2007年

2007年12月28日


 早いものです。今年も今日が仕事納めです。明日から休暇に入る人も多く長い人では 1月6日まで9日間が年末年始の休暇になります。


 ところで天気予報によると、この年末年始は冬の嵐が吹き荒れるとのことです。北極から直接やって来る寒気は今季最強で1週間ほど居座ると予想されています。

 30日から元旦にかけて日本海側では大雪となり、普段あまり降らないところにも雪が降りそうです。上空1500メートル付近でマイナス6度以下の寒気団が日本列島をすっぽりと包むといわれています。

 山は大荒れとなりますし、平地でも道路の凍結による交通事故の発生が予想されます。 年末年始に帰省する人はもちろん行楽地に出かける人も十分に注意が必要です。

 冬の嵐といえば思い出すのが38豪雪です。昭和38年の新年、石川、富山地方では一晩に1メートルをはるかに超す大雪が降りました。

 当時、新聞記者として名古屋から北陸に飛んだ私の先輩は「白魔が舞っていた」とルポルタージュの記事を書き出しています。

 私は当時、社会人1年生として浜松市にいましたから、直接の体験はありませんがどこの新聞にも北陸地方の豪雪が大きく報道されていたことをよく憶えています。

 雪といえば新潟県の山古志村のことを思い出します。震災から3年、ようやく帰村式が出来たようですが、豪雪にならないよう祈るばかりです。

 最近はどこの豪雪地域でも過疎化が進み、雪下ろしできない家が増えているようです。私有財産の保持に公金は当てられないとのことから役場も手をこまねいています。

 ボランティアの人たちが頼りですと言っていた役場の人の顔を思い出します。都会から若い人たちが過疎地の雪下ろしに来てくれるのは本当に有難いと言っていました。

 何かと世知辛い世の中を少しでも心温かく生きていきたいものです。私も若い人たちの活躍を心から期待しています。

2007年11月27日


 私は11月15日から24日までトルコ旅行して来ました。訪問した観光地はイズミール、ベルガマ、エフェソス、パムッカレ、コンヤ、カッパドキア、アンカラ、イスタンブールなどです。


 どの土地を訪問してもトルコの人たちは親日的で親切でした。日本語の話せる人もいて買い物には不自由がありませんでした。

 とくに子供たちはとても人なつっこく何度も片言の日本語で語り掛けられました。笑顔が輝いていました。なかにはお小遣いで買ったばかりの絵をプレゼントしてくれる子供もいました。

 トルコにはモンゴル高原にいた兄弟が一人は東に行って日本人になり、一人は西に行ってトルコ人になった。という話があると日本人のガイドさんから聞きましたが、たしかに兄弟のような親日振りでした。

 モンゴル高原を拠点として活動していたトルコ人は9世紀後半に中央アジアに移動しました。そのなかのセルジューク族は11世紀にセルジューク朝を開きイスラム社会の実質的な支配者になったと言われています。セルジューク朝の首都はコンヤでした。

 セルジューク朝に属していたオスマン・トルコのオスマン1世は1299年オスマン・トルコ帝国を建国。1453年にはコンスタンチノーブルをイスタンブールと改名して遷都しました。

 このオスマン・トルコ帝国は16世紀のスレイマン1世の頃には最盛期を迎えて、3大陸にまたがる大帝国となります。

 この帝国も徐々に衰退して第1次世界大戦後には大幅に領土を削られます。このときに国民軍を指揮して侵入する外国軍を破るとともに国内の民主化運動を進めトルコ共和国を建国したのがケマル・パシャです。

 ケマル・パシャは後に議会から「アタチェルク(トルコの父)」の称号を贈られます。そして現在も建国の父として国民の熱い尊敬を集めています。トルコ共和国の首都はアンカラですが、アンカラには広大なアタチェルク廟があり、大勢の人たちが参詣していました。

 今回の旅行で私はこんな句を詠みました。

・大鷲やアクロポリスの空高し
・木の実降る古代遺跡の石畳
・搾りたて石榴売る人求む人
・隊商の宿なる砦蔦紅葉
・平原に老農一人冬耕す
・招かるる洞窟住居冬ぬくし
・塩湖とは生者なき湖冬ざるる
・建国の父の廟守る大冬木
・ボスフォラス海峡狭し浮寝鳥
・暮早しイスタンブール坂の路地

 

2007年10月24日


 青春時代に同じ職場で過ごした親しい友人12人で伊勢志摩に旅行してきました。友人の中には古希を迎えた方もあり、古希の祝いを兼ねた同窓の旅は大いに盛り上がりました。

 12人は愛知、岐阜、静岡、東京、千葉、新潟、広島、徳島とそれぞれが現在住んでいる所から青春時代を過ごした名古屋に集まりました。

 名古屋からは愛知の友人が運転する車3台に分乗して一路、伊勢志摩の的矢湾を目指しました。的矢湾は無菌の清浄牡蠣で有名です。10月から牡蠣料理が始まったとのことでこれを食べることが旅の楽しみの一つでした。

