛錬が行われる場でもあった。
 教師への礼に始まり、礼に終わるという実習態度も剣道の試合を思わせる真剣さがうかがわれた。実習の先生方も真剣だった。現場では生半可な妥協は事故に結びつく。“頭で覚えるな、体で覚えるんだ ”と、土間のくぼみに薄氷が張る工場の中で、旋盤によるネジ切りの作業に一日中取り組んだ日もあった。
 そんな厳しさのなかで楽しい思い出は、弁論大会と運動会、そして修学旅行である。弁論大会には機械科を代表して現在、東京で活躍している石山康弘君とともに出場、1、2位を独占した。運動会では、競技部門でも応援合戦でも我々の機械科が圧倒的勝利を収めた。運動会のフィナーレを阿波踊りで飾ったのも我が機械科のアイデアであった。修学旅行は、東京・日光への旅。男と男の友情こもる思い出の残る旅でもあった。
 卒業してもう38年。我々の友情は年とともに深まっていく。有馬で名古屋で鳴門で、そして伊豆で同窓会を行ってきたが、懐かしさで一刻一刻を惜しむかのように夜を徹して語り合う友の姿は、あの修学旅行の延長のようだ。そろそろ、定年の話なども話題になり始めているが、いつまでもともに健康であることを祈り合っている。

 

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 随筆5 「計算尺と久保駿一郎先生

 県工といえば重量挙げにテニスと計算尺といわれた時代があった。いずれも全国優勝の経験がある。
 私は計算尺で2回、同級の河村晴美君、幸田賢一君、佐藤憲司君らとともに全国大会に出場した。計算尺は対数尺を用いて掛け算をたし算、割り算を引き算の形でできる便利なものである。乗除のほか三角関数、べき計算なども即座にできるのでかつては機械や建築、土木の設計に従事する者にとっては必携の小道具であった。そんなことから当時は商業高校のそろばんと同じく、全国の工業高校では計算技術の習得に力を入れており、クラブ活動の一環として計算尺クラブが設置されているところが多かった。
 県工の計算尺クラブを創設されたのが久保駿一郎先生である。当時は県工土木科の先生であり、私達には直接授業はされなかったものの、計算尺を通して、人生のあり方を教えていただいた点では、ひときわ心に残る先生である。
 1にも練習、2にも練習、3、4がなくて5にも練習というのが久保先生の実践教育であった。1年生の時クラブに入部して以来、1日2時間の練習が1日として欠けることなくめんめんと続いた。夏休みや冬休みも先生自ら休暇を返上して、毎日登校され、私達の練習に立ち合われた。
 その練習も毎日が本番さながら、全国大会と同じ形式である。先生自らがガリ版印刷された問題が皆んなの手元に配られると、ストップウォッチを持った先生が「ようい、はじめ!」「やめ!」と大きなドスのきいた声で合図される。  問題の配り方から間の取り方、さらには読み上げ算の読み方まで、何度か東京の全国大会に足を運ばれて研究されているだけに、私達は練習を繰り返しているうちに知らず知らず全国大会の雰囲気を体で覚えていた。今思えばそんな気持ちのする先生の練習方法であったように思う。
 人生と同じように計算尺にもスランプがある。ある程度、技術が上達してくるとそれ以上に伸びない。あせればあせるほど泥沼にのめり込んでいく。そんな時期が必ずあるものだ。そんなとき、その壁にどう対処していくかで人生の成否が決まるといってもよいだろう。  そんなとき久保先生はいつもいわれた。「おまえには、おまえでなければ出せない力があるんだ。それを信じろ。計算尺は技術じゃない。根性だ」と。スランプを破るのは練習に次ぐ練習以外にないというのが先生の信条でもあった。
 前途に立ちはだかる壁が厚ければ厚いほど、ともすればたじろぎがちなのが私達である。しかし壁が厚ければ厚いほど壁を突破した喜びは大きいこともまた真実だ。わが国に「点滴石を穿つ」、中国に「愚公山を移す」との例えもある。同じことの繰り返しのように思えるかもしれないが、同じことを繰り返すことほど強いものはない。人生の前途に立ちはだかる壮大な絶壁も挑戦の姿勢でぶつかり続けていくうち、ある日突然、崩れ落ち、新たな人生の沃野が眼前に広けゆく思いがするものだ。私はその後の人生でそんな経験を何度かした。そのたびに久保先生と計算尺の思い出を懐かしく思い出したものだ。
 全国大会には、私達は2回出場したものの、優勝は逸し、2回とも団体では2位、個人では3位に甘んじた。しかし1年後輩の須原英夫君が頑張ってくれ、私達が卒業した翌年、いよいよ母校が団体でも個人でも全国優勝に輝いたのであった。当時、浜松にいた私は一般の部で出場していたため、会場で久保先生と出会い、優勝の感激をともにさせていただいた。鬼の目に涙とでもいうのだろうか。練習につぐ練習で鬼のように思えたあのひげ面の久保先生も、この日ばかりは目がいかにも柔和でとめどもなく涙があふれていたことを昨日のように思い起こす。

 

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 随筆 「天際(そら)に流るる吉野川」

 全長194Km。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。
 人呼んで四国三郎。利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎とともに日本を代表する三大河川の一つでもある。その水の清らかさと豊かさは徳島県人の誇りでもある。

  ♪千古の姿洋々と

   天際(そら)に流るる吉野川

   その雄大の精神(こころ)もて

   磨け我等の魂(たま)と技術(わざ)

   おお青春の意気ミ(たか)く

 わが母校(県立徳島工業高校)では校歌に、こう吉野川を歌っている。小学校から中学校そして高等学校の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。
 小学校の時代はもっぱら堤防でのツクシとり。中学校から高校時代は、暇をみてはハゼ釣りに興じた。
 頭でっかち、どんぐり目のハゼは愛きょうのある魚である。七夕の笹竹に糸のテグス、鉛の代わりに小石を結びつけて、ゴミだめから掘り出してきたミミズをはりにくっつけただけの粗末この上ない魚具でも、面白いように釣れた。今のようにクーラーもビクもない。釣れた獲物は堤防にいくらでも生えている笹に通して帰る。
 どこまでも続く堤防を、大漁の凱歌をあげながら帰るとき、真っ赤な夕日が広い吉野川を朱に染めあげる。その雄大な景色といったらなかった。
 そんな子供のころの感動を再び味わったのは、中国大陸で夕日を見たときだった。昭和54年1月12日から、18日までの一週間、私は中日友好協会から招待され中国にいた。日中平和友好条約が締結されて3ヶ月、いよいよ日中両国の相互交流が始まろうとしている折り、日本の青年を代表して訪中したのであった。
 北京から石家荘に向かう車中で、その夕日は私の心を激しくとらえた。首都劇場で北京歌舞団の歌舞を観賞、中日友好協会を訪問、孫平化副会長と会談、北京大学訪問、頤和園、中日友好人民公社訪問、民族文化宮で中日友好協会趙僕初副会長の招宴、万里の長城、 定陵博物館見学、明の十三陵、革命記念館「周総理記念展」見学、故宮参観、共青団並びに中国青年代表との懇談会、人民大公堂にて全国人民代表大会常務委員会、譚震林副委員長と会見・・・と続いた北京での連日の殺人的スケジュールから解放されて、快適な軟座車(日本のグリーン車)のシートに身をうずめているとき、突然車窓に広がったのがあの雄大な景観だった。
 どこまでも続く地平線。今、まさに沈まんとする巨大な太陽。この二つのとり合わせはまさに大自然が織りなす劇的なドラマでもあった。その荘厳さと雄大さに私は息を飲む思いがした。
 古来、自然は人間の教師ともいわれる。ことに温暖なアジアモンスーン地域では、自然を友として、自然と巧みに調和しつつ農耕が行われ、文化、文明が発達してきた。それだけに人々が自然に対して抱く感情もまた暖かいものがある。それは”自然は絶えず人間に挑戦するもの。自然を征服してこそ人間の幸福がえられる”といった近代文明がともすれば陥りがちな自然観とは全く対極に位置する発想といってよいだろう。
 吉野川の夕陽が中国大陸の夕陽とオーバーラップしながら、話は人間と自然との関係をどう見るかといった形而上の問題にまで飛躍してしまった。私は、徳島の自然に抱かれながら育った人間の一人として、いつまでもふるさとの山河を愛し続けたい。文字では形容しがたい人間の境涯の広さと深さを、一幅の名画として直ちに見せてくれる吉野川の雄大さには、いつも心ひかれる私である。

 

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 随筆7 「ああ国鉄・鍛冶屋原線

 今はJRとなったが、昔の国鉄に鍛冶屋原線というのがあった。当時は板西駅といったが、今の板野駅を起点に、犬伏ー羅漢ー神宅ー鍛冶屋原といった駅々をつないで走るローカル線中のローカル線だった。むろん単線で、はじめのころはデゴイチが走った。あとになってディーゼル車がいつも一両か二両編成で、のこのこ走っていたように記憶している。
 阿讃山脈の山すそを広い桑畑を横切って走るそのひなびた味わいは、今も忘れられない。私は小学生や中学生の頃、毎年、夏休みになると鍛冶屋原のおばの家へ泊りがけで遊びに行ったものである。最初は父や母に連れられていったが、いつのまにか、1人で行くことが、私の夏休みの年中行事のようになっていた。
 蔵本から乗ると佐古で乗り換え、板西で乗り換える。2時間くらいかかったのであろうか。ちょっとした小旅行気分であった。高徳線から鍛冶屋原線に乗り換えると車内の雰囲気がガラリと変わる。不思議なもので乗っている人々の顔つきまで違う。どことなく人の良さそうなのんびりした顔なのである。いつも満員だったためしはなく、三々五々乗り込んできた人々は四六時中、にぎやかに語り合っている。大きな荷物を持ったおばさんが乗り込んでくると、誰ともなく手を貸してあげる。ここにいると全く知らぬ者同士でもすぐ友達になってしまう。そんな人なつっこさが鍛冶屋原線の車内にはあった。
 鍛冶屋原では、時には1ヶ月の夏休みのほとんどを過ごした。短いときでも1週間はいた。朝から晩までセミしぐれの中であった。オイチョウさんの下で1日中、真っ黒になって遊んだ。ツルベでくんだ井戸水のおいしかったことも忘れられない。
 当時は桑畑のなかに、クヌギの林がいたるところにあった。クヌギ林はセミとカブトムシの宝庫である。セミは魚をすくうタモ網さえもっていけば面白いほどとれた。クヌギの木の下のやわらかい土をほじくり返すと、カブトムシがウヨウヨいた。いついっても虫カゴがすぐ一杯になってしまう。徳島の市内ではとてもこんなことは考えられない。眉山だと1日歩いてもカブトムシ1匹も見つけられない。私は宝の山にいるような気分だった。
 あれは何という川だったのだろうか。鍛冶屋原ではおじさんに連れられて魚釣りに行くのも楽しみだった。あぜ道を自転車で走っていった。さほど大きくはない川だったが、フナやナマズが面白いほど釣れた。
 こんな懐かしい思い出ももう40数年前のことになってしまった。すでに鍛冶屋原線は廃止され、線路跡に立派な県道が走っている。このあたりも宅地造成が進み、クヌギ林はほとんどが切り倒されてしまった。今ではセミやカブトムシの数もめっきり減ってしまった。鍛冶屋原のおばさんは90歳を超えても元気で、子供のころ遊んでもらった話をすると、「そうやった、そうやった。」といかにも懐かしそうにうなずいたが、今は故人になってしまった。時代の進展とともに、形あるものは必ず変わりゆくが、「鍛冶屋原線」は少年の日のままの姿でいつまでも私の心に刻み込まれていることだろう。

 

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 随筆8 「陸の孤島・木屋平村に救援物資を運ぶ

 剣山の山ふところに抱かれた木屋平村を初めて訪れたのは、昭和51年10月。台風17号で穴吹川がはんらん、穴吹町古宮地区に大規模な土砂崩れがあった直後のことである。
 この台風17号は県下各地に大きな被害のツメ後を残した。私達は大型トラック10数台分の救援物資を県下各地の被災地に送り届ける大救援活動を実施し、私は陸の孤島となった木屋平村へ飛んだ。
 脇町の中学校のグラウンドからは、緊急出動していただいた自衛隊のヘリコプターで木屋平村の役場下の中学校グラウンドまで運んだ。救援物資は、米、ミソ、しょうゆ、ラーメンなどの食料から、毛布や衣類、タオル、トイレットペーパーなどの雑貨に、赤ちゃんのオシメや粉ミルクまで、大型トラツク二台分である。ヘリコプターでの輸送は20数往復に及んだ。
 眼下に山全体が崩れ落ちたかのような古宮地区を見おろしながら、ヘリコプターは山と山に囲まれたすりばちのような木屋平村に到着した。
 グラウンドには村の自家用車が出迎えに来てくれていた。早速、村役場へ。作業衣に身を固め目を真っ赤にして飛び出してきた人がいる。村長の藤田巌夫さんだ。「助かります。本当にありがとうございました」私の手を固く固く握りしめて喜ばれる村長の姿に、私は夜も眠れぬほど村民のことを心配し続けてきた責任者の心にふれる思いがした。
 またたくまに救援物資は役場の前に山のように積まれていった。「一軒一軒の御家庭にまで運ばれていくのは大変でしょうね。」と尋ねると、村長さんは「何をおっしゃいます。あとは私達でやります。きょうは遠いところを本当にありがとうございました。こんなときでございますから、お茶も出ませんが、お帰りになりましたら、皆様にくれぐれもよろしくお伝え下さい」とていねいな返事が返ってきた。帰途のヘリコプターから役場を眺めると、村長さんはいつまでも手を振り続けておられた。
 後日談だが、村長さんは役場の人達とともに重い救援物資をときには背中に背負いながら山道を一軒一軒配って歩かれたという。
 木屋平村へはその後何度もおじゃました。神山から川井峠を超えて入ると、左手に剣山が峰々を従えながら、くっきりとその雄姿を見せてくれる。標高1955メートル。四国山脈の背骨に位置する県下第一の高山ながら、その全容が車中から眺望できるのは、この国道第439号くらいなものだろう。晴れた日なら頂上の測候所まで判別できる。
 山の人々は純朴である。どこの家庭を訪問しても、「まあ、おつけなして」とお茶が入る。救援物資のこともきのうのことのように憶えておられて、台風17号のときの思い出話に花が咲く。窓辺に真っ赤に熟した柿。その向こうに、はるかかなたまで見はるかせる山々。時の過ぎゆくのも忘れ心と心の対話が続く。私はそんな木屋平村のゆったりした風景がこよなく好きだ。

