小松島市

四国東門も今は昔

 その昔、淡路島は"阿波路島"と書き京阪神から阿波の国つまり徳島県へ行く道標だったという。明石海峡大橋と大鳴門橋の開通で便数が減ったとはいえ、今も淡路島沿いの海路ではフェリーが関西と徳島県を直結している。

 

 関西と徳島のつながりは古くてかつ太い。そして関西と結ぶ徳島県の海の玄関として県民に親しまれてきたのが徳島県小松島市の小松島港であった。

 

 私がこの港から初めて大阪に出たのは小学校一年生のときであったと記憶している。当時は、あきつ丸などの大型の客船が就航していた。子供心にもその船の美しさと大きさには圧倒される思いがしたものである。

 

 船は昼夜の二便だった。それを私達は昼航海、夜航海などと呼んだが夜航海では午後十時ごろ小松島港を出航し、翌朝の五時ごろ神戸港に着いた。

 

 私が乗った船は、まだ暗い冬の朝、神戸港に着いた。船内は急に慌しくなった。神戸港の岸壁から、「ちくわ」や「するめ」を背負ったおばさんが「いらんか え、買わんかえ」と船内にまで入って来た。

 

 制服に身を固めた厳つい男達がどやどやと入り込んで来た。闇米の摘発である。大阪から徳島へ買い出しに来ていた のであろうか、大きな荷物をもったおばさんから「ぼん、もっとってよ」と私は袋を渡された。

 

 おそらく米が入っていたのだろう。おばさんのあまりにも真剣な顔つきに圧倒され、私は身の縮む思いでその袋を抱えていた。体中に冷や汗が吹き出た。幸い子供の私には目もくれないで男達は通り過ぎ、私は袋をおばさんに無事返すことができた。

 

 何度も子供の私にお礼をいうおばさんを前に私は思った。食べるためとはいえ、こんな危険を冒してまで商いをしなければならぬおばさんも不幸だ。しかし食べ るものさえない社会、これほど暗く不幸なことはない。こんな世の中にした戦争を憎むとともに一日も早く経済を建て直し自由にみんながのびのびと生活できる 社会を作らなければ・・・。子供心にもそんな決意をした私であった。

 

 ところでかつての小松島港は神戸港や大阪港そして和歌山港へと客船や高速船はじめたくさんのフェリーが就航していた。徳島県だけでなく四国中の人と物を 運び、四国中へ人と物を運ぶ四国の玄関だった。

 

 文字通り四国東門であった。今は廃線となったが小松島線という国鉄の線路もあり、港でもある始発の小松島港 駅では一日中客が絶えなかった。名物の「竹輪」を「ちっか」と呼びながら売り歩く土産物屋のおばさん達の声は今も私の耳朶に残っている。

 

 小松島市は屋島の合戦に向う源義経が四国に最初に上陸した地であることでも知られている。一の谷(今の神戸市)の戦いに敗れ、屋島(高松 市)に逃れた平家軍追討の命を受けた義経は、摂津渡辺の津(今の大阪市堂島)から二十隻の舟で漕ぎ出し紀淡海峡を南下、折からの暴風雨に乗じて通常は二日 かかる行程をわずか六時間で阿波の国勝浦(現在の小松島市)に漂着した。寿永四年(1185年)二月十八日早朝のことであった。

 

 義経が率いた軍はわずか百五十余騎。地元の新居見城主・近藤六親近の先導を受けて現在の小松島市を横断して土佐街道を北へ進み、勝浦川を渡って平家方の熊山城(徳島市)桜間城(石井町)を攻め破り、夜を徹して大坂峠を越えて讃岐に入った。

 

 十九日には屋島に近い牟礼に押し寄せ、背後から平家軍を攻撃。義経軍の奇襲を受けて慌てた平家軍は海に逃れ源氏は屋島の戦いに勝利した。これが源平合戦のクライマックスである屋島の合戦であり、小松島市は義経を通して歴史に登場する。

 

 四国東門といわれる小松島市の役割は源平の昔からだった。この事実は小松島市民の大きな誇りであり、義経が屋島に向かって進軍した進路は現在「義経街道」 と呼ばれている。なかでも小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約十キロメートルは「義経ドリームロード」として案内板や道標が設置され、史跡やロマンを求め る人々に喜ばれている。

 

 義経が小松島の海岸に上陸してから屋島に攻め入るまで、わずか一日の出来事でありながら弦張坂、弦巻坂、旗山、鞍掛の岩、天馬岩、弁慶の岩屋など、義経にまつわる伝説の場所が多く残されており、人々の義経にかける思いの深さが感じられる。