 的矢湾で牡蠣の養殖が始まったのは1925年(大正14年)です。佐藤忠勇さん(1887年~1984年)の養殖場から始まったのです。

 佐藤さんは1953年(昭和28年)には紫外線利用による牡蠣浄化法を開発、1955年(昭和30年)に特許を取得。「清浄的矢牡蠣」として販売を開始しました。

 以来、的矢湾の自然環境に調和した養殖法と浄化技術によって高品質な牡蠣を生産し続けています。全国のホテルやレストランに直接出荷され、高値で取引されているようです。

 私たちの牡蠣の宿では前評判以上においしいフルコースの牡蠣料理が出ました。「海のミルク」と呼ばれる牡蠣は栄養素をバランスよく含み必須アミノ酸や糖質のグリコーゲンが豊富でミネラルやビタミンも均等に含んでいるようです。健康にもよいということで宴は大いに盛り上がりました。

 翌日は映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台になった安乗崎灯台を見てきました。安乗崎の先端に立つこの灯台は日本の灯台の草分け的な存在で江戸時代からあったそうです。

 1873年(明治6年)には八角形の木造灯台となり、1948年(昭和23年)には全国でも珍しい四角形の灯台に改築されて現在に至っています。

 灯台の周辺は芝生が敷き詰められた公園になっていて観光客が太平洋や的矢湾を眺めながら休憩していました。私たちもここから太平洋を眺めてきましたが、雄大な気持ちになりました。

・牡蠣づくし平らぐ古希の祝いかな
・牡蠣宿の朝は静かに明けにけり
・的矢湾朝の光に牡蠣のひび
・海桐花実に安乗灯台断崖に
・天高し安乗灯台波の上
・碑は俳祖守武吾亦紅
・守武の暮らしたる町通草売る(和良)

 

2007年10月16日


 アメリカ合衆国45代副大統領のアル・ゴアさんが今年のノーベル平和賞を受賞しました。人為的気候変動(地球温暖化)についての問題点を広く知らしめ、気候変動防止に必要な措置への基盤を築くために努力したことが受賞の理由になったようです。


 私は1991年(平成3年)7月2日東京の国会議事堂内でアル・ゴアさんと会い、意見交換したことがあります。

 この日、国会内の会議室ではグローブ(地球環境国際議員連盟)の総会が開かれていました。日本をはじめアジア、アメリカ、ロシア(当時はソ連)、欧州の代表が参加しての分科会も活発に開催されました。

 私は「バーゼル条約をめぐる日本の取り組み」について意見発表しました。廃棄物が再生資源として輸出入される問題に警告を発したのです。

 アル・ゴアさんはグローブの会長として出席し、全体会議で講演されました。地球温暖化の問題を「茹で蛙」の例を引いて訴えました。

 英語という言語がスピーチにぴったりの言語であることに私は感動を覚えました。それほどにすばらしいアル・ゴアさんの見事なスピーチでした。

 「熱い湯に蛙を投げ込むと蛙はびっくりして跳び出す。けれども少しずつ温かくなるお湯に入っている蛙は気分よく眠っているうちに茹で蛙になってしまう」と少しづつ進むことの恐怖 を訴えたのでした。

 長身のアル・ゴアさんが時には身振り手振りも交えて音吐朗々としかも爽やかに語るのです。当時は上院議員でしたが、いつかは大統領になるのではないかと私は思いました。 そんなことを予感するほど説得力のある格調高い演説でした。

 事実、翌1992年7月9日には副大統領候補に選ばれ1993年1月20日第45代副大統領になりました。以来2期8年間副大統領を務めています。

 また2000年の大統領選挙では総得票数ではわずかに上回っていながら現在のブッシュ大統領に惜敗したことはよく知られています。

 アル・ゴアさんがノーベル平和賞の受賞者としてこれからどんな仕事をするのか私は楽しみにしています。

2007年10月11日


 昭和58年に同期生として衆議院議員に初当選した神崎武法さん、森本晃司さん、日笠勝之さんと私の4組の夫婦と神崎さんの秘書の方々とで九州旅行をしてきました。由布院に一泊したあと阿蘇のやまなみハイウエーを走り、中岳の火口にも登ってきました。


 由布院では玉の湯代表取締役会長の溝口薫平さんにも逢ってきました。溝口さんは政府の「観光カリスマ百選」の第一弾11人の1人に選ばれた人です。

 私は6年ほど前に溝口さんと会ったことがありますが、そのときと全く変わらないにこやかな表情で迎えてくれました。

 かつての由布院は痩せた土地と牛も入らない湿田地帯を抱えた貧しい町でした。温泉保養地としての町の方向性を定着させるまでに40年かかったと溝口さんは言います。

 溝口さんたちの町づくりへの独自の取り組みは1952年、町中心部の由布院盆地のダム化計画反対運動から始まります。

 1970年には湿原植物の宝庫と言われた町の正面玄関の「猪の瀬戸」へのゴルフ場建設を反対する「由布院の自然を守る会」を結成。ゴルフ場建設を阻止します。

 1971年には旅館の若手経営者、志手康二(夢想園、故人)、溝口薫平(玉の湯)、中谷健太郎(亀の井別荘)ら3人で「明日の由布院を考える会」をつくります。

 当時は3人とも20代後半。50日間にわたるヨーロッパの観光地、温泉保養地の視察も敢行します。このときの思い出を語る溝口さんの表情は生き生きとしていました。

 ドイツのバーデン・ヴァイラーという小さな温泉保養の町のホテル「ポスト」のオーナーに聞いた町づくりへの熱い想いが3人の心を動かしました。

 「町にとって大事なのは静けさと緑と空間」「君たちは町にとって何ができるか、君は、君は、君は」この日3人は企画力、調整力、伝道者と三人三様の役割を決めました。これが今日の由布院をつくった原動力になったと溝口さんは懐かしそうに語ってくれました。

