徳島市

新町川に永遠の平和誓う

 徳島県徳島市は水の都である。その徳島市の川を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水により水質の浄化が一段と進み、澄み渡った川には大きな黒鯛や鱸をはじめ沢山の小魚がすいすいと泳ぐ姿も見られる。


 徳島県庁のある勝鬨橋から富田橋、両国橋、新町橋、春日橋、仁心橋と新町川に架かる橋には一つ一つに忘れがたい思い出がある。ことに仁心橋は私の生まれた土地の橋でもあり、とりわけ熱い思いがつのる。私は太平洋戦争も末期の昭和十八年(1943年)五月九日、この橋の南詰の西船場町五丁目五番地に生まれた。


 生後二日目に「新生児メレナ」という病気にかかり、目から鼻から血を吹いたそうである。そんな私のために毎日毎日、人力車で仁心橋を渡って往診に通ってくれたのが寺島本町西一丁目の古川小児科病院の古川穂束(ほつか)先生である。


 先生の必死の看病で一命をとりとめた私は、生後十ヶ月目に今度は「腸閉そく」になった。父はすでに出征していた。おろおろする母を勇気づけたのは「大丈夫だよ」と語る古川先生の一言だったそうだ。またしても古川先生は人力車で仁心橋を通い続けてくださったという。 一歳の誕生日までに二度まで助けてくださった古川先生は私の生涯忘れることのできない生命の恩人である。

 

  のちにこのことを徳島新聞の「私の風景」という随想に寄稿したところ御子息の古川一郎先生から丁重なお便りをいただいた。「父のことを書いて下さってありがとうございました。今は亡き父の仏前に新聞の切り抜きを供えて報告しました。父も喜んでいることでしょう。私も父の遺志を継ぎ、小児科の医師として頑張ります」。というものだった。

 

  その後、私の三男がサルモネラ菌による食中毒にかかった時、今度は御子息の古川先生に助けてもらった。我が家は親子二代にわたって二代の古川先生に生命を救われたわけである。

 

 ところで蠣船や藍倉が軒を並べていた平和でのどかな新町川界隈も昭和二十年(1945年)七月四日の徳島大空襲で全くの焼け野原となってしまった。私が二歳の時である。


 母の背に負われて入った防空壕で親子ともども一命をとりとめたものの、家も財産も全てが一夜にして灰になってしまった。帰る家もなく食べるもの着るもの何もなかった。新町川には焼けただれた死体が折り重なるように浮かんでいたという。

 

 そんな悪夢を洗い流すかのように今日も新町川はゆったりと流れている。終戦後、バラック住宅の建ち並んでいた藍場浜界隈は美しく整備された緑地公園となり、市民の憩いの場となった。夏ともなれば世界的に有名になった平和のシンボル・阿波踊りの演舞場となる。


 誰もがちょっと見落とし勝ちなのだが、この公園の中央には「永遠の平和」と刻まれた塔がそびえ立っている。その塔の下に立つと戦争の悲惨さと残酷さを身に刻んで知った徳島市民の切なる声が聞こえてくるようである。


 古川穂束先生が人力車で毎日毎日往診に駆けつけて下さったあの仁心橋の北詰には平和と文化の殿堂として徳島県立郷土文化会館が建設されている。橋の南詰めにあった私の出生地は都市計画で現在は道路になってしまったが、その隣で魚屋さんを営んでいた越後屋さんのビルに父からの御縁で私は衆議院議員の時代に私の事務所と居宅を間借りさせていただいていたことがある。思えば不思議な御縁であった。


 過去から現在へ。そして未来へと、時は一瞬のためらいもなく確実に流れる。その歴史を川面に刻みつけながら新町川もひたすらに流れゆこう。私はこのふるさとの川が二度と血で染まることのないよう心から”永遠の平和”を誓いたい。

眉山は心の座標軸

 眉のごと雲居に見ゆる阿波の山

 かけてこぐ舟泊りしらずも(船王)


 万葉集の時代から眉山は徳島の顔であった。徳島市のほぼ中心部にあるこの山は四季折々に美しい姿を見せてくれる。春の桜、秋の紅葉も見事だが、私は清新な若さがみなぎる新緑がことのほか好きである。


 太平洋戦争の時の徳島大空襲で私の家族は徳島市西船場町の家を焼失した。この徳島大空襲の時、私はこの眉山の山裾にあった防空壕で母とともに生命を助け てもらった。徳島市蔵本元町に疎開したあとも眉山はいつも目の前にあった。徳島市立加茂名小学校、加茂名中学校の時代も、この山とともに私は育った。

 

 小学 校や中学校の時代は昆虫採集や植物採集で駆け回った。今の西部公園のあたりから登り始め、頂上の五本松や一本松から熊笹をかき分け尾根伝いに茂助ケ原まで 歩いた。時折、野兎が走る小径を気の合った友とともにわいわい言いながら歩いた。鶯の鳴き声が聞こえ、涼風が汗ばんだ膚に心地よかった。


 今、茂助ケ原にはロープウエイの山頂駅ができ、テレビ塔が建ち、お花見のできる公園として美しく整備されている。散策用のリフトもあり、晩年を徳島で過 ごし、徳島の土となったポルトガル人、モラエスの像や、記念館もある。立派なドライブウェイも完成している。徳島駅から車で行けば二十分もかからないほど の手軽な観光スポットとなっている。


 それだけに五時間も六時間も歩き、難行苦行の末に辿り着いた茂助ケ原の思い出は今も忘れることができない。茂助ケ原に立ち、そこから眼下に広がる青い海 を眺めた少年の日の感動は、歳月を経てもなお胸中に脈打つ。

 

 ところで徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)時代の思い出に眉山一周マラソン がある。徳島工業高校の校庭から出発し、佐古、大工町、二軒屋を通り城南高校の前から八万町、上八万町へと抜ける。鮎喰の堤防あたりにくると、どの顔も砂 ぼこりで真っ黒だ。もう走れないと座り込む友が出るのもこの辺である。そんな友を最後尾についてきたトラックが荷台に担ぎ上げてくれる。


 幸い、これにはお世話にならず、どうにか完走できた私だが、このときの自信は、その後の人生にとっても大きな力となったように思う。男子も女子も全校生 を対象として健康診断したうえで全員を参加させるというこのスパルタ教育は、現在では賛否両論だろうが、懐かしい思い出である。眉山を見るたびに私はこの マラソンを思い出す。

 

 現在、この眉山一周マラソンは行われていないようだが、眉山は昔のままの姿で徳島の人々に愛されている。私は高校卒業後、静岡、東 京、名古屋、金沢と移り住み、十五年ぶりにふるさとの土を踏んだのであるがその私を昔のままの姿で迎えてくれたのもこの眉山の緑であった。いつも視界の中 に子供のころから見てきた風景があるということは、何かしら安心するものだ。それは十五年間の県外での生活では味わえなかったふるさとならではの安心感で あろうか。


 衆議院選挙に初出馬して以来、県下を走り回り、歩き続けてきた私の頭の中には、徳島県の道路地図がそのままインプットされている。その座標軸の原点はい うまでもなく眉山である。幸い眉山の頂上にはテレビ塔が建ち夜間も灯りが灯されている。どんな迷路に踏み込もうがこの灯りを見つければ自分のいる位置がわ かる。

 

 私にとって眉山は灯台でもある。県外での生活では、方向感覚はいつも右か左であった。例えば、「〇〇のガソリンスタンドを右に曲がって」。という風 に。ところが徳島では、「〇〇を東へ」とか「西へ」。という。眉山を原点とし、東西に走る吉野川を水平軸にした座標軸が県民の脳裏にインプットされている せいではないだろうか。少なくとも私自身はそうであると思っている。

 

野球に明け暮れた蔵本駅前広場

 JR徳島本線・蔵本駅の駅前広場は現在、駐車場に様変わりしているが、私の子供のころはまだ舗装もされておらず、広くて静かな格好の遊び場だった。広場 には二つの公園があり、いつも樹木が茂っていた。その周囲が広場だったと記憶している。

 

 その広場の一番西側が私達の「野球場」だった。野球といっても今の ようにユニホームやグローブなどは揃えられない。バットとボールだけあればできる至極簡単なゲームだった。ボールはどこにでも売っていたゴムマリを利用し た。


 車もほとんど走らない時代だったから、ここの広場は私達の独占場だった。みんな学校から帰ると一目散に駆けつけた。野球は一チーム九人だから二チームつ まり十八人でするゲームなのだが、子供は創造力の天才だ。その日、集まった人数が多ければ多いなりに少なければ少ないなりに楽しんだ。多いときには内野に も外野にもぞろぞろ。どこへ打っても誰かに当たるほど。少ないときは皆で守りながら、一人ずつ抜けていっては打席に立った。

 

 二塁のない三角ベースの時も あった。勝ち負けとか上手い下手などはもとから度外視である。野球をすること自体がともかく面白かった。春も夏も秋も冬もボールが見えなくなるまで徹底的 に遊んだ。学校から帰っても学習塾やピアノなどの習い事にと子供のころからきりきり舞いしている現代っ子から見れば、まことにのびやかで健康的な少年時代 を送らせてもらったものだと思う。


 蔵本駅にはもう一つ思い出がある。毎年、夏になるとこの駅前広場に阿波踊りの桟敷ができたことだ。戦後の何の娯楽もない時代である。この阿波踊りの賑や かさは子供心にも文句なしにうれしかった。垂木が組まれ紅白の幕が張られた桟敷の広場には、中央に「新町橋」まで作られていた。この「新町橋」を目当てに 「新町橋まで行かんかこいこい」と阿波踊りの連が踊り込むのであった。

 

 市内の中心部だけに大きな桟敷ができる現在とは違って泥くさいなかにも阿波踊り本来 の庶民的な味わいのする蔵本駅前の桟敷だった。入場する連にはどの連にも暖かい拍手が送られた。熱演の度合いによって「のど自慢大会」のように審査員が鉦 を打つのだが、見物人はよく見ていて打つ鉦が少ないともっと叩けと囃子立てた。


 二歳の時、蔵本元町に疎開して以来十六歳までの十五年間を私はこの土地で過ごした。したがって蔵本の町は私の第二の生まれ故郷である。今でも蔵本の町並 みは一軒一軒が全て私の頭の中に焼きついている。住んでおられる方々も皆それぞれに懐かしい。

 

 ことに昭和五十五年(1980年)六月、初めて衆議院の選挙 に出馬したときは、肉親をも凌ぐ御心配をいただいた。選挙の結果が次点で落選とわかった時、私が真っ先に駆けつけたのもこの蔵本の町であった。目を真っ赤 に泣きはらしながら私の手を引き寄せるようにして握りしめてくださった人々の暖かい手の温もりを今も私ははっきり憶えている。

 

 以来二十数年にわたって、選 挙のたびにお世話になってきた。喜びも悲しみも共にしてきた。そんな蔵本の皆様の御長寿と御多幸を私は心から祈っている。野球と阿波踊り。遠い少年の日の 蔵本の思い出は、蔵本の人々の懐かしいお顔と重なって私の心に今日も暖かい春風を運んで来てくれる。ふるさとはいいなとつくづく思う。

