誰が言い始めたのかわからないが国会には「金帰月来」という言葉がある。毎週、金曜日に選挙区に帰えり、次の週の月曜日には国会に来るという国会議員の生活のリズムを端的に表現している。
私は昭和五十八年(1983年)十二月十八日から平成十五年(2003年)十月十七日まで衆議院議員を務めたが、私自身も初当選以来二十年間ずっとこの 言葉通りの週間リズムであった。
徳島と東京の往復は最初の頃は徳島から大阪はフェリーや高速船、大阪から東京は新幹線であった。瀬戸大橋が完成してからは 徳島から岡山はJR、岡山から東京は新幹線となった。そして次第に徳島から東京は航空機を利用することが多くなった。
航空機を利用するたびにお世話になっ たのが徳島県板野郡松茂町にある徳島空港である。自衛隊との共用であるため正式には徳島飛行場という。
羽田から徳島までは約一時間。富士山を右に見て紀伊半島の突端にある串本の上空に来ると飛行機は着陸態勢に入る。高度は次第に下がり始め、紀伊水道の彼 方に徳島の山河が浮かんで見える。徳島県の東端にある蒲生田岬、その先端にある伊島、那賀川の河口、そして小松島港と続き、万葉集に歌われた徳島市の眉山 や四国三郎と呼ばれる吉野川が見え、鳴門海峡も眺望できる。まるで絵に描いたような美しさである。
徳島空港の上空に来ると、視野一杯に水と緑に彩られた徳島平野が鮮やかにその素顔を見せる。いいなあ。やっぱし。何たって。徳島はいい。いつも同じ風景 を見ているはずなのに私はいつもそんな思いにかられる。空から見る徳島空港はどーんと流れる吉野川と、くねくね蛇行する旧吉野川、そして蓮根畑や水田に囲 まれ水と緑の中に浮かぶ小さな島のようだ。
私が初当選したころ、徳島から東京へはジェット機が就航していなかった。徳島から大阪が主流で便数も少なかった。だからフェリーや高速船で神戸や大阪に渡り、新幹線で上京することが多かったのである。
その後、徳島、東京を結ぶ便には念願のダブルトラッキングも実現し、一日七便となった。プロベラ機ではなく、中型のジェット機が就航した。大阪へは五 便、名古屋にも二便、福岡へは一便、札幌へも隔日だが一便就航した。東京には日帰りできるほど便利になった。私自身、徳島空港の整備と路線の拡大を国会で 訴え続けてきただけにうれしかった。
しかし現在は、長引く不況の影響もあって便数は大幅に減ってしまった。東京便はJAL単独の六便、大阪便は廃止され、名古屋便はANA の一便、福岡便はJNの二便、札幌便は夏季限定でJALの隔日一便となっている。地方空港の利用客の増大は全国的な課題であるが、徳島空港もその例外では ない。幸い、徳島空港は長年の宿願だった滑走路の拡張と周辺の総合的な開発整備が完成した。
滑走路は二千五百メートルになり、大型のジェット機も就航できるようになった。「徳島阿波おどり空港」の愛称もでき、旅客ターミナルも新しくなった。 チャーター機ではあるが大型のジェット機で海外に飛び立つこともできるようになった。
四国では松山、高松、高知の空港がそろって二千五百メートルの滑走路 となり、お互いにサービスを競い合っている。徳島空港を国際化してソウルや上海と結びたい。それは私の小さな夢である。
ソウルや上海はアジアのハブ空港め ざして着々と整備を進めている。ここに直接アクセスすれば世界中どこにでも行ける。徳島の空の玄関が世界につながるのだ。二十一世紀の徳島は世界とつなが る徳島でありたい。世界につながることは未来につながること。そんな私の夢を現実のものとする徳島空港になって欲しい。
