麻植郡

鴨島の菊人形と江川の遊園地

 秋の花は菊である。「菊作りは土作り」といわれるように菊を愛し菊を作ろうとする方々は、まず土作りに細やかで粘り強 い情熱を傾けてこられた。

 

 はじめに山へ入って橡の落ち葉を掻き集める。カサカサに乾いた落ち葉を二年間、庭に貯えておき、こなごなにくだいて腐葉土や砂を 加え適度に混ぜ合わせる。その土をさらに篩にかけてきめの細かな土を作るという具合だ。

 

 この土にさらに堆肥や油粕などを加え、育てようとする菊に見合う"土"を作るのである。私には菊作りの経験がないので聞きかじりなのだが、ともあれ"土作り"には長年の努力と情熱が込められていることは確かだ。

 

 徳島県の吉野川市鴨島町は戦前から菊人形の町として全国にその名が知られていた。最盛期には三十万人の観光客を数えたという。私達の子供の頃は戦前ほど ではないにしても結構にぎやかであった。今はJRとなった国鉄・鴨島駅を降りると、町全体に優雅な菊の香りが漂っていた。

 

 菊人形の会場には紅白の幕が張られ「忠臣蔵」や「傾城阿波の鳴門」などの名場面が菊人形で表現されていた。人形ばかりでなく菊の品評会なども行われてい た。入賞した作品には金や銀の短冊が付けられていたが、花の色の鮮やかさといい、大きさといい、枝ぶりの見事さといい「やはりいいものはいいな」と子供心 に感嘆したことを憶えている。

 

 当時は各地で菊人形の催しが行われていた。とくに大阪の枚方の菊人形は有名だったが今はやっていないようだ。鴨島の菊人形は現在も続いていて今年も吉野川市の市役所前の広場で盛大に開催されていた。

 

 俳句の会の人たちが吟行されていたし、大勢の見物人が菊を楽しんでいた。菊作りの人たちは毎年、菊の展示会が終わるとすぐ翌年の準備にかかるそうで最近は各地に見学旅行にも行かれるようである。どの人も菊作りに青春のような情熱をたぎらせている。

 

 菊人形会場には小学生たちが学校で一生懸命に育てた菊も中央の広場に学校ごとに飾られていて菊人形の行事が若い人たちにも受け継がれていることをうれしく思った。

 

 子供のころの私たちは菊人形を見た後はいつも江川の遊園地で遊んだ。吉野川の伏流水が湧き出す江川の水は夏冷たく冬は湯気の立つほどに温かかった。菊人形の季節の江川の水は川底が見えるほど綺麗に澄み渡っていた。

 

 最近は、親水公園として整備されたものの伏流水が減ってしまったのか、江川の流れも濁ってしまった。それでも鴨は渡って来るし、鳰はここで産卵する。鳰の浮き巣もよく見られる。鯉もたくさんいて四季折々に風情のある風景を見せてくれる。

 

 江川には親水公園の上流に遊園地も出来、観覧車が回っている。休日は家族連れで賑わい子供たちの歓声がよく聞かれる。そのさらに上流に江川の湧水源があ る。

 

 ここには、私たちの高校の恩師である上崎暮潮さんの句碑が立っている。「オアシスと云ふは知らねど草清水」と阿波の青石に刻み込まれている。

 

 暮潮さん は名古屋帝国大学工学部の学生時代に俳句を始め、小諸の高浜虚子を訪ねて直接指導を受けたことを今も俳句の後輩に語り継いでいる。今年九十歳になったが ホトトギス同人として元気に活躍されている。

 

 「菊作り菊見るときは陰の人」作家・吉川英治の句といわれる。私は今まで新宿御苑や大阪城公園、白鷺城公園、熊本城公園、徳島城公園などで菊の展覧会を鑑賞させていただいたが、菊を見るたびに鴨島とこの句を思い出す。