 「ゆふいん音楽祭」「牛喰い絶叫大会」「湯布院映画祭」などのイベントも成功し、ひなびた温泉地であった由布院はいまでは年間380から400万人もの観光客が訪れる一大温泉地となっています。

 今回の九州旅行はいろいろと啓発されることの多かった旅でした。1泊2日の日程でしたが心に残る旅になりました。お世話になった皆さんに心から感謝いたします。

・朝霧の底に湯布院眠りをり
・来年もともに見んとて月を見る
・十人で借り切る湯宿虫時雨
・迎へられ送らるる門虫時雨
・火口湖の水真青なり阿蘇に秋
・芒野を抜けて芒野ここも阿蘇(和良)

2007年9月25日


 自民党総裁に福田康夫さんが選出されました。今日の国会で内閣総理大臣に指名され、福田内閣が発足します。親子2代の総理は初めてのことです。


 お父さんの福田赳夫さんは総理を辞めた後も衆議院議員として活躍され、本会議場では記名投票のたびに新人議員だった私たちの前を飄々と通り過ぎて行かれました。今もその姿を思い出します。

 福田康夫さんの初当選は53歳ですから、遅咲きでした。若い同期生に「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから、君たち若い人を育てるサポート役だよ」と言ったそうです。

 自民党総裁選挙は福田康夫さんと麻生太郎さんの一騎打ちでした。元総理・福田赳夫さんの長男と元総理・吉田茂さんの孫という全く性格の違った二人の戦いだっただけに結構見ごたえがありました。

 麻生さんは目立ちたがりや、福田さんは目立つことが大嫌い。麻生さんは演説上手、福田さんは演説が下手で大切なキャッチフレーズまで言い間違えてしまいました。

 街頭演説では麻生さんに完敗の福田さんでしたが、結果から見ると「一つ一つの問題を解決してはじめて政治の信頼回復ができます」と生真面目に話し続けた福田さんの方に軍配があがりました。

 私は福田康夫さんから何回か時節のお便りをいただいたことがありますが、毛筆で書かれた几帳面な文面にはこの人の生真面目な性格がよく表れていました。

 今日船出する福田内閣の前途は非常事態とも言えるほど厳しいものがあります。課題は山積しています。ねじれ国会の現状は少しも変わっていません。

 福田内閣は地味であってよいと思います。パフォーマンスの政治はやめましょう。どこまでも国民の目線に立ち、国民のための政治に生真面目に取り組んでいただきたいと思います。

 それが国民の信頼を回復する王道であると私は思います。「一つ一つの問題を解決してはじめて政治の信頼回復ができます」という福田さんの言葉を信じております。頑張ってください。

2007年9月13日


 あまりにも情けない政権の投げ出し方です。安倍晋三首相が退陣を表明しました。臨時国会で所信表明演説を行い代表質問に入る直前にです。まさに前代未聞。無責任の謗りは免れません。


 7月の参議院選挙で惨敗したにもかかわらず続投し内閣改造までして臨んだ臨時国会です。続投が「いばらの道」であるのは覚悟の上ではなかったのでしょうか。

 安倍首相が「職を賭す」と述べていたインド洋上での自衛隊の給油活動の継続。臨時国会はの焦点はここにありました。国民は国会というひのき舞台で安倍総理がどう説得するか期待していたはずです。

 安倍首相はメンケル独首相やブッシュ米大統領らに、テロ対策特別措置法の延長に「最大限の努力をする」と表明したばかりです。にもかかわらず何もせずに辞任したのでは世界も日本の首相の言葉の軽さに驚くことでしょう。

 安倍首相は戦後最年少、初の戦後生まれの首相として昨年9月に華々しくデビューしました。「戦後レジームからの脱却」とか「美しい国」などの言葉をよく聞きました。

 「少年官邸団」とか「お友達内閣」といわれるほど親しいメンバーを周囲に置きました。今までの自民党政権にはない清新さはありましたが、危機管理能力に欠ける危うさが付きまとっていました。

 私が安倍首相を見ていて心配していたのはこの人には生活の匂いがしないということでした。テレビ写りのいいスターのようでした。この人には国民の思いが本当にわかっているのだろうかという不安をいつも感じていました。

 参議院選挙の街頭演説を聞いていても、言葉はたしかに走っているのですが心に残るものが少なかったように思います。

 それにしても、いつも颯爽として見えた安倍首相が退陣の会見では目がうつろなほどに憔悴しきって見えました。その痛々しい姿を見て私は悲しくなってしまいました。

 政治的な空白を作ることは断じて許されません。自民党は早急に総裁を選出し、国会では新しい首相を指名。組閣を急がなければなりません。

 首相が代わっても政府と与党にとって、この国会が「いばらの道」であることは変わりません。 言葉だけではなく先見力と胆力を備えた宰相の誕生を私は期待しています。

2007年9月3日


 出直すはずだった安倍改造内閣なのにわずか1週間でまたまた閣僚が不祥事で失脚した。情けない限りである。


 今度の内閣改造の最大の狙いは、安倍首相もいうように「政治への国民の信頼の回復」にあったはずである。

 人心を一新して参議院選挙の惨敗から政権を浮上させる。そんな思いで安倍首相は人事の構想を練り上げたはずである。

 その期間は一ヶ月もあったのに何をしていたのだろうか。入閣候補者が不祥事を抱えていないかチェックしなかったのだろうか。

 ことに今回辞任した農水相の場合、事態は一層深刻である。自身が組合長を務める農業共済組合が国から補助金を不正に受け取るという農政そのものに関わる不正であったからだ。

