「阿波路はすべて山の中であった 」。二十年間、徳島県をすみからすみまで歩き続けてきた私の実感である。
東京の友人などは「四国は島国だから、どこからでも海が見えるでしょう」などというが、四国島に住んでいる私達から見れば「四国は山また山の大陸ですよ」といいたくなる。
西へ行っても南へ行っても山は深い。ことに県西の三好、美馬両郡は「こんな山奥にまで家があるのですか」と叫びたくなるほどの高地に住居が点在している。夜など家々の灯が星と見間違えるほどである。
なかでも東西の祖谷山村は、まさに現代の秘境と呼ばれるにふさわしい鄙びた佇まいである。この両村には、もう数十回足を運んだろうか。車も通らぬほど生い茂った草を掻き分けながら歩き続けて懐かしい人々と再会できる喜びは、たとえようもないほどうれしい。
祖谷の人々の最大の悩みは過疎化の波がここ四十年来、急速に進んでいることである。村長さんの話ではこの四十年間に人口が半分以下になったという。人口 の減少に伴い、歳入はガタ減りした。
町財政は青息吐息だ。そんな苦しい財政の中から山村開発のための道路を作っても、道が完成されたときには、その道を引 越し道具を満載したトラックがおりてくる。そんな笑い話にしたくないほどの悪循環が繰り返されている。道はできた。家もある。が、すでに住む人はいないと いった厳しい現実を私も何度か目にしてきた。
過疎の最大の原因は、若い人たちの働ける職場がないことだ。近代の日本は工業立国を国策として高度経済成長の道を突っ走り続けてきた。 その結果、海に面した大都市中心に人と物と金が集まった。労働力の供給地とされた農山村から若い人達の姿が消えてしまったのである。
関西の徳島県人会は、すでに百万人を数えるという話を聞いたことがある。徳島県の人口は八十三万人。話半分としても驚くべき数字である。徳島県下に若い 人達が安心して働ける職場を作る。これは緊急を要する課題である。為政者は最大の努力を払うべきであろう。
過疎と老齢化が進む風景の中で、心なごむものがあった。それは、農家の軒先で赤ちゃんのオシメが満艦飾に干された風景に出会ったときで あった。町の中ならごく普通の風景だったが、山また山を踏み越えてたどり着いた農家の軒先でこんな風景に出会うと涙が出るほどうれしかった。
ことに永い冬 が終わり、新緑が目にしみる頃に訪れると、鯉幟とオシメが一緒になって五月の風にそよそよと泳いでいた。まるで“わが家には息子がいて嫁がいて、孫までい るのですよ ”といわんばかりに・・・。そんなおじいちゃん、おばあちゃんのうれしそうな笑顔が思わず心に飛び込んできたのであった。
徳島市の真ん中の西船場に生まれ、蔵本に育った私は山の生活の体験がない。だから山の生活というと、反射的に小学校の頃、学校の先生が 教えてくれたことを思い出す。
「真ん中に囲炉裏があって、鍋が掛かっています。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんもそして子供達も、みん な囲炉裏端に集まります。おばあちゃんが鍋から、雑炊を一人一人によそってあげます。熱い雑炊をフーフー吹きながら、みんなで一日の出来事をなごやかに語 り合います。こうして山里の秋の夜は更けていくのです」
そんな風景はもう遠い昔の話になってしまった。しかし、せめて親、子、孫の三代の人々が生まれた土地で安心して生活できるように、山村を振興させていくことは、現代日本の直面している大きな課題であることは確かだ。
四国第二の高峰である剣山のふところに抱かれた秘境・祖谷を訪れる人は多い。しかし祖谷というふるさとの味は日帰りの観光旅行ではわからない。できれば一週間、短くても三日間ぐらいの日程をとって泊まり込みで祖谷を訪問することを私はお勧めしたい。
春の遅い祖谷では五月になって桜が開く。このころの祖谷路は、まさに百花繚乱の感がして心浮き立つ思いがする。夏は蛍が飛び交い、秋には満山これ紅葉と なる。冬の祖谷路は道路が凍結して危険だが、深々と降り積もる雪の夜、炬燵を囲んで昔話を聞くのも味わい深い。
私は台風の最中に訪問して、徳島へ帰る道路 がすべて決壊してしまい陸の孤島となった祖谷で三昼夜を留めていただいたことがある。その折は、京上の平岡一男さん宅でお世話になったが、温かくもてなし ていただいたことを今も昨日のように憶えている。
