海部郡

明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん

 眼下に太平洋を見はるかす徳島県海部郡由岐町(現在は美波町)伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあ ふれている。

 

 国道五十五号線を徳島県阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり、急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑 の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかな い。そんな迫力がこの海にはある。

 

 この海を語るとき、私は一人の人物を語らずにはおられない。その人の名は大地鉄蔵さん。明治三十一年(1898年)七月三日生まれ。八十歳をはるかに越えても矍鑠たる 気概で活躍されていた。

 

 私が初めて鉄蔵さんにお会いしたのは、昭和五十五年(1980年)六月、衆議院選挙に初出馬したおりである。朝の五時ごろであったろうか。地方遊 説で伊座利にあったホテル「お水荘」に宿泊していた私を訪ねて来て下さった方があった。玄関に出てみると、背広に身を固め、少し大きめの革靴にステッキを つかれた老紳士が丁寧に会釈をされた。それが鉄蔵さんであった。

 

 「朝食はおすみになりましたか。このへんは私が御案内いたしますから」と意気軒高である。前日、約四百㌔を走行、阿南市の伊島から始まり、木頭村(現在 は那賀町)から日和佐町(現在は美波町)の赤松へ抜け、由岐町伊座利の宿に深夜投宿した私を「もう着いたか、もう着いたか」と何度もホテルに確認されたう え、朝一番で駆けつけて下さったという。

 

 選挙が終わって、その後も二度ばかり鉄蔵さんにお会いする機会があった。いつお会いしても血色のよい顔をほころばせながら「さあ!行きましょう」と伊座 利や阿部の支持者宅を案内して下さる。例の背広にステッキ姿で、その健脚ぶりには、孫の年齢である私でさえ参ってしまうほどである。四時間ぐらいぶっ通し で歩いても、汗一つかかない。呼吸一つ乱れない。そんな姿に私は明治の青年の気骨を見る思いがした。

 

 鉄蔵さんは由岐町の隣の日和佐町の農家に生まれた。青雲の志を抱いて北海道は網走に近い女満別へ。無一文から土地を購入して農業を開拓。やがて結婚し男 三人女二人の子供達とともにハルピンに集団移住する。満蒙開拓団である。ハルピンの冬は厳しく、ドアの金具に素手でさわると皮がむけるほどだったという。

 

 やがて終戦。ソ連兵がハルピンの開拓団にも略奪にやってきた。三千人の開拓団の生命を守るため食うか食われるかの瀬戸際の中で生き抜いてきた。ソ連兵の 捕虜になったり銃殺されたりで、三千人いた開拓団のうち無事、内地に帰ったのは二千人に満たなかったという。

 

 それでも鉄蔵さんの家族は七人全員が何とか生まれ故郷の日和佐にたどりつき、伊座利の山に開拓団として入植した。自分の食糧を全部育ち盛りの子供達に与えた妻は栄養失調で床に着いたままになってしまった。

 

 そんななか木を倒して家を建て、山を焼いて土壌を作った。一年間は何の作物も獲れない日々が続いた。それでも、さつま芋が主食という生活ではあったが伐採の仕事でようやく生計が立てられるようになった。そのうち妻も健康を回復することが出来た。

 

 伊座利の開拓団に入植した三十世帯はその後、ほとんどが離農し、残ったのは鉄蔵さんを含むわずか三所帯になってしまった。「苦労しましたね」と尋ねると 「いやあ、私も男だから、好きなようにして波乱万丈の人生を生きてきました。この人生結構、面白かったですよ」とおっしゃる。子供達も全員結婚し、孫が十 二人、ひ孫が七人。今はもっと増えているかも知れない。

 

 面倒みのよい鉄蔵さんは、当時、伊座利や阿部の町では人気抜群。鉄蔵さんを見かけると若い娘さんまで走り寄って来て「おじいちゃん、私の子供です」と赤ん坊を見せにくるほどだった。

 

 今、伊座利を訪れると太平洋を見はらす景勝の地にお墓が立っている。八十一歳で亡くなった妻・タキ子さんの墓である。

 

 「妻には苦労のかけ通しでした。せめ て太平洋の見えるこの地でゆっくり休ませてやりたいのです」そう語っていた鉄蔵さんも、今はこの墓で眠っている。男のロマンを追って北海道へ、そしてハル ピンへと渡った武骨な明治の青年は、ともに苦労を分かち合ってきた最愛の伴侶とともに、あれこれ過ぎ去った思い出を静かに語り合っていることだろう。