 

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 随筆9 「山が動く!! 半田町大惣へ

 「山に亀裂が入っているんですよ」「杉の大木が根こそぎ倒れ ています」「山がゴォーッ、ゴォーッと動いているんです。この まま放っておいたらいつ大災害が起きるかわかりません」。── 公明党半田町議の林武次さんからそんな報告が県本部に入ったのは昭和57年7月のことだった。
 剣山山麓、とりわけその北斜面は、全国でも有数の地すべり地帯である。私はとっさにあの昭和51年の台風17号による穴吹町古宮地区の地すべりを思浮かべた。山がそのまま土石流となって谷を埋め、道路も民家も全てを一夜のうちに押し流してしまった。救護物質を運ぶヘリコプターから見たあの凄惨な光景を鮮やかに思い出していた。
 行動の人・林武次さんは、すでに地元住民1677人の署名を添えて、半田町長、並びに半田町議会議長に早急な対策を要請する請願書を提出したという。”よし、行こう ”私は即座に決意した。まず現場へ――これは十五年間の新聞記者生活で体に刻み込んだ私の体質でもある。中野明参議院議員にも連絡をとったところ「すぐ、行きましょう」と即座に返事が返ってきた。「調査なくして発言なし」これは公明党議員の鉄則だが、東京の国会議員が電話一本で飛 んでくる。── そんな公明党の気軽さと責任の強さが私は好きだ。
 7月3日、中野明参議院議員を団長とする公明党の調査団が早速、現場へ飛んだ。団員は私と、県議会議員の国久嘉計氏、それに地元の林武次町議だ。車の運転をかって出てくださったのは林議員の同僚で無所属の岡田清町議。若いが、地元の発展を思う情熱の人であった。
 町役場で内藤町長の出迎えを受けたあと、1677人の請願者代表でもある吉田光行氏の案内で山道を登る。「本当に国会議員の先生がわざわざ来てくださったのですね。本当に。こんな山奥まで。わたしゃあ、それだけで満足です」中野参議院議員に何度も何度も御礼を述べる吉田さんはいかにもうれしそうだった。鎌尾谷の上流では約1キロメートルにわたって亀裂の入った個所を視察した。亀裂の中に、持っていたツエを入れるとズズズーッと全部入ってしまう。その不気味さといったらなかった。ここで同行のテレビカメラマンと新聞記者に別れを告げ、私達はさらに山奥へ。かつては祖谷に通ずる街道だったというが、これが道と呼べるだろうか。いたるところ落石に削り取られ、夏草がおい茂っている。先頭の岡田議員が腰に差していた山刀を引き抜き、木や草をなぎ倒して進む。そのあとを私達が四つん這いになって登っていくのである。登り始めてもう2時間が過ぎている。全身汗びっしょり。それでも誰も引き返そうとはしない。私達に同行された脇町土木事務所や半田町役場の職員の皆さんも、汗をふきふきついてこられる。
  「あった。ここです」難行苦行の末、たどり着いた頂上付近の現場(東祖谷山村との境界付近)では約1Kmにわたって1mから5mの段差がついていた。まさに山全体がずり落ちているのである。緑の山膚が無残に削り取られ、赤茶けた土砂が露出している段差を見ていると、今にも立っている足場はおろか山全部がずり落ちていくのではないかという恐怖にかられた。  こうした実情調査をもとに、私達は、7月6日、県庁に三木申三知事を訪ね(1)大惣地区の地すべり危険区域について、県は正確な調査を行い、国に対して指定地域の拡大を早急に要請すること(2)抜本的な地すべり防止策を確立し、予算化を促進すること(3)台風、集中豪雨などに対する地元の避難体制を確立すること、の3点を特に申し入れ、1日も早く地元住民の不安を解消するよう要望した。
 台風がくるたびに私はヒャーッとする。大惣地区の住民の皆さんのご心配はいかばかりであろうかと。「避難場所までどうして行くか。それが問題なのです。危ないときは、安全そうなところにテントを張って身を縮めている以外にありません」そう語っていた吉田光行さんのことを私は忘れられない。

 

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 随筆10 「祖谷の山にうれしい“オシメ ”とこいのぼり

 “阿波路はすべて山の中であった ”──この20年間、徳島県をすみからすみまで歩き続けてきた私の実感である。
 東京の友人などは「四国は島国だから、どこからでも海が見えるでしょう」などというが、四国島に住んでいる私達から見れば「四国は山また山の大陸ですよ」といいたくなる。
 西へ行っても南へ行っても山は深い。ことに県西の三好・美馬両郡は“こんな山奥にまで家があるんですか ”と叫びたくなるほどの高地に住居が点在している。夜など家々の灯が星と見間違えるほどである。
 なかでも東西の祖谷山村は、まさに現代の秘境と呼ばれるにふさわしいひなびたたたずまいである。この両村には、もう数十回、足を運んだろうか。車も通らぬ道をかき分けかき分け歩き続け、懐かしい人々と再会できる喜びは、たとえようもないほどうれしい。
 祖谷の人々の最大の悩みは過疎化の波がここ40年来、急速に進んでいることである。村長さんの話ではこの40年間に人口が半分以下になったという。人口の減少に伴い、歳入はガタ減りした。町財政は青息吐息だ。そんな苦しい財政の中から山村開発のための道路を作っても、道が完成されたときには、その道を引越し道具を満載したトラックがおりてくる。そんな笑い話にもならないような悪循環が繰り返されている。道はできた。家もある。がすでに住む人はいないといった厳しい現実を私も何度か目にしてきた。
 過疎の最大の原因は、若い人たちの働ける職場がないことだ。近代の日本は工業立国を国策として高度経済成長の道を突っ走り続けてきた。その結果、海に面した大都市中心に人と物と金が集まった。労働力の供給地とされた農山村から若い人達の姿が消えてしまったのである。  関西の徳島県人会は、すでに100万人を数えるという話を聞いたことがある。徳島県の人口は83万人。話半分としても驚くべき数字である。徳島県下に若い人達が安心して働ける職場を作る。これは緊急を要する課題である。為政者は最大の努力を払うべきであろう。
 過疎と老齢化が進む風景の中で、心なごむものがあった。それは、農家の軒先で赤ちゃんのオシメが満艦飾に干された風景に出会ったときであった。町の中ならごく普通の風景だったが、山また山を踏み越えてたどり着いた農家の軒先でこんな風景に出会うと涙が出るほどうれしかった。ことに永い冬が終わり、新緑が目にしみる頃に訪れると、こいのぼりとオシメが一緒になって5月の風にそよそよと泳いでいた。まるで“わが家には息子がいて嫁がいて、孫までいるんですよ ”といわんばかりに・・・。そんなおじいちゃん、おばあちゃんのうれしそうな笑顔が思わず心に飛び込んできたのであった。
 船場に生まれ、蔵本に育った私は山の生活の体験がない。だから山の生活というと、反射的に小学校の頃、学校の先生が教えてくれたことを思い出す。「真ん中にいろりがあって、ナベがかかっています。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんもそして子供達も、みんないろりばたに集まります。おばあちゃんがナベから、雑炊を1人1人によそってあげます。熱い熱い雑炊をフーフー吹きながら、みんなで1日の出来事をなごやかに語り合います。こうして山里の秋の夜は更けていくのです。」
 そんな風景はもう遠い昔の話になってしまった。しかし、せめて親子孫の三代の人々が生まれた土地で安心して生活できるように、山林を振興させていくことは、現代日本の直面している大きな課題であることは確かだ。

 

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 随筆11 「秘境に都会育ちの花嫁さん」

 西祖谷山村尾井ノ内。海抜700メートル。大歩危から祖谷に入るかつての有料道路のトンネルの上にある。今でこそきれいな道路が抜けたが、数年前までは、ウサギ道と呼ばれるほど曲がりくねった小道を上り下りしなければならなかった。
 村役場に勤める古井孝司さんの家はここにあった。私も何度か宿泊させていただいたが、もう20年ほど前のことになるだろうか、最初に泊めていただいた時はびっくりした。
 「まあ一風呂浴びてゆっくりしてください」といわれるままに立ち上がると、玄関に、長靴と懐中電灯それにツエまでそろえてある。「いやあ、うちの風呂は遠いんでね。案内します」と懐中電灯を照らしつつ、真っ暗な山道を降りていく。ツエと長靴は途中でマムシが出るための用心だそうだ。
 10メートルほど降りた谷沿いのところにめざす風呂があった。なかに入ってまたびっくり。見事な五右衛門風呂だが、下司板がない。「そこに下駄があるでしょう。それを履いて入ってください。それから、家に帰るまでに冷えたらいけませんから、十分にぬくもってきてくださいよ」呵々大笑される古井さんに、私も腹を決めて風呂桶に飛び込んだ。
 その湯の熱いこと。下駄をはいて風呂に入るのは生まれて初めての経験だが、まさに石川五右衛門同様、カマゆでにされる心境だった。「体がぬくもったところでまあ一杯」古井さんは接客上手だ。「うちは天然の冷蔵庫でね」と庭に放り出してあったビールを無造作に開ける。その冷たいこと。ノドにしみるあのうまさは忘れられない。
 いつのまにか奥さんの順子さんが、祖谷の名物でもある固いトウフで湯ドウフを作ってきてくれた。それをいただきながら話がはずむ。その話がまた感動的だった。
 2人が知り合ったのは、古井さんが20。順子さんが19のとき。舞台は大阪。結婚しようということになったおりもおり、古井さんの母が突然、病気になってしまった。農業を手伝わなければならない長男である。祖谷に帰らねばならぬことになった。
 古井さんは考えに考えた末、順子さんにこういった。「ワシはおまえが好きや。けど、大阪育ちのおまえに、とても祖谷での生活はでけん。ワシのことは忘れて、大阪でいい人見つけるんや。幸せにならなあかんで。」  男の純情というのだろうか。祖谷に帰ってしまった、そんな古井さんのことが順子さんにはとても忘れられない。ボストンバック一つ持って後を追ってきた。両親には勘当されたという。
 それから30数年が過ぎ、2人の間に生まれた3人のかわいい子供も、今は立派な成人となっている。順子さんもすっかり土地の人達に馴れ、地域の人や親せき中の人達から、「順子さん、順子さん」と何でも相談されるようになった。これには大阪の両親もすっかり感心し、今では祖谷に行ったことを心から喜んでいるという。
 ともかく女性はたくましい。都会で育った順子さんが、祖谷の山里をわがふるさととして活躍されている姿を見ると思わず心がはずむのである。
 上板町の山間部でも東京は日本橋で育ったという花嫁さんが、酪農に若い情熱を注いでおられる姿を見たことがあった。
 青い空がある。青い海がある。緑の大地がある。空気もうまい。この徳島を第二のふるさととして活躍される若い花嫁さんに心から拍手を送りたい。

 

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 随筆12 「鳴門の海に描く徳島の未来図」

 阿波と淡路の はざまの海は    
 これぞ名に負う 鳴門の潮路    
 八重の潮時  かちどきあげて

 小学校の唱歌にも歌われ続けてきた鳴門海峡には今、全長1629メートルの大鳴門橋がかかっている。淡路島の向こうには、全長3910メートル世界一のつり橋である明石海峡大橋も完成し、神戸と鳴門は高速道路で直結。バスで1時間半という時代になった。
 私が鳴門の海を初めて見たのは小学生のときだった。当時は小鳴門橋もなく、土佐泊まで連絡船で渡り、歩いて千畳敷まで行ったことを記憶している。千畳敷から、眺観する鳴門の海は、かの吉川英治が「鳴門秘帖」で書いているように、感動的であった。
 淡路の山々が目の前に見え、ひとまたぎできそうな狭い海峡には、潮流が渦を巻いていた。真っ青な海と白い潮流、そして緑の松が日の光に映えてひときわ美しかった。
 四国は四方を海に囲まれた島国である。しかもその中央部には高い山々が峰を連ねており、本土の人々からは“四国の山ざる”と呼ばれたこともあった。時には島国根性などといわれる。ともすれば狭い視野でものを見がちな県民性は、こうした環境によるところが大きいのであろう。
 本土と四国を結ぶ掛け橋は、神戸ー鳴門ルートに加え、児島と坂出を結ぶ瀬戸大橋、そして尾道と今治を結ぶ「しまなみ海道」の三架橋が全て開通した。私は幸せにも三架橋全ての開通式に出席しテープカットさせていただいた。支持者の皆様に心から感謝せずにはおられない。
 陸続きになるということは確かに便利なことである。天候に関係なくいつでも自由に往来できる。四国の私達にとってそれは大変にうれしいことだが、本土からも容赦なく人と物と金が入ってくるということでもある。良いものもくるが悪いものだってくる。公害や大気汚染をはじめ教育の荒廃や人間不信、そして広域な犯罪などが直接間接に、このふるさとの緑の大地をおおっていくかも知れないのだ。
 考えなければならないことは、東京や大阪と同じようになることが、四国のそして徳島の未来像ではないことである。むしろ、東京や大阪などの大都市が引き返そうにも引き返すことのできない「真っ白いキャンバス」を、わが四国なかんずく徳島県は持っていることに強い強い自信を持つことだ。
 その「白いキャンバス」にどんな未来像を描いていくか。それが私達の仕事である。その第一の視点は、世界の中で日本は何をなしうるか、日本の中で徳島は何をなしうるか、といった問題意識を持つことである。
 私は教育であると思う。“教育立県・徳島 ”これが私の夢見る徳島の未来構想だ。四国三架橋時代は大交流、大競争時代の幕開けでもある。日本の全国から優秀な学生が四国へ、そして徳島へと学問にくる。そんな郷土を築きたいと願う。
 かつて「田舎の学問より、京の昼寝」といった人がいた。今は時代が違う。情報化が進み、世界のニュースがどこにいても一瞬のうちに伝わってくる。そして、どこにいても世界に発信できるインターネットの時代なのである。そんな時代に、政治も経済も文化も教育も全てが超過密の大都市に集中しなくてもよいはずだ。都市の機能を分化し、現実の問題は都市で消化するとしても未来を見すえた人材の育成は、青い空と緑の大地に恵まれた地方で担ってもよいのではないだろうか。
 わが徳島がその先べんをつけたいものだ。──鳴門の海を眺めな がら、そんなことを考えてみた。

 