私は祖谷路を数え切れないほど訪問しているが、昭和五十五年から五十八年にかけては一軒残らず家庭訪問する決意で祖谷路を歩き続けたことがある。私が訪 問したのは現在ともに徳島県三好市となった当時の東祖谷山村と西祖谷山村である。
東祖谷山村では、一番奥の名頃からはじまって菅生、久保、西山、落合、栗 枝渡、京上、若林、小川、樫尾、京柱峠、元井、和田、今井、平など、西祖谷山村では、閑定、善徳、一宇、尾井ノ内、徳善などの地域である。車が通らず歩い て登った地域も多い。くねくねと続く細い獣道を汗を流しながら登った。農家の軒先で一休みしながらいただいたお茶のおいしさは格別だった。
なかでも忘れられない祖谷の味は、蕎麦と"でこ回し"である。祖谷では昔から来客に蕎麦を打つ風習がある。今でもこの風習は残っていて台所でコトコト音が しているかと思うと、お椀に山盛りになった蕎麦が出てくる。
「まあ、おひとつどうぞ」と勧められて箸をとる。今、打ったばかりのまさしく手打ち蕎麦であ る。太いのもあり細いのもある。長さもまちまちである。どれもやけに短い。「混じりっけなし。百パーセントの蕎麦粉ですから、町の蕎麦みたいに長くならな いんです」という。これがなかなかいけるのである。
お椀が空になるのを待ち構えていて「もうひとつどうぞ」が繰り返される。何度、断っても山盛りの蕎麦が出てくる。「もうお腹は一杯です。これ以上は無理 です」というと、今度は大皿に大盛りの"でこ回し"である。
"でこ回し"というのは、土地で収穫した馬鈴薯に味噌をつけて焼いたもの。昔は囲炉裏で人形浄 瑠璃の木偶(でこ)回しよろしく焼いたのでこの名前がある。焼き味噌の香ばしい匂いが一段と食欲を誘う。
祖谷の馬鈴薯は小型だが、粉が吹くほどに実が締 まっている。馬鈴薯と味噌という素朴な取り合わせであるが、味噌を焼くことによって野生的な風味が生まれるのである。
"でこ回し"をいただきながら話ははずむ。とにかく祖谷の人々は話好きだ。夜の更けるまでというより、ことによったら夜の明けるまで、つき合わされることも多い。平家の落人伝説のある村である。平安の世さながらに話のテンポもゆったりしている。
昔、祖谷では米が収穫できなかった。山が高く気温も水温も低くて水稲に適さなかったのが原因という。米が作れない農家では蕎麦や馬鈴薯が日々の食卓に出た。馬鈴薯に味噌をつけ、焼いて食べるというのは山里の人達の生活の知恵であったに違いない。
星降る夜、蕎麦と"でこ回し"という心づくしの御馳走をいただきながら、心美しい人々とともに人生の来し方を振り返りながらのんびりと語り合う。都会の 喧騒を離れてこんな贅沢ができるのも祖谷ならではのことであろう。
最近は道路事情がよくなり、祖谷に来て秘境の代名詞のようになった"かずら橋"を渡った 人は多い。でもこの地で宿泊していく人は少ない。私はぜひ宿泊してこの土地の人々と触れ合ってほしいと心から思う。忙しい現代人が忘れている何かがここに はある。それを発見してほしいからである。
私が徳島県最高峰の剣山に初めて登ったのは徳島市立加茂名中学校三年生の夏休みであった。級友の粟飯原清治君ら三人で 出かけたのだが、運動靴に小さなナップザック一つという軽装だった。
当時の私は山といえば徳島市の眉山を連想するくらいで、剣山がどれほど高い山である か、想像もできなかった。 標高千九百五十五メートル。県下で一番高い山であるということは知っていた。その山に登るというだけで心弾むものがあった。蔵本駅から汽車で穴吹駅へ。そ こからバスで木屋平村に入り、山道を四時間くらい歩いたように思う。
とにかく急な山道だった。四つんばいになって登らねばならないような岩場もあった。喘ぎ喘ぎ登りつめると急に視野が開け、熊笹の茂る尾根道に出た。稜線を渡る風が汗の流れる膚に心地よかった。立ったまま枯れつきた古木がそこかしこに白い膚を見せていた。
頂上は熊笹が敷き詰められたような大平原だった。周囲三百六十度、見渡す限り山また山である。屏風のようにそそり立つ山々の間を深い渓谷が走る。その渓 谷沿いに白く光るのは、点在する民家のようである。
まさしく四国は山また山の国であり、この山また山の大自然をわが天地として、生きゆく徳島県人はなんと 幸せなことだろうか。そんな感謝の気持ちが湧いてくる光景だった。今もなおその雄大な眺望は鮮明に脳裏に焼きついている。
剣山初登頂を契機に山に魅せられた私は、その後、北アルプスの穂高、乗鞍、白馬や浅間、蓼科、蔵王、阿蘇の中岳などを始めヨーロッパアルプスのユング・ フラウ・ヨッホやエギーユ・デュ・ミディなどにも登ったが、最も印象に残ったのは富山県の立山である。