質実剛健の県工気風

 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)は閑静な田園のなかにあった。徳島市の北部を 東西に走る田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い運動場が高いポプラ並木の果てまで続いていた。


 昭和三十四年(1959年)四月から、三十七年(1962年)三月までの三年間、私はここに学んだ。徳島県立工業高校機械科といえば当時は進学校の名 門・城南高校と並ぶ狭き門だったように思う。五十人の定員めざして県内外の中学校から優秀な人材が集まった。校内には寄宿舎があり、牟岐や伊島から来た友 はここに寄宿して勉学に励んでいた。

 

 工業立国を国策として高度経済成長の道をひた走っていた時代だけに、中堅技術者の育成は時代の要請でもあったのだろ う。機械科の卒業生には県外の一流大企業から求人が殺到した。卒業の半年も前に一人残らず自分の望む大企業に就職が内定していた。それが当時の徳島県立工 業高校機械科の魅力でもあった。


 私も中学の進路指導の先生が城南高校から東京大学へのコースを強く勧めてくださったにもかかわらず、誰に相談することもなくあっさりと徳島県立徳島工業高校の機械科を選んでいた。蔵本の家から自転車で通学できるというのもありがたかった。


 担任の中西芳男先生はじめ物理の中内理先生、数学の佐藤義照先生、金属の上崎孝一先生など優秀な先生方がいて、大学の授業並みのレベルの授業もあり、結 構面白かった。本来が楽天的な性格の故であろうか、私は受験勉強などというものは大嫌いで、いつも授業時間の中で全てを理解することに神経を集中させるタ イプである。

 

 試験内容も、現在のようにクイズ番組を連想させるような暗記力を試すだけのものとは違って、理解力を問う論文形式のものが多かった。物事を暗 記することが嫌いで、特別な受験勉強など一日もしたことのない私が、どういうわけか入学の時も卒業の時も首席だったのはその辺の事情によるものだろう。


 ともあれ、徳島県立徳島工業高校の校風というものは、一にも二にも質実剛健をもって範としていた。男女共学とはいうものの、生徒の大多数が男子であっ た。私達の機械科には、女性は一人もいなかった。

 

 実習の時間になると、各実習工場で油にまみれた作業服を着て、木型、鋳造、鍛造、溶接、手仕上げ、機械加 工、原動機、材料試験などの技術習得に汗を流した。また製図の時間には製図教室で烏口を使って図面を書いたりした。

 

 実習や製図はこうした現場での作業を通 して、実際に社会で働ける技術者を産み出していくために必要な精神の鍛錬が行われる場でもあった。教師への礼に始まり、礼に終わるという実習態度も剣道の 試合を思わせる真剣さがうかがわれた。実習の先生方も真剣だった。

 

 現場では生半可な妥協は事故に結びつく。“頭で覚えるな、体で覚えるのだ ”と、土間の窪みに薄氷が張る工場の中で、旋盤による捩子切りの作業に一日中取り組んだ日もあった。


 そんな厳しさのなかで楽しい思い出は、弁論大会と運動会、そして修学旅行である。弁論大会には機械科を代表して現在、東京で活躍している石山康弘君とと もに出場し、一、二位を独占した。運動会では、競技部門でも応援合戦でも我々の機械科が圧倒的勝利を収めた。運動会のフィナーレを阿波踊りで飾ったのも我 が機械科のアイデアであった。修学旅行は、東京と日光への旅。男と男の友情にあふれた思い出の残る旅でもあった。


 卒業してもう四十八年。我々の友情は年とともに深まっていく。有馬、名古屋、鳴門、伊豆、彦根、岡山、高山、淡路、神戸、会津、伊勢で同窓会を行ってき たが懐かしい友と一刻一秒を惜しむかのように夜を徹して語り合う姿はあの修学旅行の延長のようである。最近は年金の話などが話題になる時もあるが、いつま でもともに健康であることを祈り合っている。

計算尺と久保駿一郎先生

 徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)といえば重量挙げにテニスと計算尺といわれた時代があった。いずれも全国優勝の経験がある。

 

 私は計算尺で二回、同級生の河村晴美君、幸田賢一君、佐藤憲司君らとともに全国大会に出場した。計算尺は対数尺を用いて掛け算を足し 算、割り算を引き算の形でできる便利なものである。乗除のほか三角関数、べき計算なども即座にできるのでかつては機械や建築、土木の設計に従事する者に とっては必携の小道具であった。

 

 そんなことから当時は商業高校の算盤と同じく、全国の工業高校では計算技術の習得に力を入れており、クラブ活動の一環とし て計算尺クラブが設置されているところが多かった。

 

 徳島県立徳島工業高校の計算尺クラブを創設されたのが久保駿一郎先生である。当時は土木科の先生であり、私達には直接授業はされなかったものの、計算尺を通して、人生のあり方を教えていただいた点では、ひときわ心に残る先生である。

 

 一にも練習、二にも練習、三、四がなくて五にも練習というのが久保先生の実践教育であった。一年生のときクラブに入部して以来、一日二時間の練習が一日として欠けることなく綿々と続いた。夏休みや冬休みも先生自ら休暇を返上して、毎日登校され、私達の練習に立ち合われた。

 

 その練習も毎日が本番さながら、全国大会と同じ形式である。先生自らがガリ版印刷された問題が皆の手元に配られると、ストップウォッチ を持った先生が「ようい、はじめ!」。「やめ!」。と大きなドスのきいた声で合図される。

 

 問題の配り方から間の取り方、さらには読み上げ算の読み方まで、 何度か東京の全国大会に足を運ばれて研究されているだけに、私達は練習を繰り返しているうちに知らず知らずのうちに全国大会の雰囲気を体で覚えていた。今 思えばそんな気持ちのする先生の指導方法であったように思う。

 

 人生と同じように計算尺にもスランプがある。ある程度、技術が上達してくるとそれ以上に伸びない。焦れば焦るほど泥沼にのめり込んでい く。そんな時期が必ずあるものだ。そんなとき、その壁にどう対処していくかで人生の成否が決まるといってもよいだろう。

 

 そんなとき久保先生はいつもいわれ た。「おまえには、おまえでなければ出せない力があるのだ。それを信じろ。計算尺は技術じゃない。根性だ」。と。スランプを破るのは練習に次ぐ練習以外に ないというのが先生の信条でもあった。

 

 前途に立ちはだかる壁が厚ければ厚いほど、ともすればたじろぎがちなのが私達である。しかし壁が厚ければ厚いほど壁を突破した喜びは大 きいこともまた真実だ。わが国に「点滴石を穿つ」、中国に「愚公山を移す」との例えもある。

 

 同じことの繰り返しのように思えるかもしれないが、同じことを 繰り返すことほど強いものはない。人生の前途に立ちはだかる壮大な絶壁も挑戦の姿勢でぶつかり続けていくうち、ある日突然、崩れ落ち、新たな人生の沃野が 眼前に開けゆく思いがするものだ。私はその後の人生でそんな経験を何度かした。そのたびに久保先生と計算尺の思い出を懐かしく思い出したものである。

 

 全国大会には、私達は二回出場したものの、優勝は逸し、二回とも団体では2位、個人では三位に甘んじた。しかし一年後輩の須原英夫君が 頑張ってくれ、私達が卒業した翌年、いよいよ母校が団体でも個人でも全国優勝に輝いたのである。

 

 当時、全国大会が開かれた浜松にいた私は一般の部で出場し ていたため、会場で久保先生と出会い、優勝の感激をともにさせていただいた。鬼の目に涙とでもいうのだろうか。練習につぐ練習で鬼のように思えたあのひげ 面の久保先生も、この日ばかりは目がいかにも柔和でとめどもなく涙があふれていたことを昨日のように思い出す。

 

天際(そら)に流るる吉野川

 全長百九十四キロメートル。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。

 

 人呼んで四国三郎。利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎とともに日本を代表する三大河川の一つでもある。その水の清らかさと豊かさは徳島県人の誇りでもある。

 

  ♪千古の姿洋々と

   天際(そら)に流るる吉野川

   その雄大の精神(こころ)もて

   磨け我等の魂(たま)と技術(わざ)

   おお青春の意気昻(たか)く

 

 私の母校である徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)では校歌に、こう吉野川を歌っていた。小学生から中学生そして高校生の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。

 

 小学生の時代はもっぱら堤防での土筆採り。中学生から高校生の時代は、暇をみては鯊釣りに興じた。

 

 頭でっかち、どんぐり目の鯊は愛嬌のある魚である。七夕の笹竹に糸のテグス、鉛の代わりに小石を結びつけて、塵だめから掘り出してきた 蚯蚓を針にくっつけただけの粗末この上ない魚具でも、面白いように釣れた。今のようにクーラーもビクもない。釣れた獲物は堤防にいくらでも生えている笹に 通して帰った。

 

 どこまでも続く堤防を、大漁の凱歌をあげながら帰るとき、真っ赤な夕日が広い吉野川を朱に染めあげる。その雄大な景色といったらなかった。

 

 そんな子供のころの感動を再び味わったのは、中国大陸で夕日を見たときだった。昭和五十四年(1979年)一月十二日から、十八日まで の一週間、私は中日友好協会から招待され中国にいた。日中平和友好条約が締結されて三ヶ月、いよいよ日中両国の相互交流が始まろうとしている折り、日本の 青年を代表して訪中したのであった。

 

 北京から石家荘に向かう車中で、その夕日は私の心を激しくとらえた。首都劇場で北京歌舞団の歌舞を観賞、中日友好協会を訪問、孫平化副 会長と会談、北京大学訪問、頤和園、中日友好人民公社訪問、民族文化宮で中日友好協会の趙僕初副会長の招宴に招かれ、万里の長城、定陵博物館見学、明の十 三陵、革命記念館「周総理記念展」見学、故宮の参観、共青団並びに中国青年代表との懇談会、人民大公堂にて全国人民代表大会常務委員会の譚震林副委員長と 会見等々と続いた北京での連日の殺人的スケジュールから解放されて、快適な軟座車(日本のグリーン車)のシートに身をうずめているとき、突然車窓に広がっ たのがその雄大な景観だった。

 

 どこまでも続く地平線。今まさに沈まんとする巨大な太陽。この二つの取り合わせはまさに大自然が織りなす劇的なドラマでもあった。その荘厳さと雄大さに私は一瞬、息を飲む思いがした。

 

 古来、自然は人間の教師ともいわれる。ことに温暖なアジアモンスーン地域では、自然を友として、自然と巧みに調和しつつ農耕が行われ、 文化、文明が発達してきた。

 

 それだけに人々が自然に対して抱く感情もまた暖かいものがある。それは「自然は絶えず人間に挑戦するもの。自然を征服してこそ 人間の幸福が得られる」。といった西洋の近代文明がともすれば陥りがちな自然観とは全く違う。むしろ対極する発想といってよいだろう。

