那賀郡

地方自治は民主主義の学校

 徳島県那賀郡那賀川町(現在は阿南市那賀川町)といえば、すぐ思い出すのが第五代町長の小泉隆一さんである。

 

 小泉さん はもともと那賀川町役場の職員だったが、公明党公認で町議会議員を四期務め議長も経験された。その後、周囲から強く推されて助役として活躍したあと、町長 を昭和六十二年(1987年)から平成十一年(1999年)まで三期務められた。

 

 私が一番お世話になったのは捲土重来を期して次の衆議院選挙をめざしていた昭和五十五年(1980年)六月から昭和五十八年(1983年)十二月のまで の頃であった。当時小泉さんは町議会議員をされていて、毎日毎日私を自ら運転される自動車に乗せて那賀川町内を案内して下さった。

 

 “破壊は一瞬。建設は死闘”これが小泉さんの口癖だった。いつもそういっては若い私を励ましてくれた。炎天下を一日歩き続けたこともあった。「ちょっと元 気をつけましょう」と町でも有名な鰻料理店の「鰻の天麩羅」を食べに連れて行ってくださったこともあった。

 

 小泉さんの執務室はいつも地方自治の分厚い書籍がびっしりと並んでいた。イギリスの政治家であり学者であるジェームズ・ブライスは「地方自治は民主主義 の学校」という有名な言葉を残した。

 

 小泉さんもまた「地方自治は民主主義の学校なのです。この国が民主主義のすばらしい国になるためにも地方が生き生きし た民主主義のお手本にならなくてはなりません」といつも言っていた。厳しい現実に直面すればするほど夢と理想を一層高く堅持していく。そんな熱い心意気が 言葉の端々ににじみ出ていた。

 

 私が衆議院選挙に初当選したとき、小泉さんは那賀川の河口に近い湿地帯へ案内してくれた。「ここに何か、町の人達に喜んでもらえるものを作りたいのです よ」。殺風景で何もない、ただの原野を前に小泉さんは熱く語った。

 

 頭の中にはすでに絵が描けているようだった。そして町長になると即座に実現させた。絵が 現実のものになった。「コート・ベール徳島」である。ここには誰れでもゴルフが楽しめるパブリックコースのほか多目的広場やテニスコート、野鳥観察園など の施設が整っている。

 

 小泉町長の那賀川町を住んで楽しい町にしたいとの思いは次々に実現した。「子供達を宇宙に招待したい」。そんな夢とロマンも「科学センター」の「天文館」として実現した。

 

 室町幕府第十四代将軍の足利義栄など足利家歴代の墓所がある「平島公方」の史実にも新しい光を当てた。郷土出身の漫画家にお願いして子供たちにもよくわかるように漫画本で紹介していただいた。

 

 室町時代の栄華の昔を偲んで薪能を盛大に行った。これも好評を博した。はるかモンゴルの高原まで出かけて、野球場 と野球道具一式をプレゼントする快挙もやってのけた。

 

 「まだまだ実現したい夢が一杯あります」と言っていた小泉さんだが、四期目への選挙で惜敗された。私も精一杯応援させていただいたがまことに残念だった。

 

 数ヶ月後にお会いすると「選挙は勝たないと駄目です。頑張って下さいね」と逆に激励して下さった。

 

 那賀川町では平成十三年(2001年)徳島市と阿南市を結ぶ国道に「道の駅」が完成した。地元の農家の人たちが地産地消の農産市を開いたがこれが好評 で、今では沿線の人気スポットになっている。小泉町長の時代に役場で一緒に「道の駅」建設の構想を語り合ったことが懐かしい。

 

 いつも誠心誠意、町の発展に尽くされた小泉さん。今はご子息の家族と同居され、安穏の日々を過ごされている。

 

 ご子息夫婦が結婚するとき、仲人を私と家内 がさせていただいたことも懐かしい思い出である。今は遠い昔の話になってしまったが結納の日のこと結婚式の日のことなど今も鮮明に覚えている。あのときの 小泉さんのこぼれるばかりの笑顔もはっきりと思い出す。

