勝浦郡

寒波で全滅したミカン

 季節外れの異常な寒さだった。朝起きたら我が家でも戸外にある温水器が凍りついていた。水道管が破裂し、流れ出た水が凍りついてしまったのだ。

 

 「大変です。蜜柑が全滅しました。すぐ来て下さい」。阿波の蜜柑どころとして有名な徳島県勝浦郡勝浦町の支持者から朝を待ちかねるように電話が入った。

 

 「流石に遠藤さんですね。やっぱり一番先に来てくれました。ありがとうございます。早速、私が案内させていただきます」。電話を下さった支持者とともに勝浦町役場に入ると、町長さん自らが先頭に立って蜜柑畑に連れていって下さった。

 

 どこの蜜柑畑に行っても、蜜柑の木は立ち枯れしたかのように力なくうなだれている。「こちらは寒さに強いものを植えていましたから」。と、一縷の望みを託した地域もやはり駄目だった。

 

 勝浦町の蜜柑の山をあちらこちらと歩き回ったが、どこも同じだった。「全滅です。どうしようもありません」。町長さんの呻くような声。「ようやく軌道に 乗って、これからという時だったのに残念です」。蜜柑作りを指導してきた役場の職員も悔しそうだ。「これからどうすればいいのか見当もつきません」。農家 の人達は茫然自失の様子である。

 

 しかし、天災だけに不満をぶつける所がない。誰もそれがわかっている。それだけに余計に腹が立つのだ。「保険はどうなって います。せめて果樹共済保険の支給をできるだけ早く、できるだけ多くできるように取り計らってみます」。私もそう言うのが精一杯だった。昭和五十九年(1984年)九月 二十九日のことであった。

 

 東京に帰ると私は早速行動を開始した。まず農水省に足を運んだ。避けることのできない天然災害である。その被害に対して、果樹共済保険が早期に、かつで きるだけ多額に支給されるようお願いした。今後のために寒さに強い蜜柑の品種を開発し、植え替えをするよう働きかけもした。

 

 そんな努力が実り、日を置かずに農水省から専門の調査官を勝浦町に派遣していただいた。調査は迅速に進み、果樹共済保険による保険金が支給された。また 立枯れした蜜柑を寒さに強い品種に植え替える事にもなった。町長も職員の皆さんもまた農家の皆さんも大変に喜んでくださった。

 

 勝浦町の役場の方々とはそんな御縁がきっかけで親しくなった。役場の人たちも困ったことがあれば相談に来るようになった。

 

 平成十年(1998年)三月十三日には、町が 誘致した工場が閉鎖する問題で町長や議長とともに通産省に申し入れに行ったことがある。私はこの問題を三月十九日の衆議院予算委員会の第五分科会でも取り 上げ、地元の人たちの声を代弁した。

 

 海外とくにアジアは人件費が安い。安い人件費に引っ張られて生産拠点を日本からアジアに移している多くの製造業がある。それは営利を目的とする企業活動 としては当然のことかもしれないが、これといった産業のない自治体にとって、せっかく誘致した工場が閉鎖されることは致命的な痛手となる。誘致した工場は その地域の中核の産業となっている場合が多く、町政全般に及ぼす深刻な地域社会の問題となる。

 

 勝浦町の場合も、町をあげて工場閉鎖反対運動が起こった。しかし結局は閉鎖されてしまった。従業員は一人も解雇されず、隣町にある同社の工場に雇用され た。これは不幸中の幸いであったけれども、勝浦町では新たな地域の活性化をどうするか大きな宿題を背負うことになった。過疎化が進む町に悩みはつきない。           

氷点下、暗闇のなか歩き続ける

 徳島県勝浦郡上勝町八重地。初めて衆議院選挙に出馬した昭和五十五(1980年)年六月、私はこの土地にあった小さな旅館で遊説の第一夜を過ごした。生まれて初めて立候補者としての「襷」を掛け、「りぼん」を付けた少々緊張気味の私を土地の人達は暖かく歓迎して下さった。

 

 汗に塗れ、くたくたに疲れ果てた体も一風呂浴びるとシャンとした。旅館の奥さんが作って下さった夜食のお握りを頬張りながら、支持者の方々との歓談は深夜まで続いた。

 

 翌朝は暗いうちに起床してなお山道をのぼり、遊説が開始できる時刻になると山奥の集落で「おはようございます」と、第一声を放った。そして今度は山道を 下りながら、遊説を続けた。勝浦川沿いに点在する山里を駆け巡るのであった。どこの家庭からも体を乗り出し、手を振って応えて下さった。

 

 特に印象深いのは、正木ダムの上流に位置する柳谷集落での思い出である。ここでは文字通り一軒残らず総出で応援して下さった。初めて会う人達ばかりなのに、まるで自分のことのようにこんなにも真剣に応援して下さる。ありがたいことだ。私は生涯、この人達のことを忘れまい。そう心に誓った。

 

  初めての選挙は次点に終わった。当選できなかった。私は広い徳島県下を御礼のご挨拶に三年半、歩き続けた。もちろん柳谷集落にも行った。柳谷集落に行ったのは昭和五十六年(1981年)十二月、南国徳島には珍しく寒暖計が零度を下回る極寒の日だった。

 

  案内してくださる支持者に連れられて、深夜まで暗闇のなかを一軒一軒、懐中電灯を頼りに歩き続けた。

 

  夕方、月ケ谷温泉に入り、頭を洗ったのが大失敗だった。水を含んだ頭髪が戸外の寒さで凍りついてしまったのだ。頭が痛い。寒さで身体が震える。風邪を引いてしまったのだろうか。それでも歩き続けた。体温を測ってみると三十九度もあった。

 

  翌日は、県南の上勝町から一挙に県西の徳島県三好郡池田町(現在の三好市池田町)に飛び、さらに奥に入った三好郡山城町(現在の三好市山城町)から御礼に 回った。発熱のせいか、山道を登り下りすると、まるで宇宙を遊泳しているかのように思えた。地に足がつかないのである。それでも歩き続けた。

 

  あのころが懐かしい。三十八歳だった。今から思えば、ちょっと向こう見ずだったかも知れないが、ともかく元気だった。三年半で徳島県下を回りに回り、七万 軒を訪問した私の青春の思い出の一こまである。今もそのときのことをよく覚えていてくださる支持者の方がいるが今は、お互いに健康に気をつけ、身体を大切 にしなければと語り合っている。

 

  ところで上勝町では「彩(いろどり)」をキャッチフレーズにした町おこしが全国から注目を集めている。山野に自生する木の葉や植物を食品に彩(いろどり) を添えるものとして売り出しているのだ。田舎ではあまり商品価値があるようには思われなかったものが、都会では結構人気を博している。「おばあちゃんの 葉っぱビジネス」は今や全国に知れ渡っているのだ。

 

  上勝町では毎年ひな祭りの季節になると使われなくなったお雛様を一堂に集め「ビッグひな祭り」を行っている。お雛様の数は毎年増えて最近は三万体を越す。 今や全国から見物客が来る恒例の一大イベントになっている。「彩(いろどり)」といい「ビッグひな祭り」といい、アイデアを形に仕上げて行く上勝町の人達 はすごいと思う。感受性が豊かで心の暖かい人達だからこそできるのだと私はつくづく思う。