鳴門市

第九初演の地・板東のドイツ村

 年末に「第九」を聴くことがこのところ日本の風物詩となったようである。全国どこの都市でもそんな演奏風景が見られるようになった。

 

 「第九」とはいうまでもなくベートーベンの作曲した「交響曲第九番」。東西ドイツが合併し「壁」の撤去されたとき、ベルリンのブランデンブルグ門で「第 九」の大合唱祭が開かれたことは今も記憶に新しい。

 

 「第九」は今や世界中の人々に愛され、親しまれる文字通り「歓喜の歌」そのものなのである。余談だが、 私はブランデンブルグ門に「壁」があったときと「壁」がなくなってからの二度訪問したことがある。

 

 ところで「第九」が日本で初めて演奏されたのは、第一次世界大戦中、徳島県鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所。大正七年(1918年)六月一日のこと である。

 

 このときの模様は、現在、板東俘虜収容所跡に鳴門市が建設した「ドイツ村公園」内のドイツ館に「動く人形」で再現されている。資料によるとハイゼ ン指揮、徳島オーケストラの第二回シンフォニー・コンサートでベートーベンの「第九」が合唱つきで第四楽章まで演奏されたとある。

 

 板東俘虜収容所のことは、平成六年(1994年)の直木賞受賞作品となった「二つの山河」(中村彰彦著)に詳しい。この本では大正六年(1917年)六月から大正九年(1920年)二月まで二年八ヶ月間、模範的な俘虜収容所としてこの地上に存在した“バンドー”を舞台に会津人の収容所長・松江豊寿とドイツ人俘虜が国境を越えた友情を 結んでいく様子が感動的に綴られている。

 

 私は同じ会津人の渡部恒三元衆議院副議長をドイツ館に案内したことがあるが、二つの山河のことも松江豊寿さんのこ ともよく知っておられて「徳島から帰った松江さんは、郷里の人達から推されて会津若松の市長になったのです。人情にあふれた人やった」と昨日のことのよう にいわれるのには驚いた。「先の大戦」というと太平洋戦争でなく戊申(ぼしん)戦争のことを指すという、いかにも会津人らしいお惚けぶりであった。

 

 「彼らも祖国のために戦ったのだから」とドイツ人俘虜に対していつも礼儀正しく、ヒューマニズムで接した松江所長はたしかに立派だった。けれどももっと 立派だったのは、ドイツ人俘虜を“ドイツさん”と親しみを込めて呼び、何の分け隔てもなく歓待した土地の人々であろう。

 

 ドイツ人俘虜を教師としてパンや菓 子の作り方、西洋野菜の栽培法、ハムやベーコンの作り方に始まり、家具の製造や楽器の修理と演奏、製本や印刷技術、橋を架ける土木技術などの知識を貪欲に 吸収していった土地の人たちの開明さに私は脱帽する。

 

 外国人に対して何の先入観ももたない。よいものはよいと率直に認識し評価する。この心の広さこそ徳島県人の誇りであり、世界に通用する精神だと私は確信 する。板東俘虜収容所を舞台に所長と俘虜と地元の住民が繰り広げた心の交流は平成十八年(2006年)六月一七日、映画「バルトの楽園」として公開され た。

 

 タイトルになった「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味。松江所長やドイツ人俘虜の生やしていた「ひげ」をイメージしている。松江所長の人道的な扱 いや土地の人の親切に感動したドイツ人俘虜たちは楽団を結成し手作りの楽器で「交響曲第九番 歓喜の歌」に挑む。映画のクライマックスとなる「第九」初演 の場面は国境を越えた人間賛歌の場面ともなり、多くの人々に大きな感動を与えた。

 

塩田跡に美しい学園都市

 徳島県鳴門市といえば渦潮と塩田を思い出す。渦潮は昔のままだが、塩田はすっかり姿を消してしまった。私が小学生のころは、今の小鳴門橋のたもとには見事な入浜式の塩田が広がっていた。小鳴門橋を渡った高島あたりも見渡す限り塩田だった。

 

 塩田の作業というのは途方もない重労働であった。重い海水を海から汲んできては、砂浜に撒き散らし、何度も何度もこれを繰り返して濃い塩水をつくる。それを大きな釜で煮詰めて塩を作るのである。

 

 塩は人々の汗と涙の結晶であった。従って、一握りの塩も粗末にしてはならないと私たちは教えられてきたものである。

 