郷愁誘う美郷のホタル

 今は吉野川市になったが美郷村という美しい響きをもった村落があった。剣山の山ふところに抱かれたこの村を初めて訪れ たのはもう四十年ほど前のことであろうか。漆黒の闇に神秘的な光が一筋、二筋、美しい孤を描いていた。高校を卒業して以来、徳島県を離れ、都会に住み続け ていた私はその美しさに見とれていた。

 

 蛍である。子供のころは徳島市の袋井用水のあたりでいつもお目にかかっていた蛍だが、このところ、とんと忘れかけていた。

 

 ♪ほ ほ ほおたろこい 田の虫こい  あっちの水は にがいぞ  こっちの水はあまいぞ ほ ほ ほおたろこい 行燈(あんど)のかげから 笠着てこい

 

 笹や団扇を持って蛍を追った少年の日の思い出が淡い郷愁とともに浮かんでくる光景だった。あまりに珍しがるものだから土地の人が篭を用意して四、五匹捕 まえてくださった。大事に持ち帰って、毎日、霧吹きで霧をかけてやったら1週間ほど庭先で幻想的な光を楽しませてくれた。妻や子供は大喜びで毎晩、蛍の歌 を歌っていたものである。

 

 昭和五十五年(1980年)六月、衆議院議員の選挙もいよいよ終盤戦となり、投票日まであと四、五日という日の夕方だった。選挙戦を候補者として戦うのは生まれて初め てだった私は日々無我夢中で走り、訴え続けてきた。そんな私の遊説先に美郷村の人々から心温まるプレゼントが届いたのである。

 

 それは見事なゲンジボタルであった。蛍の篭に伝言がつけられていた。「若い源氏は古い平家を倒しました。若い遠藤さんも頑張ってください。激闘の最中でしょうから、蛍でひとときのくつろぎを」と認められてあった。

 

 何と温かく細やかな心遣いであろうか。私は遊説先の宿で蛍を見つめながら、美郷村に住む支持者の方々の顔を一人一人思い浮かべた。その夜の蛍は特別に美 しかった。静かにそれでいて温かい光を私の心に注ぎ込んでくれるような気持がした。明日への活力がふつふつと湧き上がって来る思いがしたことも忘れられな い。

 

 この選挙の後、私は何度も美郷村を訪問した。神山から山越えに入ったこともあった。木屋平村からの帰途、川井峠を越えて美郷村に入ったこともあった。梅の季節なるとどこの家を訪ねても、よく実った青梅が庭に干されていた。

 

 蛍の季節にはいくらか早かったが、初夏の美郷村は全村が万緑のなかにあった。瑞々しい緑に覆われていた。どの田にも水が張られ、稲がぐんぐん伸びてい た。

 

 そんな田んぼの畔道を渡って懐かしい人々のお宅を訪問すると「まあおつけなして。早ようおつけなして」とお茶が出てくる。お菓子が出てくる。お茶は山 で採れた番茶である。これが一番いい。大きな土瓶からなみなみと注いでくれる。一気に呑み干す。と、待ち構えていたかのようにまたなみなみと湯呑みが一杯 になる。これも呑み干す。と、また一杯。

 

 お菓子は昔なつかしい“池の月”である。米の粉の煎餅に砂糖をまぶした高級菓子である。子供のころは正月になるとこの菓子をよくいただいたが、最近はほ とんど見かけない。とんと御無沙汰していた昔の味に巡り合える山郷の落ち着いた暮らしがことのほかうれしい。

 

 それにしても美郷村には蛍といい、温かい人情といい、現代人が忘れかけていた心のふるさとがそのまま残っている。道路が整備され、町の家並みも変わりつつあるが、今後も郷愁ともいえるこのふるさとの味を保ち続けていてほしいものだ。

徳工ウェートリフティングと藤原八郎さん

 藤原八郎さんは徳島県立徳島工業高校(現在の徳島県立科学技術高校)・ウェイトリフティング部の生みの親である。

 