 

 あの新婚さんが仲良くこんなに明るい家庭を築かれ、小泉さんとともにこんなに幸せな日々を過ごされ ている。そんな姿を見ると仲人をして本当によかったと思う。嬉しい限りである。小泉さんご一家のいよいよのご健勝とご繁栄を私はいつも祈っている。

「淡路へ救援物資を」と埴渕一さん

 徳島県阿南市羽ノ浦町は徳島県を代表する大規模小売店業・株式会社キョーエイの代表取締役会長を勤められた故・埴渕一さんの出 生地である。

 

 昭和三年(1928年)十一月十三日、この町に生まれた埴渕一さんは、父・朝夫さんが創業した家業の呉服屋を徳島県下最大のスーパーに仕上げ られた。

 

 埴渕一さんが掲げた社是「市民生活を守る砦となれ」は今もキョーエイ本社の石碑に刻み込まれており、経営の原点となっている。この言葉には徳島を 愛した埴渕一さんならではの思いが詰まっている。

 

 私自身二十数年にわたって大変親しくさせていただいてきたが、いつも純粋無垢で情熱にあふれた語り口には圧倒された。猛烈な勉強家で広く世間に知識を求 めるとともにそれを実践し血肉とされていた。

 

 話をお聞きしているといつの間にか二時間も三時間も経っていることが多かった。日本にまだスーパーマーケット がなかったころアメリカに行って実際のスーパーマーケットを見た時の感動をまるで昨日のことのように語ってくださった。時代の先を読んでいち早くコン ピューターを導入された時の体験談も感動的だった。

 

 何事もあやふやにすることが大嫌いで誰にでも正論を真正面からぶつけられた。「そんなにはっきり物を言うと商売に影響があるのでは」。などと心配する人 もいたが、本人は全くおかまいなしで、何事につけてもいつもきっぱりと断言された。

 

 しかも決断がまことに早い。迷うということがなかった。何故、迷わない のか私なりに分析してみると、この人の場合、判断の基準がいつも損か得かではなく、正しいことを行っていれば必ず得をする。それが社会の法則であるという 確かな経験則を持っておられたからではないかと思う。

 

 平成七年(1995年)一月十七日の阪神・淡路大震災のときもそうだった。大震災の翌日、私は海部俊樹元総理とともに淡路の被災地へ駆けつけた。私が救 援活動の視察に行くと聞いた埴渕一さんは、救援物資を満載した車を用意して同行を願い出られた。

 

 救援物資は自ら陣頭に立って用意されたという。飲み物を始 め食べ物もある。救援物資は車が傾くほど満載されていた。「私は行けなくて残念ですが、皆さんのお力で被災者の方々に届けて下さい」と語る埴渕一さんの顔 は真剣そのものだった。

 

 救援物資だけでなく、車も運転手も自ら用意された。海部元総理にこのことを話すと「本当にありがたいことです。救援物資は私から直接、兵庫県知事にお渡 しします。埴渕一さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい」と大変に喜ばれた。

 

 救援物資は災害対策本部となった北淡町役場の玄関に高々と積み上げられ、その 場で兵庫県知事と北淡町長に直接手渡された。知事も町長も大変に感謝し、その日のうちに役場の職員によって直接被災者に届けられた。

 

 大震災のあと私は二度ばかり北淡町を訪問した。その後も衆議院の建設常任委員長として建設委員会のメンバーとともに阪神・淡路大震災の被災地を視察し た。神戸市を中心に被災地をくまなく視察し復旧の現状を聞いた。

 

 兵庫県知事や神戸市長をはじめ淡路島の町長さんたちから国への要望をお聞きした。どの方々 からも「今回は民間の皆様から熱心な救援活動をいただき本当にありがたく思っています」とボランティア活動に感謝する言葉を聞いたことが印象に残ってい る。

 