立山へは黒部から宇奈月へ入り、いわゆる黒部・立山 アルペンルートで弥陀ヶ原高原へ。初夏というのにバスの背をはるかに越える積雪が残っていた。山荘風の弥陀ヶ原ホテルから眺めた眺望がまたすばらしいもの だった。
はるかかなたに加賀の白山がそびえ立ち、一面に白雪の大平原が広がっていた。この雄大な景観が今ではサンダル履きの軽装で見られるようになった。
観光ルートの開発によって、秘境が秘境でなくなり、ごく一部の人々しか見られなかった景観が、誰にでも楽しめるようになったことは確かに大きな進歩であ ろう。しかし、それによって失ったものも大きいことを知らなければならない。
すでに立山では、名物だった天然記念物の雷鳥が絶滅の危機にさらされている。もともと高山にしか生息しない雷鳥は無菌状態に近い環境の中で一生を過ごしてきただけに、菌に対する抵抗力が極度に弱い。その体を登山者達の食べ残す食料 を通して入った雑菌が蝕んでいるというのだ。
子を守るために、自らが傷を負っているかのように見せかけて、敵の注意を引きつけるというこの悲しいほどに愛らしい母鳥達が、人間の撒き散らす残飯によって生命を絶たれようとしているのだ。まことに残酷なことを人間はしているといわざるをえない。
わが剣山も最近では、道路が整備され、リフトを活用すれば頂上近くまで簡単に登れるようになっている。私も家族で登ったことがあるが、昔と比べると「こ んな深山にまで開発は進んだのか」と思うほどであった。
それでも頂上からの眺めは昔と変わらず、ジロウギュウや三嶺をはじめふるさとの山河を目のあたりに した感動はひとしおのものがあった。子供達の心にも強く焼き付いたに違いない。自然保護か開発かの論議はなかなかむつかしいものであるが、この大自然は人 間だけの私有物ではないことに思いを馳せる心暖かな視点を忘れてはなるまい。
徳島県から高知県へ四国山地を吉野川に沿って横断する国道32号線を行くと「大歩危小歩危」の景勝を左の車窓に観る。 大歩危のドライブイン「まんなか」からは遊覧船が出ている。右に左に見事な舵さばきを見せながら船頭さんが「大歩危小歩危」の見どころを語ってくれる。な かなかの名調子である。
私は東京や大阪をはじめ県外からのお客さんには、きまってこの遊覧船を案内することにしている。 春はつつじの薄紫、夏はみずみずしい緑、そして秋は赤や黄の紅葉が燃え立つばかりに美しい。満山をおおう天然の色彩が岩と水に調和して日本を代表する渓谷 の美をかもし出す。そんな大歩危小歩危の船下りは、いつ訪れても心踊るものがある。
私は中学校の遠足で「大歩危小歩危」を訪れて以来、その美しさに魅了されてしまった。「大歩危小歩危」の名前の由来は「大きな歩幅で歩いても小さな歩幅で 歩いても危ない」といわれるほど谷が深く道が狭いということにある。その昔、ここを旅する人達は、現在の国道32号線よりはるかに高い山の尾根道にある旧 街道を歩いたそうだ。
現在もその旧街道は山中にひっそりと残っている。参勤交代する土佐の殿様もここでは馬や篭を下りて、自ら歩かれたという。かの坂本竜馬が土佐藩を脱藩して 京大阪に出たときも、おそらくこの旧街道を抜けていったことであろう。旧街道から眺めた大歩危小歩危の渓谷は、千尋の谷底と見えたに違いない。
そんな「大歩危小歩危」を思うとき、私がいつも連想するのは「親不知子不知」の海岸である。新潟県の糸魚川にあるこの海岸を私は数回訪れたことがある。
日本海に重い雲が垂れ込んだ冬の季節であった。この時期の日本海は強い季節風の影響を受けて絶えず荒れている。荒涼たる海に海岸線を削り取るようにしてそ そり立つ断崖絶壁。白く波立つ海に鴎が乱れ飛ぶ。
心寒々とした風景だった。そんな海岸線に一本の街道が通っていた。 それが「親不知子不知」であった。「親不知子不知」という名前の由来は「親が子を、子が親を心配するひまもないほど咄嗟に渡りきらなければならない危険な道」という意味と聞いた。
「大歩危小歩危」といい「親不知子不知」といい、越さねばならぬ旅路の街道であったという点では共通している。しかしながら、これは南海道と北陸道の差でもあろうか。「大歩危小歩危」には暗さというものがない。
空も水も山も空気も取り巻く全てのものが、あふれんばかりの光を浴びて底抜けに明るいのである。この明るさが私を魅了させるのかも知れない。大歩危の船下りと、祖谷のかずら橋をセットした観光ルートは都会の人々に今も根強い人気を集めている。