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 随筆13 「懐かしき藍水苑の出会い」

  ここに一枚の写真がある。昭和53年8月13日、加茂名中学校の同窓生が卒業20周年を記念して集まった写真である。場所は徳島市名東町の藍水苑。眉山の緑をバックに懐かしい顔が並んでいる。 私達の時代の加茂名は小学校と中学校が同一学区という事情もあって、同級生の全員が小学校以来、9年間、どこかで同じクラスとなっている。そんなわけでクラス別の同窓会というものはない。300人足らずの卒業生は互いによく顔を知り合っている関係から、同窓会には1組から6組まで全員が昭和33年度卒業生という形でつどい合うことにしている。
 ところで卒業して20年も経つと一人一人の消息は容易につかめるものではない。ことに姓の変わっている女性の場合はなおさらである。一人一人の消息をつかみ、案内状を出す労作業を自ら買って出てくださったのが岡山清治君、竹内孝夫君、遠藤高士君、西卓男君、吉田勝一君、川先専一君、藤田祥君、喜多正昭君、鈴江一輝君、大久保英明君、見須(旧姓・斎藤)潔君、佐藤英一君、松原(旧姓・浅野)京子さん、山田(旧姓・坂田)敦子さん、淡井(旧姓・武市)昭子さん、細井(旧姓・図子)寿美恵さん、中窪〔旧姓・中野)真弓さん、久積キヌエさん、小川洋子さん、藤田(旧姓・菊川)洋子さん、藤原(旧姓・西森)美恵子さん、塩本(旧姓・乾)千鶴さん、日下善江さんら、こよなく加茂名を愛する人達であった。
 この方々の1年にも及ぶ汗と涙の結晶で、卒業生の6割の消息が判明。当日は4人の恩師もご招待し56人が集ったのである。遠く東京から駆けつけた浜田耕作君(今は徳島で活躍している)をはじめ、香川や愛媛県からも懐かしい友が馳せ参じた。
 同窓生とはうれしいものである。会った瞬間、誰もが20年も前の中学生に帰ってしまう。「お前」「俺」で話が通じ合う。裸になって話し合える。20年間の空白を一度に埋めるかのように私達は話すことに熱中した。少年時代の共通の思い出を持つ者の話がこんなにも楽しいものであることを知ったのは、15年間も故郷を離れていた私にとってうれしい再発見だった。
 その後も同窓会は岡山清治君、藤田祥君、鈴江一輝君らのお世話で、小規模ながら、継続して開かれている。私もできるだけ都合をつけて参加させていただいている。この同窓会に必ず出席してくださるのが森宮九十男先生と岸田義市先生であった。両先生とものちに母校の校長をつとめられ、人望の厚い方々だったが、岸田先生は残念ながら逝去された。私の衆議院選挙初出馬のとき、テレビで応援の弁をふるっていただいたことをはっきりと思い出す。心から御冥福を祈りたい。
 加茂名中学校の時代。私は生徒会長を務めていたが、立候補の挨拶に各教室を回ったり、全校生の前で立会演説を行ったことなど懐かしい選挙の思い出もある。それとともに生徒会の最終議題にはいつも、校舎内外の清掃問題をとりあげ、生徒会終了後役員が率先して全校の掃除を引き受けたことなども思い出す。
 陸軍の練兵場を仮整備して作られた運動場や校舎だけに、運動場からは、ときたま不発弾が発見されるなど、ぶっそうきわまりなかった。それでも、自分達の学校は自分達の力で、整備していこうという意識が誰の心にもあったのだろう。「役員全員で掃除しよう」という生徒会長のツルの一声に、異論を唱える役員は一人もいなかった。
 現在は校舎も運動場も全てが面目を一新している。私達の卒業式の日に完成した体育館も老朽化が進み、数年前に新築された。学校の隣にある蔵本公園や西部公園では、今年も私達が中学生のころと同じように桜が満開に咲き競った。卒業してもう四十年。同窓の友の髪にも白いものが見立ち始めたが、この桜のように、いついつまでも青年の気概を持ち続け、はつらつたる人生を歩まれんことを祈りたい。

 

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 随筆14 「よく遊びよく学んだ加茂名小時代」

 流れも清き袋井の
 ほとりにたてる 学び舎に
 育つわれらは そのかみの
 いさおしたてし 人のあと
 今もたたえて もろともに 
 学びの道を 進まなん

 今も歌い継がれているわが母校・加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のようになってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほどだった。
 私の小学校入学は昭和25年4月。桜の花が咲き乱れる校門を母に連れられて入った。入学した日「自分の名前がかけますか」といわれ、カタカナで「エンドウ カズヨシ」と書いたら、先生に笑われた記憶がある。おじいちゃん子だった私はおじいちゃんの教える通り、覚え込んでいたらしい。
 1年生から4年生までは、遊んでばかりいた。勉強が面白くなったのは5年生になってからだ。5年生の担任は森岡進先生。今は定年退職し、子供達に書道を教えておられるが、当時は教師になったばかりで私達の心の中にグイグイ飛び込んでこられる情熱と行動の人だった。
 授業のときも掃除のときも、これでもかこれでもかといわんばかりに自ら率先垂範される。その迫力が魅力でもあった。いつのまにかクラス全体が先生を父とした一つの家族のようになり、特に男の子は、先生の宿直の日が楽しみで、よく宿直室までおしかけていったものである。「家には言ってきたか」というので「ハイ」というと「よし、今日は徹夜でシゴイたる」と宿直室がにわかじたての教室となった。
 勉強にあきてきたなと思うと「よっしゃ。相撲するか」である。先生にみんなでよってたかってぶっ倒すと「負けたわ」と大きな体でしりもちをつく。ある日、しりもちをついたのが、障子の上で、障子がこなごなに壊れてしまったことがある。泣きベソをかく私達に「心配すな。あとは先生に任しとけ。君らはもう寝ろ」とさっさとフトンの中に押し込むのであった。次の日、起きてみると、障子はものの見事に修繕されていた。こなごなに折れたサンを一つ一つていねいに糸でくくりつけ、どこで手に入れたのか障子紙まできれいに張ってあった。  「先生いつなおしたんで」と聞くと「おかげで朝までかかったわ」と真っ赤な目をしている。私達が眠ってしまったあと、一人黙々と修繕されたのだろう。強い責任感と意外な器用さには脱帽するばかりだった。
 六年生の担任は小林ミユキ先生。すでに定年退職され、悠悠自適の生活を送っておられるが、字の美しい本の好きな先生であった。卒業のとき、私が全校生を代表して答辞を読むことになったときなど、何度も我が家まで来て一緒に文案を推敲してくれたことを懐かしく思い出す。
 同級生には東大を卒業して東京・丸の内の中小企業金融公庫に勤めていた福家隆晴君など優秀な人材がたくさんいた。福家君とはよく東京で食事をしたり、毎年、手づくりの年賀状をいただいてきたが、残念ながら数年前に逝去された。私も弔問に伺ったが、御両親の深い悲しみに胸がしめつけられた。
 当時の小学校は遊ぶことにも徹底したが、学ぶことにも徹底していた。私なども小学生時代に世界少年少女文学全集はじめ夏目漱石の全集などを読破した記憶がある。
 今でも「我輩は猫である」や「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」などの冒頭の部分を空で憶えている。読書百遍、意おのずから通ずというのだろうか。「それから」や「心」「明暗」など難しい作品も小学生の時代になんとなくわかったつもりでいた。
 20年ほど前、県下一のマンモス校となった母校を訪問する機会があった。その折、図書室を見学させてもらったのだが、私達の時代と違って、見事なまでに蔵書が整理されているのに驚いた。しかし、「最近の子供はあまり本を読まなくなりましたね」とこぼす先生の話にちょっぴり寂しい思いもした。
 テレビ文化の時代だけに「活字離れ」がここでも進んでいるようだ。しかし時代がどのように変わろうと、1冊の本を通して世界の人々と対話ができる読書の醍醐味は変わるものではない。人生の財産ともなる「良書に親しむ習慣」を私は小学生の時代にぜひともつけていただきたい、と心から念願するものである。

 

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 随筆15 「牟岐へ雨中サイクリング」

 今はJR・牟岐線も阿佐海岸鉄道で高知県甲浦駅まで延長されたが、高校生のころは牟岐駅が終着駅だった。
 駅前に大きなソテツの木があった。この駅は徳島市の私達から見れば遠い遠い南の果ての駅だった。今でこそ、国道は立派に舗装が行き届き、車で一時間半の近いところになったが、そのころは山また山をくぐり抜ける狭いデコボコ道が果てしなく続いていた。
 そんな道を自転車で走ったことがある。高校3年生の夏休みだった。同行したのは河村晴美君、西英勝君、幸田賢一君、新見務君ら県工の同級生達。サイクリングといっても、今のようにギアが何段にも切り換えられる専用車ではなく、ごく普通の、いつも我々が通学していた愛車である。
 荷台に、西の丸の市営グランドから借りてきたテントをくくりつけ、私達は意気揚々と徳島市を出発した。
 牟岐町までは誰も行ったことがない。“まあ!何とかなるわ”で走り始めたものの、行けども行けども山の中。しかも雨が降り始め、ランニングシャツはおろかパンツまでびっしょり。牟岐の海岸に到着したときは疲労こんぱいしてテントを張る元気もなかった。
 その夜は牟岐町から通学していた同級生の芋谷暢重君や沢田勉君が、公民館を借りてくれようやく一息ついた。翌日もどしゃ降り。またしてもバケツをひっくり返したかのような雨の中、ペタルを踏んで徳島まで帰ったのだが、1人として風邪をひく者もなかった。おかげで牟岐の町には、ただ足を踏み入れただけで終わってしまったが、この小旅行は私達に根性と勇気の大切さを教えてくれたように思う。
 そんな思い出も、38年の歳月を越すと、ひたすらに懐かしい。今も目を閉じると、雨に煙る芒々たる牟岐の海がまぶたに浮かぶ。 あまりにも坂が急なため、泥んこになりながら自転車を押して越えた山道もあった。そんな牟岐への道をその後、私はもう何百回も通った。牟岐の町をくまなく歩く機会にも恵まれた。
 東と西の漁港を中心に、狭い路地をはさんで家々が軒を並べる牟岐の町は、古くから栄えた漁業の町である。この港で水揚げされる魚は春は、はも・甘鯛、夏は、はも・しび、秋はめじろ・はまち・甘鯛・鉄ふぐ・するめいか、冬はするめいか・鉄ふぐなどであるが、ここ数年「漁獲量」はジリ貧状態が続いているという。特に高級魚はめっきり数が減っており、せっかく生きたまま関西方面へ出荷する体制を組んでいても、魚がとれないために休んでしまう日もあるという。
 こうした沿岸漁業の不振は牟岐ばかりではなく、県南の漁村では共通の悩みでもある。県では、「獲る漁業から育てる漁業へ」と海南町に「栽培漁業センター」を設立した。ここでは鯛やハマチ、アワビ、アユなどの稚魚が卵から育てられ、県内の河川や沿岸海域に放流されている。その効果は序々に現れているとはいえ、漁業振興のきめ手となるには、まだ前途は遠い。十和田湖にヒメマスを養殖した和井内貞行翁や、お隣りの香川県引田町の安戸池にハマチを放流した野網和三郎翁の先例を待つまでもなく、その道のパイオニアと呼ばれる人達は、だれしも筆舌に尽くせぬ辛酸をなめているものだ。
 厳しい現状に挑戦し、沿岸漁業のあすを拓こうとする人々に心から拍手を送りたい。そしてその地道な努力の結晶がやがて見事な勝利の花を咲かせることを祈ってやまない。

 

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 随筆16 「開発か自然保護か 揺れた橘湾」

 橘湾というと、小学校の遠足で津之峰に登った日のことを思い出す。春先の暑い日だった。石灰質の白い岩膚に「サンキラ」の緑が印象的だった。徳島では「かしわ餅」にこの「サンキラ」の葉を使う。
 汗をふきふき登った頂上から、橘湾が眠ったように見えた。「阿波の松島」と呼ばれる美しいリアス式海岸には、大小の島々が浮かび、まるで一幅の名画のようだった。
 その海岸の一部が埋めたてられ、四国電力の火力発電所が操業を開始した。続いて、日本電工徳島工場が建設された。工場から出る排水で海は次第によごれていった。そんな時代があった。
  昭和57年4月、その橘湾でタンカーが衝突する事故がおきた。重油が海面一杯に流失した。公明党ではただちに調査団を派遣した。メンバーは私と国久嘉計県議、中川徳芳、湯浅優、地元阿南市議である。地元党員の福田勇さんが出してくれた漁船に乗り込み、衝突現場へ。なごやかな海面に黒い重油の帯がひろがっている。重油が漂着した海岸では、必死の回収作業が続けられていた。 「気をつけて下さいよ。すべりますからね」船が接岸すると作業をしていた方々が、私達の手をとってくれた。「さすがは公明党ですね。一番乗りですよ」ヘルメットに染めた公明党の文字とマークを目ざとく見つけたのだろう。責任者の方が被害の概況と、回収作業の進渉具合をていねいに説明してくれた。
 それにしても全くひどい。白砂青松の海岸線は真っ黒な重油がべっとりとこびりついている。湾内を回遊する魚は逃げられるとしても、この海岸でとれる貝や海草はおそらく全滅だろう。漁業補償は保険会社との話し合いに持ち込めるが、漁業権を持たない一般市民の被害はいったい誰が補償してくれるのだろうか。
 重油がいったん海岸の砂に吸収されると、元に戻るには5年も10年もかかるという。日曜日など家族総出で貝ひろいを楽しむ。そんな庶民のささやかな喜びは、何の補償もなく、無残に奪いとられてしまうのだろうか。
 橘湾の開発が進めば進むほど、こうした事故の起こる可能性はますます大きくなる。現在、電源開発と四国電力が火力発電所の建設を進めているが、自然保護には慎重なうえにも慎重な配慮をお願いしたい。
 開発か自然保護かを考えるにあたって、いたずらに経済効果を追求する論議や、イデオロギーのみで突っ走る論議は、真に住民の側に立つ論議とはなりえない。砂をかむような意見の対立を生むばかりである。
 活力あるふるさとを建設するために開発による産業政策の展開は避けて通れない本県の課題である。自然保護もまた人々の生存権に基づく基本的な課題である。双方の接点をどこに求めていくか。その選択権は第一に地元住民の意思にあると私は思う。そのためにも関係者は開発に着手する前に全ての情報を判断材料として市民に提供すべきだろう。そして住民の方々もまた自己の利害にとらわれるのでなくより高い視点に立って、一つのコンセンサスにまとめていく努力をすべきである。ベンサムのいった「最大多数の最大幸福」という最大公約数がどこにあるか、賢明な判断が主権者である住民の手で行われることを心から期待したい。 開発か自然保護かで揺れた橘湾だが、関係者の粘り強い努力が実を結び、住民の皆様の御協力も得て火力発電所の建設が着々と進んでいることを今は心から喜びたい。願わくは、環境への負荷が最少となる操業を切望してやまない。