初質問となった圃場整備

 寒い。遊説車から振る手に感覚がない。体の芯から凍りつく思いだ。山の日没は早い。すっかり暗闇に包まれてしまった山 郷に篝火が見えた。

 

 近づくと 田んぼの中に大きな材木で櫓が組まれ、勢いよく燃え上がる火は天を焦がすばかりであった。 黒山のように大勢の人々が集まってくださっていた。

 

 「遠藤はん。待っとったんでよ。早よう、当たらんかい。遊説の人も皆、降りてこんで。早よう、当たって いきなさい。早よう、早よう」。寒中の田んぼで篝火を焚いて私達が来るのを待っていて下さった支持者の皆さんであった。心のこもった暖かい歓迎であった。

 

 場所は徳島県海部郡日和佐町(現在は美波町)赤松。昭和五十八年(1983年)十二月、私が初当選させていただいた衆議院選挙の時の忘れることのできない思い出の一齣である。

今もあの時の赤松の人々の手の温もりを私は忘れることができない。

 

 翌年一月二十八日、徳島県土地改良事業五十周年記念大会に衆議院議員になったばかりの私は、来賓で出席させていただいた。この席で土地改良事業の歴史を学ぶとともに、徳島県の水田の圃場整備が全国に比べて大変に遅れていることを知った。

 

  圃場整備は農業生産の基幹といえる。工業で言えば工場を作ることに当たる。 何故、徳島県は遅れているのか。私は徹底的に研究した。資料を集めて研究するほどに(1)徳島県は中山間地が多い。(2)中山間地も平地も圃場整備の採択 基準が同じというのはおかしいのではないか。(3)圃場整備率を日本全体でみれば大変な東高西低で格差がありすぎる。(4)格差是正をはかるためにも中山 間地に対する採択基準は緩和すべきだ。こんな問題点が浮かび上がってきた。

 

 そして三月十日、私は万全の準備をして衆議院予算委員会第五分科会で取り上げた。これが私の国会での初質問となった。「圃場整備の格差是定を迫る」。と 新人議員の活躍ぶりを地元の新聞も大きく報道してくれた。私の質問をきっかけに中山間地に対する採択基準は緩和され、徳島県でも各地で圃場整備が進むこと になった。今は全国平均に近づく整備率になったと聞く。

 

  日和佐町の赤松地区でも圃場整備事業が採択され、工事が進められた。現在、赤松地区には土地改良事業の完成を記念する大きな石碑が建立されている。当時の 土地改良事業に携わった方々をはじめ、赤松地区の皆さん全員から感謝されたことを私は昨日のことのように思い出す。

 

 土地という農家の私有財産を改良する事 業に何故公金である税金を使うのか、という議論があることを私は充分承知している。けれども土地改良事業は今後も粘り強く続けていくべきだと私は考えてい る。

 

  農地を改良することは自然環境の保全や豊かな農村づくりのための基礎的な社会資本の整備にほかならない。農業を単に産業政策の視点から見るだけでなく、環 境政策から見る視点も忘れてはならない。

 

 水田という日本の伝統的な農村風景が日本の自然環境の保全にどれほど大きな役割を果たしてきたか。今一度しっかり 考えなければならない。はるかな昔から瑞穂の国と呼ばれた日本である。水田と稲作という日本の原風景を次の世代に残していくためにも圃場整備はきちんとし ておかなければならないと私は思っている。

牟岐までサイクリング

 今はJR・牟岐線も阿佐海岸鉄道で高知県甲浦駅まで延長されたが、私が高校生のころは徳島県の牟岐駅が終着駅だった。


 駅前に大きな蘇鉄の木があった。この駅は徳島市の私達から見れば遠い南の果ての駅だった。今でこそ、徳島市から牟岐町への国道は立派に舗装が行き届き、 牟岐駅には車でも二時間ほどで行けるが、そのころは山また山をくぐり抜ける狭い凸凹道がくねくねと続いていた。


 そんな道を自転車で走ったことがある。高校3年生の夏休みだった。同行したのは河村晴美君、西英勝君、幸田賢一君、新見務君ら徳島県立工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)の同級 生。サイクリングといっても、今のようにギアが何段にも切り換えられる専用車ではなく、ごく普通の、いつも我々が通学に使用していた自転車である。