 何十人何百人の人々が塩作りのために炎天下で汗をしたたらせてきただろうか。そんな塩田跡が今では美しい市街地に変身している。整備された道路が縦横に走り、商店や住宅が建ち並ぶ姿は新しい鳴門の姿を象徴しているかのようである。

 

 ことに高島は見違えるばかりの変身ぶりだ。一昔前までは、人影もまばらな湿地で、塩田ばかりが広がっていた寂しいところだったが、塩田跡に鳴門教育大学が開校して以来、住宅地としての開発が進み今では学園都市として人気が高い。

 

 鳴門教育大学は昭和五十六年(1981年)十月一日「教員のための大学」「開かれた大学」として創設された。新しい構想による大学であった。

 

 すでに開校三十年を迎え、整備は一段と進んでいる。青い空と緑の山々を背景にした広大なキャンパスに、全国から集まった若い力があふれている。外国からの留学生の姿もある。

 

 大学を中心にした学園都市構想では、こんな話を思い出す。九州は阿蘇での話である。ここにはとてつもなく広い平原がある。草千里などとよばれる牧草地でゆうゆうと放牧されている牛や馬の姿はよく知られているところである。

 

 ここに大学を作ろうという話が持ち上がった。大学には広いキャンパスが必要だ。過密化の進む都会では大学の用地を確保することはなかなか難しい。阿蘇で は土地を安く取得できるから大学側は喜んだ。阿蘇の村ではそんな大学にこんな条件をつけた。寄宿舎を作らない。学生は全員、付近の農家に下宿させる。下宿 代はできるだけ安くしてもらうから、農繁期は大学を休みにして学生に農作業を手伝わせることという条件である。

 

 村のこの提案に農家の人達は喜んだ。過疎化の進む農村では若い働き手が都会に出てしまって農作業にも支障をきたしている。学生が下宿してくれることは心 強いし、農繁期には学生たちが我が子のように耕運機を運転してくれる。

 

 一方、学生や学生たちの父兄も喜んだ。遠い都会に子供たちを送り出せば何かと心配 だ。第一、下宿代からはじまって生活費の仕送りだけでも大変だ。それが農家に下宿し農作業も手伝うということになれば下宿代も安くてすむし何よりも健康的 でいい。

 

 こうして誕生したのが東海大学阿蘇キャンパスである。熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある。若い人達が集まることで村も活況を呈し、牛と馬しかいなかった平原に 粋なコーヒー店やブティックはもちろんパラグライダーや乗馬、ゴルフ、キャンプなどのアウトドアスポーツが楽しめる環境と施設が整っている。ここでも学園 都市ができたのである。

 

 大学を誘致することによって町は大きく変わる。大学を公害のない第四次産業という人もいるほどだ。波及効果の大きさは第一次産業をはるかにしのぐ。大学を中心にした町づくりを新しい徳島づくりの核にしたいものである。

 

鳴門の海に思う徳島の未来構想

阿波と淡路の はざまの海は

これぞ名に負う 鳴門の潮路 

八重の潮時  かちどきあげて

 

 小学校の唱歌にも歌われ続けてきた鳴門海峡には今、全長千六百二十九㍍の大鳴門橋が架かっている。淡路島の向こうには、全長三千九百十㍍。世界一の吊り橋である明石海峡大橋も完成し、神戸と鳴門は高速道路で直結。高速バスで1時間半という時代になった。


 私が鳴門の海を初めて見たのは小学生のときだった。当時は小鳴門橋もなく、土佐泊まで連絡船で渡り、歩いて千畳敷まで行ったことを記憶している。千畳敷から、眺観する鳴門の海は、かの吉川英治が「鳴門秘帖」で書いているように、感動的であった。


 淡路の山々が目の前に見え、一跨ぎできそうな狭い海峡には、潮流が渦を巻いていた。真っ青な海と白い潮流、そして緑の松が日の光に映えてひときわ美しかった。


 四国は四方を海に囲まれた島国である。しかもその中央部には高い山々が峰を連ねており、本土の人々からは『四国の山猿』等と呼ばれたこともあった。時に は『島国根性』等ともいわれる。ともすれば狭い視野でものを見がちな県民性は、こうした環境によるところが大きいのであろう。


 本土と四国を結ぶ掛け橋は、神戸‐鳴門ルートに加え、児島と坂出を結ぶ瀬戸大橋、そして尾道と今治を結ぶ「しまなみ海道」の三架橋が全て開通した。私は 幸せにも三架橋全ての開通式に出席し四国選出の代議士としてテープカットさせていただいた。長い間国会に送り出し続けてくださった支持者の皆様に心から感 謝せずにはおられない。


