阿波郡

白雪の中に緑のエンドウ

 南国・徳島には珍しい大雪だった。昭和五十六年(1981年)一月のことである。前年六月の総選挙に初出馬して次点に泣いた私は臥薪 嘗胆、捲土重来を帰して全県下を日々歩き続けていた。

 

 この日は町議会議員の多田勝美さんとともに今は阿波市となった阿波町の支持者宅を朝早くから年始の挨 拶に歩いていた。

 

 一面の銀世界であった。野も山も新雪に彩られ、清々しい正月であった。私は新聞記者の時代に金沢で六年間を過ごし、雪には慣れていたものの、暖かいふるさとの地で見る一面の銀世界には一味違った詩情を感じていた。

 

 風が冷たかった。外套の襟を立てながら田んぼ道を歩いていると、真っ白な世界に、規則正しい緑の点が続いていた。「何だろうか」。近寄ってみると、それ は小さくて柔らかな芽であった。雪を割って顔を出したその若い緑の芽は、強い風に吹き飛ばされそうになりながらも、大地にへばりつくように根を張ってい た。

 

 「遠藤さん。これはエンドウ豆(豌豆)の芽ですよ」私と一緒にのぞき込みながら多田さんが教えてくれた。阿波町はエンドウ豆の特産地であった。私が初 めて衆議院の選挙に出たころも、エンドウ豆の最盛期だった。支持者の皆さんが「ソラ豆(蚕豆)じゃあないよ。エンドウ豆だよ」と歌にまで歌って私の名前を 宣伝してくれたこともあった。

 

 そんなことを思い出しながら、私達はエンドウ豆の芽を見つめていた。当時、町議会の副議長を務め、円満な人柄と高い見識で町民の信頼を一身に集めている 多田さんが、自分の子供に諭すように私に教えてくれた言葉が今も忘れられない。

 

 「遠藤さん。エンドウ豆は十一月ごろに植えて、寒い冬を越すのです。そして 春になったらぐんぐん生長して初夏に実をつけるのです。寒い冬の間に、凍えながらも大地に根を張っているのですね。冬を越したものでなければ春になっても 伸びないし、伸びてもすぐ倒れてしまいますよ」。

 

 ああ何とありがたい自然の教訓だろうか。私は目から鱗が落ちるような気持ちでその話に聞き入った。人生もまた然りといえよう。冬の寒さを知った者でなけ れば春の暖かさがわからない。それと同じように人生の冬を乗り切った者でなければ、人々の心の痛みを理解することはできまい。

 

 私も今は冬の修行をさせていただいている。何のための冬の修行か。それは自分を鍛えるためである。人生の冬を越えた者でなければ人々の心は理解できな い。人々の悩みを同苦できる自分に、成長させていただくために今、冬の修行をさせていただいているのだ。私は咄嗟にそう思った。

 

 政治家というのは一面からいえば権力の座にあることは間違いない。その権力は民衆の代弁者として民衆から授かった権力であり、民衆に奉仕するための権力 でなければならないと私は考える。

 

 そのためには、政治家の第一条件は、民衆の心を知ること、民衆が何を求めているかを知悉していくことに尽きる。民衆の心 の襞にまで触れていくことを第一義に考えていけば、正しい血の通った政治が行われることは間違いない。

 

 現実の政治家には私利私欲の権化と化した人々があまりにも多すぎる。主権者である国民を忘れ、党利党略と私利私欲にうつつを抜かす姿は、最近、とみに露骨になりつつある。まことに残念であり、悲しいことである。

 

 私は生涯、民衆と直結する政治家でありたいと思った。何故なら民衆ほど強い味方はないからだ。そのためには、徹底して自己を磨き、人々から愛される人間に成長していかねばならない。と、私は心の底から決意した。

 

 私にエンドウ豆を教えてくれた多田さんはもうこの世にいない。しかし、小さなエンドウ豆の芽を見る度に多田さんの顔が浮かぶ。そして私に「生涯、民衆の側に立つ人間として頑張りなさいよ」と呼びかけてくれる。

一脚に座って教育談義

 今は故人になってしまわれたが、徳島県阿波郡市場町(現在の阿波市市場町)に松村春男さんという公明党の町議会議員がいた。私にとっては恩人ともいうべき大先輩である。

 

 市場町は広い。吉野川の北岸地帯から、大俣、犬の墓、境目と阿讃山脈の香川県境まで、山深い地域をよく二人で歩いた。松村さんは町内の隅々まで知り尽く していた。そして支持者お一人お一人の生活や悩みごとまで知っていて、何でも相談に乗ってあげていた。それでいてちっとも偉ぶらない。素朴な人柄の人で あった。

 

 松村さんの友人で近藤秀太郎さんという年配の方がいた。当時すでに八十歳を越えていたと記憶している。小柄な方であった。

 

 「まあ、ちょっと休んでいきな され」。大きな入母屋造りのご自宅に伺うと、手入れの行き届いた庭に一脚を出してくれた。奥様がよく冷えた大きな西瓜を切って持ってきてくれる。「さあ、 食べながら話しましょう」。近藤さんの話は、実に明快だった。

 

 「昔、三木武夫さんが自転車に乗って初出馬の挨拶に来た。候補者本人が来たのはそれ以来、あ んたが二人目じゃ。候補者本人から直接頼まれた以上、私は必ず入れるから安心しなさい」。

 

 「一人一票。一票は私の全てであり、私の生命でもある。生命を金 では売れない。だから私は目の前に百万円積まれても、生命を金では売れないと断わる。徳島にもこんな人間がいることを知ってほしい」。「あんたが選挙に出 たら、私の一票は必ず入る。あとはあんたの努力じゃ。それには歩くこと。それに尽きる」。

 

 「頭で考えるな。足で考えろ。とくに政治家は。そうでないと支持 者から心が離れる」。「日本は資源がない。唯一の資源は人間だ。だから教育が一番大事だ」。「知識を教えるだけではだめ。人間を育てる教育をせなあかん」。

 

 気がついたら、あっという間に二時間ほど過ぎていた。近藤さんの話は全くよどみがない。そして同じ話を繰り返さない。職業は農業。人生を土とともに生き てきた。土に学んだ生きた人生訓だった。

 

 私は思った。「世間は広い。本当の人材は在野にいる」。「徳島はすごい。世間では何の肩書きもない人が、こんなにも高い見識を持っている。これが徳島の 政治土壌なのだ」。「政治家はしっかり勉強し自己を鍛錬していかないと、こうした方々から無視されてしまうだろう」。

 

 「今日のお話は私の生涯の指針とさせていただきます。本当にありがとうございました」。心から御礼を申し上げ、私は勇気百倍する思いで歩き続けた。

 

 昭和五十五年(1980年)の総選挙に出馬して次点に泣いた私は、捲土重来を期して七万軒のご家庭を訪問し昭和五十八年(1983年)の総選挙を迎えた。その総選挙で七万三十二票い ただいき、三木武夫元総理を抜く第二位で私は初当選した。

 

 私は早速「お陰様で当選させていただきました」と市場町にも御礼に伺った。近藤秀太郎さんは我が 事のように喜んで下さって「あんたが選挙に出る限り、わが家は親子孫の三代にわたってあんたを応援します」とまで言って下さった。

 

 その後、近藤秀太郎さん の訃報に接した私は、直ちに弔問に伺った。その時、ご子息から「確かに父から聞いております。父の遺言として、わが家はあなたをずっと応援してまいりま す。どうぞこれからもよろしくお願いします」と丁重なご挨拶をいただき、感動したことが、昨日のように鮮やかに甦る。