 荷台に、当時、徳島城の西の丸公園にあった徳島市陸上競技場から借りてきたテントをくくりつけ、私達は意気揚々と徳島市を出発した。


 牟岐町までは誰も行ったことがない。"まあ!何とかなるわ"で走り始めたものの、走っても走っても山また山の坂道である。しかも雨が降り始め、ランニン グシャツはおろかパンツまでびしょ濡れになってしまった。牟岐の海岸に到着したときは疲労困憊してテントを張る元気もなかった。


 その夜は牟岐町から通学していた同級生の芋谷暢重君や沢田勉君が急遽駆けつけてくれ、町の公民館を借りてくれた。ようやく一息つけたものの、翌日も土砂 降り。またしてもバケツをひっくり返したかのような雨の中、ペダルを踏んで徳島まで帰った。

 

 そんな強行スケジュールだったが1人として風邪を引く者はな かった。みんな若かった。おかげで牟岐の町には、足を踏み入れただけで終わってしまったのだが、この小旅行は私達に根性と諦めないことの大切さを教えてく れたと心から感謝している。


 そんな思い出も45年の歳月を経るとひたすらに懐かしい。今も目を閉じると、雨に煙る牟岐の山や海が瞼に浮かぶ。 あまりにも坂が急なため、泥んこにな りながら自転車を押して越えた山道もあった。そんな牟岐への道をその後、私はもう何百回も通った。牟岐の町をくまなく歩く機会もあった。


 東と西の漁港を中心に、狭い路地を挟んで家々が軒を並べる牟岐の町は、古くから栄えた漁業の町である。この港で水揚げされる魚類は多く、春は鱧や甘鯛、 夏は鱧やシビ、秋はメジロ、ハマチ、甘鯛、鉄河豚、スルメ烏賊、冬はスルメ烏賊や鉄河豚などが獲れる。

 

 しかし、ここ数年「漁獲量」はジリ貧状態が続いてい るという。特に高級魚はめっきり数が減っており、せっかく生きたまま関西方面へ出荷する体制を組んでいても、魚が獲れないために休んでしまう日もあるとい う。


 こうした沿岸漁業の不振は牟岐町ばかりではなく、県南の漁村では共通の悩みでもある。県では、「獲る漁業から育てる漁業へ」と海南町(現在は海陽町)に 「栽培漁業センター」を設立している。ここでは鯛やハマチ、鮑、鮎などの稚魚が卵から育てられ、県内の河川や沿岸海域に放流されている。

 

 その効果は序々に 現れているとはいえ、漁業振興の決め手となるには至っていない。十和田湖にヒメマスを養殖した和井内貞行翁や、香川県引田町の安戸池にハマチを放流した野 網和三郎翁の先例を待つまでもなく、その道のパイオニアと呼ばれる人達は、誰しも筆舌に尽くせぬ辛酸をなめているものだ。


 厳しい現状に挑戦し、沿岸漁業の明日を拓こうとする人々に私は心から拍手を送りたい。そしてその地道な努力の結晶がやがて見事な勝利の花を咲かせることを祈ってやまない。

県南に高速道路をと森下元晴さん

 徳島県海部郡海部町(現在は海陽町)靹浦。大敷網と呼ばれる大型定置網漁で有名な沿岸漁業の基地である。

 

  寒鰤の大敷網はことのほか有名で、例年のようにテレビのニュースや新聞記事をにぎわす水揚高を続けている。広域交流の拠点施設として整備された「漁火の 森、遊遊NASA」や大型定置網漁が体験できる体験学習船もでき、靹浦の近辺は観光地としての人気もある。

 

 靹浦には私もよく行ったことがある。漁港を中心にした狭い地域に格子戸の家が軒を連ねている。 豊かな漁村を象徴する風格のある家並みである。南町にあるとりわけ大きな屋敷が元衆議院議員、森下元晴さんの御自宅である。いつ訪問しても御母堂のふじ子 さんに親切に応対していただいたことを思い出す。

 

  森下元晴さんは大正十一年(1922年)四月十二日、人情豊かなこの漁村に生まれた。父・長一さんは徳島県下屈指の山林王という素封家であった。元晴さん も林業の父の一助になろうと東京高等農林学校(現東京農工大学)に学んだ。

 

 昭和十七年(1942年)九月、同校を卒業した元晴さんは翌年十月、徳島歩兵連 隊に入隊。終戦は蒙古の最前線で迎えている。死地を脱して復員した元晴さんは農林省高知営林局や同徳島資材調整事務所勤務を経て家業の林業経営に携わり、 地元海部町の町議会議員を務めた。そのころ中曽根康弘さんや河野一郎さんの目にとまり、昭和三十八年(1963年)十一月、衆議院議員選挙に初出馬し初当 選したのである。