 

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 随筆17 「眉山西部公園とバレーボール特訓」

 加茂名中学校の運動場は小川一つを隔てて眉山西部公園に続いていた。当時、運動場の周囲には人家もまばらで、見渡す限り、田んぼや畑が広がっていた。小さなあぜ道を抜けてよく西部公園まで登ったものである。
 とくにバレーボール部では冬場の特訓というとかならず西部公園の坂道をうさぎ跳びで登らされた。春は、桜が咲きほころび、ボンボリに灯がともされるこの遊歩道も、冬場は行き交う人の姿も見られないほどに寂しい。落葉を踏みしめながら、ハーハー息をはずませて登った坂道は本当に長かった。ジグザグに曲がりくねった道を登りつめて、忠霊塔のある広場の石垣が見えると、思わず歓声をあげたものだった。
 広場から眺めると、中学校の校舎や徳島大学の医学部が真下に見え、はるか向こうに吉野川がゆったりと流れていた。いつも変わらぬ風景だが、何となく心が落ち着く思いがしたことを憶えている。 バレーボールの練習で、このうさぎ跳びのほかに思い出すのは、深夜、月をボールに見たててパスやトスの練習を繰り返し、繰り返し行ったことである。当時の私達には体育館がなかったので練習も試合もいつも屋外のコートで行った。汗と泥にまみれながら、どこまでもボールにくっついていく執念を、これでもかこれでもかと言わんばかりに教え込まれた。当時のスパルタ教育があってこそ現在の健康があり、精神の鍛錬ができたものと今になって心から感謝している。
 衆議院選挙に初出馬して次点に泣いた日から次の選挙までの3年半というもの私は、県下の町や村をそれこそ、くまなく連日のように歩き続けたが、当時の練習で鍛えた足腰の強さがおおいに役立った。若い人々に心から訴えたいことは、人生の基礎づくりとなる青春時代こそ、おおいに頭脳を鍛えるとともに、スポーツを通して、肉体を鍛えることを忘れてはならないということである。
 「受験勉強に忙しい」と言われるかも知れないが、頭でっかちの青白きインテリに世の中の実相は決してわかるまい。まして、この動乱の世の中を変革する力など湧いてくるはずもない。  大衆の中に飛び込み、苦悩も喜びもともに分かち合いながら、みずからの知恵と責任と力で時代を切り拓いていく。それが21世紀に生きゆこうとする青年の生き方でなければならない、と私は思う。そのためには一にも二にも健康でなければならない。強靭な体力と強靭な精神力の持ち主でなければこの仕事はつとまらない。 「最近の生徒は、スポーツをするとすぐ骨折する。食事にも好き嫌いが激しく、給食はいつも残飯の山です」という報告を、現場の先生方から聞いたことがある。物が豊かになるにつれ、確かに体位は向上した。身長も体重も私達の時代とは大幅に違う。しかし体力はどうか。人生という真剣勝負の舞台で必要なのは、見掛け倒しの体形ではなく、体力という中味なのだ。
 加茂名中学校は戦後の学区制の変更によって誕生した新しい学校だった。校舎も新しく先生方もよき伝統を築き上げようと真剣だったに違いない。そうした草創の息吹のなかで、泥くさいながらも人間味にあふれた教育を受けられたことを私は心から感謝している。

 

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 随筆18 「忘れ得ぬ祖谷の味、ソバと“デコ回し”」

 剣山のふところに抱かれた祖谷の良さは、1日や2日の観光旅行ではわかるまい。できれば1週間、短くても3日間ぐらいの日程をとって泊まり込みで祖谷を訪問することをお勧めしたい。
 春の遅い祖谷では5月になって桜が開く。このころの祖谷路は、まさに百花繚乱の感がして心うき立つ思いがする。夏はホタルが飛び交い、秋には満山これ紅葉となる。冬の祖谷路は道路が凍結して危険だが、シンシンと降り積もる雪の夜、コタツを囲んで昔話を聞くのも味わい深いものだ。  台風のさなかに訪問して、上りも下りも道路が決壊してしまい、三昼夜を京上の平岡一男さん宅でお世話になったこともあった。
 私が訪問したのは東祖谷山村では、一番奥の名頃からはじまって菅生、久保、西山、落合、栗枝渡、京上、若林、小川、樫尾、京柱峠、元井、和田、今井、平など、西祖谷山村では、閑定、善徳、一宇、尾井ノ内、徳善などの地域である。車が通らず歩いて登った地域も多い。細いうさぎ道を汗を流しながら登った農家の軒先で、一休みしながらいただくお茶のおいしさは格別だった。  なかでも忘れられない祖谷の味は、ソバと“デコ回し”である。祖谷では昔から、来客にソバを打つ風習がある。今でもこの風習は残っていて、台所でコトコト音がしているかと思うと、お椀に山盛りになったソバが出てくる。「まあ、おひとつどうぞ」と勧められて、ハシをとる。今、打ったばかりのまさしく手打ちソバである。太いのあり細いのあり、バラバラだが、やけに短い。「混じりっけなしのソバ粉ですから。町のソバみたいに長くならないんです」という。これがなかなかイケるのである。
 お椀が空になるのを待ち構えていて「もうひとつどうぞ」が繰り返される。断っても断っても山盛りのソバが出てくる。「もうお腹は一杯です」というと、今度は、大皿に“デコ回し”の山だ。 “デコ回し”というのは、土地で穫れたジャガイモに味噌をつけて焼いたものだが、昔はイロリのふちで、人形浄瑠璃の木偶(でこ)回しよろしく焼いたのでこの名前がある。  プーンと鼻をつく焼き味噌の香ばしいにおいが、一段と食欲を誘う。祖谷のジャガイモは小型だが、粉がふくほどに実がしまっている。ジャガイモと味噌という素朴な取り合わせながら、焼くことによってこの2つが見事に調和してえもいわれぬ味となる。
 “デコ回し”をいただきながら、話ははずむ。とにかく祖谷の人達は話好きだ。夜の更けるまで、というより、ことによったら夜の明けるまで、つき合わされることも多い。話のテンポも、びっくりするほどゆったりしている。
 昔、祖谷では米が穫れなかったという。山が高く気温も水温も低くて水稲に適さなかったのが原因ということだ。米が作れない農家ではソバやジャガイモが日々の食卓を飾った。ジャガイモに味噌をつけ、焼いて食べるというのは山里の人達の生活の知恵でもあったろう。
 星降る夜、心づくしのごちそうをいただきながら、心美しい人々とともに人生の来し方を振り返る。都会の喧騒を離れてこんな“ぜいたく”ができるのも祖谷ならではのことであろう。

 

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 随筆19 「今は昔、田宮と矢三の麦踏み風景」

 私達が県立徳島工業高校に通っていたころの田宮や矢三町は見渡す限り田園が広がっていた。ヒバリのさえずる春は、馬や牛がのどかに「しろかき」をする風景があった。水の張られた田ではカエルのコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったらなかった。
 やがてカンカン照りの夏ともなると、稲はグングン生長し、緑のじゅうたんを敷きつめたようになった。そして稲穂の波を渡る風の涼しさに秋が感じられるころになると、黄金色に実った稲は次々に刈り取られ、ハザにかけられた稲穂が、そこら中にきれいな幾何学模様を描き出すのだった。
 木枯らし吹く冬には、サクサクと霜柱を踏んで進む麦踏みの風景があったことも忘れられない。
 そんな四季おりおりの田園の風景は、私にはことになじみ深いものとなっていた。というのは高校1年生のころ、わが家が蔵本から、田園地帯の真ん中の田宮町広坪(現在の北田宮2丁目)に移転したからである。 家の前も後ろも右も左も、ともかく四方が田んぼだった。西船場のときも蔵本のときも町の中だっただけに、全てが勉強になった。農家の方々との新たなお付き合いも始まった。土と取り組む人々のご苦労も身近で知ることができた。稲刈りや麦刈りのお手伝いもさせていただいたが、麦刈りのとき、腰が痛くなるのにもまいった。また麦の穂が体にささるとかゆくてかゆくて仕方がない。これにはいささか閉口したものである。
  当時、学校に通う田宮街道は舗装ができていなくて、砂煙のなかを自転車で往復した。夏休みになると競馬場跡にできたゴルフ場(徳島ゴルフ倶楽部吉野川コース)でキャディーのアルバイトをしたこともある。私は高校を卒業するとすぐ県外に飛び出したので田宮での生活は2年ちょっとの経験しかないが、それ以降も永く住みついた両親と3人の妹や弟にとっては、田宮は文字通り第二のふるさととなったのである。
  ところで見渡す限り田園が続いていた田宮や矢三の町も今は見違えるばかりに変わりつつある。JR高徳線は高架となり田宮街道は拡幅工事の真っ最中、スーパーや商店が建ち並び、田んぼは埋めたてられて閑静な住宅地帯となった。南田宮の運動公園には陸上競技場や、市民プールがあり、人々に親しまれている。
 ことに県立徳島工業高校、県立城北高校に加えて県立中央高校、県立城の内高校が相次いで開校し、若い人達の歓声が聞かれるのもうれしい。 矢三と応神を結ぶ四国三郎橋の完成で藍住町など吉野川北岸の町々と直結し、田宮街道の拡幅工事には一層拍車がかかっている。 次の課題は田宮川の水質浄化だ。幸い、徳島市北部浄水場が完成し、渭北、渭東の地域では公共下水道となった。次は田宮、矢三そして加茂名地区である。公共下水道ができあがると、田宮川やその先の袋井用水にも昔のような清流がよみがえることだろう。

 

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 随筆20 「夢まぼろしの袋井用水」

 15年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は、昭和51年3月、庄町4丁目に、妻と2人で新居を構えた。新居といっても二戸一の民間アパートである。 庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く、私にはもともとなじみの深いところだった。その点、東京生まれで徳島は生まれて初めての妻にとっては心配もあったろう。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで、1ヶ月もすると、10年の知己でもあるかのように気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていたのである。
  庄町には昭和51年3月から55年2月まで4年間住んだ。その間に長男伸一と二男洋二が誕生した。子供達に私自身の子供の頃の話を語って聞かせるとき大変に寂しい思いをすることが一つだけあった。それは、こんこんと清水が湧き出でていた袋井用水が当時の面影もないほどに枯れてしまっていたことである。 袋井用水は今から347年も昔の元禄5年(1652年) に島田村の庄屋・楠藤吉左衛門が私財を投げ打ち7年の歳月をかけて作ったものである。この事業は吉左衛門の子・善平、孫・繁左衛門と三代にわたって継続され、干ばつに苦しむ島田・庄・蔵本三村三百町歩の水田をうるおしたという。 私も小学生のころ、楠藤吉左衛門の苦労談を調査研究し、徳島新聞に写真つきで紹介されたことがあった。非難中傷の嵐を受けながらも農民のために初志を貫く吉左衛門、水脈をさぐりあてるために、耳を凍てつく大地にこすりつける吉左衛門。そんな人となりに感動しつつ鉛筆を走らせたことを、今も鮮やかに思い出す。
  小学生のころも中学生のころも、私達はいつも袋井用水とともにあった。鮎喰町の水源はどこまでも青く澄みわたり、夏でも震え上がるほどに冷たかった。深い用水に道路の上から飛び込むと、夏の熱さなんかは一度に吹き飛んだ。魚も一杯いた。舟を浮かべて遊んだこともあった。夜はホタルが飛び交い、ササの葉でよく追いかけたものだった。 加茂名小学校の校庭にも袋井用水は流れていた。運動場で走り回ったあと、誰もがこの用水に入って頭から冷たい水をかぶり合ったものだった。学校から帰るときも、この用水に笹舟を浮かべて誰のが速いかワイワイ競争し合いながら家路についたものだった。いつのまにかカバンを放り出して、メダカやフナやザリガニをとるのに夢中になっていたこともあった。
  そんな袋井用水も今はアシやカヤが生い茂る排水路になってしまった。すでに魚の影もなく、ときたま、ばかでかいおたまじゃくしがニョロニョロ動いているだけである。かつて水田に水を汲み上げる水車が並んでいた風景などもう知る人すらいない。 水源の枯れた最大の原因は都市化と生活水準の向上による水の利用度の大幅な増加に伴って、地下水を汲み上げすぎたことにあるらしい。地上の変化はそのまま地下の変化に直結している。
  私達人間は日々の生活の物質的な豊かさなどという目に見える部分には熱いまなざしをむけながら、目に見えない部分は忘れてしまっていることが多い。 自然からの強烈なシッペ返しを受ける前にぜひとも考え直さなければならない人類の課題だろう。
  私の手元に徳島市加茂名公民館内、袋井かるた会が発行した「いろはカルタ 袋井の流れ」がある。絵を飯原一夫先生が文を三好昭一郎先生が書かれたもので、私も楠藤家の方々とともに製作、販売のお手伝いをさせていただいた懐かしい思い出がある。 袋井用水に再び清流を!!は加茂名に住む人々の共通の思いだが、公共下水道の1日も早い完成により、何としても実現したいと考えている。

 子供のころ遊んだ水源の周辺は袋井公園として整備され、袋井用水水源地保勝会外三団体の方々が歌碑を建立している。
「袋井の水は尽きせじとこしえに翁の勲をたたへ流るる」。
保科千代次さんの歌だ。文字は私の加茂名小学校時代の恩師である森岡進先生が筆を執られた。袋井用水に再び清流を取り戻すことができれば、楠藤吉左衛門翁はいかほど喜ばれることであろうか。

 