 陸続きになるということは確かに便利なことである。天候に関係なくいつでも自由に往来できる。四国の私達にとってそれは大変にうれしいことだが、本土か らも容赦なく人と物と金が入ってくるということでもある。良いものも来るが悪いものだって来る。公害や大気汚染をはじめ教育の荒廃や人間不信、そして広域 な犯罪などが直接間接に、このふるさとの緑の大地を覆っていくかも知れないのだ。


 考えなければならないことは、東京や大阪と同じようになることが、四国のそして徳島の未来像ではないことである。むしろ、東京や大阪などの大都市が引き 返そうにも引き返すことのできない「真っ白いキャンバス」を、わが四国なかんずく徳島県は持っていることに強い自信を持つことだ。


 その「白いキャンバス」にどんな未来像を描いていくか。それが私達の仕事である。その第一の視点は、世界の中で日本は何をなしうるか、日本の中で徳島は何をなしうるか、といった問題意識を持つことである。


 私は教育であると思う。『教育立県・徳島 』これが私の夢見る徳島の未来構想だ。四国三架橋時代は大交流、大競争時代の幕開けでもある。日本の全国から優秀な学生が四国へ、そして徳島へと学問に来る。そんな郷土を築きたいと願う。


 かつて「田舎の学問より、京の昼寝」といった人がいた。今は時代が違う。情報化が進み、世界のニュースがどこにいても一瞬のうちに伝わってくる。そし て、どこにいても世界に発信できるインターネットの時代なのである。

 

 そんな時代に、政治も経済も文化も教育も全てが超過密の大都市に集中しなくてもよいは ずだ。都市の機能を分化し、現実の問題は都市で消化するとしても未来を見すえた人材の育成は、青い空と緑の大地に恵まれた地方で担ってもよいのではないだ ろうか。


 わが徳島がその先鞭をつけたいものだ。──鳴門の海を眺めながら、そんなことを考えてみた。

 

ウチノ海のアジ釣り

 激流の渦巻く鳴門海峡のすぐ隣に、鏡のように静かな内海がある。ウチノ海である。本州四国連絡高速道路からも眺められるが、私はかつて有料道路だった鳴門のスカイライン頂上にある「四方見展望台」付近からの眺望が好きだ。ことに夕陽のころは絶景である。

 

 金波、銀波のたなびく穏やかな海に船も筏にいる釣り人の姿もほとんど動かない。絵のような風景が眼下に広がっている。 県外からのお客様が来ると私はよくここに案内する。「素晴らしいところですね。こんなところでのんびり釣りのできる徳島の人はうらやましい」と口を揃えた ように言われる。

 

 私自身もウチノ海で筏からの釣りを楽しんだことがある。子供達がまだ小さいころだったが、知り合いの船頭さんに頼んで連れていってもらった。「釣りので きる時間は二時間しかないのです。必ず釣れるところにお願いします」無理な注文かと思ったが、思い切って言うと潮焼けした頬をほころばせながら「わかっ た。わかった。任せなさい」と心安く引き受けてくださった。

 

 筏まで船で運んでもらって、早速、竿を入れると途端に、ピリピリと魚信がする。引き上げると小さな鯵が五、六匹掛かっている。そんな調子で、まさに入れ 食いである。子供達はもちろん、釣りなどしたことのない妻まで大騒ぎである。無我夢中で釣りに熱中した日のことを昨日のように思い出す。

 

 石田幸四郎さんが公明党委員長だったころ、徳島で記念講演会や時局講演会を行い、二泊三日滞在してもらったことがある。全ての行事が終わり、飛行機を待つ時間を利用して、ウチノ海へ筏での釣りに案内したことがある。 「よし、行こう」大きな身体だが幸四郎さんの決断は速い。私の後援会の方が用意して下さった船に身も軽々と乗り込まれた。

 

 このときも鯵がまさに入れ食いだった。東京から来た警備の人や新聞記者や秘書の人達からも徳島はいい所でしたとあとで御礼を言われた。釣った鯵は大きな クーラーに詰めて持って帰ってもらったのだが、委員長の奥様が全てを料理され、皆さんに振舞われたと後で聞いた。

 

 徳島に返却されたクーラーには、幸四郎さんからの御礼状とともに「虎屋の羊羹」が一杯詰まっていた。懐かしい思い出である。幸四郎さんはいつお会いして もこの釣りを懐かしがられていた。「引退して時間ができたら必ずもう一度行きたい」といっておられたが、夢が果たせないままに鬼籍に入られた。