 

  私はそんな森下元晴さんと昭和五十五年(1980年)、五十八年(1983年)、六十一年(1986年)の三回、同じ徳島選挙区で候補者として戦わせてい ただいた。当時は中選挙区制で徳島選挙区は定数五であった。そのため私が初当選した昭和五十八年からはともに当選することができた。選挙戦ではライバルで ありながら、ともに当選が決まるといつも「おめでとう。よかった。よかった。」と祝っていただいたことをよく覚えている。

 

  本当にお人柄のよい人であった。私が初当選したときは、私の議員会館の部屋までお祝いに来て下さり「私も初当選の時はあなたと同じ年齢でした。なんでもわ からんことがあったら、いつでも来て下さい。御相談に乗りますから」と兄のように親切にしてくださった。

 

 また、ご自分が二回目の選挙で苦杯をなめた体験を通して「二回目の選挙が肝心ですよ。今から十分準備しておくことですよ」と心配してくださった。果たし て私も二回目の選挙では一万票近くも減票してしまった。当選はできたものの私は支持者の皆様を本当に心配させてしまった。今にして思えば森下元晴さんの忠 告を真剣に聞かなかった自身の不明を恥じるばかりである。

 

 森下元晴さんは昭和五十六年(1981年)十一月、厚生大臣をされた。その後も自民党国対委員長、中曽根派事務総長をつとめられたが平成二年(1990 年)一月二十四日、まだこれからという時にあっさり政界を引退された。

 

 当選八回、二十五年間の政界人生であった。突然の引退に支持者も徳島県民もびっくり したが、本人はひょうひょうとしたもので、その直後、東京便の飛行機に乗り合わせた私に「一つだけ心残りがあります。県南に高速道路をつくる。この構想を ぜひ実現したかった」と言われた。

 

  私はとっさに思った。「確かにそうだ。森下さんはいつも言っていた。四国の高速道路網は8の字構想で進めているが、これでは阿南市から南が構想から抜けて しまう。阿南市から高知県の室戸市や安芸市を通り、高知市までつながる高速道路。これを作らなあかん」と。私は即答した。「わかりました。そのバトンを確 かにお受けします」と。

 

 その後、全国的な高速道路網整備の一環として地域高規格幹線道路の構想が発表された。阿南、安芸地域高規格幹線道路建設を促進するため徳島県南部と高知 県東部の市町村長と議長さんが連係して建設促進期成同盟が結成された。

 

 私も進んで参加した。当時、建設省で担当課長をしていた私の小学校時代の後輩から 「たった今、阿南、安芸地域高規格幹線道路の指定が決定しました」の第一報が入ったとき、私は「これで森下さんの夢が実現する」と無性に嬉しかった。

 

 徳島県南の高速道路は、日和佐町(現在は美波町日和佐)から着手されていて、一部は既に供用が開始されている。森下さんの夢は一歩一歩現実のものとなり つつある。

 

 森下さんがいつも話していた「紀淡海峡大橋」は国土整備計画のなかに太平洋新国土軸として明記されたものの実現への道はなお遠い。紀淡海峡大橋 は明石海峡大橋を超える世界第一の長大橋であるがその完成はいつのことであろうか。

軽トラックと石井清文さん

 徳島県海部郡海南町(現在は海陽町)では広い地域に集落が散らばっている。海部郡のほぼ中央部に位置し、東西に十八・ 五キロメートル、南北に十二・五キロメートル。その九十パーセントは山地であり、ダムのない清流で知られる海部川が町を縦断している。

 

 太平洋に面した大里 の松原から浅川港そして八坂八浜の海岸線から海部川沿いに笹草、若松、樫ノ瀬、皆ノ瀬、平井を抜け、轟の滝に至る。笹草から相川沿いに進めば皆津に至る。 明治三十二年浅川、川東、川上の三村が生まれ、昭和三十年にこの三村が合併して海南町になり、平成十八年海部町、宍喰町と合併して海陽町になったのだが, 今も点在する集落を昔の村名で呼ぶ人が多い。

 

 この広い地域を自分の家の庭のように自在に走り回っていたのが公明党町議会議員の石井清文さんである。 私はよく石井さんの運転する軽自動車のトラックに同乗させていただいた。農協のマークの入った野球帽をちょこんとかぶり、照れ笑いされながら、一軒一軒、 懇切丁寧に案内してくださった。