 結果的にいえば安倍首相は補助金の不正受給に関わった組合のトップをそのまま監督官庁のトップに座らせてしまったのだ。

 しかもこの不正は3年前に会計検査院が指摘し、今年5月にも改めて未処理を指摘していたにもかかわらず、補助金は返還されていなかったという。

 会計検査院は政府の機関である。政府の機関が知っていたことを安倍首相は知らなかったのだろうか。首相やそのスタッフの能天気振りにはあきれてしまう。

 不祥事の発覚は農水相だけではなく、官房副長官や外務政務官にも政治資金収支報告書 に虚偽記載の疑いが指摘されている。

 どんなに気をつけて選んでも次から次にこうした問題が出てくるのでは、自民党という政党そのものに問題があるといわれても仕方があるまい。

 9月10日には臨時国会が始まる。安倍首相そして自民党は心を引き締めてこの国会に臨んでほしい。内外に国政の課題は山積しているのだ。

2007年8月24日


 自民党の参院選総括委員会が報告書をまとめました。ここでは惨敗を招いた要因としてまず、年金記録不備や「政治とカネ」問題、閣僚不祥事を「逆風三点セット」と位置づけています。


 さらに安倍晋三首相(党総裁)に対しても「後手後手の対応と手ぬるい処分により、国民から指導力、統治能力に疑問を呈された」と指摘しています。

 また、首相が掲げた「美しい国」や「戦後レジームからの脱却」についても「政策の優先順位が民意とずれていなかったか。『生活が第一』とした野党のキャンペーンに主導権を奪われた」と断じています。

 加えて、自民党が金城湯池としてきた郡部でも「都市との格差や置き去り感から、地方の反乱というべき猛烈な反発が広がっている」と明記しています。

 こうした分析とともに、次の衆議院選挙に向けて「党は存立の危機に立っている」との認識を示し、首相に「国民と苦楽をともにする中で、国民の目線に沿った政権運営」を行うよう注文を付けています。

 自民党がこうした報告書をまとめたこと自体は評価できますが、さらに踏み込んで小泉前総理の「構造改革」路線そのものを現時点で総括することも忘れてはならないと私は思います。

 世間では「小泉改革の負の部分への対応」がよく取り上げられますが、私はそうした場当たり的な対応ではなく、小泉改革そのものに踏み込んだ骨太の政策転換がこの際必要ではないかと思います。

 アメリカもヨーロッパも大きな政策転換を余儀なくされています。日本もまた大きな政策転換を国民は求めているのではないでしょうか。

 自由競争という経済の論理を生かしつつ、これに対する政治の役割はどうあるべきか。 今一度原点から考えるべきではないでしょうか。

2007年8月9日


 徳島県鳴門市の大塚国際美術館では年に一度、午後5時からですが浴衣の人は入場料が無料になります。


 私も近所の友人を誘って家族で出かけてみました。午後5時20分ぐらいに入館したのですが、すでに500人ほど入っているとのことでした。

 絵画の鑑賞は組ごとにガイドがついてくれました。私たちは午後5時30分からのツアーに参加しました。30人くらいだったでしょうか。浴衣同士ですからすぐ気安くなりました。

 この日の私たちのガイドは『夏』をテーマに数点の絵画を選んで説明してくれました。同美術館には西洋の名画を原寸大で展示した陶版の名画が1000余点あり、短時間で鑑賞するにはとてもいい企画だと思いました。

 絵画鑑賞の最後はモネの睡蓮でした。ライトに浮かび上がる睡蓮の池には夜になると花びらを開く睡蓮もありました。瀬戸内海からの涼風を浴びながら浴衣で眺めた睡蓮には一味違った趣がありました。

 午後7時からはミケランジェロの天井画を完全復元したシスティーナ・ホールでコンサートが開かれました。浴衣で聞くコンサートも格別な味わいがありました。

 最近はあちこちの美術館で浴衣の人を無料にする企画があると聞きます。美術館と浴衣という組み合わせは意外性があるようですが、自分で経験してみるとなかなかいいものだと思いました。

・美術館年に一度の浴衣の日
・美術館浴衣の人はフリーパス
・モネの池浴衣で巡る夕べかな
・美術館浴衣で宵のコンサート
・浴衣着て青春の日の顔となる
・浴衣着て心の軽くなりにけり
・日本人なるを確かむ浴衣かな(和良)

 

2007年7月3日


 参議院選挙が12日に公示されますが、この選挙の争点はどうやら「年金」になりそうです。共同通信社の行ったトレンド調査でも「年金」を重視して投票すると答えた人が他を引き離しています。


 参議院選挙が「年金選挙」の様相を帯びてきた背景は、いうまでもなく社会保険庁の年金記録不備問題にあります。この問題に対して国民の批判と怒りは収まっていないと言えるでしょう。