四国三架橋時代になり、ハイウエーの時代になったが、昔ながらの道を行かなければならない「大歩危小歩危」を訪れる観光客は増加している。人気の秘密は 単に人里離れたひなびた風景にあるのではなく、底抜けに大らかで明るい天然自然の美と、素朴で暖かい土地の人の人情味にあるのではないかと私は思う。
商業主義にほんろうされる観光開発でなく土地のぬくもりを失わない観光資源の再開発を、関係者にお願いしたい。「また、来たい」観光客にそう言わせることができる徳島にしたいものである。
徳島県西祖谷山村尾井ノ内。海抜七百メートル。大歩危から祖谷に入るかつての有料道路のトンネルの上にある。今でこそきれいな道路が抜けたが、数年前までは、兎道と呼ばれるほど曲がりくねった小道を上り下りしなければならなかった。
村役場に勤める古井孝司さんの家はここにあった。私も何度か宿泊させていただいたが、もう二十五年ほど前のことになるだろうか、最初に泊めていただいた時はびっくりした。
「まあ一風呂浴びてゆっくりしてください」といわれるままに立ち上がると、玄関に、長靴と懐中電灯それに杖までそろえてある。「いや あ、うちの風呂は遠いんでね。案内します」と懐中電灯を照らしつつ、真っ暗な山道を降りていく。杖と長靴は途中で蝮が出るための用心だそうだ。
十メートルほど降りた谷沿いのところにめざす風呂があった。なかに入ってまたびっくり。見事な五右衛門風呂だが、下司板がない。「そこに下駄があるで しょう。それを履いて入ってください。それから、家に帰るまでに冷えたらいけませんから、十分にぬくもってきてくださいよ」呵々大笑される古井さんに、私 も腹を決めて風呂桶に飛び込んだ。
その湯の熱いこと。下駄をはいて風呂に入るのは生まれて初めての経験だが、まさに石川五右衛門同様、釜茹でにされる心境だった。「体が ぬくもったところでまあ一杯」古井さんは接客上手だ。「うちは天然の冷蔵庫でね」と庭に放り出してあったビールを無造作に開ける。その冷たいこと。咽喉に 沁みるあの旨さは忘れられない。
いつのまにか奥さんの順子さんが、祖谷の名物でもある固い豆腐で湯豆腐を作ってきてくれた。それをいただきながら話がはずむ。その話がまた感動的だった。
二人が知り合ったのは、古井さんが二十歳。順子さんが十九歳のとき。舞台は大阪。結婚しようということになった折も折り、古井さんの母が突然、病気になってしまった。農業を手伝わなければならない長男である。祖谷に帰らねばならぬことになった。
古井さんは考えに考えた末、順子さんにこういった。「ワシはおまえが好きや。けど、大阪育ちのおまえに、とても祖谷での生活はでけん。ワシのことは忘れて、大阪でいい人見つけるんや。幸せにならなあかんで」 。突然、祖谷に帰ってしまった古井さんのことが順子さんには、とても忘れられない。ボストンバック一つ持って後を追ってきた。両親には勘当されたという。
それから三十数年が過ぎ、二人の間に生まれた三人の可愛い子供も、今は立派な成人となっている。順子さんもすっかり土地の人達に馴れ、 地域の人や親戚中の人達から「順子さん、順子さん」と何でも相談されるようになった。これには大阪の両親もすっかり感心し、今では祖谷に行ったことを心か ら喜んでいるという。
ともかく女性はたくましい。都会で育った順子さんが、祖谷の山里をわがふるさととして活躍されている姿を見ると思わず心がはずむのである。
上板町の山間部でも東京は日本橋で育ったという花嫁さんが、酪農に若い情熱を注いでおられる姿を見たことがあった。青い空がある。青い海がある。緑の大 地がある。空気もうまい。この徳島を第二のふるさととして活躍される若い花嫁さんに心から拍手を送りたい。
その後、西祖谷山村は市町村合併して三好市となり、古井さんは村役場を退職して「秘境の湯」として人気を集めるホテルの社長になっている。順子さんももちろん元気一杯。いつも笑顔の絶えない都会から来た花嫁さんである。
もう一昔前の話になってしまったが、今も心に残る痛快事は徳島県立池田高校野球部の春二度、夏一度の甲子園連覇であろ う。
池田高校が甲子園に初出場したのは昭和四十六年(1971年)夏であるが「さわやかイレブン」旋風を巻き起こした。その初印象を何百倍にも再現して昭和五十七年(1982年)夏、昭和五十八年(1983年)春、昭和六十一年(1986年)春と甲子園を連覇したのであった。「やまびこ打線」の異名を取る パワー野球が高校球界に革命をもたらしたのであった。