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 随筆21 「たくましい商人の街・船場」

 船場は私の生まれ故郷である。二歳のとき太平洋戦争による徳島大空襲で船場の家は焼け落ちてしまった。

 小泉周臣氏の著による「船場ものがたり」(徳島市民双書・九)には、巻末の船場町家並図に大正初期のものがあり、ここには、はっきりとわが家が示されている。211ページに恵西自転車店の記載があるが、私の父はこの屋号で自転車店を経営していたのである。父母から聞かされた懐かしい家並みも見事に再現されており、私としては生まれ故郷の街の姿を、あれこれ連想するばかりである。
  今もそうだが、船場は藩政時代から商人の街であった。天正13年(1585年)一宮から徳島に移った蜂須賀家政は、築城と併行して城下の町割りを行った。船場に商人の街ができたのはそのころに逆のぼるが、年とともに、新町橋を中心とした東西の船場は、新町川を運河として物質の集散する舞台となったのである。 那賀や海部の南方からは沿岸づたいに、吉野川流域や上流地域からも川を利用して、それぞれの産物が城下の船着場である船場へと集まってきた。さらに特産の藍、塩、タバコを他藩へ送り、他国の商品を買い入れる国内交易の一大拠点ともなっていくのである。 ことに西船場では藍商人の出入りが激しく一段と活況を呈した。
  一世を風びした阿波藍もやがてドイツの化学染料(人造藍)の輸入とともに衰微していくのだが、新町川の両側に並ぶ藍倉の美しい風景は、長い間、船場商人の象徴でもあり、今も懐かしく思い出す人が多いに違いない。
  誰びとも橋ゆく人は見たまいぬ 流れにうつる藍倉の白・・・・・ これは、徳島文理大学理事長をつとめられた故村崎凡人氏が昭和9年につくられた歌である。 昭和6年に徳島を訪れた女流歌人の与謝野晶子も徳島の藍場の浜の並倉と新町橋に秋風ぞ吹く・・・・・ と美しい徳島の風景を歌っている。 この藍倉も徳島大空襲で一夜のうちに灰燼となった。
  私は今、事務所と居宅を出生地に間借りしているが、戦前のことを知っている人の少なくなっているのに驚かされる。たまに昔のことを知っている人がいて、「あんたのお父さんと朝から晩まで一杯飲みながら、よう世間話をしたもんや。」などと声をかけてくださる。そんなときは本当にうれしいものだ。
  船から車の時代となり、問屋業を営む船場の方々は、大半が繊維団地に店を移したが、今もたくましくこの地で商売を続けている方々の健闘に心から期待したい。最近は新町川の水際公園が整備され、若者に人気がある新しい商店街も生まれつつある。常に時代を先取りし、したたかに生き抜いてきた船場の人達である。創意と工夫で新たな商いの道を開拓されることを強く信じている。

 

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随筆22 「大歩危小歩危への旅」

 ドライブイン「まんなか」から遊覧船が出ている。右に左に見事な舵さばきを見せながら船頭さんが、「大歩危小歩危」の見どころを語ってくれる。なかなかの名調子。私は東京や大阪からのお客さんには、きまってこの遊覧船を案内することにしている。 春はつつじの薄紫、夏はみずみずしい緑、そして秋は赤や黄の紅葉が燃え立つばかりに美しい。満山をおおう天然の色彩が岩と水に調和して日本を代表する渓谷の美をかもし出す。そんな大歩危小歩危の船下りは、いつ訪れても心踊るものがある。
  私は中学校の遠足で「大歩危小歩危」を訪れて以来、その美しさに魅了されてしまった。「大歩危小歩危」の名前の由来は「大きな歩幅で歩いても小さな歩幅で歩いても危ない」ほど谷が深く道が狭いということにあると聞く。 その昔、ここを旅する人達は、現在の国道32号線より、はるかに高い山の尾根道を歩いたそうだ。現在もその街道は山中にひっそりと残っているが、参勤交代する土佐の殿様も、ここでは馬や篭を下りて、自ら歩かれたという。かの坂本竜馬が土佐藩を脱藩して京大阪に出たときも、おそらくこの街道を抜けていったことであろう。街道から眺める大歩危小歩危の渓谷は、それこそ、千尋の谷底に思えたに違いない。
  そんな「大歩危小歩危」を思うとき、私がいつも連想するのは「親不知子不知」の海岸である。新潟県糸魚川市にあるこの海岸を私は数回訪れたことがある。日本海に重い雲が足れ込んだ冬の季節であった。この時期の日本海は強い季節風の影響を受け、絶えず荒れている。荒涼たる海にこれまた、海岸線を削り取るようにしてそそり立つ断崖絶壁。白く波立つ海にカモメが乱れ飛ぶ。心寒々とした思いのする風景だった。 そんな海岸線を一本の街道が通っている。それが、「親不知子不知」と呼ばれる細道である。「親不知子不知」という名前の由来は、「親が子を、子が親を心配するひまもないほど危険な海岸沿いの街道」というほどの意味でもあろうか。
  「大歩危小歩危」といい「親不知子不知」といい、越さねばならぬ旅路の街道であったという点では共通している。しかしながら、これは南海道と北陸道の差でもあろうか。「大歩危小歩危」には暗さというものがない。
  空も水も山も空気もとりまく全てのものが、あふれんばかりの光を浴びて、底抜けに明るいのである。この明るさが私を魅了させるのかも知れない。 大歩危の船下りと、祖谷のかずら橋をセットした観光ルートが都会の人々の人気を集めている。
  四国三架橋時代になっていよいよ観光客は増加していると聞く。人気の秘密は、単に人里離れたひなびた風景にあるのではなく、底抜けに大らかで明るい天然自然の美と、素朴で暖かい土地の人の人情味にあるのではないかと私は思う。 商業主義にほんろうされる観光開発でなく土地のぬくもりを失わない観光資源の再開発を、関係者にお願いしたい。「また、来たい」観光客にそう言わせることができるかどうか、それを徳島の魅力を語るキーワードとしたい。

 

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随筆23 「鴨島菊人形と江川遊園地」

 秋の花は菊である。 ところで、「菊作りは土作り」といわれるように菊を愛し、菊を作ろうという方々は、まず、土作りに、細やかで粘り強い情熱を傾けてこられた。はじめに山へ入ってクヌギの落ち葉をかき集める。カサカサに乾いた落ち葉を2年間、庭に貯えておき、こなごなにくだいて腐葉土や砂を加え、適度に混ぜ合わせる。その土をさらに、ふるいにかけてきめの細かな土を作るという具合だ。この土にさらにたい肥や油カスなどを加え、育てようとする菊に見合う“土”を作るのである。 私には菊作りの経験がないので、聞きかじりなのだが、ともあれ“土作り”には長年の努力と情熱が込められていることは確かだ。
  鴨島町は戦前から菊人形の町として全国にその名が知られていた。最盛期には30万人の観光客を数えたという。私達の子供の頃は戦前ほどではないにしても結構、にぎやかであった。 今はJRとなった国鉄・鴨島駅を降りると、町全体に優雅な菊の香りが漂っていた。菊人形の会場には紅白の幕が張られ、忠臣蔵や傾城阿波の鳴門などの名場面が菊で形どった人形で表現されていた。人形ばかりでなく菊の品評会なども行われていたようである。入賞した作品には金や銀の短ざくがつけられていたが、色の鮮やかさといい、花の大きな枝ぶりの見事さといい”やはりいいものはいいな”と子供心に感嘆するばかりだったことを憶えている。
  菊人形が終わると江川の遊園地で遊んだ。吉野川の伏流水が湧き出すこの江川の水は清澄そのもので、夏は冷たく冬は湯気の立つほどに暖かかった。 最近は、親水公園として整備されたものの伏流水が減ってしまったのか、江川の流れもどんよりと濁ってしまい往時の面影すらない。ここの鯉は、数の多さと、その色の鮮やかさが印象に残っている。
  太鼓橋からえさの「ふ」を投げると、群がって食べにきた。ボートに乗って「ふ」を投げると、水しぶきがかかるほど勢いよく鯉が集まってきたものだ。今は水位の低下とともに鯉の姿もめっきり減ってしまった。 菊人形の方も、その後、会場の変遷があり、昔ほど盛んではない。しかし、大正時代からの伝統は今も受け継がれ、町には菊を愛する人達が多い。秋ともなると、こうした人達が丹精込めて作った菊が、町のあちこちに展示され、町全体に菊の香りがあふれる。ささやかながらJR・鴨島駅の西の方に展示場もできる。
  菊作り 菊見るときは 陰の人 あまりにも有名な吉川英治先生の句である。 最近は新宿御苑や徳島城公園で菊の展覧会を鑑賞させていただくことが多いが、菊を見るたびに鴨島とこの句を思い出す。

 

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 随筆24 「少年のころの楽園蔵本」

 蔵本は2歳から16歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争の徳島大空襲で西船場の家を焼かれた私達は、蔵本元町2丁目五番地に移住したのであった。 今もはっきりおぼえているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭の玉砂利をサクサクと踏んで帰ってきた。この日を母をはじめ家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時3歳だった私だが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。 その次に覚えているのは、マラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにふとんの上に私が重しとして乗っかかっている光景である。東南アジアのジャングルを生命からがら逃げ帰ってきた父の唯一の土産がこのマラリアだった。“寒い寒い”という父に子供の私ができるのは、これぐらいしかなかった。
  少年の日の記憶は、そのあとは一挙にワンパク仲間と遊び回っていた思い出に飛ぶ。蔵本元町の商店街は佐古の三つ合い(今の八丁目)から島田石橋まで、切れ目なく商店が続いていた。今も一丁目から三丁目までの店は、ほとんどが昔のままで、懐かしい方々ばかりであるが、私達の遊び場はこの往環ではなく、路地裏や、蔵本の町を取り巻くように流れる田宮川と、その周辺であった。 当時の田宮川は大きな柳の枝が岸辺を覆い、澄んだ水が勢いよく流れていた。鯉や鮒やなまずなどがよく釣れ、いつも何十人という太公望がツリ糸を垂れていた。時おり、荷を積んだ船やイカダが往来すると、私達は歓声をあげながら岸辺を走りまわったものである。  蔵本には田宮川に沿って3つの港があった。港というより、荷揚げ場のようなものであるが、私達は「浜」と読んでいた。南から「油浜」「大浜」「テコアンの浜」である。 これらの浜は、明治の初期から昭和10年ごろまで大活躍し、九州の石炭、淡路のミガキ砂、鳴門の芋、勝浦の木材などがこの浜から荷揚げされ、蔵本近郊の工場などに運ばれたようである。しかし、私達の時代になると川を使う運送方法は次第にさびれていき、浜は私達にとって格好の遊び場となっていた。 浜では、カンケリ、メンコ、ケンケンパーなど、なんでもできた。夏休みなど、川で魚すくいをしたあと、水遊び、そして浜でチャンバラごっこ、朝から晩までこの浜で遊んだものだった。家の中でゴロゴロしていようものなら、「浜へ行って遊んできい」というのが蔵本の親達の決まり文句でもあったようだ。
  最近、蔵本の町をすみからすみまで歩いてびっくりしたのは、懐かしい浜が跡形もなくつぶされ、住宅地に変わってしまっていたことである。とともに家庭や工場の排水で川の水は濁り、魚達の影もない。改修工事によってコンクリートで固められた川は、すでに排水路と化してしまったかのようである。 時代の進展とはいえ、少年時代の思い出をかくも無残に削り取られてしまうと、自分の身体の一部を削り取られたような情けない気持ちになる。今はもう浜の呼び名を知る人も少ない。
  やはり“ふるさとは遠きにありて思うもの”なのだろうか。 いや、そうではない。実際、田宮川の下流の新町川は見事に復元しつつあるではないか。次は田宮川だ。断じてそうだ。もう一回コンクリートをはぎとって柳の木の土手を作ってみたい。流れる水もきれいにしたい。吉野川や鮎喰川から清水を引く方法だってあるはずだ。私は人知れず願っている。私の子供のころのように今の子供達にも岸辺でもう一度、魚釣りをする喜びを味わってもらいたい、と。

 

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 随筆25 「吉野川橋と水上飛行機」

 私は昭和51年3月、15年ぶりに、ふるさと徳島へ帰った。その時の第一印象は、どこへ行っても、恐ろしいほど昔のままの姿が残っていることだった。まず高徳線のディーゼル車と線路そして国鉄の駅々が、昔のまんまの姿だった。頂上のあたりが少々にぎやかになっているとはいえ、眉山も城山も昔のまんまだった。ことに蔵本元町の商店街や庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のまんまだった。
 そんななかで一つだけ違っていたのは、吉野川橋の下流に吉野川大橋が完成していたことである。その後、立派なバイパスがこの橋と直結し、鳴門・徳島・小松島を結ぶ主要幹線はこちらの方に移っていったが、私の思い出に残るのはやはり古い吉野川橋である。
 まだ名田橋はなく“名田の渡し”だったころの話である。吉野川橋は、徳島市では吉野川にかかる唯一の橋だった。昭和3年12月に完成したこの橋は、増田淳の設計による曲弦ワーレントラス橋で、当時の技術の粋を集めて作られた。全長1071メートル。完成時は東洋一の長大橋であり、県民にとっては大きな誇りでもあった。  17個の橋けたからなる美しいアーチ橋は今も健在で、旧国道11号を結び、通勤通学時には車や自転車が列をなす。
 高校生のころだったろうか。一時、この橋のたもとに関西と結ぶ水上飛行機が発着していたことがあった。飛行機は風の向きに合わせて、ときには吉野川橋をくぐり抜けて着水することもあった。それはアクロバット飛行ともいってよいほど見事な操縦ぶりで、私などもよく見に行ったものである。
 乗客の定員は八人ほどの小型機であったが、飛行機が発着できるほど、吉野川は広く大きく、しかも水量が常に豊かで、水面も静かであったということだろう。今もその風景は変わらないのだが、飛行機の発着場はすでになくなり、そのあたりではたまに魚をつっている人や、ヨットやウインドーサーフィンを楽しむ若者を見かけるばかりである。
 ところで吉野川橋を設計した増田淳は明治16年9月25日香川県に生まれ、明治40年東京帝国大学土木工学科を卒業。翌年、橋梁研究のため渡米。帰国後は日本各地で橋の設計、施行に携わり、東京は隅田川の千住大橋をはじめ六十を越える橋をつくっている。徳島県でも大松川橋、勝浦川橋、三好橋、穴吹橋、吉野川橋、那賀川橋が彼の作品。電子計算機のない時代によくぞこれだけの橋をしかも形式の違う橋を設計したものと感心するばかりだ。 ちょっと見逃しがちなのだが、吉野川橋の北詰に豊川仲太郎の石碑が建っている。豊川仲太郎は板野郡沖島村(現在の徳島市川内町沖島)の人で、吉野川橋がかかる前に、この場所に個人で木造の賃取橋を架けていた。この賃取橋を古川橋と呼んだことから今も愛情を込めて土地の人は吉野川橋のことを古川橋という。豊川翁の子孫は今も健在で、私も親しいおつき合いをさせていただいている。