 この問題を解決するため、政府と与党は国会を延長して「年金時効特例法」と「社会保険庁改革関連法」「改正国家公務員法」を成立させました。

 冷静に考えてみてこれらは、年金記録不備問題を解決するのは必須の法律ですから与党も野党も党利党略にとらわれず議論して成立を図ってもらいたかったと私は思います。

 「年金時効特例法」は、記録漏れが判明した人への年金の追加給付に会計法上の5年間の時効を適用せず、全額を補償するものです。

 「社会保険庁改革関連法」は、数々の不祥事を起こした社会保険庁を2010年に解体し、非公務員型の「日本年金機構」を新設することが柱になっています。

 「改正国家公務員法」は各省庁による天下りの斡旋を全面禁止し、再就職の受け皿を用意する慣行にメスを入れるものです。

 これらの3法律は年金記録不備問題の根本的な解決に寄与し、国民に安心をもたらすための重要な法律と私は思います。

 1日に徳島入りした安倍首相は持論の憲法改正にはまったく触れず、持ち時間のすべてを年金記録不備問題に絞って訴えました。年金を納めた人は政府の責任で最後の一人まで探し出し年金を支給すると約束したのです。

 統合されていない年金の記録は5000万件あるといわれています。政府は1年以内にすべてが統合できるよう事務を進めるといっているのです。いたずらに不安をあおるのではなく、誠実な仕事ぶりを関係者に期待したいと私は思います。

2007年5月25日


 今年は憲法施行60周年です。国会で憲法改正手続法が成立したこともあり、憲法への関心が深まっています。まもなく参議院選挙もあり憲法をめぐる議論はいよいよ活発になることでしょう。


 東京の国立公文書館で5月3日から22日まで春の特別展「再建日本の出発ー1947年5月 日本国憲法の施行ー」が開催されました。私も館長に案内していただき、鑑賞してきました。

 平素は展示されない「日本国憲法」の「原本」が特別に展示されていました。その隣には「大日本帝国憲法」の「原本」も展示されていました。

 いうまでもなく憲法は国のかたちを示す最高法規です。そして一つしかない「原本」がそろって展示されていることに私は少なからず感動を覚えました。

 大日本国帝国憲法はその第73条の規定に従って、全面改正され新しい日本国憲法に生まれ変わりました。日本国憲法の誕生は新生日本の誕生でもありました。

 昭和22年(1947年)5月3日日本国憲法は施行されたのですがそのときの内閣総理大臣は吉田茂です。彼は昭和20年9月から東久邇内閣の外務大臣、10月からは幣原内閣の外務大臣、昭和21年5月からは内閣総理大臣として憲法改正に関与してきました。

 その吉田茂が、憲法の成立過程を振り返って「少なくとも、草案完成までの段階においては、実際上、外国との条約締結の交渉と似たものがあったように思います」と述べています。

 特別展でも政府が憲法改正草案を決定するまでの過程が示されていました。憲法研究会の憲法草案要綱、マッカーサー憲法草案、政府の憲法改正草案などの現物が展示されていました。

 マッカーサーが急遽総司令部案の起草を命じた背景に、連合国11カ国の代表で構成される極東委員会が発足する前に憲法問題を決着させたいという意思があったこともうかがい知ることができました。

 私が特に興味を持ったのは、当時の帝国議会に帝国憲法の改正案として出された日本国憲法案が衆議院で修正、貴族院でもさらに修正され、再び衆議院に回付されて成立していることです。

 資料展示では修正箇所が赤い文字で書き込まれてありましたが、かなり多いことに驚きました。俗に現憲法は一方的な総司令部の押し付け憲法であるから改正しなければならないなどと言う感情的な議論がありますが、当時の議会ではこんなに真剣な議論もあったことを知るべきでしょう。

 憲法をめぐる議論はこの国のあり方を決める大切な議論です。感情論ではなく冷静で落ち着いた環境で議論を深めていくことをお互いに心掛けたいものです。

2007年5月14日


 第37回四国ホトトギス俳句大会が、昨13日松山市の愛媛県民文化会館で行われました。 この大会には「ホトトギス」主宰の稲畑汀子さん、副主宰の稲畑廣太郎さんが出席しました。


 徳島からも俳誌「祖谷」主宰の上﨑暮潮さん、編集兼発行人の岩田公次さんはじめ21人が参加しました。私も皆さんとご一緒に参加させていただきました。

 松山市は正岡子規や高浜虚子のふるさとであり、近代俳句発祥の地ともいえるでしょう。それだけに俳人にとっては一度は訪れたいところです。

 四国も高速道路が整備され、徳島から松山までバスで3時間30分で行けるようになりました。四国大会には四国四県から200人弱の方々が集りましたが、松山まで日帰りできるようになり、喜んでいました。

 「ホトトギス」主宰の稲畑汀子さんは高浜虚子のお孫さんです。昭和6年のお生まれとおっしゃっていましたが、芦屋のご自宅からご自分で車を運転して来られたそうです。

 私は昭和18年の生まれですから一回り違うことになります。それにしてもお元気な姿に感心しました。現在は「ホトトギス」主宰のほか日本伝統俳句協会会長、虚子記念文学館理事長、地球ボランティア協会会長としても活躍されています。

 句集に『汀子句集』『汀子第2句集』『汀子第3句集』『障子明り』、評論・随筆集に『汀子句評歳時記』『風の去来』『俳句に親しむ』『ことばの春秋』、写真集に『TEIKO 俳人稲畑汀子の四季紀行』、編著に『ホトトギスー虚子と100人の名句集』などがあります。

 最近は『虚子百句』を上梓されました。私も読んでいますが、とても味わい深い本であると思います。祖父と孫という身近なところから眺めてきた汀子さんでなければ書けない虚子の実像が見事に描かれています。