 それにしても大震災の日の翌日という埴渕一さんの救援活動は民間のボランティアとしては誰よりも早かった。徳島県でも埴渕一さんのこの救援活動をきっか けに多くの人々が大鳴門橋を渡って淡路の被災者に救援の手を差しのべた。

 

 「困ったときはお互いさまですよ。人間として当たり前のことをしただけですよ」。 海部元総理や兵庫県知事の感謝の言葉を伝えると子供のようにはにかんだ埴渕一さんの笑顔が今も忘れられない。

道の駅は旅のオアシス

 蜂須賀家が代々阿波を治めていた藩政の時代から阿波と土佐を結ぶ街道の町として栄えてきたのが鷲敷町(現在は那賀町鷲 敷)である。

 

 徳島県下第二の大河である那賀川の流域を丹生谷と呼ぶがこの地方一帯の行政・文化・経済の中心地でもある。最近は阿南市や徳島市に通じる道路 も整備され、人々の往来は一段とにぎやかさになっている。

 

 国道195号線を行き来する人々のオアシスとなっているのが道の駅・鷲の里である。鉄道に駅があるように一般道路にも駅を作ろう。「道の駅」はそんな 自然な発想から生まれた。二十四時間利用できる休憩のためのパーキングであることはもちろん、その土地の文化や歴史、名所や特産品などを紹介するとともに 人と人との交流の場でもある。

 

 その昔、江戸と京を結ぶ東海道には五十三の宿場町があった。東海道五十三次である。これこそ道の駅の原型といえよう。もともとは道の駅が駅であり鉄道の駅は鉄道が開通してからのものにすぎないと私は思うのだが、いかがなものであろうか。

 

 それはさておき、四国でも道の駅の整備が進んでいることはうれしい。徳島県では貞光ゆうゆう館(つるぎ町)鷲の里(那賀町)宍喰温泉(海陽町)どなり (阿波市)にしいや(三好市)わじき(那賀町)公方の郷なかがわ(阿南市)もみじ川温泉(那賀町)温泉の里神山(神山町)藍ランドうだつ(美馬市)三野 (三好市)日和佐(美波町)第九の里(鳴門市)大歩危(三好市)の14箇所。

 

 高知県では大杉(大豊町)すくも(宿毛市)大月(大月町)四万十大正(四万十町)ゆすはら(梼原町)南国風良里(南国市)美良布(香北町)布施ケ坂(津 野町)キラメッセ室戸(室戸市)土佐和紙工芸村(いの町)土佐さめうら(土佐町)大山(安芸市)かわうその里すさき(須崎市)あぐり窪川(四万十町)木の 香(いの町)めじかの里土佐清水(土佐清水市)やす(香南市)633美の里(いの町)田野駅屋(田野町)ビオスおおがた(黒潮町)四万十とおわ(四万十 町)の21箇所。

 

  愛媛県では瀬戸町農業公園(伊方町)マイントピア別子(新居浜市)日吉夢産地(鬼北町)ひろた(砥部町)ふたみ(伊予市)内子フレッシュパークからり(内 子町)伊方きらら館(伊方町)きなはい屋しろかわ(西予市)みしょうMIC(愛南町)今治湯ノ浦温泉(今治市)虹の森公園まつの(松野町)広見森の三角ぼ うし(鬼北町)伯方S・Cパーク(今治市)今治市多々羅しまなみ公園(今治市)しまなみの駅御島(今治市)小松オアシス(西条市)みかわ(久万高原町)清 流の里ひじかわ(大洲市)よしうみいきいき館(今治市)風早の郷風和里(松山市)みま(宇和島市)小田の郷せせらぎ(内子町)うわじまさきいや広場(宇和 島市)の23箇所。

 

 香川県では瀬戸大橋記念公園(坂出市)津田の松原(さぬき市)ことひき(観音寺市)ふれあいパークみの(三豊市)小豆島オリーブ公園(小豆島町)小豆島 ふるさと村(小豆島町)空の夢もみの木パーク(まんのう町)みろく(さぬき市)しおのえ(高松市)滝宮(綾川町)ことなみ(まんのう町)恋人の聖地うだつ 臨海公園(宇多津町)とよはま(観音寺市)たからだの里さいた(三豊市)大坂城残石記念公園(土庄町)ながお(さぬき市)香南楽湯(高松市)源平の里むれ (高松市)の18箇所。 以上、四国では76箇所がすでに供用されている。