 藤原先生は大 正十三年(1924年)七月五日徳島県麻植郡山川町(現在は吉野川市山川町)で出生され、昭和十六年(1941年)から昭和六十年(1985年)に退職さ れるまで、四十四年間一貫して徳島工業高校に奉職された。徳工の卒業生なら誰も知らない人はいない名物先生である。

 

 ウェイトリフティング国際1級審判員、 同国内特級審判員であり、平成五年(1993年)十月の東四国国民体育大会では、ウェイトリフティング会場となった藍住町体育館で、東京オリンピックで金 メダルに輝いた三宅義信さんたちとともに審判員として活躍されるお元気な姿に接したことがある。

 

 三宅義信さんは東京に次いでメキシコシティでも金メダルを 獲得し、日本のウェイトリフティングを世界に知らしめた人である。その三宅さんがまるで師匠に接するかのように藤原先生と話されていた姿が今も忘れられな い。

 

 私が高校生だった頃の藤原先生は、周囲を圧倒するような威風堂々とした体格であった。腕も脚も体全体の筋肉が隆々と盛り上がり、まるで仁王様のようだっ た。同級生に木村忠雄君、一つ先輩に大松長勝さんというウェイトリフティング部の選手がいて、私もよく練習を見に行ったことがある。

 

 二人とも藤原先生を小 さくしたような素晴らしい体格をしていた。木村忠雄さんとは今も親しくしているがいつも元気一杯で健康そのものである。大松長勝さんは、長く労働運動で頑 張られ、連合徳島の事務局長としても活躍された。

 

 いつも笑顔で接してくださり、後輩の私をこまごまとお世話してくださった。今もお元気で毎年、丁寧な年賀 状を頂いている。

 

 私たちが高校生だった頃のウェイトリフティング部の練習では重いバーベルをプレス、スナッチ、ジャークの順に型に合わせて持ち上げていた。気合いを入れ て力の限界に挑戦する。バーベルを持ち上げるその一瞬は周囲の空気もピーンと張り詰める。

 

 顔が真っ赤になる。見る方にも自然に力がこもる。ピシッと決まる と拍手したくなる。藤原先生の指導には定評があり、徳工から全国大会で優勝した選手が何人も出た。私たちのころの徳工のウェイトリフティングは全国の注目 を集めていたが現在はどうであろうか。

 

 きつい練習が終わると、藤原先生の顔は実に人なつっこくなる。そんなところが先生の魅力でもあった。

 

 私は衆議院選挙に初当選した翌年の昭和五十九年(1984年)の正月に母校を訪れたことがある。先生は職員室におられた。ストーブで大きな餅を焼いてい た。

 

 「まあ、食べていきなさいよ」。「山川町から持ってきたんじゃあ。うまいぞ」。先生は餅に醤油をつけて再びストーブに乗せる。手なれたものだ。香ばし い匂いが漂う。「ほらほら、早よう、早よう」。勧められるままに手にしたが、余りの大きさにびっくりした。わが家の鏡餅よりはるかに大きい。その大きな焼 き餅を食べながら先生は故郷である山川町のことをいかにも楽しげに語り続けた。

 

 山川町には自然がある。樹齢三百年のオンツツジの大群生で知られる船窪の躑躅は昭和六十年(1985年)十月二十六日、国の天然記念物に指定された。私も訪れたことがあるが郭公と夏鶯が鳴く林を抜けて躑躅山に出ると千二百本のオンツツジが幾重にも重なり合うように咲き競っていた。

 

 山川町には「少年自然の 家」もあり、夏休みになると子供たちが合宿して林間学校も行われた。阿波富士と呼ばれる高越山に登ったり竹馬を作ったり、飯ごうでご飯を炊いたりすること が楽しみだった。

 

 自然の懐に抱かれて子供たちは子供のころから友情を深めあってきたのだ。子供たちを迎える町の人たちの人情も温かかった。

 