甲子園連覇のころ、日本列島は池田高校の選手と監督の一挙手一投足に湧き返った。日ごろは野球に関心のない奥様やおばあちゃんまで、テレビにかぶりつきで黄色い声を張り上げた。そんな光景を私は徳島県下のあちらこちらで見たものであった。
池田高校の魅力は何といっても、田舎まる出しの強烈な野性味であった。小さくまとまらず、一人一人が思う存分に持てる力を発揮した。その思いっきりのよ さはまことに清々しかった。どんな逆境にあっても、ひたすら勝利を信じ真一文字に突進した。
「攻め達磨」と言われた蔦文也監督のサインはいつも「打て」 だった。「バント」のサインはほとんどなかった。高校生ならではのひたむきな野球だった。ただ前にのみ進む青春の爆発でもあった。そこに池田高校ならでは の全力投球の美があった。
甲子園の記録を次々に塗り替えていった池田高校の突進する爆発力は見事というほかなかった。思わず胸のすく思いをした人も多かろう。政治も経済も行き詰 まり、視界ゼロという万事に面白くないことの多い世の中である。それだけに、久方ぶりに溜飲の下がる思いをした人が多かった。
大人ぶった理詰めの野球ほどつまらないものはない。その点、池田高校の野球には何が飛び出すかわからないぞくぞくするような期待と爽快さがあった。このへんが日本列島を興奮のルツボに巻き込んだ池田高校の魅力であったと私は思う。
人生もまたしかりと言えよう。万事に計算づくめが目立つ今日この頃である。しかし考えてみれば計算どおり、シナリオ通りにこの人生が過ごせたらこれほど 味気のないものはない。
何が起こるかわからない。だからこそ興味もつのり、その時その一瞬に全力投球する意味もある。不可能を可能とするようなドラマをこ の人生で何度演ずることができるか。それが人生の意義ともいえるのではなかろうか。
私は池田高校の健闘を通して、何事にも全力投球する美しさというものを 再確認させていただいたような気がする。しらけたムードの漂うこの世の中で、これは貴重な再発見だった。
私事で恐縮だが、私は青春時代から現代に至るまで “ 全力投球”を生活信条としてきた。特に思い出深いのは、四十年以上前の昔話で申しわけないが十五年間を過ごした新聞記者時代である。
入社して一年間は蒲団の中で眠ったことがなかった。蒲団袋を寮に送ったものの取材と原稿書きに追われて、寮に帰る暇がなかったのである。当時の私の守備 範囲は愛知、岐阜、三重、石川、富山、新潟、長野、山梨、静岡の中部九県下。“記事は足で書け”が鉄則の新聞記者は何処へでも飛んでいかねばならない。
眠るのはいつも列車の中か支局の机の上だった。リノリュームの支局の床で新聞紙一枚被って眠ったこともたびたびあった。新聞紙一枚でも結構、暖は取れるもので、そんな生活でも風邪などひいたことはなかった。
一年経って後輩が誕生。ようやく時間が取れて寮に帰り蒲団袋をあけてみたら蒲団はグショグショに濡れて黴が生えていた。苦しくもあったが楽しいことも多 かった一年生記者のころのそんな思い出も今となっては全てが懐かしい。時が経つと苦しかったことも楽しい思い出となって記憶に残っている。まことに不思議 なものである。
十五年間、無我夢中で過ごした新聞記者生活を通して掴んだものは、数知れないほど多くの人と出会った一対一の思い出である。
雪深い長野県飯山市で、野沢 菜の漬物をいただきながら、夜明けまで取材させていただいたこともあった。
富山県富山市ではイタイイタイ病が初めて公害病に認定された初判決に立会い、原 告の患者の皆さんと抱き合って勝訴を喜んだものだった。
何につけ、全力投球した喜びというものは時間の経つにつれ、記憶が鮮明になり、懐かしさが込み上げて来るもののようである。
四国山地は深い。徳島の山も深い。深い山里は日暮れが早い。ことに冬の陽は短い。午後七時ともなれば山里は漆黒の闇となる。
星が美しい。手が届くほど近くに見える。「あと一時間、今日も最後の一秒まで全力で頑張ろう」。遊説隊のメンバーが気を引き締めた瞬間、誰れかが叫ん だ。
「あれっ!見てっ!動いとる。光が。グルグル回っとる」。「あそこにも。向こうにも。スッゴイッ。光の海だわ」――。 光の海が近づくにつれて歓声は感動に変わった。光は一軒一軒の農家の人達が私達を歓迎するために懐中電灯をグルグル回してくれていたのだった。
寒風の吹きすさぶ戸外で、ずっと待ち続けて下さっていたのだろう。握手すると、どの手も氷のように冷たい。けれどもどの顔もはちきれんばかりの笑顔。ど この家からも家族が飛び出してくる。