 

 私は平成十一年(1999年)二月十七日、衆議院予算委員会第七分科会で四国に八十八箇所の「道の駅」を整備することを提案したが、八十八箇所を上回る ことは間違いない。いつ上回るかすでに時間の問題となっている。

 

 平成二十二年(2010年)三月現在の道の駅の整備状況をみると全国で936箇所、四 国で76箇所、徳島県で14箇所である。私が提案した道の駅の整備は着実に進んでいるといえよう。誠にうれしい限りである。道の駅が地域と地域、道路と 道路、そして人と人を結ぶ旅のオアシスになるよう心から願っている。

番茶づくりは炎天下の労作業

 徳島県では北に吉野川、南に那賀川の二つの大河が東西に流れ、紀伊水道に注いでいる。この那賀川の中流に位置する相生 町(現在は町村合併して那賀町となった)は「相生の番茶」で有名である。

 

 県下でも数少ない番茶の生産地として相生町の名はよく知られている。昔はどこの家 庭でもお茶といえば番茶であった。今は番茶を知る人も少なくなってしまったが、番茶の効用は再認識されている。乳児にもよいという話を私は新聞で読んだこ とがある。

 

 私が毎年のように相生町を訪問したのは二十年から三十年ほど前のことになるが、梅雨が明け灼熱の太陽が照りつけるころに相生町を歩くと、どこの農家も番茶づくりに汗を流していた。

 

 番茶づくりは、まさに炎天下の労作業である。まず茶の葉を摘む。灼熱の太陽が照りつける茶畑で黙々と働く人々の姿には頭が下がる。その茶の葉を大きな釜 で茹でる。真夏に火を焚くのだからその暑さはたまらない。茹で上がった茶の葉を大きな甕に入れて発酵させる。発酵した茶の葉は熱い。湿度も高い。汗びっ しょりになって熱い茶の葉を掻き回す。

 

 私が訪れたころはどこの農家にも土間があり、番茶づくりの作業所があった。今はどうだろうか。今も時おり、相生町を訪問した方から「相生の番茶」をいた だくことがある。大きな円筒形の番茶袋は昔のままだが、この番茶を作った人々の御苦労を思えば一滴も粗末にはできない。人々の姿を思い浮かべながら、私は 大切にして少しずついただいている。

 

 相生町でもう一つ印象に残るのは、山菱電機株式会社の「相生森林公園工場」である。社長の蓮池哲夫さんは、私の友人であり、もう二十五年も前の衆議院選挙初当選のころから親しいお付き合いをさせていただいている。

 

 徳島県名西郡石井町の石井工場に招かれ、社員の皆さんに「人生あたってくだけろ」のタイトルで講演させていただいたこともあった。「一度、相生の工場に 来てみて下さい」と案内されて伺ったのだが、びっくりした。天井の高い大きな工場が全て木作りなのである。

 

 「自然にやさしい工場にしました。ここは木材の 産地ですから、土地にふさわしい工場になったと思いますよ」蓮池さんの説明通りの工場だった。「相生森林公園工場」の看板そのままの工場であった。従業員 の人達に感想を聞くと「自然に囲まれた保養所のような工場でしょう」とお気に入りの表現で説明してくれた。

 

 工場といえば大方は街の中か、少し離れていても海岸地帯。そんな常識を打ち破って山の中、緑の大自然の中に木材で工場を作る。今の時代に何とすばらしい アイデアだろうか。学校も役場も病院も、もう一度木材で作ってみたらどうだろうか。

 

 木材にはコンクリートにはないやさしさがある。耐久力だってあるはず だ。石で作られたギリシャやトルコの遺跡に比べて京都や奈良の木で作られた建造物の何としたたかで美しいことだろうか。木の文化をもう一度再認識してみて はどうだろうか。環境にやさしい町づくりは今や時代の趨勢である。 木で作ることが時代の先取りになることは間違いない。