 

 吉野川の夕陽が中国大陸の夕陽と私の頭の中でオーバーラップしながら、話は人間と自然との関係をどう見るかといった形而上の問題にまで飛躍してしまった。

 

 私は、徳島の自然に抱かれながら育った人間の一人として、いつまでもふるさとの山河を愛し続けたい。文字では形容しがたい人間の心の広さと深さを一幅の名画として直ちに見せてくれる吉野川の雄大さにはいつも心魅かれる私なのである。

 

懐かしき藍水苑の出会い

 ここに一枚の写真がある。昭和五十三年(1978年)八月十三日、徳島市立加茂名中学校の同窓生が卒業二十周年を記念して集まった写真である。場所は徳島市名東町に あった藍水苑。眉山の緑をバックに懐かしい顔が並んでいる。

 

 私達の時代の加茂名は小学校と中学校が同一学区という事情もあって、同級生の全員が小学校以 来、九年間どこかで同じクラスとなっている。そんなわけでクラス別の同窓会というものはない。三百人足らずの卒業生は互いによく顔を知り合っている関係か ら、同窓会には一組から六組まで全員が昭和三十三年度卒業生という形で集い合うことにしている。


 ところで卒業して二十年も経つと一人一人の消息は容易につかめるものではない。ことに姓の変わっている女性の場合はなおさらである。一人一人の消息をつ かみ、案内状を出す労作業を自ら買って出てくださったのが岡山清治君、竹内孝夫君、遠藤高士君、西卓男君、吉田勝一君、川先専一君、藤田祥君、喜多正昭 君、鈴江一輝君、大久保英明君、見須(旧姓・斎藤)潔君、佐藤英一君、松原(旧姓・浅野)京子さん、山田(旧姓・坂田)敦子さん、淡井(旧姓・武市)昭子 さん、細井(旧姓・図子)寿美恵さん、中窪〔旧姓・中野)真弓さん、久積キヌエさん、小川洋子さん、藤田(旧姓・菊川)洋子さん、藤原(旧姓・西森)美恵 子さん、塩本(旧姓・乾)千鶴さん、日下善江さんら、こよなく加茂名を愛する人達であった。


 この方々の一年にも及ぶ忍耐と努力の結晶で、卒業生の六割の消息が判明。当日は四人の恩師もご招待し五十六人が集ったのである。遠く東京から駆けつけた浜田耕作君(今は徳島で活躍している)をはじめ、香川県や愛媛県からも懐かしい友が馳せ参じた。


 同窓生とはうれしいものである。会った瞬間、誰もが二十年も前の中学生に帰る。「お前」「俺」で話が通じ合う。裸になって話し合える。二十年間の空白を 一度に埋めるかのように私達は話すことに熱中した。少年時代の共通の思い出を持つ者の話がこんなにも楽しいものであることを知ったのは、十五年間も故郷を 離れていた私にとってうれしい発見だった。


 その後も同窓会は岡山清治君、藤田祥君、鈴江一輝君らのお世話で、小規模ながら、継続して開かれている。私もできるだけ都合をつけて参加させていただい ている。この同窓会に必ず出席してくださるのが森宮九十男先生と岸田義市先生であった。両先生とものちに母校の校長をつとめられ、人望の厚い方だったが、 岸田先生は残念ながら逝去された。私の衆議院選挙初出馬のとき、テレビで応援の弁をふるっていただいたことをはっきりと思い出す。心から御冥福をお祈りし たい。


 加茂名中学校の時代。私は生徒会長を務めていたが、立候補の挨拶に各教室を回ったり、全校生の前で立会演説を行ったことなど懐かしい選挙の思い出もあ る。それとともに生徒会の最終議題にはいつも、校舎内外の清掃問題をとりあげ、生徒会終了後役員が率先して全校の掃除を引き受けたことなども思い出す。


 陸軍の練兵場を仮整備して作られた運動場や校舎だけに、運動場からは、ときたま不発弾が発見されるなど、ぶっそうきわまりなかった。それでも、自分達の 学校は自分達の力で、整備していこうという意識が誰の心にもあったのだろう。「役員全員で率先して掃除しよう」という生徒会長の鶴の一声に、異論を唱える 役員は一人もいなかった。


 現在は校舎も運動場も全てが面目を一新している。私達の卒業式の日に完成した体育館も老朽化が進み、数年前に新築された。学校の隣にある蔵本公園や西部 公園では、今も春になると私達が中学生のころと同じように大きな桜の並木が満開に咲き競う。卒業してもう四十八年。同窓の友の髪にも白いものが見立ち始め たが、この桜のようにいつまでも青年の気概を持ち続け、はつらつたる人生を歩まれんことを心から祈りたい。        

よく遊びよく学んだ加茂名小学校時代

流れも清き袋井の
ほとりにたてる 学び舎に
育つわれらは そのかみの
いさおしたてし 人のあと
今もたたえて もろともに 
学びの道を 進まなん

 

 今も歌い継がれているわが母校・徳島市立加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のように なってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほ どだった。


 私の小学校入学は昭和二十五年(1950年)四月。桜の花が咲き乱れる校門を母に連れられて入った。入学した日「自分の名前が書けますか」といわれ、片仮名で「エンド ウ カズヨシ」と書いたら、先生に笑われた記憶がある。おじいちゃん子だった私はおじいちゃんの教える通り、覚え込んでいたらしい。


 一年生から四年生までは、遊んでばかりいた。勉強が面白くなったのは五年生になってからだ。五年生の担任は森岡進先生。今は定年退職し、子供達に書道を 教えておられるが、当時は教師になったばかりで私達の心の中にグイグイ飛び込んでこられる情熱と行動の人だった。


 授業のときも掃除のときも、これでもかこれでもかといわんばかりに自ら率先垂範される。その迫力が魅力でもあった。いつのまにかクラス全体が先生を父と した一つの家族のようになり、特に男の子は、先生の宿直の日が楽しみで、よく宿直室まで押しかけていったものである。「家には言ってきたか」というので 「ハイ」というと「よし、今日は徹夜でシゴイたる」と宿直室が俄仕立ての教室となった。


 勉強に飽きてきたなと思うと「よっしゃ。相撲するか」である。先生にみんなでよってたかってぶっ倒すと「負けたわ」と大きな体で尻餅をつく。ある日、尻 餅をついて障子がこなごなに壊れてしまったことがある。泣きベソをかく私達に「心配すな。あとは先生に任しとけ。君らはもう寝ろ」とさっさと布団の中に押 し込むのであった。

 

 次の朝、起きてみると、障子はものの見事に修繕されていた。こなごなに折れたサンを一つ一つ丁寧に糸でくくりつけ、どこで手に入れたの か障子紙まできれいに張ってあった。 「先生いつ直したんで」と聞くと「おかげで朝までかかったわ」と真っ赤な目をしている。私達が眠ってしまったあと、一人黙々と修繕されたのだろう。強い責 任感と意外な器用さには脱帽するばかりだった。


 六年生の担任は小林ミユキ先生。すでに定年退職され、悠悠自適の生活を送っておられるが、字の美しい本の好きな先生であった。卒業のとき、私が全校生を 代表して答辞を読むことになったときなど、何度も我が家まで来て一緒に文案を推敲してくれたことを懐かしく思い出す。


 同級生には東大を卒業して東京・丸の内の中小企業金融公庫に勤めていた福家隆晴君など優秀な人材がたくさんいた。福家君とはよく東京で食事をしたり、毎 年、手づくりの年賀状をいただいてきたが、残念ながら数年前に逝去された。私も弔問に伺ったが、御両親の深い悲しみに胸がしめつけられた。


 当時の小学校は遊ぶことにも徹底したが、学ぶことにも徹底していた。私なども小学生時代に世界少年少女文学全集はじめ夏目漱石の全集などを読破した記憶がある。


 今でも「我輩は猫である」や「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」などの冒頭の部分を空で憶えている。読書百遍、意おのずから通ずというのだろうか。「それから」や「心」「明暗」など難しい作品も小学生の時代になんとなくわかったつもりでいた。


 20年ほど前、県下一のマンモス校となった母校を訪問する機会があった。その折、図書室を見学させてもらったのだが、私達の時代と違って、見事なまでに 蔵書が整理されているのに驚いた。しかし「最近の子供はあまり本を読まなくなりましたね」とこぼす先生の話にちょっぴり寂しい思いもした。


 テレビ文化の時代だけに「活字離れ」がここでも進んでいるようだ。しかし時代がどのように変わろうと、1冊の本を通して世界の人々と対話ができる読書の 醍醐味は変わるものではない。人生の財産ともなる「良書に親しむ習慣」を私は小学生の時代にぜひともつけていただきたい、と心から念願するものである。

 

眉山西部公園とバレーボールの特訓

 徳島市立加茂名中学校の運動場は小さな川一つを隔てて眉山の中腹にある西部公園に続いていた。当時、運動場の周囲は人家もまばらで、見渡す限り田んぼや畑が広がっていた。私たちは小さな畦道を抜けてよく西部公園まで登ったものである。

 

 私が所属していたバレーボール部では冬場の特訓というとかならず西部公園の坂道をうさぎ跳びで登らされた。春は桜が咲きほころび雪洞に灯がともる この遊歩道も冬場は行き交う人の姿も見られないほどに寂しい。落葉を踏みしめながら、ハーハー息をはずませて登った坂道は本当に長かった。曲がりくねった 道を登りつめて陸軍の兵士を慰霊した忠霊塔のある広場の石垣が見えてくると、思わず歓声をあげたものだった。

 

 広場から眺めると中学校の校舎や徳島大学の医学部が真下に見え、はるか向こうに吉野川がゆったりと流れていた。いつも変わらぬ風景だが、何となく心が落 ち着く思いがしたことを憶えている。バレーボールの練習でこのうさぎ跳びのほかに思い出すのは、深夜、月をボールに見たててパスやトスの練習を繰り返し、 繰り返し行ったことである。当時の私たちには体育館がなかったので練習も試合もいつも屋外のコートで行った。

 

 汗と泥にまみれながらどこまでもボールに食ら いついていく執念を、これでもかこれでもかと言わんばかりに教え込まれた。当時のスパルタ教育があってこそ現在の健康があり、精神の鍛錬ができたものと私 は今になって心から感謝している。


 昭和五十五年(1980年)六月、私は衆議院選挙に初出馬して次点に泣いた。その日から昭和五十八年(1983年)十二月に行われた次の選挙までの三年半、私は徳島県下の町や村をく まなく連日のように歩き続けた。七万軒を訪問して政治への要望を聞いた。

 

 そして選挙では七万三十二票を獲得して初当選できた。以来六期連続当選し、二十年 間衆議院議員を勤めさせていただいた。長期間にわたってハードな政治活動が一日の休みもなく出来たのはバレーボールの練習で鍛えた体力と精神力のおかげで ある。

 