 四国俳句大会の句会で汀子さんが選んだ特選10句は次のとおりでした。

・漱石も子規も端居をせし縁に
・母の日をキャンセルしても行くところ
・再会の言葉涼しくたまわりし
・快晴の天守を下りてきて薄暑
・裏方の汗を見せざる笑顔かな
・歩み来て若葉に息を整うる
・母の日や四国一つになる句会
・葉さんに会うて宿立つ涼しさよ
・白靴を履いて家事より遠ざかる
・ついてゆく吟行地へと杖の汗

 

2007年4月24日


 徳島県阿波市土成町の医王山神宮寺は三木武夫元総理の菩提寺ですが、今、牡丹が咲き競っています。私も俳句の仲間とともに鑑賞してきました。


 境内には赤や緋色をはじめ深紅や紫、そして白や黄色など色とりどりの牡丹が約130種類ありますが、ほとんどの花が満開になっていました。

 三木武夫元総理は土成町に生まれました。1937年30歳で衆議院議員に初当選して以来19回連続当選、議員在職は51年に及びました。

 政界浄化や政治改革に執念を燃やしました。一貫したその政治姿勢は支持者から「クリーン三木」とか「議会の子」と呼ばれました。

 自由民主党のなかでは常に主流派とは違う清治信条を持ち、小派閥を率いて臨機応変に立ち回り「バルカン政治家」と呼称されることもありました。

 私は昭和55年、58年、62年と3回の総選挙を同じ選挙区(徳島全県区)でともに候補者として戦ったことがあります。いつも厳しさの中に温かさのあるお顔で「頑張りなさいよ」と声を掛けていただいたことを今も思い出します。

 平成10年7月には三木武夫さんの長女の高橋紀世子さんが参議院選挙に初出馬しました。その選挙事務長を私が勤めたのですが、まことに不思議なご縁でした。

 紀世子さんは164544票を獲得して当選しました。泉下の三木武夫さんも喜ばれたことでしょう。この選挙で神宮寺の御住職が街頭演説会に駆けつけてくださったことも私はよく覚えています。

 紀世子さんとのご縁で渋谷区南平台の三木武夫記念館にもよく伺いました。総理夫人の睦子さんはいつもお元気で食事をともにした後、ご自身が作られた陶器をお土産に下さることがありました。

 睦子さん紀世子さんそして紀世子さんの長女である麻さんの三代の雛人形を飾った雛祭りを見せていただいたこともありました。

 さて、神宮寺の牡丹を見る吟行句会で私はこんな句をつくりました。

・ぼうたんやバルカン政治家眠る寺
・議会の子ここに眠れり花牡丹
・オーロラも天衣といふも牡丹かな
・ぼうたんの白に黄金の雌蕊かな

 

2007年4月3日


 ジュネーブの国連欧州本部前広場に広場の改修工事で2年前に撤去されていたオブジェ「壊れた椅子」が再びお目見えしたとの報道を今日の朝刊の片隅に見つけました。


 一本の足が地雷で吹き飛ばされたかのように折れた椅子は木製で高さ12メートル、重さ6トンもあります。1997年8月対人地雷禁止運動の象徴として設置されたものです。

 私は2003年9月29日から10月5日まで第109回IPU(列国議会同盟)総会に出席するためジュネーブに滞在しました。宿舎が国連欧州本部に近いところにあった関係もあり毎朝この椅子を眺めながら散歩したことを思い出します。

 IPU総会は世界の主権国家の国会議員の代表による会議です。各国の政府の代表による執行機関である国連に比べ、より柔軟に、より活発に、より自由に世界が直面する諸問題を語り合い、まとまった意見を公表して国連をはじめとする国際機関や主権国家に伝えています。

 1996年9月16日から21日まで北京で開催された第96回IPU総会には私は日本の議員団の団長として参加しました。このとき採択した決議案の一つが「対人地雷の世界的禁止及び人道目的のための地雷除去の必要性」でした。

 対人地雷の禁止運動は1991年アメリカとドイツのNGOの合同キャンペーンから始まりました。1992年欧米の6団体がニューヨークで「地雷禁止国際キャンペーン」(ICBL)を発足させ、世界的な運動に広がりました。

 こうした世論の高まりもあり、1997年には対人地雷禁止条約の起草会議がオスロで開かれ、同年12月3日オタワで「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに破棄に関する条約」(オタワ条約)が署名されるに至ったのです。

 ICBLには世界の60カ国以上から1000を超えるNGOが参加したと言われています。1997年にはICBLとコーディネーターのジョディ・ウィリアムズ氏にノーベル平和賞が贈られています。

 しかしながら、対人地雷を多数保有しているアメリカや中国、ロシアをはじめ約40カ国がまだ締約国となっていないなど課題も残っています。

 同じように非人道的な兵器であるクラスター爆弾の禁止運動もまだ道半ばです。「オタワ条約を後押ししてくれた椅子が戻ってきた。今度はクラスター爆弾禁止運動を後押ししてくれるはず」と「壊れた椅子」の復活を喜ぶ関係者の声も伝ってきます。

 戦争のない平和な世界は誰もが願っているはずなのに、この地上では人が人を殺戮するという野蛮で愚かな行為が一瞬も止まないのです。

 本当に情けないことです。残念なことです。「壊れた椅子」は「壊れた人間の心」そのものを表現しているように私には思えてなりません。

2007年3月14日


 淡路島の松帆の浦に行ってきました。私の高校のクラス会が1泊2泊で行われたのです。私たちは徳島県立徳島工業高校機械科を昭和37年3月に卒業しましたがこの日は担任をしてくれた恩師も含めて10人が全国から集りました。