 

 軽自動車のトラックは農作業の必需品であるとともに、どんなに狭い山道も登っていける。農家の玄関まで直接入っていける。 どこに行っても石井さんの顔を見ると「どうしとったんで。元気にしとったんで」と声がかかる。どの人も皆、石井さんの支持者なのである。

 

 真っ赤な太陽が休みなく照りつける八月、私は石井さんの家に三泊して四日間をかけて二人で町中をくまなく歩き続けたことがあった。石井さんの朝は早い。 出かけるころにはもう農作業を終えている。麦藁帽子に腰手拭、そしてスニーカーという当時の私に合わせたかのように石井さんも同じ格好で出発する。一時間 も歩くともう汗がしたたり落ちる。

 

 びしょびしょになった手拭を何度も絞って歩きに歩く。手拭は太陽の強い日差しにあってすぐに乾くが水分が蒸発した分、塩分が濃くなりベトベトする。谷川 の水で顔を洗い、手拭を濯ぐ。そんなとき石井さんは谷川の近くに自生している山蕗で上手にコップを作ってくれた。「これで飲むとうまいですよ」と私にも勧 めてくれる。なるほど蕗の香りが谷川の水に浸み込んでいてたしかにうまい。

 

 朝から夕方まで走りに走り、歩きに歩く。若い私がふらふらになっても石井さんはいつもにこにこしている。「ほんまに、よう知っていますね」。感心してい る私に「海南町は私の庭みたいなものですから」と石井さんはこともなげに答える。

 

 町議会議員を永くつとめた石井さんは「私は町の人全員の相談相手」と自分 で自分にいつも言い聞かせていたという。素晴らしいことだと思う。立派な心がけだと思う。そんな町議会議員ばかりになれば本当にすばらしい町になることだ ろう。

 

 石井清文さんの精神は弟の石井允智(よしさと)さんにひき継がれ、允智さんも公明党の町議会議員を務めた。その後、石井清文さんは逝去され、弟さん も引退された。現在は原ひろみさんが海陽町の公明党町議会議員として二人の精神を引き継いでいる。

宍喰町久尾の懐かしい人々

 今は海陽町になったが徳島県の最南端に宍喰町という町があった。その宍喰町から山路に入り、くねくね折れ曲がった道の終点にあるのが宍喰町久尾。今は戸数も数えるばかりになってしまったと聞くが私にとっては忘れることのできない懐かしい山里である。

 

 私はこの山里が好きで何十回となく足を運んだ。ことに初めて衆議院選挙に出馬した昭和五十五年六月のことは今も忘れることができない。本当に大勢の人達 が私を待ち構えて下さっていた。飛びつきそうな勢いで駆け寄ってきた人たちから私は握手攻めにあった。どこの家からも走り寄ってきて声援してくださった。 遠くの家々からは、大きなタオルをぐるぐる振って応援していただいた。

 

 私の初めての選挙は次点に終わった。落選である。あんなに応援していただいたのに本当に申し訳ない。一人でも多くの人に会ってお詫びをしたい。政治への ご注文も直接お聞きしたい。徳島県の地図を広げて私は全県行脚のスケジュールを組んだ。そして最初に訪問したのが徳島県最南端の宍喰町久尾だった。

 

 その日も久尾の人々は待ち構えていて下さった。「一遍落ちたぐらいで、くよくよしよったらあかんでよ。人生頑張らな」年配の方々から、あふれんばかりの笑顔で激励された。しゅんとしていた私は次第に元気になった。 「鯉の洗い」や「ちょろぎ芋の漬け物」もご馳走になった。澄みきった川が流れていた。空は真っ青でどこまでも高かった。人々の歓声が今も耳朶に残っている。

 

 衆議院議員に当選した後も私は足しげく宍喰町久尾に通い国会報告をした。そのたびに人々は都会に出した息子が里帰りしたかのように喜んで迎えてくれた。私も堅苦しいことは嫌いだから、いつも車座になって人々の語る四方山話に聞き入った。

 

 あまりにも話に熱中し過ぎて時の経つのも忘れてしまう日が多かった。 久尾から宍喰町への山道は暗闇の道であることが多かった。それでも川辺に出ると螢の飛び交う日もあった。満天に散りばめられた星が手の届きそうに見えた美 しい夜もあった。宍喰町久尾の懐かしい人々の笑顔とともに私の心に今も残る風景である。