 私が私の経験を通して若い人に心から訴えたいことは、人生の基礎づくりとなる青春時代こそおおいに頭脳を鍛えるとともに、スポーツを通して精神と肉 体を鍛えることを忘れてはならないということである。


 「受験勉強に忙しい」と言われるかも知れないが、頭でっかちの青白きインテリでは現実の世の中には通用しない。まして、この混乱した世の中を変革する力 など湧いてくるはずもない。一般大衆の中に飛び込み、苦悩も喜びもともに分かち合いながら、みずからの知恵と力で時代を切り拓いていく。それが二十一世紀 の青年の生き方だと私は思う。

 

 そのためには一にも二にも健康でなければならない。強靭な体力と強靭な精神力の持ち主でなければこの仕事はつとまらない。 「最近の生徒はスポーツをするとすぐ骨折する。食事にも好き嫌いが激しく、給食の食べ残しが多い」という声を現場の教師から聞いたことがある。生活が豊か になるにつれ体型は確かに大きくなった。身長も体重も私たちの時代とは格段に違う。しかし体力はどうか。人生という真剣勝負の舞台で必要なのは、見た目の 体型ではなく体力という中味なのだ。


 当時の徳島市立加茂名中学校は戦後の学区制の変更によって誕生したばかりの新しい学校だった。校舎も新しかった。運動場はまだ完成していなかった。それで も先生方はよき伝統を作ろうと真剣だった。そうした草創の息吹のなかで泥くさいながらも人間味にあふれた教育を受けられたことを私は心から感謝している。           

 

麦踏み風景も今は昔の田宮と矢三

 私達が徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)に通っていたころの徳島市田宮町や矢三町は見渡す限り田圃が広がっていた。雲雀のさえずる 春は馬や牛がのどかに「代掻き」をする風景があった。水の張られた田圃では蛙のコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったら なかった。

 

 やがてかんかん照りの夏ともなると稲はぐんぐん生長し、緑の絨毯を敷きつめたようになった。そして稲穂の波を渡る風に秋を感じるころになると、黄金色に実った稲は次々に刈り取られた。稲架にかけられた稲穂はきれいな幾何学模様を描き出していた。

 

 木枯らしの冬には、さくさくと霜柱を踏みながら進む麦踏みの風景があった。手拭で頬被りした農夫が背中に手を組んで一歩一歩丁寧に麦を踏んで行く。私は飽きずに眺めていたことを憶えている。四季折々のそんな田園風景を私は今も忘れることができない。

 私は高校一年生のころ、商店街である徳島市の蔵本元町から、田園地帯の真ん中にある徳島市田宮町広坪(現在の徳島市北田宮町二丁目)に家族揃って移転した。当時は 家の前も後ろも右も左も四方八方が田圃だった。出生の地である西船場町も疎開して育った蔵本元町も商店街だっただけに、何もかも珍しかった。

 

 農家の方々との新たなお付き合いも始まった。土と取り組む人々のご苦労も身近で知ることができた。稲刈りや麦刈りのお手伝いもさせていただいたが、麦刈りのときは腰が痛くなった。また麦の穂が体に触ると痒くてこれにはいささか閉口した。

 当時は徳島工業高校に通う田宮街道は舗装ができていなかった。砂埃のなかを自転車で通った。夏休みになると吉野川の河川敷にあった徳島競馬場跡のゴルフ場(現在の徳島ゴルフ倶楽部吉野川コース)でキャディのアルバイトをしたこともある。

 私は高校を卒業するとすぐ県外に飛び出したので田宮町での生活は二年ちょっとの経験しかないが、それ以降も永く住みついた両親と三人の妹や弟にとっては、田宮町は文字通り第二のふるさととなったのである。

 ところで見渡す限り田園が続いていた田宮や矢三の町も今は見違えるばかりに変わりつつある。JR高徳線は高架となり田宮街道は拡幅工事が進み、立派な四車 線の道路に生まれ変わりつつある。新しいレストランや商店も建ち並び、田圃は埋めたてられて閑静な住宅地帯となった。南田宮町の運動公園には陸上競技場 や、市民プールもできて人々に親しまれている。

 

 ことに県立徳島工業高校、県立城北高校に加えて県立中央高校、県立城の内高校が相次いで開校し、若い人達の歓声が一日中聞かれるのもうれしい。 矢三町と応神町を結ぶ四国三郎橋の完成で藍住町など吉野川北岸の町々とも直結し、このあたりの交通の便は格段によくなった。

 次の課題は高低差のない町の中を流れる田宮川の水質を浄化することだ。幸い、徳島市北部浄水場が完成し、渭北、渭東の地域では公共下水道や合併浄化槽が急 速に普及した。次は田宮、矢三そして加茂名地区である。公共下水道や合併浄化槽が普及すると、田宮川やその上流の袋井用水にも昔のような清流がよみがえる ことだろう。私はその日を楽しみにしている。          

 

夢まぼろしの袋井用水

 高校卒業以来、十五年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は昭和五十一年(1976年)三月徳島市庄町四丁目に新居を構えた。新居といっても二戸一の民間 アパートである。 庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く私にはもともとなじみの深いところだった。

 

 その点東京生まれで徳島は初め ての家内にとっては心配もあった。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで一箇月もすると十年の知己でもあるかのよ うに気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていた。


  庄町には昭和五十一年((1976年)三月から五十五年(1980年)二月、現在の藍住町に自宅を新築して父母とともに暮らすようになるまで四年間住んでいた。その間に長男と二男が生ま れた。子供達に私自身の子供の頃の庄町の話を語って聞かせるとき大変に寂しい思いをすることが一つだけあった。


 それは、こんこんと清水が湧き出でていた袋井用水が面影もないほどに枯れてしまっていたことである。

 

  袋井用水は今から三百五十五年も昔の元禄五年(1652年)に当時の島田村の庄屋・楠藤吉左衛門が私財を投げ打ち七年の歳月をかけて作ったものであ る。この事業は吉左衛門の子・善平、孫・繁左衛門と三代にわたって継続され、旱魃に苦しむ島田・庄・蔵本三村三百町歩の水田を潤したという。


 私は小学生のころ、楠藤吉左衛門の苦労談を調査研究して徳島新聞に写真つきで紹介されたことがある。非難中傷を受けながらも農民のために初志を貫く吉左衛 門。水脈を探り当てるために、耳を凍てつく大地にこすりつける吉左衛門。そんな人となりに感動しつつ鉛筆を走らせたことを今も鮮やかに思い出す。


  小学生のころも中学生のころも私達はいつも袋井用水とともにあった。鮎喰町にあった袋井用水の水源はどこまでも青く澄みわたり、夏でも震え上がるほどに冷 たかった。満々と水を湛えた水源に道路の上から飛び込むと、夏の熱さは一度に吹き飛んだ。

 

 魚も一杯いた。小舟を浮かべて遊んだこともあった。夜は蛍が飛び 交い、笹の葉でよく追いかけたものだった。 水源に近い加茂名小学校の校庭にも袋井用水は流れていた。運動場で走り回ったあと、誰もがこの用水に入って頭から冷たい水をかぶり合ったものだった。

 

 下校 時にはこの用水に笹舟を浮かべて誰の笹舟が速いか、わいわい競争しながら家に帰ったものだった。いつのまにかランドセルを放り出して、目高や鮒やザリガニ を捕るのに夢中になっていた。


  そんな袋井用水も今は葦や萱が生い茂る汚れた排水路になってしまった。すでに小魚の影はなく大きなおたまじゃくしがにょろにょろ泳いでいるのを見るのは寂 しい限りである。水田に水を汲み上げるために水車が並んでいた風景などもう知る人はいない。

 

 水源の枯れた原因は袋井用水近辺の都市化と生活水準の向上に よって水の利用が大幅に増加したこと、農業や鰻や鮎の養殖業などで地下水を汲み上げ過ぎたこと、などが指摘されている。そうしたことによって袋井用水に伏 流水を送っていた鮎喰川自身の水量が極端に減ってしまったのである。地上の変化はそのまま地下の変化に直結しているといえよう。


  私達人間は日々の生活の物質的な豊かさなどという目に見える部分には熱い眼差しを向けるが、目に見えない部分は忘れてしまっていることが多い。自然からの強烈なしっぺ返しを受ける前にぜひとも考え直さなければならない大きな課題だ。


  私の書斎に徳島市加茂名公民館内「袋井かるた会」が発行した「いろはかるた 袋井の流れ」がある。絵は、古き良き徳島を描いて人気がある徳島文理大学の飯原一夫先生が描いている。文は郷土史家の三好昭一郎先生が書かれた。

 

 「かる た」そのものに文芸的な味わいがある。この「かるた」には私も楠藤家の方々とともに製作、販売のお手伝いをさせていただいた思い出がある。「かるた」で遊 んでいるうちに袋井用水のことを学ぶ工夫がされているのには感心する。


 「袋井用水に再び清流を」は加茂名に住む人々の共通の思いだが、私も強くそう思っている。国会でも何度か取り上げたことがある。水源が復元するよういろん な工夫も試みてみた。湧き水を昔のように増やすことは難しいけれども水質をよくする事は可能だと私は思う。公共下水道や合併浄化槽の普及により可能なとこ ろから実現したいと考えている。


 今では子供のころ遊んだ水源の周辺は袋井公園として整備され、袋井用水水源地保勝会外三団体の方々が歌碑を建立している。「袋井の水は尽きせじとこしえに 翁の勲をたたへ流るる」。徳島の歌人・保科千代次さんの歌を加茂名小学校時代の恩師である森岡進先生が揮毫されている。この歌のように袋井用水に再び清流 を取り戻すことができれば楠藤吉左衛門翁も喜ばれるに違いない。その日を私は待っている。

たくましい商人の街・船場

 徳島市の中心街にある船場は私の生まれ故郷である。二歳のとき、太平洋戦争による徳島大空襲で西船場五丁目にあった我が家は焼け落ちてしまった。

 郷土史家・小泉周臣氏の著による「船場ものがたり」(徳島市民双書・九)には、巻末の船場町家並図に大正初期のものがあり、ここには、はっきりと我が家が 示されている。二百十一ページに「恵西自転車店」の記載があるが、私の父はこの屋号で自転車店を経営していたのである。父母から聞かされた懐かしい家並み も見事に再現されており、私としては生まれ故郷の街の姿をあれこれ連想するばかりである。

 今もその面影を残しているが、船場は藩政時代から商人の街であった。天正十三年(1585年)徳島市の西部にある一宮から現在の徳島市の中心部に 移った蜂須賀家政は、築城と併行して城下の町割りを行った。船場に商人の街ができたのはそのころに遡るが、年の経つとともに新町橋を中心とした東西の船場 は新町川を運河として物質の集散する舞台となったのである。

 南方の那賀や海部方面からは沿岸伝いに、吉野川流域や上流地域からは川を利用して、それぞれの産物が城下の船着場である船場へと集まってきた。さらに特産 の藍、塩、煙草を他藩へ送り、他国の商品を買い入れる国内交易の一大拠点ともなっていった。ことに西船場では徳島の特産品である藍を取り扱う商人の出入り が激しく一段と活況を呈した。