 山川町には和紙 づくりの伝統も今に残っている。米もうまい。餅もうまい。「わしの力の元は餅じゃよ。子供のころからよう食べたけんな」。大好物の大きな餅を食べながら仁 王様は腕白小僧だった昔を偲んでいるかのようだった。

福祉は人、人は心と中村博彦さん

 平成十一年(1999年)六月十四日、徳島県人の中村博彦さんが全国老人福祉施設協議会会長に就任した。祝賀のパー ティーが東京で開かれ、官房長官はじめ多数の政財界の来賓が出席した。

 

 私も神崎武法公明党代表とともにお祝いに駆けつけた。徳島県からも知事をはじめ大勢 の方々が上京し「全国の会長が、わが県から誕生したことはうれしい限りです」と喜び合った。

 

 平成十二年(2000年)四月一日から介護保険制度がスタートした。少子化、高齢化が進むにつれて、在宅介護も施設介護も従来の制度では支えきれなく なっていた。個人や家庭に依存するのではなく、社会全体で介護を支える仕組みをつくりあげなければ少子高齢社会となる日本の介護問題を解決することはでき ない。国会では十数年にわたって、さまざまな議論を重ねてきた。そして介護保険制度の導入を決断したのであった。

 

 私は長い間、衆議院で社会労働委員会や厚生委員会の理事を務めてきた。この国の医療や保健の制度を始め、福祉や年金の問題に取り組んできた。とくに宮沢、細川、羽田、村山の歴代の内閣総理大臣から社会保障制度審議会委員を委嘱され、介護保険制度の創設に取り組んできた。

 

 それだけに介護保険制度がうまく スタートできるのかどうか心配であった。介護保険制度の保険者となる全国の地方自治体の皆さんにも御苦労をおかけする。介護サービスを提供する当事者であ る老人福祉施設協議会やデーサービス協議会加盟団体の皆さんにもご努力を願わなければならない。

 

 国としても万全の態勢を整えなければならない。ことに高齢者の保険料は是非とも軽減したい。その分、国庫負担を増大しなければならない。その財源をどう するか。頭の痛い問題ではあった。

 

 とともに万が一にも、保険あって介護なしの地域が出ることがあってはならない。日本全国どこに住んでいても介護のサービ スが受けられるように施設やマンパワーを配置しなければならない。そんなことを心配した当時のことがしのばれる。

 

 そんな課題を一つ一つ乗り越えて介護保険 制度がこの国に定着したことを私は喜んでいる。まだまだ課題は尽きないが国民の皆様に歓迎されるより良い介護保険制度へと成熟していくことを私は心から 祈っている。中村博彦さんはじめ関係者の皆さんの一層の御努力に期待したい。

 

 ところで中村博彦さんは昭和五十四年(1979年)十二月十九日、社会福祉法人健祥会を設立し、昭和五十五年(1980年)三月二十九日、特別養護老人 ホーム水明荘を作った。この小さな一歩から老人福祉の世界に飛び込んだ。

 

 以来三十年、いつも心に刻み続けてきたのは「福祉は人、人は心」というご尊父の教 えだった。父、中村輝孝さんは徳島大学に勤めた教育者で、附属中学校長も併任されたことがある。昭和五十一年(1976年)四月、定年退官されたあと健祥会の初代理事長に就任された。いつもこの言葉を通して草創の職員に福祉に携わる基本精神を教えられたという。

 

 今、吉野川を見下ろす川島城の隣にある健祥会本部の広場には、この言葉を刻んだ中村輝孝初代理事長の胸像が建立されている。

 

 中村博彦さんは現在、全国老人福祉施設協議会常任顧問。平成十六年(2004年)七月からは参議院議員として活躍。介護、医療の前線で苦悩する現場の声、 生活者の痛みこそ福祉の原点であるとの信念に立って超高齢社会の日本の社会保障のあるべき姿を政治家として追求し続けている。