 

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 随筆26 「シャクナゲとミカンそして佐那河内米」

 朝起きると、眼下に雲海が広がっていた。夜来の雨もやみ、山々を包んでいた霧が晴れていくと、そこには淡いピンク色をした花々が、におうように咲き誇っていた。シャクナゲの花であった。
 もう四十数年も昔のことになってしまったが、初めて佐那河内村で一泊した日の、印象深い光景を、私は今もはっきり憶えている。たしか中学校の生徒会役員で一泊二日の研修会を行ったときのことである。担任の森宮九十男先生が佐那河内村出身であることから、何かの縁をたよって研修会を行ったもののようである。
 私達の多くが生まれて初めて訪問する佐那河内村であった。村内に足を踏み入れたとたん、私達は歓声をあげた。山々の緑の濃さと、深山から流れ下る水の美しさは、まさに別天地を思わせるものであった。
 さらにその晩、いただいた御飯のおいしかったことといったらなかった。一つ一つの米粒がシャキッとつっ立って見事な光沢まで放っている。食べ盛りの私達は、もう無我夢中で食べたものだった。私は米作りの専門家ではないが、農家の人々の話によると「うまい米は谷の水で作られる米」だそうだ。板野郡などでも土の肥えた下板より、土のやせた上板の山間地で穫れる米がうまいという。
 佐那河内村を歩くと、今でも“耕して天に至る”といわれるほど、よく手入れされた田んぼが、高地まで続いている。耕運機も入らないような、ネコの額のような土地にも水が張られ、稲が植えられる。こんな土地で米を作るのは平地の人から見ればたしかに重労働であるはずだ。農家の人々の貴重な汗の結晶が、おいしい佐那河内米の一粒一粒となっていることを、私達はけっして忘れてはなるまい。
 最近は、徳島市から佐那河内村、そして神山町から剣山、そして高知県へと抜ける県道が国道に昇格され、徳島市から車で30分足らずという佐那河内村は、都市型近郊農村として熱い注目を集めている。
 一時、ミカンの里として知られた佐那河内村だがミカンやスダチが、すでに生産過剰気味になった現在、これに代わる目玉商品を何にすべきか、議論の分かれるところである。農家では春になると、野や山を豊かに色どる山菜類をはじめ、電照菊などの花卉や、水ブキの栽培など多角的な経営を試みているところが多い。
 私は考えるのだが、都市に住む人々にとって“ふるさとの味”は忘れられないものだ。佐那河内村という地の利を最大限に生かして、町の人々に新鮮な“ふるさとの味”を提供するーこれこそ、都市型近郊農村としての活路を開く視点ではないだろうか。
 佐那河内村をくまなく回って感じることは、どんな山道やあぜ道にも、春になるとフキノトウが芽を出し、山ブキが競い合うように群生している。土地の人々は見向きもしないが、町に住む私達にとっては、もう得難くなった“ふるさとの味”である。フキノトウや山ブキにも立派な商品価値があると私は思うのだが、いかがなものであろうか。

 

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 随筆27 「塩田跡に美しい学園都市」

 鳴門といえば渦潮と塩田を思い出す。渦潮は昔のままだが、塩田はすっかり姿をかくしてしまった。今の小鳴門橋のたもとには見事な入浜式の塩田が広がっていた。小鳴門橋を渡った高島あたりも見渡す限り塩田だった。
 塩田の作業というのは途方もない重労働であった。重い海水を海から汲んできては、砂浜に撒き散らし、何度も何度もこれを繰り返して濃い塩水を含んだ砂をつくる。それを大きなカマで煮詰めて塩を作るというものである。
 塩は人々の汗と涙の結晶であった。従って、一握りの塩も粗末にしてはならないと教えられてきたものである。
 何人の人々が炎天の下で汗をしたたらせてきただろうか。そんな塩田跡が、今では、見事な市街地に変身している。整備された道路が縦横に走り、商店や住宅が建ち並ぶありさまは新しい鳴門の姿を象徴しているかのようである。
 ことに高島は、見違えるばかりの変身ぶりだ。一昔前までは、人影もまばらな湿地で、塩田ばかりが広がっていた寂しいところだったが、塩田跡に鳴門教育大学が開校して以来、一躍人々の注目を集めたのである。
 教育大学はすでに開校17年を迎え、整備が一段と進んでいる。青い空と緑の山々を背景にした広大なキャンパスに、全国から集まった若い力があふれている。大学を中心に、付近の土地も次々に開拓され、活気づいてきた。塩田跡は美しい学園都市に生まれ変わったのである。  こんな話を思い出す。
 九州は阿蘇での話である。ここにはとてつもなく広い大平原がある。草千里などとよばれる牧草地でゆうゆうと放牧されている牛の姿はよく知られているところである。
 ここに大学を作ろうという話が持ち上がった。大学には広いキャンパスが必要だ。過密化の進む都会で大学の用地を確保することはなかなか難しい。土地を安く提供するということで大学側も喜んだ。町はそんな大学に一つだけ条件をつけた。寄宿舎を作らないで。学生は全員、付近の農家に下宿させること。そして下宿代はできるだけ安くするから、農繁期は大学を休みにして学生に農作業を手伝わせることというのである。
 この提案に農家の人達も喜んだ。過疎化の進む農村では若い働き手が都会に出てしまって農作業にも支障をきたしている。学生が下宿してくれることは心強いし、農繁期には、学生達が我が子のように耕運機を運転してくれる。学生や学生達の父兄も喜んだ。遠い都会に子供達を送り出せば、何かと心配だ。第一、下宿代からはじまって生活費の仕送りだけでも大変だ。それが、農家に下宿し、農作業も手伝うということになれば下宿代も安くてすむし、何よりも健康的でいい。
 こんなわけで誕生したのが東海大学阿蘇分校である。町としても、若い人達が集まることで活況を呈し、牛と馬しかいなかった大平原に粋なコーヒー店やブティックができたという。ここでも学園都市が誕生したのである。今はどうなっていることだろう。発展していることを心から祈りたい。
 大学を一つ誘置することによって、町は大きく変わる。大学を公害のない第四次産業という人もいるほどだ。波及効果の大きさは第一次産業をはるかにしのぐものがある。徳島発展の一つのポイントとして大学を中心にした町づくりをを考えてはいかがなものであろうか。

 

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 随筆28 「四国東門も今は昔

 その昔、淡路島は“阿波路島”と書き、京阪神から、阿波の国、つまり徳島県へ行く道しるべだったという。明石海峡大橋の開通で便数が減ったとはいえ、今も淡路島沿いの海路では、1日に何回もフェリーや高速船などが関西と徳島を直結している。
 関西と徳島のつながりは古くかつ太い。そして古くから、関西と結ぶ徳島県の海の玄関として県民に親しまれてきたのが小松島港であった。
 私がこの港から初めて大阪に出たのは、小学校1年生の時であった。当時は阿摂航路といい、あきつ丸などが就航していたが、子供心にもその船の大きさには圧倒される思いがしたものである。
 船は昼夜の2便だった。それを私達は昼航海、夜航海などと呼んだが、夜航海では午後十時ごろ小松島を出航し、翌朝の5時ごろ、神戸についたように思う。神戸につくと、船内は急にあわただしくなる。神戸の港から、「ちくわ」や「するめ」を背負ったおばさんが「いらんかえ、買わんかえ」と船内にまで入ってくる。制服に身を固めたいかついおじさん達がドヤドヤと入り込んでくる時もあった。ヤミ米の摘発にである。大阪から徳島へ買い出しに来ていたのであろうか。大きな荷物をもったおばさんから「ぼん、もっとってよ」と小さな袋を預かったことがある。  米が二升ほども入っていたのだろうか。おばさんのあまりにも真剣な顔つきに圧倒され、私は身の縮む思いで、その袋を抱えていた。体中に冷や汗がじわっと吹き出た。幸い、子供の私には目もくれないでおじさん達は通り過ぎ、私は袋をおばさんに無事返すことができた。何度も子供の私にお礼をいうおばさんを前に私は思った。食べるためとはいえ、こんな危険をおかしてまで商いをしなければならぬおばさん達も不幸だ。しかし、食べるものさえない社会。これほど暗く不幸なことはない。戦争をにくむとともに一日も早く経済を建て直し自由にみんながのびのびと生活できる社会を作らなければ・・・。子供心にもそんな決意をしたことを私は今もはっきり憶えている。
 さて、現在の小松島港は関西への便を徳島港に譲ってしまったため、ひっそりと静まりかえっている。しかし名物の「ちくわ」は今も健在で、竹の棒が入った正真正銘の「竹輪」は小松島を代表するおみやげ品として各地で販売されている。
 小松島市民の悩みは、かつては四国の東門として栄えたものの今はこれといった地場産業もなく、経済活動も緩慢で、立派なバイパスが開通したものの単に人々の通過点にすぎない存在へと市勢が地盤沈下していることであろう。もう一度、にぎわいを取り戻すのはどうすればよいか。柔軟な発想が待たれる。

 

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 随筆29 「関西で活躍する徳島県人

 中国と日本が一衣帯水の国であるように、関西と徳島は、まさに一衣帯水。経済的な交流はいうに及ばず、人的交流の面においても親子か親せきの関係にある。
 私は徳島県下をすみからすみまでくまなく歩いたが、どこの家庭を訪ねても関西に親せき、友人、知人がいる。とともにそうしたパイプを通して、関西での動向は、驚くべき速さで徳島県に入っている。地理的には海を隔てているものの、すでに情報の世界ではリアルタイムで関西圏となっている。
 東京の人とは背広でのお付き合いになるが、関西の人とならワイシャツのまま、ことによったら作業着でお付き合いできる。そんな気安さがある。私も関西の持つこういった庶民的な味わいが子供のころから好きだった。
 大阪には福島区に母の兄、住吉区に父の母が住んでいた。だから中学生になると、休みにはよく一人で出かけたものである。天保山の桟橋を渡るとそこには浪花の街である。岩おこしの山が店頭に並んでいる。「どうでっか。安いでっせ。買っとくなはれ」「おおきに。毎度」人なつこい関西弁が心をなごませてくれる。
 梅田駅前に向かい合って建っていた阪神と阪急百貨店、大阪城と日生球場、難波と千日前の角座そして通天閣。みんな懐かしい。一つ一つに子供のころからの思い出が刻まれている。そういえば住吉大社の太鼓橋で日の暮れるのも忘れるほど遊びに熱中してしまい、今は亡き祖母からこっぴどくしかられたこともあった。
 10年ほど前、母の兄である山野宅を訪ねる機会があった。子供のころ、何度も通った家なのに、付近の家並みがすっかり変わってしまってとうとう道に迷ってしまった経験がある。わずかに、福島小学校の隣だったことを思い出して、どうにかたどりつけのだが、子供のころと同じように「かずよっちゃん。よう来たなあ。はようあがりいなあ」とおばにニコニコ出迎えてもらったときは、さすがにほっとした。その夜は長男の厳君夫妻も駆けつけてくれ、久しぶりに大阪での思い出話に花を咲かせたのであった。
 現在、関西にある徳島県人会のメンバーは家族まで含めると100万人を超えるという。会長は県工の先輩である朝日多光さん。
 東洋紙業株式会社の名誉会長さんだが、90歳を越えてもますますお元気で徳島県人会の発展に尽力されている。 私は大阪で行う県人会の新年互例会には、よほどのことがない限り、毎年出席させていただいている。朝日多光さんの元気な姿におめにかかれることが楽しみだからである。 「あんたは学校の後輩じゃけん。格別うれしいですわ」といつもニコニコ語りかけて下さる。一昨年、「学校の創立百周年には必ず来てください」というと「わかった。いつや」と問われたので「七年先です」と答えたら「必ず行く。百歳までは約束できる」と呵々大笑された。

 

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 随筆30 「大坂峠と瀬戸内海 」

 阿波から讃岐への道は海沿いに走る国道11号を除くと、全てが阿讃山脈を越えていく山あいの道である。なかでもJR・高徳線の走る大坂峠の道は徳島市生まれの私には一番なじみ深い。
 初めてこの峠を越えたのは、小学生のころであろうか。遠足で高松の栗林公園に行ったときである。トンネルを何度かくぐり抜けた瞬間、鏡のように静かな青い海がそこにあった。瀬戸内海である。遠くに島々がかすんで見えた。近くに緑の松林。私は掛け軸やふすまによく描かれている絵を思い出していた。これこそまさしく日本の風景だと思った。
 歩いてこの峠を越えたのは高校生のときだった。セミしぐれのなかを汗をふきふき歩いた。山越しに見た瀬戸内海は、キラキラ輝いていた。
 最近は、自動車で越える。高松へは、ほとんどが鳴門回りの国道11号線だが、たまにこの峠を走ってみたくなるのだ。ことに新緑の季節はいい。若芽が全山をおおっている。それは、峠の道に見えかくれする農家の庭にまで広がっていて、若々しい生命の躍動を感じさせる。時おり、ウグイスの鳴き声なども聞こえて、この道には、今も自然がそのままの形でのこされている。
 曲がりくねった道を登りつめると、一度に視野が開ける。ここが大坂峠である。このへんには、どういうわけか高い木も少なく、なだらかな山々が手に取るように見渡せる。再び、曲がりくねった道を下ると、今度は瀬戸内海が視野一杯に飛び込んでくる。
 讃岐男に阿波女という言葉がある。たしかに阿波の女性は働き者である。朝から晩まで働きづくめでも、何一つぐちをいわない。そんなところから、讃岐では「嫁をもらうなら阿波の女性を」ということになったらしい。
 事実、この組み合わせは多く、ほとんどがうまくいっているようである。そんな花嫁さんもその多くがこの大坂峠を越えていったのであろう。昔は、ちょうちんに長持ち、そして花嫁は馬の背に揺られて、この峠を越えたことだろう。
 現在、大坂峠のある大麻山の頂上には、眉山と同様、灯が点されている。徳島県からも香川県からもよく見える。徳島から香川にお嫁に行った「阿波女」達は、あの灯の向こうにはふるさとがあるんだと思いを寄せていることだろう。あるいは「そんな感傷にひたる間なんてとても、」と讃岐でも働き者で通していらっしゃることだろうか。
 ところで「四国は一つ」とか「青い国・四国」などといわれて四国総体のイメージづくりが行われてきたにもかかわらず、いまだに四国は四国であり、いやまして四県がバラバラになり勝ちなのが実情のようである。
 確かに四県とも海の方に顔を向け、背中合わせにくっついているのが四国の地理的な姿である。関東の東京、関西の大阪、中京の名古屋、といった具合に、中心部に人口が集中した中核都市を持たないし、持てない地形だけに、四国の総合的な開発はなかなかに難しかろう。
 しかしものは考えようである。長所が短所となり、短所が長所となる発想もある。四県が独自性を発揮しながら、四国総体としての補完関係を結んでいくことはできるはずだ。大麻山の灯を見ながら、そんな四国の青写真を描いてみた。