 一世を風靡した阿波藍もやがてドイツの化学染料(人造藍)の輸入とともに衰微していくのだが、新町川の両側に並ぶ藍倉の美しい風景は長い間、商人の街・船場の象徴でもあった。今も懐かしく思い出す人が多いに違いない。

 「誰びとも橋ゆく人は見たまいぬ 流れにうつる藍倉の白」これは徳島文理大学理事長をつとめられた故村崎凡人氏が昭和九年(1934年)につくられた歌である。昭和六年(1931年)に徳島を訪れた女流歌人の与謝野晶 子も「徳島の藍場の浜の並倉と新町橋に秋風ぞ吹く」と美しい徳島の風景を歌っている。この藍倉も徳島大空襲で一夜のうちに灰燼となってしまった。

 私はかつて事務所と居宅を出生地に置いていたことがあるが、戦前のことを知っている人の少なくなっているのに驚かされた。たまに昔のことを知っている人が いて「あんたのおやじさんと朝から晩まで一杯飲みながらよう世間話をしたもんや」などと声をかけてくださった。そんなときは本当に嬉しかった。

 船から車の時代となり、問屋業を営む船場の方々は大半が徳島市の南部に造成された繊維の問屋団地に店を移したが、今もたくましくこの地で商売を続けている 人もいる。そうした方々の健闘を心から期待したい。最近は新町川の水際公園が整備され、若者に人気がある新しい商店街も生まれつつある。

 西船場の隣の西新町には市民のための文化センターや高層住宅を核とした徳島の中心としての再開発計画も提案されている。常に時代を先取りし、したたかに生 き抜いてきた船場の人達である。創意と工夫で新たな商いの道を開拓し、活気にあふれた街づくりをされることを私は強く信じている。

 

少年時代を送った蔵本の町

 徳島市蔵本元町は二歳から十六歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争時の徳島空襲で徳島市西船場町の家を焼かれた私達一家は、親戚の材木店があった蔵本元町二丁目五番地に疎開したのであった。

 今もはっきり憶えているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭に敷かれていた玉砂利をサクサクと踏んで帰って きた。この日を母はもちろん家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時三歳だった私であるがその光景だけは今も脳裏に焼き付いている。

 その次に憶えているのはマラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにそのふとんの上に私が重石として座っている光景である。戦地で あったボルネオやスマトラのジャングルから何とか生還した父の唯一の土産がこのマラリアだった。"寒い、寒い"とうなされる父に子供の私ができるのはこれ ぐらいのことしかなかった。

 少年の日の記憶は、そのあとは一挙にワンパク仲間と遊び回っていた楽しい思い出に飛ぶ。蔵本元町の商店街は佐古の三つ合い(今の佐古八番町)に始まる一 丁目から島田石橋に至る三丁目まで切れ目なく商店が続いていた。空襲を免れた町には、戦前のままの家並みが続いていた。

 八百屋に魚屋、菓子屋に自転車屋、駄菓子屋に種物屋、散髪屋に化粧品屋、貨本屋にお好み焼き屋、洒落た洋服店から葬儀屋さんまで思い出すままに列記しても たくさんの商店が軒を連ねていた。今は店を閉じてしまっているところもあるがほとんどが昔のままに営業を続けられている。懐かしい方々ばかりである。

 私達子供の遊び場は商店が並ぶこの往環ではなく路地裏であった。そして蔵本元町を取り巻くように流れる田宮川とその周辺であった。 当時の田宮川は大きな柳の枝が岸辺を覆い尽くしていた。綺麗に澄んだ水が勢いよく流れていた。鯉や鮒や鯔、そして鰻や鯰などもよく釣れた。いつも何人もの 太公望が釣糸を垂れていた。時折、荷を積んだ船や筏が往来した。私達は歓声をあげながら岸辺を併走したものである。

 蔵本元町には田宮川に沿って三つの港があった。港といっても荷揚げ場のようなものであるが、私達は「浜」と読んでいた。南から「油浜」「大浜」「テコアン の浜」である。これらの「浜」は明治の初期から昭和十年頃まで大活躍し、九州の石炭、淡路のミガキ砂、鳴門の甘藷、勝浦の木材などがこの浜から荷揚げさ れ、蔵本元町近郊の工場やお店などに運ばれたようである。

 しかし、私達の子供のころになると川を使う運送方法は次第に寂れていき、「浜」は私達にとって格好の遊び場となっていた。「浜」では、カンケリ、メンコ、 ケンケンパーなどをはじめ凧揚げなどもできた。夏休みなど川で魚すくいをしたあと水遊び、そして「浜」でチャンバラごっこと朝から晩までこの「浜」の近辺 で遊んだものだった。家の中でゴロゴロしていようものなら、「浜へ行って遊んできなさい」というのが当時の蔵本元町の親達の決まり文句でもあった。

 最近、蔵本元町をすみからすみまで歩いてびっくりしたのは、懐かしい「浜」が跡形もなく潰され、住宅地に変わってしまっていたことである。とともに川の水は濁り、魚影もない。周辺に広がっていた豊かな田園風景も新興住宅地に変わってしまっていた。

 都市化が進み、改修工事によって岸壁をコンクリートで固められた川は、すでに排水路と化してしまったかのようである。時代の進展とはいえ、少年時代の思い 出をかくも無残に削り取られてしまうと、自分の身体の一部を削り取られたような情けない気持ちになる。今はもう「浜」の呼び名を知る人も少ない。

 やはり"ふるさとは遠きにありて思うもの"なのだろうか。心の中だけにそっと置いておくべきものなのだろうか。いや、そうではない。と私は思いたい。田 宮川の下流にある新町川は最近、関係者の努力が実を結び、見事に復元している。鯔や黒鯛をはじめキビレや鱸などの魚が群れを成すほどになっている。川の周 辺は水際公園として整備され市民の憩いの場になっている。無料の観光船が周遊していて県外からのお客さんにも人気がある。

 次は田宮川だ。断じてそうだ。もう一回岸壁のコンクリートを剥ぎ取って柳の木の土手を作ってみたい。流れる水もきれいにしたい。新町川は吉野川から綺麗な 水を引いて再生した。田宮川にもいろんな工夫があるはずだ。袋井用水に始まる田宮川の再生は蔵本元町に住む人々の夢でもある。私達の子供のころのように今 の子供達にも田宮川の岸辺で魚釣りのできるようにしてあげたいものである。

 

吉野川橋と水上飛行機

 私は昭和五十一年(1976年)三月、十五年ぶりにふるさと徳島市へ帰った。その時の印象は、どこへ行っても昔のままの姿が残ってい ることだった。まず国鉄・高徳線を走るディーゼル車が昔のままだった。線路も駅も昔のままだった。頂上のあたりが少々にぎやかになっていたとはいえ、眉山 も昔の姿のままだった。

 天然樹林に覆われた城山は少しも変わっていなかった。私が少年時代を過ごした蔵本元町の商店街や小学校に通った庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のままだった。

 そんななかで一つだけ違っていたのは、吉野川橋の下流に吉野川大橋が完成していたことである。立派な国道のバイパスがこの橋と直結し、鳴門・徳島・小松島を結ぶ主要幹線はこちらの方に移っていたが、私の思い出に残るのはやはり古い吉野川橋である。

 今回はこの吉野川橋の話をしたい。まだ名田橋はなく"名田の渡し"だったころの話である。当然、四国三郎橋も吉野川大橋もない。吉野川橋は、長い間、徳島市では吉野川にかかる唯一の橋だった。

 吉野川橋は昭和三年(1928年)十二月に完成した。増田淳さんの設計による曲弦ワーレントラス橋で、当時の技術の粋を集めて作られた。全長千七十一メートル。完成時は 東洋一の長大橋であり、市民県民にとっては大きな誇りでもあった。記録に残っている開通式の様子を見ると当時の人々の喜ぶ姿が手に取るように伝わってく る。

 十七個の橋けたからなる美しいアーチ橋は今も健在で、県北部から徳島市を結ぶ主要な幹線の役割を果たしている。橋梁の両側には自転車用の側道も設けられていて通勤にも通学にもなくてはならない生活橋となっている。

 北岸の堤防から吉野川橋を眺めると背景に眉山と徳島の町の灯が浮かぶ。吉野川の川面には橋と町の灯が映っている。綺麗だなと思わず叫びたくなるほど「絵になる風景」になる。

 話は変わるが、私が高校生のころだったろうか。一時、この橋のたもとで大阪と徳島を結ぶ水上飛行機が発着していたことがあった。飛行機は風の向きに合わせ て、ときには吉野川橋の橋桁をくぐり抜けて着水することもあった。それはアクロバット飛行ともいってよいほど見事な操縦ぶりで、よく見に行ったものであ る。

 乗客の定員は八人ほどの小型機であった。国会議員や知事、市長をはじめ会社の社長やお医者さんなどがよく使っていたようである。当時は瀬戸大橋もなく、 鳴門大橋も明石海峡大橋もない。大阪へは船で行くしかない時代である。忙しい人には重宝がられた。便利な半面、危険なこともあり、着水に失敗して転覆した こともあったと記憶している。

 ともあれ、吉野川は水上飛行機が発着できるほど広く大きく、しかも水量が常に豊かで、水面も静かであった。今もその風景は変わらないが、飛行機の発着場は 当の昔になくなり、護岸は綺麗に整備され、魚を釣っている人や、ヨットやウインドーサーフィンを楽しむ若者をよく見かける。

 ところで吉野川橋を設計した増田淳さんは明治十六年(1883年)九月二十五日香川県に生まれ、明治四十年(1907年)東京帝国大学土木工学科を卒業。翌年、橋梁研究のため渡米。 帰国後は日本各地で橋の設計、施行に携わり、東京は隅田川の千住大橋をはじめ六十を越える橋をつくっている。

 徳島県でも大松川橋、勝浦川橋、三好橋、穴吹橋、吉野川橋、那賀川橋が彼の作品。電子計算機のない時代によくぞこれだけの橋をしかも形式の違う橋を設計したものと感心するばかりだ。

 余談になるが、吉野川橋の北詰に豊川仲太郎翁の石碑が建っている。豊川仲太郎さんは板野郡沖島村(現在の徳島市川内町沖島)の人で、吉野川橋がかかる前 に、この場所に個人で木造の賃取橋を架けていた。この賃取橋を古川橋と呼んだことから今も愛情を込めて土地の人は吉野川橋のことを古川橋という。豊川翁の 子孫は今も健在で、私も親しいおつき合いをさせていただいている。

 

渭東は仏壇と鏡台の町

 徳島市の地場産業といえば、まず木工業であろう。福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地 区」は仏壇と鏡台の町として知られている。かつては木工業者が軒を並べ、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転し たが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。

 この渭東木工の発祥をたずねてみるとなかなかに面白い。話は三百九十年も昔に遡るのだが、そのころ今の安宅町に阿波水軍の元締めである安宅役所が置かれた。この役所の作業場で軍船の造船や修理などが行われていたという。