どこの家からも懐中電灯や大きなタオルをグルグル回して声援を送ってくれる。 「ありがとうございます。本当にありがとうございます」。候補者の私も遊説隊のメンバーも、厳冬であるにもかかわらず、いつか汗びっしょりになっていた。 涙がとまらなかった。
「最高の遊説でした」。「こんなに感動したことはありません」。午後八時になってマイクを収めると、遊説隊のメンバーは我知らず抱き合って喜び合った。
昭和五十八年(1983年)十二月の衆議院選挙の遊説の思い出である。今はともに三好市となった池田町から真っ暗な山道を隣の井川町に向かう途中での予期せぬ出来事 だった。池田町漆川字影野という小さな山里で体験した感動的な光景である。二十数年を経た今も私の目には昨日のことのように鮮明に焼き付いている。
選挙が終わったあと、私は初当選の御礼に伺った。半年が過ぎ、茶摘みの季節となっていた。影野の人達は総出で茶畑に出ていた。私の姿を見つけると、あの 日と同じように大きなタオルをグルグル回して「ここだ。ここだ。ここにいますよ」と教えてくれた。
私は走った。思いっきり山道を駆け登った。全員の皆さん が「おめでとう。おめでとう」と駆け寄ってくれた。「記念写真を撮りましょう」。そんな私の呼びかけに皆さん本当に素晴らしい笑顔でカメラに収まってくれ た。
私は出来あがった写真を大きく引き伸ばして、一人一人に差し上げた。「生涯の記念にします。また来て下さい」。そんな返事に添えて、できたばかりの新 茶が届いた。影野の皆さんの真心を私は永遠に忘れまい。
私の手元に衆議院議長をつとめた秋田清さん(1881年8月29日―1944年12月3日)と、衆議院副議長をされた秋田大助さん(1906年1月14日―1988年11月29日)父子二代の政治記録を綴った立派な写真集がある。
平成七年(1995年)四月、秋田大助顕彰会が出版されたものである。顕彰会会長を務めた当時の三好町長、真鍋晃さんは写真集を「蛙の子は蛙」と題した 理由を次のように語っている。
「秋田大助さんは生前から『蛙の子は蛙』とよく言っていました。秋田大助さんは衆議院議員に初当選した直後、父の親友だった 衆議院議員の葬儀に参列したおり、その奥様から『蛙の子はやはり蛙の子に育ったのね』と挨拶されたことに深い感銘を受けたといつも語っていました。そんな ことを思い出して記念写真集を『蛙の子は蛙』にしました」と。
徳島県三好郡三好町(現在は東みよし町三好)には秋田清、秋田大助父子二代の墓があり、私も墓参させていただいたことがある。秋田清さんの銅像は池田町 (現在は三好市池田町)の三好大橋のたもとにあり、秋田大助さんの銅像は三好町にある。秋田大助さんの銅像除幕式は平成七年(1995年)五月二十日行わ れた。私も来賓の一人として出席し、挨拶させていただいたのでよく覚えている。
秋田大助さんと私は、昭和五十五年(1980年)と昭和五十八年(1983年)の二回、衆議院選挙を徳島全県一区(定数5)の候補者として戦った。昭和 五十五年は秋田大助さんが当選し、初出馬の私は次点で落選した。
昭和五十八年は私が初当選し、秋田大助さんは次点で落選された。当選十二回を重ね、自治大 臣、法務大臣、衆議院副議長を務めた重鎮の落選であった。当選すれば秋田家父子二代の衆議院議長は確実といわれていただけに、私は申し訳ない気持がした。
「私が当選したもので、先生が当選できませんでした。すみませんでした」。私は率直に話した。すると「いやあ、あなたのせいではありません。私のせいで すから、気にしないでください」と即答された。地味で穏健な学究肌の政治家と評されていたが、文字通り誠実そのもののお人柄であった。一介の青年に対して も等身大で接する誠意がにじみ出ていて私は感動した。
衆議院選挙の時、狭い山道で二人の遊説カーが擦れ違うたびに秋田大助さんは私に「頑張りなさいよ」と声を掛けて下さった。秋田大助さんは白い背広が好き だった。今もその背広姿が忘れられない。東祖谷山村(現在は三好市東祖谷山)の役場の前で「頑張りなさいよ」と握手してくれたことがある。今もそのときの 柔らかく温かかった感触が忘れられない。
秋田大助さんが逝去されたのは昭和六十三年(1988年)十一月二十九日だった。丁度、公明党が東京で全国大会を行った日だった。私は全国大会の会場か ら通夜に駆けつけた。葬儀にも出席した。祭壇にはにこやかないつも通りの秋田大助さんの笑顔が参列者を暖かく見守っていた。 享年八十二歳であった。