 日本の高度成長期に第一線で頑張ってきた人たちです。今はほとんどが定年退職をしていますがなかには現役で頑張っている人もいます。第二の職場で新しい出発をした人もいます。

 初日の3月11日は寒が戻ってきたかのような寒い一日でした。それでも全員元気一杯で岩屋港での昼食をすませると静の里公園まで足を伸ばして一億円の金塊を見てきました。

 これは竹下内閣のときのふるさと創生基金を活用したものですが、今も観光の目玉になっているようです。一億円はそのまま金塊で残っているし考えてみると上手な使い方だったかもしれません。

 阪神・淡路大震災のときに露出した野島断層を保存する北淡震災記念公園の野島断層保存館にも行ってきました。震度7を体験できる震災体験館では全員が地震の怖さを実感しました。

 松帆の浦の宿では、時間の過ぎるのも忘れて旧交を温めました。八十歳になる恩師が最近習い始めたオカリナを披露してくれました。手作りの楽譜を持参して懐かしい曲の数々を演奏して下さった恩師に誰もが生徒に帰って聞き入っていました。

 翌日は風はまだ冷たかったものの春の光が戻ってきました。私たちは淡路島国営明石海峡公園や兵庫県立淡路夢舞台温室の奇跡の星の植物館を見学しました。

 この植物館は日本最大級の広さと美しさを誇っていますが、珍しい植物があることはもちろん季節にあわせた展示がされていてなかなか見ごたえのあるものでした。

 奇跡の星とは宇宙の塵から偶然に生まれた地球のことであり、たくさんの生物がともに暮らすことのできるこの地球を守ることの大切さを実感しました。

 このあと淡路ファームパークまで足を伸ばして人気者のコアラにも会ってきました。途中に展望された紀淡海峡に続く海には「いかなご舟」がひしめいていました。

 私はこの小旅行でこんな句を作りました。

・海峡に春の光の戻る朝
・いかなごの湧きて鴎も湧きにけり
・いかなごに鴎も猛き禽となる
・いかなごの群れて紀淡の海狭し
・紀の鼻へいかなご舟の数知れず
・真っ平いかなご舟の浮かぶ海


 クラス会はこれからも毎年開かれます。お互いに健康第一で頑張ろうと再会を約束して帰途に着きました。皆さん本当にありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしています。

2007年2月28日


 「白魚漁が始まりました。見に来ませんか。句会もしますよ」こんな電話を徳島県阿南市の湯浅苔巌さんからいただきました。


 「いつですか」とお聞きすると「明日です」と言います。私は急いで日程を調整して出かけました。白魚漁は初めて見るので興味深々でした。

 私が阿南市椿町の椿川に着いたときには川岸から白魚を捕る四手網が下ろされていました。20人ほどの句友の皆さんがその網を覗き込んでいました。

 魚籠には捕れたばかりの白魚が跳ねていました。元気一杯に泳がせている魚籠もありました。捕れたばかりの白魚は琥珀色に輝いて見えました。

 この時期、白魚は海から川に上ってきて産卵するそうです。澄み切った水に目を凝らせて網に入ったことを確かめて網を引き上げます。この作業を何回も繰り返えします。

 白魚漁は早春の風物詩です。今年は暖冬の影響で少し早く始まりましたが、4月中旬まで見られるそうです。

 潮目が変わったのでしょうか。白魚の姿が見えなくなり、その日の漁は終わりました。私たちが帰ろうとすると漁をしていたご婦人が「苔巌さん、皆さんで食べてください」とその日捕れた白魚を全部呉れました。

 流石に地元の人に信頼の厚い苔巌さんだと私は感心しました。苔巌さんはその白魚を句会の会場である椿自然園に持ち込んで白魚汁を作って私たちに振る舞ってくれました。

 椿自然園でも今年初めての白魚汁と言っていましたが、地元でいただく初物は本当においしいものでした。来てよかったとつくづく思いました。

 食事の後の句会は白魚で大いに盛り上がりました。私はこんな句を作りました。

・白魚の網上げて又網上げて
・白魚のこぼす水滴琥珀色
・見物へ捕った白魚全部呉れ
・捕ってきしばかりの白魚澄まし汁
・初物の白魚汁でもてなさる
・白魚の句会白魚見て食べて

 お世話になりました湯浅苔巌さんはじめ椿町の皆さん、句友の皆さんに心から感謝申し上げます。

2007年1月31日


 日本に永住帰国した中国残留孤児が国に賠償を求めた訴訟の判決が30日、東京地裁でありました。裁判長は「早期帰国を実現する法的義務や、法的な自立支援義務を国が負うとは認められない」と原告側の請求をすべて棄却しました。


 残留孤児は全国15地域で集団訴訟を起こしていますが、最初の大阪地裁は原告敗訴、2件目の神戸地裁は原告勝訴、3件目である今回の東京地裁は原告敗訴になりました。

 これからも裁判は続くのですが、私はそもそもこの問題は裁判で争う問題ではないのではないかと考えます。判決が「旧憲法下の国家政策を現行憲法に基づいて評価したり、法的判断することは裁判所として差し控えるべきだ」と述べていること自体、司法の限界を示しているのではないでしょうか。