 仕事場では火の用心のため、月に三回ほど木屑の整理をして、それを従業員の船大工達に払い下げた。このとき船大工たちが木屑のなかに木切れを入れて持ち帰ることを「目こぼし」といって、わざと見逃してくれたらしい。

 これを材料として塵取り・炭取り・もろぶた・俎板などいわゆる「安宅(あたけ)物」と呼ばれた日用道具を作って売った。今でいうアルバイトであるが、徳島市史第一巻(徳島市史編さん室編)によるとこれが渭東木工の起源とされている。

 明治になると、木工業の技術は一段と向上し「阿波鏡台」は大阪の問屋街でも高い評価を受けるまでになった。以後、大正、昭和を通じて、鏡台のほか箪笥や建具、下駄の生産が渭東地区を中心に発展した。

 太平洋戦争中には軍部の命令で軍需品の下請け工場となり、弾薬箱や航空機部品の製造に当たらされたこともあったが、戦後は、木地・杢(もく)張・塗装・仕 上げ加工という分業を進め、機械の導入や資金繰りの合理化を図り、ことに仏壇の製造では全国でも有数の生産地となっている。

 とはいうものの、家内労働力だけが頼りといった零細企業の多い木工業界は、景気の影響をもろに受ける。最近の長期にわたる景気不振にはどの事業所でも頭 をかかえており、「木工はもはや斜陽産業。と、わかっていても今さら商売替えもできないし泣くに泣けん状態ですわ」という声が町にあふれている。

 昭和五十七年(1982年)三月、この町に木工会館が完成した。ここでは①情報収集及び提供活動②塗装に重点を置いた試験、研究及び技術指導の二点に的を絞って、木工業界の要請に応えている。 私もよく集会の会場として使用させていただいたが、展示されている見本の商品は時代とともに年々変わっている。

 最近は「遊山箱」の展示が人気を呼んだ。「遊山箱」は私たちが子供頃に流行ったものだが、最近また若い人たちの間で注目を集めている。この「遊山箱」は調べてみるとどうやら徳島にしかないもののようである。最近はお土産としても売られている。

 木工業を取り巻く環境は依然としてまことに厳しいが、時代に即応する情報の収集と時代を先取りする創造力、それに経営の体力が加われば木工業界の前途も明るいものとなるに違いない。徳島の伝統的な地場産業の振興を祈らずにはいられない。

 

木工団地になった津田の海岸

 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出 した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々 とした入浜式塩田で働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが今も印象に残っている。

 津田の大橋を越えると津田山の絶壁が屏風のようにそそり立っていた。今ではちょっとした小山の感さえするが、子供のころの私には、はるかに高い断崖のように思われたものである。

 古くからの漁師町である津田の町を縫うようにしてバスは松原に向かう。潮騒が聞こえてくると心は躍った。海はどこまでも青く澄み切っていた。波も静かで ある。広い砂浜で貝採りに興じたこともあった。

 とくに面白かったのは「馬刀貝」である。砂にポツンと穴があいている。その穴に塩を放り込んでしばらく待っ ていると、貝がピューッと飛び出してくる。それを手でつかむのである。子供の私達にも簡単に採れるので、つい夢中になって時の経つのも忘れてしまうのだっ た。

 海が埋め立てられて海岸がなくなってしまった今は、子供達にそんな遊びのあったことも教えられない。木材団地となった今は、あちこちに作られた貯木場に 大きな原木が浮かんでいる。ほとんどが外国から運んできたものである。その原木を製材する工場が建ち並び、区画整備された広い道路には原木や製品を運搬す る大型トラックがうなりをあげて走っている。

 昔から徳島県は優れた木材の産地であった。しかも都合のよいことに吉野川や那賀川、勝浦川など多くの河川がゆったりと流れる水の都でもあった。山奥の木 材を伐採すると筏に組んで川を流した。馬車や荷車の時代は河川が重要な木材の運搬路であったわけだ。水の流れがゆるやかになる岸辺には製材工場が建ち並び 徳島の木工産業を育ててきた。

 ところが時代の進展とともに川には治山治水と灌漑用水確保のためダムが建設された。やがて筏は姿を消し、それにとって変わったのが陸上輸送のトラックで ある。さらに木材自身も県下で伐採される杉や檜にとって変わって、安い外材がどんどん輸入されることになった。こうした時代の進展に伴い、市内の河川沿い に点在していた製材工場は海岸に集められ、津田の木材団地の誕生となったのである。

 その着想は当時としてはなかなか良かったに違いない。製材工場の転出に伴い市内はびっくりするほど静かになった。新町川や福島川なども貯木場がなくなっ た関係から浄化が一段と進むことにもなった。美しい津田の海岸がなくなった反面こうした利点もあったのだ。それ故に多くの市民も木材団地の誕生を歓迎した と聞く。

 気になることは、現在の木材団地が長期にわたる不況に見舞われ続けていることだ。経済の再生を急がねばならない。活力と安心の日本、そして徳島にしたい。為政者の責任はいよいよ重い。

 

時代を写す徳島の顔、徳島駅

  JR・徳島駅に降り立つと、眉山の緑をバックに、ワシントンヤシがそそり立っている。いかにも南国情緒豊かなこの風景が私は好きだ。

 今も昔も徳島駅は徳島の顔である。ワシントンヤシは子供の頃からちっとも変わっていないが、その他は全てといってよいほど変わった。徳島駅はその時代その時代の徳島の姿をありのままに映し出す徳島の顔なのだ。

 徳島駅前にあった徳島市立内町小学校は、城山の横の西の丸運動場跡地に移転。内町小学校の跡地には駅前再開発のビルが建ち、県下唯一の都市型百貨店が数多くの専門店とともに買い物客を集めているJRの徳島駅も県下一の高層ホテルや専門店が入居する再開発ビルに生まれ変わっている。ここのホテルは四国第一号のJR直営ホテルであり、交通が至便なこともあり、人気がある。JRはこのホテルの成功をきっかけに宇和島に高松にとホテル業を展開している。

 国鉄時代にはとても考えられなかったことである。本業の鉄道事業もJRとなって以来、四国でも駅舎が次々に新築され、サービスも素晴らしくよくなった。 私は国鉄を民営化するとき、衆議院の国鉄改革特別委員会の委員として、熱心に議論し、当時の野党のなかでは唯一公明党が賛成して国鉄民営化法案を成立させ たことを思い出す。あの時の判断が誤りではなかったことに強い誇りを感じている。

 今、徳島駅は一日中人であふれかえっている。若い人達も多い。徳島から高松や岡山へ直行する特急列車の便数も増え、列車の旅もまことに快適となった。将 来は、東京へ直行するブルートレインを徳島から出発させたいと私は夢を描いている。これは国鉄改革特別委員会で私が提案したものだが、実現する日を楽しみ にしている。

 徳島駅前の商店街は次々に建物が新築され、徳島市内では一番の活況を呈している。最近、駅の再開発ビルに棟続きの分譲マンションが完成したが、入居希望 者が殺到して完成前に完売したという。一階は商業施設、二階以上は住居というこのマンションは駅前のにぎわいにすっかり解け込んでいる。

 徳島駅から眉山への道の中心部を横切る新町川の周辺でも分譲マンションは人気を呼んでいる。都心居住は国の政策にも掲げられており、建築基準の規制緩和や融資制度なども展開されていると聞く。

 生まれ育った土地で生活したい、老後を送りたいと希望するのは人間の自然な思いでもある。都心の土地があまりにも高騰化したため、やむなく郊外に出て いった人々が、子供達も大きくなった今、夫婦だけで便利な都心に住みたいと帰ってくる。定年を迎えた団塊の世代が今、日本中で都心回帰し始めているのでは ないかと私は思う。

 かつて徳島市内で一番の繁華街だった東新町の商店街にも老舗のスーパーの跡地に分譲マンションが建ち人気を集めている。

 西新町では市民ホールと高層の分譲マンションを中核とした再開発計画が議論されている。高層マンションが眉山の景観を損ねるのではないかとの意見も出さ れ、建設の是非を巡って熱い議論が戦わされている。街づくりに多くの人が意見を持つことはいいことであり、よい結論が導き出されることを私は期待してい る。

 整備の進む徳島駅と徳島駅前であるが、積み残された課題が一つある。それは鉄道高架事業である。この事業は鉄道と道路の立体交差により駅前周辺の交通渋滞を緩和しようとするものであるが、一向に進んでいない。

 徳島市の鉄道高架事業は徳島駅の隣の佐古駅までは順調に進んだものの、徳島駅に来て長い間、止まったままなのである。西新町の再開発計画とともにこの事業についても地域住民の意見を集約してよりよい街づくりに生かしていただきたいものである。

 

徳工機械科と中西芳男先生

 質実剛健は私の学んだ頃の徳島県立徳島工業高校(現在は徳島県立科学技術高校)の校風であった。荒廃した戦後のわが国を工業立国しようとする気概に溢 れた時代である。学力検査は勿論、身体検査も受けて入学した私たちは心身共に優れていることが誇りだった。なかでも機械科に入学した人たちは群を抜いてい た。ほとんどが県下の中学校の優等生だった。

 私たちは昭和三十七年(1962年)三月に卒業した。機械科の第十四回卒業生である。クラスメート五十人は誰もが学力優秀で精神的にも一本筋が通っており、質実剛健を旨とする人ばかりである。

 残念にもただ一人早くして世を去った友がいる。高校時代は陸上部のホープとして、また卒業後は新日鉄株式会社の技術者として、将来を嘱望されていた大島 博至君である。彼は昭和五十五年(1980年)十一月十九日、出張先のユーゴスラビアで思いがけない交通事故に遭遇し殉職した。この突然の訃報は私達を深い悲しみに沈ま せた。

 北九州市に住んでおられた奥様は、子供達のために力強く生き抜いてまいりますと、気丈夫に語っておられた。幸い会社側の配慮で新日鉄に就職し、悲しみか ら立ち上がることが出来た。私は鳴門市に住んでおられた大島君のご両親や肉親の方々にもお会いしたが、どなたも「博至の分まで頑張って下さい」と言って逆 に励ましてくださった。

 ご家族の皆様の悲しみはいかばかりであったろうか。その悲しみを乗り越え、私達のわずかばかりの御香典に、心からのねぎらいの言葉を寄せて下さった。ご一族の強い信念に裏打ちされた気丈な心に、私達は泣かされたものであった。

 そんなことがあった翌年、昭和五十六年(1981年)七月三日、私達は兵庫県・有馬温泉の兵衛・向陽閣でクラスの人たちだけに声を掛けた内輪の同窓会を行ったことがある。折から東京都議選の期間中であったため、私は東京へ選挙の応援に行った帰路、立ち寄った。