昔懐かし立会演説会

 衆議院議員の選挙制度が中選挙区制であったころ、立会演説会があった。徳島県の選挙区は全県一区で定数は五。いつも十人ほどの立候補者があった。その立候補者が二組に分かれて、県下各地で開かれる立会演説会に出席した。

 

 立会演説会はいつも夕方から開かれ、一人の演説時間は三十分間、何を話してもよい。思う存分に自分の言いたいことを訴える。聴衆も一晩でたくさんの候補 者から直接話が聞けるので、比較検討することができる。よい制度だったのだが、残念ながら廃止されてしまった。

 

 もう一度立会演説会を復活させるべきだという意見もある。私も賛成だ。自分の支持する候補者の話を聞くだけでなく、全ての候補者の話を直接聞いてみる。その上で一番よいと思う人を選ぶ。それが選挙の選挙たる所以であると思うからだ。

 

 ところで立会演説会で思い出すのは、今は那賀町になった上那賀町の会場である。確か町役場の隣にあった公民館であったと記憶している。私が演説する時刻 になると、今は同じ那賀町となったが、近在の木頭村や木沢村からも大勢の方々が駆けつけて下さった。盛大な拍手があり、声援が飛んだ。

 

 若い私のことを心配 して、年配の皆さんが声を限りに応援して下さった。演説が終わると、みんなぞろぞろ会場を出てきて場外でまた大きな人の輪ができた。背広の人は少ない。ほ とんどの人が仕事着のまま会場に駆け付けて下さった方々だ。分厚い手、ごつごつした大きな手で、私の手を握りしめた。痛いほどだ。

 

 「ありがとうございま す。必ず勝って皆様におこたえします」そういうのが精一杯だった。遊説車が見えなくなるまで手を振って下さった。私は皆さんが見えなくなっても町の灯にむ かって手を振り続けていた。

 

 立会演説会では、三木武夫さん、後藤田正晴さん、秋田大助さん、森下元晴さん、井上普方さんという壮々たる大先輩の皆さんと御一緒した。皆さん私から見 れば雲の上の人達ばかりだったが、舞台の袖で「お先に失礼します」とか「お先にどうぞ」とか挨拶すると、にこっと笑って「お互いに頑張りましょう」と声を かけて下さり、とても嬉しかった。

 

 三木武夫さんと後藤田正晴さんはともに近寄り難い印象があったが、二人とも私にはいつもにこにこ話しかけて下さった。秋田大助さんと森下元晴さんは、飾 り気のないお人柄でいつもざっくばらんに話ができた。井上普方さんもちょっとおっかない感じはあったが、いつも阿波弁で激励して下さった。

 

 今思うことだが中選挙区制というのは結構良い制度だった。選挙のときはお互いに競争相手だが敵ではない。どんなことがあっても五人は当選できる。だから 「お互いに頑張りましょう」と候補者同士が声をかけ合い、お互いに当選を喜び合うことができた。

 

 だが小選挙区制だとそうはいかない。一人しか当選できな い。自分以外は皆、敵となる。日頃は信頼し、尊敬し合っていても、相手を落とさない限り自分は当選できない仕組みになっている。

 

 民意が多様化している時代 にたった一人しか選べないこんな小選挙区制のままでよいのだろうか、もう一度、衆議院選挙制度のあり方について根本的な議論をすべきだろうと私は思う。

ブナを守れ!しもあれ国有林へ

 昭和六十年(1985年)四月十二日、公明党にジャパングリーン会議が発足した。初代議長は当時、参議院議員だった多 田省吾さん。多田さんは大きな体に似合わず、よく動く行動の人だった。私は発足式以来、視察にシンポジウムにそして関係当局への申し入れに同行させていた だいた。

 

 「緑を守ろう。良質の緑を日本中に残し育てたい!」多田さんの心を掻き立てたのはそんな一途な思いだった。

 