 司法に任せるのではなく、今こそ政治が乗り出すべきでしょう。誤った国策によって荒地での死闘を余儀なくされたドミニカ移民に対して、政府が支援に乗り出した先例もあります。

 安倍首相は30日、法律問題や裁判の結果とは別に「日本に永住帰国した中国残留孤児には支援の仕方を含め与党とも相談して誠意を持って対応するよう」厚生労働大臣に指示をしたようです。

 与党では、日本に永住帰国した中国残留孤児が①60歳に達した翌月から単身者には月額13万円支給する②配偶者加算として5万円支給する、などを柱とする新たな給付金制度の創設を提案しています。

 与党の給付金制度の創設には新たな法整備が必要です。こうした議論をこそ現在開かれている国会でしてもらいたいものだと私は思います。

 日本に永住帰国した中国残留孤児は約2500人いますが、その圧倒的多数が生活保護に頼っているといわれています。帰国後の国語教育をはじめとする国の支援策が結果的に不十分だったことを示しているのではないでしょうか。

 残留孤児の方々の高齢化も進んでいます。日本国内にあるこんな喫緊の問題が解決できないようでは安倍首相の「美しい国」も単なるキャッチコピーに終わってしまうのではないでしょうか。政治の奮闘と首相の決断を心から期待しています。

2007年1月24日


 日本一早い桜祭りで知られる沖縄県の本部町の八重岳で今年も20日から桜祭りが始まりました。今年は開花が少し遅れているようで見ごろは2月上旬になるそうです。


 私は3年前の大寒の日に八重岳に登りました。麓では2分咲きほどであったのに中腹では5分咲きとなり頂上では満開になっていたことに驚いた経験があります。

 天気予報の名調子で親しまれてきた倉島厚さんは『日和見の事典』で「春の花は暖かいほど早く咲くが、その暖かさの前に寒さを経験しないと花は咲かない。沖縄では暖かさは充分あるので、開花には寒さの経験の方がより重要、そこで寒さを早く経験する山頂の桜から順に咲き始める」と言っています。

 また「同じ理由で、沖縄の桜前線は本土とは逆に、北から南に下がっていく傾向がある」とも言っています。案内してくださった地元の方もそんなことを言っていましたが面白いと思いました。

 沖縄の桜は『カンヒザクラ』で『寒緋桜』と書きます。バラ科の落葉高木で高さ10メートルに達します。台湾や中国南部の原産。ヒカンザクラ(緋寒桜)ともいわれますが、本土のヒガンサクラ(彼岸桜)と混同されるのでカンヒザクラ(寒緋桜)という人が多いと聞きました。

 この寒緋桜は花の直径は1.3センチくらい、濃い紅色(緋色)で下に垂れています。私たちがよく知る徳島県の蜂須賀桜は日本古来のヤマトザクラとこの寒緋桜との一代交雑種と聞きました。ですから蜂須賀桜もやや下に垂れて咲いているように見えるのかも知れません。

 今年は暖冬のようです。このまま春になってしまうのではないかとさえ思うほどです。「暖かさの前に寒さを経験しないと花は咲かない」と言う倉島さんの言葉を噛み締めている毎日です。

・冷え込みて寒緋桜のほころびぬ
・琉球は北より寒緋桜咲く

 1月の蝋梅、寒梅、冬桜、寒椿、詫助に始まり、2月の猫柳、クロッカス、片栗の花、3月は菫、蒲公英、ミモザの花、4月には桃の花、梨の花、杏の花、李の花そして桜と続きます。これらの花々が見事に咲き競うためにも冬はもっと冬らしくあってほしいと私は願っています。

2007年1月10日


 公明党訪中団の太田昭宏代表は8日午後、北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席と会談しました。公明党と中国政府の間には20数年にわたる友好関係があり、今回も終始和やかに進められたようです。


 会談の冒頭、胡主席は「公明党が結党して以来、中国を重視し、国交正常化後も中日関係を推進してきたことを永遠に忘れない。太田代表の中日関係を強化したいとの政治的意思を称賛したい」と述べたと報道されています。

 太田代表は安倍晋三首相からの親書を手渡しながら「6月ごろに来ていただければうれしい」と胡主席の早期訪日を招請しました。

 胡主席は「中国は中日関係を最も重要な二国間関係として意識してきた。日本とともに努力し、この二国間関係を発展させたい」との考えを示しました。

 また、安倍首相からの訪日の招請に対しては「喜んで招請を受けたい。双方に都合がいい時期に訪日することに賛成する」と答え、太田代表から安倍首相に伝えてくれるよう念願しました。

 胡主席の訪日が実現すれば、1998年11月の江沢民国家主席(当時)以来の中国国家主席の来日となります。

 ここ数年、政冷経熱といわれ続けてきた両国関係ですが昨年10月の安倍首相の訪中で首脳交流の端緒が開かれました。それだけに胡主席の訪日は私も心から歓迎するところです。

 私は胡主席には2度お会いしたことがあります。一度は北京で、もう一度は東京ででした。北京でお会いしたときは中華全国青年連合会(全青連)の主席でした。東京でお会いしたときは国家副主席であったと記憶しています。

 いつも端正なお姿で、礼儀正しく振る舞われていたことを覚えています。胡主席の訪日が実現し、来年2008年の北京オリンピックが良好な両国関係の中で行われることを私は日本国民の一人として心から期待しています。