 懐かしい顔が全国各地から集まってきた。東京から石山康弘君、千葉から櫟原健二君、岡山から芋谷暢重君、小川功君、徳島から河村晴美君、愛媛から北井勝 好君、奈良から幸田賢一君、神奈川から佐藤憲司君、北海道から妹尾安修君、滋賀から田村大三郎君、徳島から新見務君、西英勝君、兵庫から山口真君ら壮々た るメンバーである。

 十年一昔と言うから、卒業してもう二昔になる。それでも会った瞬間、高校時代の面影がほうふつとする。夕方の六時から始まった同窓会は深夜になっても話の途切れることがない。それぞれに話したいことが山ほどあるのだ。

 大きく言えば、日本の工業の発展を支え、経済の高度成長期に青春を投げ打って働いてきた自負がある。それでなくても働き盛りの三十八歳。職場のこと家庭 のこと全てにエネルギーが満ちあふれている年齢である。愚痴というものがない。何事にも挑戦していこうという気概にあふれた話はいつ聞いても気持ちのよい ものである。

 大いに飲み、語りあった翌朝は、開催されたばかりのポートピア博覧会を見学した。高校時代に帰ったかのような雰囲気で行楽の一日を楽しんだものだった。

 ところで同窓生を語るとき、忘れられないのは、私達を三年間、担任して下さった中西芳男先生である。先生は苦学の人で、両親を早く亡くされたせいか、何 事にも心暖かく接してくれる人であった。一人一人をよく先生のご自宅に招いてくれ激励してくださったことが懐かしい。
頭脳は明晰で、数学(代数)と機械製図、原動機、そして自動制御を教わったが、試験問題はいつも自分で作成され、かなり難しかったように記憶している。後で聞いた話だが、私たちのクラスには特別にレベルの高い問題を出したそうである。

 中西先生は定年退職後も皿回しや独楽の綱渡りの理論解析をして新聞に大きく報道されるなど、ユニークな仕事ぶりがいつも世間の注目を集めていた。私たちの 同窓会にもいつも皿回しの道具を持参して来てくれ、実演してくださった。最近はオカリナの演奏にも興味を持って勉強され、ご自分で楽譜をつくって持参さ れ、私たちの同窓会で演奏してくださったことがある。

 いつお会いしても、昔と同じ姿で少しも年をとられていない不思議な方である。庶民的で気さくな性格は徳島県立徳島工業高校の多くの同窓生から慕われてい る。なかでも私たちのクラスには特別の思い入れがあるようで五十名のメンバーの消息に詳しいのには感心させられた。

 私たちのクラスの同窓会はその後も名古屋、鳴門、伊豆、蒜山、彦根、伊島、淡路、神戸、会津、伊勢などで行なわれた。伊豆や彦根の時は中西先生にもお越しいただいた が、お世話して下さった旅館の方々が「誰が先生で誰が生徒か全くわかりませんね」と言っていた。それほどに若々しい先生であった。

 

 中西先生は八十歳を越えたてももふさふさした黒髪にメガネ がよく似合う万年青年であったが、残念ながら平成二十四年(2012年)一月、逝去された。享年八十六歳であった。告別式にはクラスの同窓生の代表が徳島を始め、兵庫、岡山から駆けつけるとともに同窓生32人のご芳志を届けさせていただいた。 

徳島大学に法文学部を

 キャンパスを市民に開放した大学祭が今年も行われた。私は毎年のように出席させていただいてきたが、常々思うことがある。それは徳島大学に法文学部あるいは政治経済学部をぜひ開設してほしいということである。


 現在の徳島大学は、医学部、薬学部、歯学部、工学部、総合科学の学部があるが、いまだに旧医専、工専、師範学校の延長上にあり総合大学というものの、寄 り合い所帯の感が強い。 大学祭になるとこの色彩が一段と顕著になる。校舎が常三島と蔵本に分かれているせいもあるが、バラバラの感がして総合的な迫力に欠ける。展示物や催し物の 一つ一つにも、世の中の文化や文明に対する全体観にたった問いかけといったものが少なく、実利的、末梢的、部分的かつ興味本位の出し物が散乱している感を ぬぐいきれない。


 この大学祭の地盤沈下は全国の大学に共通している現象のようであるが、現代学生気質を象徴する出来事でもあろう。大学祭の期間中は授業が行われないの で、この期間を利用して帰省や小旅行をする学生が八割を超えるという。大学祭に参加するのはごく一部の人達であり、"人生いかに生きるべきか"など真面目 な議論をすればするほど白けた雰囲気になるとも語っていた。


 かつて大学は時代の思潮にどこよりも敏感に反応し、民衆を一歩リードしゆく新時代建設の揺籃の地でもあった。ところが現代の技術文明の社会にあっては、 大学は実利性の侍女になり下がってしまい、未来を担う指導者を育成するという役割は衰退してしまっている。少々辛口だがそんな感を一段と深くするのであ る。


 現代の大学教育が実利主義に陥ってしまった結果、二つの大きな弊害がもたらされていると識者は指摘している。すなわち、その一つは、学問が政治や経済の 道具と化して、その本来持つべき主体性や尊厳性を失ってしまったこと。もう一つは、実利的な知識や技術に価値が偏っているために、学問が知識や技術の奴隷 に成り下がってしまった、というのである。


 こうした指摘が現在の徳島大学にも当てはまることが私の気掛かりなのである。これではとても視界ゼロと言われる現代社会を切り開いていくことの出来る骨格の太い人材を輩出することは不可能ではないだろうか。


 そのためにも、この際、徳島大学に総合科学部を改組して法文学部あるいは政治経済学部を新設することを私は提案したい。総合大学の要の存在として、大学 の再生と復権をお願いしたいのである。私は常々、徳島県の未来構想は教育立県にあるべきだと主張してきた。今もこの気持ちは変わらないし、ますますその確 信を深めている。


 日本の地図を広げてみると、日本の大都市というのは東京、大阪、福岡を結ぶ東海道ならびに山陽道の一本の線の上に集中している。新幹線や高速道路に代表 される交通や情報のネットワークをはじめ人口も政治も経済も文化も一切がこの線の上に集まっているのである。


 徳島はこの線の上からやや離れたところにあって、東京も名古屋も大阪も広島も福岡も全部が見渡せる位置を占めている。これを地の利としていかねばなるまい。


 今日、明日をどうするかは大都会に任せて、十年二十年いや百年後の日本や世界のために徳島があると考えよう。日々のことに神経を集中しなければならない 大都会では、その慌しさの中で未来を展望することは至難のことである。

 

 未来を担う人材の育成に専念するとなると時間的にも空間的にもゆとりがなければなら ない。そのゆとりが徳島にはある。これこそ日本や世界における徳島県の存在意義ではなかろうか。徳島から、次の時代を担いゆく骨格太き人材を日本はもちろ ん世界に送り出す。考えただけで夢のふくらむ徳島の役割ではないだろうか。

森宮九十男先生と岸田義市先生

 私の母校である徳島市立加茂名小学校、加茂名中学校を語るとき、忘れることができないのは森宮九十男先生と岸田義市先 生である。両先生とも加茂名小学校、加茂名中学校での奉職が長く、森宮先生は加茂名中学校の校長を最後に定年退職し、私立生光小学校の校長としても活躍さ れた。岸田先生もまた加茂名小学校の校長を歴任され、徳島市立助任小学校校長を最後に定年退職し、徳島市中央公民館に奉職されていたが、すでに両先生とも 故人になられた。

 私がお世話になったのは、もう五十年前の加茂名中学校の生徒だったころの話であるが、森宮先生は理科の先生、岸田先生は社会科の先生だった。

 森宮先生には三年生のとき担任もしていただいたが、物事のけじめを大事にされる先生だった。授業は厳格で、余所見でもしようものなら、容赦なく怒鳴りつ けられたばかりか、授業の終わるまで廊下に立たされるほどであった。反面、一人一人をじつに細かいところまで知っておられ、家庭の事情なども全て把握され ていた。

 先生にはよく昆虫採集や植物採集に連れて行っていただいたが、小さな虫や名もない草に至るまでよく知っておられた。まぎらわしいものは一つ一つ図鑑を引 いて調べ教えてくれたものだった。とにかく研究熱心で、何事もいいかげんにはしておかない性格であった。

 卒業後も毎年、年賀状と暑中見舞いをいただいた。それは私が高校を卒業して県外に出たあともずっと続いた。私も筆まめな方であるが、どういうわけか、つ い返事を出し忘れてしまったことがある。先生はそのこともよく憶えておられ、後日、私がふるさとに帰ったとき、厳しく叱られたことがある。

 まさしく厳父の 愛の鞭のように私には思われ、そこまで思っていただけることに心から感謝したものである。 先生は私の両親にもずっと手紙を書いてくださり、激励を続けてくださったという。二十数年間にわたる先生の年賀状を両親から見せてもらったとき、私はいい 知れぬ感動をおぼえたものである。

 岸田先生には、誰がつけたのか“江戸っ子”というニックネームがあった。性格が開けっ広げで、気前がよく、生徒に抜群の人気があった。

 授業もまた独特のムードがあり、教科書などはそっちのけで、授業が始まるや否や、黒板に凄い勢いで文章を綴っていく。私達はそれをノートするのに無我夢 中。気がついてみると授業が終わっていたということがよくあった。あとでノートを読んでみると、教科書に載っていたことがじつに要領よくまとめられている ことに感心したものであった。

 先生の授業を通して、私は、物事の本質を理解し、ポイントをおさえるというものの見方、考え方の基本を知らず知らずのうちに教わったような気持ちがす る。先生はなかなかの達筆であった。

 当時、黒板に書き綴られたものと同じく流れるような書体で綴られた手紙が、今も私の手元にあるが、拝見するたびに懐か しさが込み上げてくる。

 衆議院議員に初当選したあと、先生は国会まで激励に来て下さったことがある。議員宿舎の近くの「お好み焼き屋」で好きなお酒を飲み ながら懇談して下さった先生。まことに庶民的な方であった。私は十分なおもてなしのできなかったことを今も後悔している。

 

徳島城に天守閣を

 どこの国どこの地域にも、その国、その地域ならではの顔がある。象徴といおうか、味といおうか、お国ぶりを濃縮した形 で示してくれる建造物が必ずあるものだ。 中国なら万里の長城。かつて毛沢東が「長城に至らずんば汝好漢にあらず」と歌ったといわれるこの長城に私も訪れたことがあるが、まさに百聞は一見に如かず で、母なる大地と一体になった悠久さには圧倒される思いがした。

 月から見える地球上最大の建造物といわれるこの長城を煉瓦で作り上げた構想の雄大さは、一 体何と表現すればよいのだろうか。まして、実際に煉瓦を一つ一つ積み上げて作りあげた人々の血と汗と涙の労苦を何と表現すればよいのか。私は言葉を失った ものである。

 この悠久さにははるかに及ばないが、日本にも日本でなければ見られない建造物がある。その建造物の代表が城であろう。城はご承知の通り封建時代の権力の 象徴でもあるが、大阪城には大阪城のよさが姫路城には姫路城の個性がある。幸い私は十五年間の新聞記者時代に、日本の各地を訪問させていただいたが、熊本 城や松本城そして彦根城や名古屋城など名城といわれる城の姿は今も記憶に鮮明である。