 

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 随筆31 「渭東は仏壇と鏡台の町

 渭東は仏壇と鏡台の町。徳島市の地場産業といえば、まず木工業である。ことに福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地区」は木工業者が軒を並べていて、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転したが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。
 この渭東木工の発祥をたずねてみるとなかなかに面白い。話は380年も昔にさかのぼるのだが、そのころ今の安宅町に阿波水軍の元締めである安宅役所が置かれた。この役所の作業場で軍船の造船や修理などが行われていたという。
 仕事場では火の用心のため、月に3回ほど木くずの整理をして、それを従業員の船大工達に払い下げた。このとき船大工たちが木くずのなかに木切れを入れて持ち帰ることを「目こぼし」といって、わざと見逃してくれたらしい。
 これを材料としてチリトリ・炭トリ・モロブタ・マナイタなどいわゆる「安宅(あたけ)物」と呼ばれた日用道具を作って売った。今でいうアルバイトであるが、徳島市史第一巻(徳島市史編さん室編)によるとこれが渭東木工の起源とされている。
 明治になると、木工業の技術は一段と向上し、「阿波鏡台」は大阪の問屋街でも高い評価を受けるまでになった。以後、大正、昭和を通じて、鏡台のほかタンスや建具、下駄の生産が渭東地区を中心に発展。太平洋戦争中には軍部の命令で軍需品の下請け工場となり、弾薬箱や航空機部品の製造にあたらされたこともあったが、戦後は、木地・杢(もく)張・塗装・仕上げ加工という分業を進め、機械の導入や資金繰りの合理化を図り、ことに仏壇の製造では、全国でも有数の生産地となっている。
 とはいうものの、家内労働力だけが頼りといった零細企業の多い木工業界は、景気の影響をモロに受ける。最近の長期にわたる景気不振にはどの事業所でも頭をかかえており、「木工はもはや斜陽産業。とわかっていても今さら商売がえもできないし、泣くに泣けん状態ですわ」という声が町にあふれている。
 昭和57年3月、この町に木工会館が完成した。ここでは@情報収集及び提供活動A塗装に重点を置いた試験、研究及び技術指導の二点に的を絞って、木工業界の要請に応えている。  私達もよく集会の会場として使用させていただいているが、展示されている見本の商品が時代とともに年々変わっていくことに気づく。
 木工業を取り巻く環境は依然としてまことに厳しいが、時代に即応する情報の収集と、時代を先取りしゆく創造力。それに、経営の体力が加われば、木工業界の前途も明るいものとなるに違いない。徳島の伝統的な地場産業の振興を祈らずにはいられない。

 

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 随筆32 「木材団地になった津田海岸

 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々とした入浜式塩田で、働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが、今も印象に残っている。
 津田の大橋を越えると、津田山の絶壁が屏風のようにそそり立っていた。今ではちょっとした小山の感さえするが、当時は、はるかに高い断崖のように思われたものである。
 古い津田の町を縫うようにしてバスは松原に向かう。潮騒が聞こえてくると心は躍った。海はどこまでも青く澄み切っていた。波も静かである。広い砂浜で貝ひろいに興じたこともあった。めざすは「まて貝」である。砂にポツンと穴があいている。その穴に塩を放り込んでしばらく待っていると、貝がピューッと飛び出してくる。それを手でつかむのである。子供の私達にもなんなくとれるので、つい夢中になって時の経つのも忘れてしまうのだった。
 海が埋め立てられて、海岸がなくなってしまった今は、子供達にそんな遊びのあったことも教えられない。木材団地となった今は、あちこちに作られた貯木場に大きな原木が浮かんでいる。ほとんどが外国から運んできた洋材である。その木を製材する工場が建ち並び、区画整備された広い道路には原木や製品を運搬する大型トラックがうなりをあげて走っている。
 昔から徳島県は優れた木材の産地であった。しかも都合のよいことに吉野川や那賀川、勝浦川など多くの河川がゆったりと流れる水の都でもあった。山奥の木材を伐採するとイカダに組んで川を流した。馬車や荷車の時代は河川が重要な木材の運搬路であったわけだ。水の流れがゆるやかになる岸べには製材工場が建ち、徳島の木工産業を育ててきた。
 ところで時代の進展とともに川には、治山治水とかんがい用水確保のためダムが建設された。やがてイカダは姿を消し、それにとって変わったのが陸上輸送のトラックである。さらに木材自身も県下で伐採される杉や桧にとって変わって、安い外材がどんどん輸入されることになった。こうした時代の進展に伴い、市内の河川沿いに点在していた製材工場が海岸に集められ、津田の木材団地の誕生となったのである。
 その着想は当時としてはなかなか良かったに違いない。製材工場の転出に伴い市内地はびっくりするほど静かになった。新町川や福島川なども貯木場がなくなった関係から浄化が一段と進むことにもなった。美しい津田の海岸がなくなった反面、こうした利点もあったのだ。それ故に多くの市民も木材団地の誕生を歓迎したと聞く。
 気になることは、現在の木材団地が長期にわたる不況に見舞われ続けていることだ。経済の再生を急がねばならない。活力と安心の日本、そして徳島にしたい。政治家の責任はいよいよ重い。

 

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 随筆33 「時代を写す徳島の顔、徳島駅 」

 JR・徳島駅に降り立つと、眉山の緑をバックに、ワシントンヤシがそそり立っている。いかにも南国情緒豊かなこの風景が私は好きだ。
 今も昔も徳島駅は徳島の顔である。ワシントンヤシは子供の頃からちっとも変わっていないが、その他は全てといってよいほど変わった。その時代を生きる徳島の姿をそのまま表現するのが顔だからそれは当然かも知れない。
 駅前にあった内町小学校は、かつての西の丸運動場跡地に移転、今は県下唯一の都市型百貨店が数多くの専門店とともに再開発ビルのなかで営業している。JRの徳島駅も県下一の高層ホテルや専門店が入居する総合ビルに生まれ変わっている。
 国鉄時代にはとても考えられなかったことだが、JRとなって以来、四国でも駅舎が次々に新築され、サービスも素晴らしくよくなった。私は国鉄を民営化するとき、衆議院の国鉄改革特別委員として、熱心に議論し、当時の野党のなかでは唯一公明党が賛成して法案を成立させたことを思い出す。あの時の判断が誤りではなかったことに強い誇りを感じている。
 今、徳島駅は1日中人々であふれかえっている。若い人達も多い。徳島から高松や岡山へ直行する特急便も増え、列車の旅もまことに快適となった。将来は、東京へ直行するブルートレインを徳島から出発させるのが私の夢だ。これは国鉄改革特別委員会で私が提案したものだが、JR四国の社内でも真剣に検討されていると聞き、実現する日を楽しみにしている。
 徳島駅前の商店街もにぎわいを見せている。最近、駅舎に棟続きの分譲マンションが完成したが、入居希望者が殺到して完成前から完売だったという。1階は商店、2階以上は住居というアイデアが当たったのだろう。
 新町川の周辺でも分譲マンションは人気を呼んでいる。都心居住は国の政策でもあり、建築基準の規制緩和や融資制度なども展開されている。
 が、それよりも何よりも、生まれ育った土地で生活したい、老後を送りたいと希望するのは人間の自然な思いでもある。都心の土地があまりにも高騰化したため、やむなく郊外に出ていった人々が、子供達も大きくなった今、夫婦だけで便利な都心に住みたいと帰ってくる。そんな気配を感じるのは私だけだろうか。
 東新町の商店街は最近何十年ぶりかでアーケードを全面新装した。明るい日光の差し込む通りには、外国の商品を専門にしたお店が軒を並べている。
 西新町でも再開発が議論されているが、1階は商店街、2階以上は住宅にしたらとの意見もあるようだ。都心居住の先取りとして面白いアイデアかもしれない。

 

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 随筆34 「南海に浮かぶ伊島の心暖かき人々

 徳島県の東端・蒲生田岬のその先にポツンと浮かんでいるのがササユリで知られる伊島である。戸数は約百戸。ほとんどが漁師である。太平洋の黒潮を真っ正面から受けるこの島では、港の近辺に家々が集まり、土地にへばりつくように軒を寄せ合っている。
 私がこの島を初めて訪問したのは、昭和55年6月、衆議院の選挙に初出馬した折りのことである。解散の日に出馬を決意するというあわただしい選挙戦であった。投票日まで40日しかない。名もない一介の青年がいきなり衆議院の選挙に出たのだから、世間の常識からはとても考えられないことだったに違いない。テレビのビデオ撮りから、遊説、街頭演説、立会演説と、生まれて初めて経験することばかりであった。
 そんななかで一つだけ頼りになることがあった。体力である。37歳の私には、これだけが選挙戦を戦い抜く唯一の取り得だった。厳しい選挙戦だけに遊説のスケジュールは過酷を極めた。20日間の選挙期間中、自宅で休めるのはせいぜい2、3日。あとは全部、山深い上勝町や、木屋平村、東祖谷山村、由岐町伊座利、宍喰町などでの宿泊である。それも平均4、5時間、ひどいときには2時間の睡眠時間しか許されなかった。
 伊島に行った日のスケジュールは、朝5時阿南市のホテルを出発、中林の漁港から支持者の方が用意してくださった高速船で伊島へ渡り、7時から7時30分まで島内を遊説、その後、船で椿泊へ。阿南市を回ったあと丹生谷へ。木頭村の北川で折り返し、個人演説会が3会場と立会演説会一会場に出席し、川口から赤松を経て日和佐町、由岐町伊座利に至るという走行距離にして約400キロメートルのコースだったと記憶している。
 青い海の向こうに浮かぶ伊島は、戸数が少ないせいもあってか、全県一区という広い選挙区を回らなければならない衆議院選挙になると、ともすれば遊説コースから外されがちである。  事実、選挙期間中に衆議院の候補者が島を訪問したことは一度もないという話も聞いた。それだけに“ぜひ行きたい”と私は無理矢理頼み込んだものだった。その希望が実現して目の前に伊島の岸壁が見えてきたとき、それだけで私の心はときめいた。
 岸壁にはすでに支持者の方々が待ち構えていてくださった。その方々の案内で島内をくまなく歩く。標識とハンドマイクのあとに候補者のタスキがけの姿。桃太郎さながらの風景に島の人達は大きな声援の拍手を送ってくださった。
 お年寄りの方々が家から飛び出して来てくださり、私のタスキをさすりながら“本当に候補者本人ですか”と何度も何度も念を押されることもあった。選挙期間中はいつもポスターだけで、候補者本人を見たことがないという人々の節くれだった手を堅く握りしめながら、私は心から決意した。“政治の光はどこの地域、どこの人々にもまんべんなく行き届かなければならない。力の強い方、数の多い方へ押し流されている今の政治は根本的に間違っている。政治という巨大な権力を民衆の側に取り戻すのが、公明党の使命であり、私自身の責務である”―そのために、この一生をささげるのは男児の本懐であるという熱い決意をである。
 伊島には、その後も5度ばかりおじゃまさせていただいた。  衆議院議員に二期目の当選をした翌年の昭和62年12月24日、私は伊島で移動市民相談を行い、島の人達と夜を徹して語り合ったことがある。
 このとき中学校の新築、保育所の整備、診療所への医師派遣などの陳情を受けたが、のちに全て実現し島の人達に喜んでいただいたのは今も記憶に新しい。
 はるかに遠い南の海に浮かぶ伊島の皆さんの御健在を祈る。

 

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 随筆35 「徳工機械科と中西芳男先生

 質実剛健は、私の学んだ徳島工業高校の当時の校風でもあった。工業立国の時代に、学力検査は勿論、身体検査も受けて、入学してきた生徒は、心身共に優れ、機械科は特に難関であった。
 昭和37年3月に卒業した私達50名は、機械科の第14回卒業生である。どのクラスメートも学力優秀で、精神的にも一本筋の通った重厚さを備えた人ばかりである。
 残念にもただ一人早くして世を去った惜しむべき友がいる。高校時代は陸上部のホープとして、また卒業後は新日鉄の中堅社員として、将来を嘱望されていた大島博至君が、昭和55年11月19日出張先のユーゴスラビアで、思いがけない交通事故で殉職された。この突然の出来事は私達を深い悲しみに沈ませた。
 北九州市に住んでおられる奥様は、子供達のために力強く生き抜いてまいりますと、気丈夫に語っておられたが、幸い新日鉄に就職も決定し、再出発されることになった。鳴門市に住んでおられるご両親や肉親の方々にもお会いしたが、ご家族は悲しみを胸に秘めて、同級生の私達に、博至の分まで頑張って下さいと、逆に励まされるほどであった。
 ご家族の皆様の悲しみはいかばかりであったろうか。その悲しみを乗り越え、私達のわずかばかりの心遣いにも、心からのねぎらいを寄せて下さった。ご一族の強い信念に裏打ちされた暖かい心に、私達はまたしても泣かされたものであった。
  そんなことがあった翌年、昭和56年7月3日、私達は有馬温泉の兵衛・向陽閣で同窓会を行った。おりから東京都議選の真っ最中で、私も東京へ応援に行った帰路、立ち寄った。
 懐かしい顔が全国各地から集まってきた。石山康弘君、櫟原健二君、芋谷暢重君、小川功君、河村晴美君、北井勝好君、幸田賢一君、佐藤憲司君、妹尾安修君、田村大三郎君、新見務君、西英勝君、山口真君ら壮々たるメンバーである。
 十年一昔と言うから、卒業してもう二昔にもなる。それでも会った瞬間、高校時代の面影がほうふつとする。夕方の6時から始まった同窓会は深夜になっても話の途切れることがない。それぞれに話したいことが山ほどあるのだ。
 大きく言えば、日本の工業の発展を支え、経済の高度成長期に青春を投げ打って働いてきた自負がある。それでなくても働き盛りの38歳。職場のこと家庭のこと全てにエネルギーが満ちあふれている年齢である。愚痴というものがない。何事にも挑戦していこうという気概にあふれた話は、いつ聞いても気持ちのよいものである。
 翌朝は、ポートピアの見学。高校時代にかえったかのような雰囲気で行楽の一日を楽しんだものだった。
 ところで同窓生を語るとき、忘れられないのは、私達を3年間、担任して下さった中西芳男先生である。先生は苦学の人で、両親を早く亡くされたせいか、何事にも心暖かく接してくれる人であった。頭脳は明晰で、数学(代数)と機械製図、原動機、そして自動制御を教わったが、サラ回しやコマの綱渡りの理論解析をされるなど、ユニークな仕事ぶりが新聞紙上をにぎわしたこともあった。
 いつお会いしても、昔と同じ姿でちっとも年をとられていない不思議な方である。庶民的で気さくな性格は、県工の多くの同窓生から慕われている。そして、私達50名のメンバーの消息にくわしいのには感心させられる。
 同窓会はその後も名古屋、鳴門、伊豆で行った。伊豆の時も先生にお越しいただいたが、お世話して下さった旅館の方々が、「だれが先生で、だれが生徒か、全くわかりませんね。」と言っていた。ふさふさした黒髪にメガネのよく似合う万年青年なのである。