 秋田県の白神山地。ここでは青森県と秋田県をつなぐ青秋林道がブナ林を切り倒して開通する予定だった。昭和六十二年(1987年)十月十三日、私達はそ の現場を視察した。

 

 視察後、直ちに工事の中止を政府に訴えた。これが一つのきっかけとなり、工事は中止された。今は世界遺産に登録されている。

 

 「徳島でも ブナの国有林が代採されています。ぜひ来て下さい」私のそんな訴えに、多田さんは二つ返事で「わかりました。皆んなで行きましょう」と早速、行動を開始し てくださった。

 

 昭和六十三年(1988年)四月一日、徳島県那賀郡木沢村(現在は那賀町木沢)の“しもあれ国有林”にはまだ雪が残っていた。その残雪を踏み分けて、多 田議長を先頭に衆参国会議員、地方議員がそろって視察した。案内していただいた営林署の方々もびっくりするほど大勢の、しかも精力的な視察だった。

 

 私はこの視察をもとに、さらに調査を進め、平成一年(1989年)十一月二十一日の衆議院環境委員会で取り上げた。その結果、“しもあれ国有林”のブナは保護されることに決定した。

 

 ブナは森の王様といわれる。「ブナの森に水筒いらず」といわれるほど、ブナの木には大量の水が含まれている。ブナの森では土壌にも大量の水分が含まれていて、動植物の豊かな多様性を生み出す源泉となっている。

 

 そのブナ林を伐採して杉や檜の林としてしまった。そんな戦後の「拡大造林」政策は、明らかに行き過ぎであり、誤りであったと私は断言する。

 

 自然が永い歳 月をかけて作ってきたブナを中心にした複層林を伐採し、成長の早い経済林として杉や檜の単層林を作ってしまったのだ。しかも間伐さえできていない。そんな 戦後の林業政策は、結果としてブナ林に代表される天然のダムを崩壊させてしまった。だから人工のダムをいくら作っても、荒廃した山の地崩れを防げないのは 当たり前のことなのだ。

 

 もともと国有林野事業を特別会計にしたのは、戦後の復興資金として国有林が切り出されるのを防ぐためだったと聞く。それが年とともに全く逆の作用を果た すようになった。国有林野事業はこの特別会計制度を維持するために、経済性を優先した林野事業を行わざるを得ない宿命を負ってしまったのである。

 

 最近は、その愚を悟り、森林を保護する観点から、国有林野事業の見直しが行われている。林野行政を経済政策の視点からだけではなく環境政策の視点から見 直すことの大切さにようやく気づいたのである。

 

 森林の環境保全に果たす役割はまことに大きい。地球環境の保全に関する国際会議でも森林の保護と育成がいつ も取り上げられている。

 

 私は鳥取県の大山山麓をはじめ岩手県や福島県のブナの原生林を視察し、沖縄県のヤンバル地域にも足を伸ばして原生林を見てきたが、 こうした天然のままの大自然は人類の遺産として残していかなければならないと強く決意している。          

“ミナミガタ”の心暖かき人々

 行けども行けども山また山の中であった。徳島県では吉野川に次ぐ第二の大河である那賀川。その川沿いの国道百九十五号 線を走ると、今は那賀町となった丹生谷の五町村が数珠つなぎにつながっていた。阿南市から鷲敷町、相生町、上那賀町、木沢村、そして木頭村まで来るとそこ はもう徳島県の果て。四っ足トンネルを抜けると高知県であった。

 

 この道を私は若い頃、何百回も走った。道路沿いに展開される山里の風景は、私にとって馴染み深いものとなっていた。最近は道路の拡幅も進み快適なドライ ブコースになったと聞くが、私が通っていた頃は車のすれ違いにも気をつけなければならないほど狭くて曲がりくねった道が多かった。

 

 ところで徳島県は阿波と呼ばれた昔から“キタガタ”と“ミナミガタ”に分けられてきた。吉野川北岸から西にかけてが一般に“キタガタ”と呼ばれた。「阿波の “キタガタ”起き上り小法師。寝たと思うたらもう起きた」などといわれるように、総じて“キタガタ”の人々は働き者であった。