徳島県を吉野川に沿って走る国道百九十二号線を西進すると三好郡の最初の町が三加茂町(現在は東みよし町)である。季 節になると爛漫の花を咲かせる桜並木が美しいJR江口駅からしばらく走ると山際の道から一変して視界が開ける。ショッピングセンターや、レストランが国道 沿いに犇めき合っている。三好郡のなかでも一番発展したのはこの界隈であろうか。町は活気に溢れている。
私にとって三加茂町といえば、何といってもタバコ、ミツマタ、ソバの花である。三加茂町の山間部は深い。町の中心部から加茂谷川沿いに入る道、JR江口 駅から入る山口谷川沿いの道、そして、半田町から半田川や大藤谷川沿いに入る大藤地区への道と、どの道も三加茂町の山間地帯をくねくね曲がりながら、とき には激しく上下しつつ延々と続いている。
春も夏も秋も冬も、私はよくこの山道を上り下りした。一軒一軒の農家を訪ね歩いた。その季節、その季節にたくさんの思い出がある。なかでも忘れられない のが、タバコとミツマタとソバの花である。タバコは平坦地でも傾斜地でもまるで定規で測ったようにきれいな平行線を描いて植えられている。タバコの花も見 事な平行線を描いて揃い咲く。葉の真ん中に直立した茎からたくさんの花が咲き競う。白い花が多いが淡いピンク色もある。
タバコはナス科タバコ属の一年草である。タバコの花は茎の先端部分に群生する。開花直後に花止めと呼ばれる滴芯作業を行い、花芽は摘み取られてしまう。 これはわき芽の除去とともに煙草の原料として利用する葉の成熟にとっては欠かせない重要な作業である。この芯止め作業と前後して最初の収穫作業が始まる。暑い盛りの作業である。
ミツマタはジンチョウゲ科ミツマタ属の落葉低木。春の訪れを待ちかねたように咲く。白い可憐な花だ。ミツマタの枝はどこの枝も三つ に分かれている。花はその先端に咲く。冬。農家の庭先にはミツマタが天日干しされている。これを釜茹でにして皮をはぐ。皮は和紙の原料となる。この和紙か ら紙幣が作られる。ミツマタから作られる日本の紙幣の優秀性は世界でも注目されている。
タバコやミツマタとともにソバの花も白い。ソバはタデ科ソバ属の一年草であるが土地が痩せていてもよく育つ。しかも寒冷地でもよく育つので稲作のできな い山間地では貴重な作物である。ソバの実の粉末を蕎麦粉といい蕎麦粉を用いた麺が蕎麦である。蕎麦は昔から日本人には馴染み深い食べ物であった。
徳島県の 山間部では今でも自家製の蕎麦を打ってくれる。蕎麦粉百パーセントの蕎麦はその土地ならではの素朴な味がする。蕎麦は私の好物であるが、私は今も三加茂町 の山間部で見たソバの花を忘れることができない。
開墾された広大な地域を埋め尽くすかのように真っ白なソバの花が咲き競っていた。見渡す限りがソバの花 だった。圧倒される思いだった。まるで一面が銀世界の中に踏み込んだかのような光景だった。
最近ではタバコもミツマタもソバも栽培面積が少なくなっていると聞く。山間地の過疎化、高齢化が進み栽培する後継者がいなくなっているのだ。あの白い花 の風景はもう心の中だけに残る思い出でしかないのだろうか。山また山が連なる高地から眺めたのどかな三加茂町の山里の風景は今も私の心に焼きついて離れな い。
徳島県三好郡井川町(現在は三好市井川町)の人たちは衆議院選挙になると燃えに燃える。どの陣営も遊説車の後に十数台 の応援団がつく。白い鉢巻に白い手袋、車から身体を乗り出すようにして声を限りに支持を訴える。
町の人たちも道筋にずらりと並んで盛大な応援をする。各陣 営がこうした応援合戦を競い合う。V字型に食い込む井内谷川の狭い峡谷沿いの道は対向車があると渋滞する。
この道を長蛇の随行車を引き連れた遊説車が上り 下りするのである。選挙の期間中、遊説車の長蛇の列は一日中休むことなく続く。私もよくこの峡谷沿いの道を走ったが、二度も三度もライバルの候補者が乗る 遊説車の長蛇の列に出会った。
井内谷川沿いに開ける井内谷地区には縫製や製材工場が多い。遊説車が通ると窓を開けてたくさんの人たちが手を振ってくれた。町に出るとどの商店からも 人々が飛び出してきて握手してくれた。選挙が終わってお礼に伺うとどこのお宅からも飛び出してきて「よかった。よかった」と自分のことのように喜んでくだ さった。
選挙が終わったあと私はいつも考えていた。井川町の人達に喜んでいただけることをぜひとも実現したい、と。当時、公明党では教育改革推進本部をつくり、 全国各地で教育講演会や教育を考える会を開催し始めていた。