 

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 随筆36 「徳島大学に法文学部を

 キャンパスを市民に開放した大学祭が今年も行われた。私も例年、出席させていただいているが、常々思うことは徳島大学に法文学部あるいは政経学部をぜひ開設してほしいということである。
 現在の徳島大学は、医学部、薬学部、歯学部、工学部、総合科学学部があるが、いまだに旧医専、工専、師範学校の延長上にあり総合大学というものの、寄り合い所帯の感が強い。  大学祭になるとこの色彩が一段と顕著になる。校舎が常三島と蔵本に分かれているせいもあるが、バラバラの感がして総合的な迫力に欠ける。展示物や催し物の一つ一つにも、世の中の文化や文明に対する全体観にたった問いかけといったものが少なく、実利的、末梢的、部分的かつ興味本位の出し物が散乱している感をぬぐいきれない。
 この大学祭の地盤沈下は全国の大学に共通している現象のようであるが、現代学生気質を象徴する出来事でもあろう。大学祭の期間中は授業が行われないので、この期間を利用して帰省したり小旅行を楽しむ学生が8割を超えるという。大学祭に参加するのはごく一部の人達であり、“人生いかに生きるべきか”など真面目な議論をすればするほど白けた雰囲気になるとも語っていた。
 かつて大学は時代の思潮にどこよりも敏感に反応し、民衆を一歩リードしゆく新文化建設の揺籃の地でもあった。ところが現代の技術文明の社会にあっては、大学は実利性の侍女になり下がってしまい、未来を担う指導者を育成するという役割りは衰退してしまっている。少々辛口だがそんな感を一段と深くするのである。
 現代の大学教育が実利主義に陥ってしまった結果、二つの大きな弊害がもたらされていると識者は指摘している。すなわち、その一つは、学問が政治や経済の道具と化して、その本来もつべき主体性、したがって尊厳性を失ってしまったこと。もう一つは、実利的な知識や技術にのみ価値が認められるために、そうした学問をする人々が知識や技術の奴隷に成り下がってしまった、ということである。
 こうした指摘が現在の徳島大学に符号することを私は恐れる。それではとても視界ゼロの新世紀を切り開いていく活力ある人材を輩出することは不可能であるからだ。
 そのためにも、この際、徳島大学に総合科学部を改組して法文学部を新設することを提案したい。総合大学の要の存在として、大学の再生と復権をお願いしたいのである。私はつねづね、徳島県の未来構想は教育立県にあるべきだと主張してきた。今もこの気持ちは変わらないし、ますますその確信を深めている。
 日本の地図を広げてみると、日本の大都市というのは東京ー大阪ー福岡を結ぶ東海道ならびに山陽道の一本の線上に集中している。新幹線に代表される交通や情報のネットワークをはじめ人口も政治も経済も文化もいっさいがこの線上に集まっているのである。
 徳島はこの線上からやや離れたところにあって、東京も名古屋も大阪も広島も福岡も全部が見渡せるポジションを占めている。これが地の利というものであろう。
 きょう明日のことに全神経を集中しなければならない大都会の喧噪の中で、未来を展望することは至難のことである。まして未来を担う人材の育成に専念するとなるとよほど時間的にも空間的にも余裕がなければならない。そのゆとりが徳島にはある。これこそ日本における徳島県の存在意義ではなかろうか。わが徳島から、次の時代を担いゆく骨格太き人材を各地に送り出す─考えただけで夢のふくらむプランではなかろうか。

 

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 随筆37 「強者どもの夢の跡、勝瑞城

 私の本籍地は藍住町の勝瑞字幸島。決まって「いいところですね」といわれる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと注釈されることもある。
 たしかに勝瑞という地名にはそんないわれがあるらしい。私が衆議院選挙に初出馬したおり、先祖代々、この地に住んでおられる中川のおじいちゃんが、檄文を届けてくださったことがある。和紙に墨も黒々と達筆でしたためられたその文章は、はじめに勝瑞の縁起を示し、かつて天下を征したこの地から今まさに、現代の英雄が出でんとしている。という意味であったように記憶している。
 おじいちゃんの名前は中川清さん。80歳を越えても、健康そのもの。毎日自転車で走り回っていた。地元ではなかなかの名士で交際範囲がべらぼうに広い。家は私の家のすぐ隣であった。私達がここに新築したときも、待ち構えていたように訪問してくださり、丹精込めて育ててきた植木をわざわざご自分で掘り起こして運んできてくださった。お陰様で、わが家では門から庭まで全て「ここはこの木、こっちはこれ」と中川のおじいちゃんが植えてくださった木々の緑でうまっている。中川のおじいちゃんは残念ながら逝去されたが、植木を見るたびに思い出す。
 さて勝瑞の縁起であるが、その昔、勝利を願う武将の心を表現して名づけられたものと伝えられている。勝瑞は鎌倉時代の初期に小笠原氏の守護所が置かれた。建武二年(1335年)には細川和氏が阿波守となり後にその職を弟頼春に譲り、頼春の子頼之もまたその弟詮春に譲り、ここに阿波の守護所として勝瑞城(勝瑞阿波屋形)ができあがったという。
 その子孫、九代目の持隆が家臣の三好義賢に謀殺されたのもこの地で、以後は三好氏の居城となり、西国三十六カ国の守護職としてこの勝瑞城で天下を制したというのである。
 徳島の中心はその後、長宗我部元親の手で一宮城へ移り、さらに蜂須賀家政の入国によって渭津の徳島城へと移るのであるが、三好氏が長宗我部之親に敗退する天正10年(1582年)までの約250年間は勝瑞城が徳島の中心として栄え続けてきたわけである。
 今、勝瑞城跡を訪ねると、まさしく、強者どもの夢の跡といった寂しい風情で、往時の面影は全く見られない。しかしながら史実は史実であり、私達はそんな歴史の刻まれたふるさとを大切にしたいと思う。

 確かに四国第一といわれる徳島平野の中心に位置する勝瑞は肥沃な土地に恵まれ、生産物も豊富である。交通の便もよく、将来の発展が望まれる景勝の地といえよう。先の先の話だが鳴門の本四架橋に、四国新幹線が走るとすれば新徳島駅は、このへんになるかも知れない。もはや人口過密の徳島市内に新幹線を通すことはかなりの無理を伴うからである。
 そうした意味からいえば、現在の勝瑞を中心とする藍住町、北島町、松茂町で新徳島市が誕生してもよい。あまりに手前味噌としかられるかも知れないが、地方分権をより確かにするためにも町村合併は進めなければならない。
 かつて県下の中心として栄えた勝瑞が、時は流れ再び巡り来て徳島の中心地になる。そんな期待にどうこたえていくか。いっさいはこれからの取り組みにかかっているといってよい。

 

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 随筆38 「明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん

 眼下に太平洋を見はるかす由岐町伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあふれている。国道55号線を阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかない。そんな迫力がこの海にはある。
 この海を語るとき、私は一人の人物を語らずにはおられない。その人の名は大地鉄蔵さん。明治31年7月3日生まれ。80歳をはるかに越えてもかくしゃくたる気概で活躍されていた。 私が初めて鉄蔵さんにお会いしたのは、衆議院選挙に初出馬したおりである。朝の5時ごろであったろうか。地方遊説で伊座利のお水荘に宿泊していた私を訪ねてきてくださった方があった。玄関に出てみると、背広に身をかため、少し大きめの革靴にステッキをつかれた老紳士がていねいに会釈をされた。それが鉄蔵さんであった。
 「朝食はおすみになりましたか。このへんは私が御案内いたしますから」と意気軒高である。前日、約400キロを走行、伊島から始まり、木頭村から赤松、日和佐へ抜け、深夜投宿した私を「もう着いたか、もう着いたか」と何度もホテルに確認されたうえ、朝一番で駆けつけてくださったという。
 選挙が終わって、その後も二度ばかり、鉄蔵さんにお会いする機会があった。いつお会いしても血色のよい顔をほころばせながら「さあ!行きましょう」と伊座利や阿部の支持者宅を案内してくださる。例の背広にステッキ姿で、その健脚ぶりには、孫の年齢である私でさえまいるほどである。  
4時間ぐらいぶっ通しで歩いても、汗一つかかない。呼吸一つ乱れない。そんな姿に私は明治の青年の気骨を見る思いがした。
 鉄蔵さんは日和佐町の農家に生まれた。青雲の志を抱いて北海道は網走に近い女満別へ。無一文から土地を購入して農業を開拓。やがて結婚し男三人女二人の子供達とともにハルピンに集団移住する。ハルピンの冬は厳しく、ドアの金具に素手でさわると皮がむけるほどだったという。
 やがて終戦。ソ連兵がハルピンの開拓団にも略奪にやってきた。3,000人の開拓団の生命を守るため食うか食われるかの瀬戸際の中で生き抜いてきた。ソ連兵の捕虜になったり銃殺されたりで、3,000人いた開拓団のうち無事、内地に帰ったのは2,000人にも満たなかったという。
 それでも鉄蔵さんの家族7人はなんとか生まれ故郷の日和佐にたどりつき、伊座利の山に開拓団として入植した。自分の食糧を全部育ち盛りの子供達に与えた妻は栄養失調で寝たっきり。
そんななか丸太を倒して家を建て、山を焼いて土壌を作る。一年間は何の作物もとれない。やがて妻も健康を回復し、さつまいもが主食という生活ながらも伐採の仕事で生計が立てられるようになった。
 その後、伊座利の開拓団で入植した30世帯はほとんどが離農し、残ったのは鉄蔵さんを含むわずか三所帯。「苦労しましたね」と尋ねると「いやあ、私も男だから、好きなようにして波乱万丈の人生を生きてきました。この人生結構、面白かったですよ」とおっしゃる。子供達も全員結婚し、孫が12人、ひ孫が7人。今はもっと増えているかも知れない。面倒みのよい鉄蔵さんは、当時、伊座利や阿部の町でも人気抜群。鉄蔵さんの、姿を見かけると若い娘さんまで走り寄って来て、「おじいちゃん、私の子供です」と赤ん坊を見せにくるほどだった。  今、伊座利を訪れると太平洋を見はらす景勝の地にお墓が立っている。81歳で亡くなった鉄蔵さんの妻・タキ子さんの墓である。「妻には苦労のかけ通しでした。せめて太平洋の見えるこの地でゆっくり休ませてやりたいんです」そう語っていた鉄蔵さんも、今はこの墓で眠っている。男のロマンを追って北海道へ、そしてハルピンへと渡った武骨な明治の青年は、ともに苦労を分かち合ってきた最愛の伴侶とともに、あれこれ過ぎ去った思い出を静かに語り合っていることだろう。

 

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 随筆39 「藍住町歴史館になった奥村家

 青は藍より出でて藍より青し。  藍なしでは徳島の歴史は語れない。私が衆議院選挙に当選した直後、初当選させていただいた御挨拶に奥村家を訪問したことがある。
 芝生の敷き詰められた広い前庭から壮大な奥村家藍屋敷が、夕日に輝いて見えた。ここだけは歴史の歯車が止まっていて、江戸時代に逆転したかのような錯覚をおぼえた。
 大きな門を抜けると広い中庭があり、その向こうに母屋があった。「奥村武夫」と歴史を刻む表札がかかっていた。
 声をかけると、大きな返事がして、母屋の隣の離れから「よく来てくださいました。どうぞ、どうぞ。お待ちしていました。ゆっくりしていって下さい」と笑顔で迎えて下さった。その人が、奥村武夫さんだった。
 奥様もまじえて、話がはずんだ。藍の歴史はそのまま徳島の歴史だった。もうお年も80歳を越えていたと思われるが、子供のころの話を昨日のように生き生きと語って下さった。
 奥村家は藍商人のなかでも豪商と呼ばれ、5本の指に入る商いを京・大阪はもちろん、江戸や長崎などの日本全国で展開されていた。奥村家の商人は全国に飛び、その時代のその地域の経済状況を手紙で奥村家に送っている。今もその古文書は大切に保管されていて、時間をかけて調査を進めていけば、当時の日本各地の状況を知る貴重な資料になる。そんな話をあとで郷土史家として奥村家の調査をした三好昭一郎氏にうかがったことがある。
 それはさておき、奥村武夫さんは長い話のあと、ぽつりと言われた。「こうした歴史のある屋敷を維持していくのは、結構、大変なんですよ」私は瞬間的に思った。「この藍屋敷は奥村家個人の財産であるとともに徳島県の財産でもあるはず。これは何とかしなければ」と。
 その後、私は衆議院の予算委員会で文化財を保護する観点から奥村家の保存をとりあげた。それがきっかけとなり文化庁の方々が調査にこられ「国の文化財となる前に県の文化財としてまず指定を」ということで今度は県にお願いして、県の文化財に指定していただくことができた。  奥村さんは喜ばれ、町長さんとも相談された結果、藍屋敷は藍住町に寄贈し、藍住町の歴史館「藍の館」として整備していくことになった。オープンのテープカットには私も御招待をいただいたが、「藍の館」の前庭では、奥村家の人々が、現代風に工夫された藍の商品の数々を店頭に並べておられた。
 藍屋敷とともに藍の商品も現代に蘇生した。それはうれしい光景だった。現在の「藍の館」は観光バスのコースともなり、観光客がひきもきらない。若い人達にも藍のよさが見直されているようでうれしい限りだ。

 

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