 

 この働き者というのも、実は働かなくては食べていけないという土地の貧しさから来ているもので“キタガタ”の人はへらこいなどといわれるように利に敏い一面もあった。厳しい環境のもとで必然的に生まれた性格といえるかもしれない。

 

 一方、“ミナミガタ”と呼ばれるのは、那賀川以南で、温暖な風土と山海の幸に恵まれているせいか、どことなくのんびりしていて人柄も丸い。

 

  “ミナミガタ”はどこへ行っても抜けるような青空の日が多かった。小鳥の囀りすら、どことなく愛嬌があった。畔道を歩くと、見知らぬ村人までが会釈を返し てくれた。走り寄ってきて「どこまで行きょるんで」といいながら丁寧に道を教えてくれた。田植えの手を一休みしているグループのなかに入ると「まあ、一杯 やらんで」とお茶やお菓子が出て青空座談会が始まった。

 

 私は青い空と緑の大地に包まれた大自然のなかで年配の方々と語り合うのが好きだ。木頭村の一番奥にある北川で八十一歳になるというおばあちゃんから聞いた話が面白かった。

 

 この村にお嫁に来たのは十四歳の春だったという。隣の村から馬の背に揺られて、峠を越えてきた。向こうの方に紋付を着た男の人が四、五人いた。「どの人 が私の婿さんじゃろうか」。親が決めた婚礼である。婿さんに会うのはその日が初めてであった。どの人か皆目見当もつかない。「一番、不細工な人が私の亭主 になる人でしたわ」おばあちゃんはいかにも懐かしそうにカラカラ笑って話してくれた。

 

 そのご主人との間に九人の子供ができた。「私しゃ元気だったもので、藁を敷いた部屋で、どの子も一人で産み落としましたわ」。馬や牛の出産ではなく、本当にあった人の出産の話である。

 

 今の若い女性が聞けば、卒倒するような話だが、おばあちゃんは、いかにも楽しげに語ってくれた。ご主人は夭逝し、九人の子供はおばあちゃん一人の手で育 てあげたという。「ご主人の名前は何ちゅうたんですか」と訪ねると「あんまり古い話で、忘れてしもうた」とおばあちゃんは私を煙に巻いてしまい、またして もカラカラ笑ってばかりいた。

 

 信じられないほど、大らかな話であった。“ミナミガタ”の人はのんびりしていると聞いたが、ここまで楽天的に生きると人生は楽しいことばかりであろう。

 

 しかしながら現実の生活を見ると、この地方も厳しいものを抱えていた。第一に挙げられることが林業の不振。木頭杉で知られるこの地には今も製材工場があ るがどこも閑古鳥が鳴いていた。たまに外国産の木材を満載したトラックが山を上って来た。それを山の中の製材工場で加工して再び海岸にある港に戻して出荷 した。そんなことをして稼いできた製材工場の操業も外国産の木材が丸太で輸入できなくなってきた現在では、廃れる一方である。

 

 不振の長引く業界にあって、土地の人々はこんな地場産業を思いついた。間伐材というのがある。杉や檜の林では間伐しなければ木が大きく育たない。ところ がこの間伐した木材を捨てるところがなかったのである。捨てどころに困っていたこの間伐材を生木のまま接着し、鮪のトロ箱を作った人がいた。このトロ箱が 飛ぶように売れた。大手の水産会社からも注文が殺到した。

 

 一見、のんびりと見える土地の人々だが、その思考はなかなかに柔軟で強かでもある。最近は林業に代わる地場産業として柚子の栽培も盛んだ。集荷用のモノ レールまでついた立派な柚子畑を私も見学させていただいたが、蜜柑や酢橘が生産過剰なのに比べ、柚子の前途には明るさがある。

 

 ともあれ、大らかで楽天的でありながら進取の気風に富んだ“ミナミガタ”の人々が私は大好きである。