私も講師の一人として沖縄県那覇市や長野県上田市、埼玉県川口市、福岡県北九州市、鳥取県倉吉 市などに派遣され、期待される教師像や大学入試や高校入試のあり方に始まり、教育に関する様々な問題点を参加者とともに熱心に語り合ってきた。徳島県では 徳島市と鳴門市で開催し好評を博していた。
「よし、次はぜひとも井川町で開催してみよう」そう決意した私は迷うことなく実行に移した。講師は私のほか党本部から参議院議員と衆議院議員に出席して もらった。地元からは町の教育長が出席して下さった。人口が五千人ほどの小さな町で開催するのは党としては初めての試みだった。党本部では誰もが心配して いた。しかし私には絶対に成功するとの強い自信があった。
平成四年(1992年)十月三十一日、井川町のふるさと交流センターで「教育を考える会」は開かれた。会場は超満員である。どの人も真剣そのものである。 身を乗り出すように講師の話に聞き入っている。やがて討論会に移った。
会場から一斉に手があがる。どの人の質問も教育の本質に迫るものだった。党本部から 派遣された講師が感動するほどの熱弁をふるう人もいた。熱弁が続き定刻を三十分ほど過ぎてしまったが途中で帰る人は一人もいなかった。
「きょうは本当によ い会合でした。いい話を聞けて本当によかったです」。参加者からも講師の方々からも御礼を言われて私は「井川町で開催して本当によかった」としみじみ思っ た。
私は昭和五十八年(1983年)十二月十八日から平成十五年(2003年)十月十七日まで衆議院議員をさせていただい た。東京都千代田区永田町二丁目1-2の衆議院第二議員会館734号室が私の約二十年間の国会事務所であった。
この事務所の私のデスクの前に一本の掛け軸 が掛かっていた。昭和五十九年(1984年)六月、公明党の青年局で訪中した折、お土産に購入した安価な山水画だが私は結構気に入っていた。
桂林地方の風 景だろうか、断崖絶壁の山々を背にした大河に小舟が一艘浮かんでいる。老人が一人静かに櫓(ろ)をこいでいる。余りにも大きな自然のなかに余りにも小さな 人間、悠久の時の流れに身を任せて大自然と一体となっている人間、この絵は小舟と老人を描くことによって全体を引き締めている。
豆粒のように小さな舟と老 人なのだが、いろいろと空想を逞しくさせてくれる。そんなところが気に入って、私はずっと掛け続けていた。
ところで私のふるさと徳島県には四国三郎と呼ばれ、愛される大河がある。山深い四国山地に源流を持ち、徳島県を西から東に流れる吉野川である。この川に はなんといってもカンドリ(楫取り)舟が似合う。
夕陽に染まる山々を背にした静かな吉野川の川面にカンドリ舟が浮かぶ。舟には鮎釣りの老人が一人、黙々と 竿を垂れている。これこそ吉野川の原風景だ。遠望するとまさに掛け軸の世界そのものの風景となる。
カンドリ舟は吉野川を代表する川船である。船首と船尾を高く反らせているのは、急流に対応できるよう水切りをよくするためだと聞いたことがある。全長は 六メートル強、最大幅一メートル四十センチ、杉や檜、柘植などを材料にして作る。鮎の季節になると沢山のカンドリ舟が吉野川に浮かんだ。カンドリ舟を持つ ことが社会的なステータスでもあった。
現在、この舟を作ることができるのは県下に二人しかいないと聞いている。その一人の作業場が、現在は三好市となった三野町太刀野にある。太刀野は私も何 回か訪問したことがあるが、河内谷川沿いに北上すると閑静な集落に出会う。そこが太刀野であり、その奥が太刀野山である。
カンドリ舟づくりには特別な船釘が使われる。一艘に三百五十本使うそうだ。心配なことは十年ほど前に最後の船釘職人が亡くなったこと。「在庫が切れてしまったら、船造りも終わりです」。という声が聞こえてくるのは誠に寂しい。
吉野川にはカンドリ舟。この風景をいつまでも伝えたいと思う。しかし、現実には大変に難しい。経済の論理ではなく別の論理が必要だ。価値観の変換が迫ら れている。日本は経済的には豊かになったけれども失ったものも多い。
今こそ真の豊かさとは何か。一人ひとりが考えなくてはならない。身の回りに継承されて きた伝統の技術を次の世代に継承するためにも経済優先の世の中から人間優先の世の中へ変えていかなければならない。
伝統の技術が途絶えないためにも価値観 の変換を急がなければならない。残された時間はわずかしかないのだ。