 さて、そうした認識の上に立ってわが徳島城を眺めてみると、少々恥ずかしくなる。徳島城は蜂須賀氏が二百七十年にわたって阿淡両国二十五万七千五百石の 土地と人民を支配してきた拠点である。今は、かつての面影を偲ぶものとしては石垣と堀、そして藩主の庭園だった旧徳島城表御殿庭園くらいのものである。

 こ の庭園は千秋閣庭園とも呼ばれている。枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって作られた豪壮な石組みによる桃山様式 の庭園である。昭和十六年十二月十三日に日本国指定名勝となっている。今も往時のままに保存されておりすぐ隣に建設された徳島城博物館から眺める景観は時 間の経つのを忘れるほど素晴らしい。

 天守閣を復元する計画があるとも聞いたがいつの間にか聞かれなくなってしまった。城山に登ると頂上の本丸跡も二の丸の天守閣跡も今は何もない原っぱに なったままである。この原っぱに本丸や天守閣が復元されれば徳島の顔となるに違いない。

 四国の県都には松山城、高知城そして高松の玉藻城とそれそれに天守 閣があり、桜の季節となるとたくさんの人々で賑わっている。徳島にもぜひとも天守閣を復元してもらいたいものである。とともに、ぜひ実現してもらいたいこ とは、城山を含む徳島城公園全域の総合的な整備である。

 

 市では中央公園として整備を進めてきたが、いささか総合的な観点からの取り組みが欠如しているように思う。私は金沢に六年間住み、しばしば兼六園に遊ん だ。四季の折々に見せる兼六園の情緒は、さすがに百万石文化の奥行きの深さを感じさせるものがあったが、市民がこの公園を何よりの誇りとして、塵一つ落と さぬほど心を配っている姿に深く感動したことを憶えている。

 

 とともに兼六園の周囲には美術館や能楽堂などが静かなたたずまいと調和するかのように配置されており、公園そのものが総合的な文化の森として機能してい ることにも感心したものである。徳島県も徳島城公園に隣接するJR徳島駅の車両基地が鉄道高架事業に伴って移転されることをきっかけに公園の整備に一役 買ってほしいものである。

 徳島城公園の総合的な整備は今後の課題として、近年は徳島城博物館に蜂須賀家代々の家宝が展示され、いつでも、蜂須賀藩の時代に思いを馳せることができ るようになったことはうれしい限りである。更にうれしいのは、徳島市出身の篤志家が私財で徳島城の表玄関である「鷲の門」を復元してくださったことであ る。

 「鷲の門」は江戸時代に徳島城を建設した蜂須賀氏が正門として建てたもので、廃藩置県によって徳島城が廃城となった後も残されていたが、昭和二十年の徳 島大空襲によって消失した。

 平成元年九月二十七日、徳島市制百周年を記念して和裁で成功された吉井ツルヱさんが郷土へのご恩返しにと復元寄贈してくださっ たのである。「鷲の門」の名は今ではすっかり市民に定着し、阿波踊りの季節ともなると、この門の前から踊りに繰り出す人も多い。門から中に入った広場では 多彩な催し物が行われ徳島観光の名所にもなっている。

 

コンニャク橋と夏の日の思い出

 徳島県出身の写真家・三好和義さんの写真集に「コンニャク橋」を背にした麦藁帽子の少年が写っている。

 三好さん自身、それは私自身の少年時代の姿であると述懐されている。三好さんと私とはかなり年齢が離れているのだが、私も「そう、それは私自身の少年時代の姿でもあります」と相槌を打ちたくなる。

 吉野川に合流する鮎喰川の下流部にJR高徳線の鉄橋が架かっている。その二、三百メートル下流にある沈下橋、流れ橋。それが「コンニャク橋」である。

 橋長二百十メートル、幅員一メートル。所在は南岸が徳島市春日二丁目、北岸が同市春日町宝野。「コンニャク橋」は洪水のときには沈下、つまり潜水する。それだけではなく、橋桁だけが残って木で作られた橋は跡形もなく流失する。そのことによって、水を堰き止めない。つまり洪水になることを防ぐ。自らを破壊する ことによって住民の生命と財産を守る。そんな悲愴な使命を持った橋なのである。

 

 平時のときには、橋桁の上に板を乗せただけだから、歩くとカタカタ揺れる。自転車で走ると、欄干がないから今にも川に飛び込みそうになる。それでも子供 のころは毎日のようにこの橋の近くの水辺で遊んだ。とくに夏の日は一日中遊んでいたような気持ちがする。

 鮎喰川の澄んだ水のなかには、鯊や小さな蟹や海老がたくさんいた。川で泳ぎ疲れると「コンニャク橋」の上に大の字になって寝た。麦藁帽子に袖なしのランニングシャツ、そして半ズボン。腰には手ぬぐい。まさに、三好さんの写真集の写真と同じ姿だった。

 「コンニャク橋」は渡るとコンニャクのように揺れるところから「コンニャク橋」と呼ばれるようになったもので、もちろん通称である。正式には「浜高房 橋」といった。その歴史をたどると大正八年頃に「浜高房の渡し」が廃止されたことに伴って地元の人たちが渡し舟の代わりに架けたとされている。

 昭和三十六年(1961年)に橋桁がコンクリートとなり、昭和四十年(1965年)には徳島市の管理となった。平成十八年(2006年)には利用者が少なく、転落事故の危険性が高いため徳島市は撤去を決 定。景観を懐かしむ人たちから反対の意見も出されたが、平成十九年(2007年)三月撤去された。

 現在は橋跡付近に往時の「コンニャク橋」の写真が刻み込まれたモニュメントが設置されている。私達の「夏の日のコンニャク橋」は遠い遠い思い出となってしまったようである。

 

少年剣道と稲木紀一さん

 東京都千代田区永田町2-1-2、衆議院第二議員会館734号室が昭和五十八年(1983年)十二月十八日から平成十五年(2003年)十月十七日までの私の国会事務所でした。

 狭い部屋でしたが、壁には私の大好きな四国三郎・吉野川の絵や阿波の人形浄瑠璃の藍染めが掛かっていた。地球観測人工衛星・ランドサットが撮影した四国全図の大きな写真は圧倒的な迫力がありました。阿波踊りの竹人形も飾られていた。

 「徳島の匂いがしますね」訪問客からは決まってそう言われた。その言葉を聞くたびに私は嬉しくなった。

 国会開会中は一日中休むことができないほど来客があった。いつも慌しくて一人一人の来客には申し訳ない限りだが、徳島県人が来ると「よくいらっしゃいま した。まあまあゆっくりしてください。お茶でもどうですか」と知らず知らずのうちに長話になってしまうことが多かった。

 取り分け嬉しかったのは少年剣道の子供達が大勢で国会見学に来て下さった時であった。「あす剣道の全国大会に出場します」という子供達と国会見学のあと一緒に国会の食堂でお昼のご飯を食べた。

 少年剣道といっても半分以上は女の子である。どう見ても女の子の方が体格がよい。付き添いのお父さんやお母さんも一緒の食事はまことに賑やかだった。

 「女の子の方が強そうやね」と私が水を向けると「残念やけど、ほの通り」。「ほんまほんま」。「でも、その方が世の中うまくいくんと違う」。「ほやほや」。「うちでもお母さんがお父さんより強いもん」。「うちもや」。「やっぱしなあ」。と、子供たちの本音の会話が続く。はきはきした声。どの顔も生き生 きしている。

 「今日だけは鉄砲を持たずビデオカメラを持ってきた」という警察官のお父さんもにこにこ笑いながら子供達の会話に耳を傾けていた。

 この少年剣道の一団を引率してこられたのが稲木紀一さんであった。稲木さんは、大正六年(1917年)二月十一日、徳島市に生まれ、私と同じ徳島県立徳島工業高校を卒業したあと、栄青写真とトクジムという二つの会社を創立された。

 会社経営に打ち込まれるとともに徳島県ビルマ会会長としても活躍された。ま た徳島県剣道連盟や徳島眉山ライオンズクラブでも活躍されたが、剣道を通して子供たちの人間形成を行うことには、特に熱い情熱を注がれた。

 剣道教士六段 だった。私は一度だけ稲木さんが竹刀(しない)を振る姿を拝見したことがあるが、正眼の構えから上下に振りおろす竹刀にはご高齢にもかかわらず毛筋ほどの 揺れもなかった。呼吸も全く乱れていなかった。

 ところで稲木さんは私にとっては感謝しても感謝し尽くせぬ大恩人である。衆議院選挙に捲土重来を期して二度目の挑戦をした時、私は母校の大先輩である稲 木さんにすがりつく思いでお願いをした。「わかりました。私から同窓会の推薦がいただけるよう努力してみましょう」とその場で快諾し、労を取ってくださっ た。

 そればかりか「徳工から国会議員を出す会」を自ら結成して下さり、自ら会長を引き受けて下さったのである。「議員バッチをつけて、母校の創立八十周年 の記念式典に来なさいよ」。と、稲木さんは口癖のように言われた。

 

 厳しい選挙戦だった。稲木さんは毎日選挙事務所に駆けつけて下さった。私は選挙期間中、何処へ行っても「稲木さんから聞いています。母校の代表として頑 張って下さい」と暖かい声援を受けた。

 そして七万三十二票というかつてない大量得票をいただき初当選できたのであった。「お約束通り議員バッチをつけて創 立八十周年のお祝いに来ることができました」。記念式典でお会いした稲木さんにそう語ると、稲木さんは目に一杯涙をためて私の手を堅く握り締めてくださっ た。

 剣道で鍛えた頑健な体と柔和な瞳が今も忘れられない稲木紀一さんだが、残念ながら鬼籍に入ってしまわれた。最後にお目にかかったのは亡くなる二週間ほど 前、病院にお見舞した時であった。その時も「次の選挙も必ず勝ちなさいよ」と心からの激励をいただいた。稲木さんが亡くなった後、ご子息の紀彦さんが父の 事業を継承された。そして大きく発展させている。私が衆議院議員をしていた間は稲木さんの遺志を継いでずっと応援してくださった。私が引退した後も県議会 議員や市議会議員になった私の秘書をずっと応援してくださっている。

 稲木さんが働きかけて下さった母校の同窓会からは、その後、選挙のたびに推薦をいただいた。「徳工から国会議員を出す会」も松田海三会長、西英勝事務局 長に引き継がれ、一層力強い御支援をいただいた。稲木紀一さんはじめ母校の皆さんのおかげで私は二十年間の国会議員生活を送ることができたのである。本当 にありがたいことであった。

 私は平成十五年(2003年)十月、衆議院議員を引退して後輩にバトンタッチした。その後輩が今は私以上に活躍している。頼もしい限りである。私は本当に幸せな人生を送らせてもらっている。ありがたいことである。私は今も稲木紀一さんをはじめとする母校の皆様に心からの感謝をせずにはいられない。