ところで徳島空港を利用するたびに思い出す人がいる。空港のすぐ近くの田園地帯にお菓子の会社の本社と工場、そしてその工場の隣地に「阿波乃里」という徳島県観光協会指定の観光ステーション設置モデル施設を完成させた実業家の岡武男さんである。
岡武男さんは明治四十一年(1908年)六月一日、徳島県麻植郡山川町(現在の吉野川市山川町)に生まれ、今も徳島県民に愛されている「金長饅頭」で有 名な「ハレルヤ製菓株式会社」を創業した。
徳島市にあった本社と工場を高速道路の建設のために提供し、現在の土地に本社と工場を移転したのだが、土地の選 定に当たっては、不動産の業者に任せるのではなく、自ら弁当を腰に毎日毎日歩き続けて探し出した。
「当時は萱の生い茂った不毛の土地で、どこの不動産業者 も見向きもしなかったところでした」。社長室でそんな苦労話をしてくれたことが懐かしい。残念ながら岡さんはその後、逝去されたが、本社と工場、そして 「阿波乃里」は四季を通じて見物客で賑わっている。 最近は「阿波乃里」の隣に「樫野倶楽部」という結婚式場もできて若い人たちに人気がある。
阿波から讃岐への道は高松高速道と海沿いに走る国道十一号線以外は、全てが阿讃山脈を越えていく山間の道である。なかでもJR・高徳線の走る大坂峠の道は徳島市生まれの私には一番なじみが深い。
初めてこの峠を越えたのは小学生の頃だった。高松の栗林公園まで学校の遠足で行った。私たちの乗った汽車はトンネルを何度かくぐり抜けた。その瞬間、鏡 のように静かな青い海が車窓に飛び込んできた。瀬戸内海である。
遠くに島々が霞んで見えた。近くには緑の松林、私は掛け軸や襖によく描かれている白砂青松 の日本画を思い出していた。これこそまさしく日本の風景だと思った。
徒歩でこの峠を越えたのは高校生のときだった。蝉時雨の中、流れる汗を拭き拭き登った。山越しに見えた瀬戸内海は、きらきらと輝いていた。吹き抜ける風が心地よかった。
最近は自動車で越える。高松への道はほとんどが高松高速道か鳴門回りの国道十一号線だが、たまにこの峠を走ってみたくなるのだ。
殊に新緑の季節はいい。 さまざまな木々の新芽や若葉が全山を覆っている。それは峠の道に見え隠れする農家の庭にまで広がっていて、若々しい生命の躍動を感じさせる。時折、鶯の鳴 き声なども聞こえて、この道には今も自然がそのままの形で残されている。
曲がりくねった道を登りつめると、一度に視界が開ける。そこが大坂峠である。峠の近辺はどういうわけか高い木も少なく、なだらかな山々の峰が手に取るように見渡せる。再び、曲がりくねった道を下ると、今度は瀬戸内海が視野一杯に飛び込んでくる。
話は変わるが「讃岐男に阿波女」という言葉がある。たしかに阿波の女性は働き者である。朝から晩まで働きづくめでも、何一つ愚痴を言わない。そんなところから讃岐では「嫁をもらうなら阿波の女性を」ということになったらしい。
事実、この組み合わせは多く、ほとんどがうまくいっているようである。そんな花嫁さんもその多くがこの大坂峠を越えていった。昔は提灯に長持、そして花嫁も馬の背に揺られてこの峠を越えたと伝えられている。
現在、大坂峠のある大麻山の頂上には、徳島市の眉山の頂上と同様、灯が点されている。徳島県からも香川県からもよく見える。徳島県から香川県にお嫁に 行った「阿波女」達はあの灯の向こうにはふるさとがあるのだと思いを寄せていることだろうか。あるいは「そんな感傷にひたる間なんてありませんよ」と一笑 に付されるだろうか。
ところで「四国は一つ」とか「青い国・四国」などといわれて四国のイメージづくりが繰る返し行われてきたにもかかわらず、いまだに四国は四国であり、四国四県はともすればバラバラになり勝ちである。
確かに四県とも海の方に顔を向け、背中合わせにくっついているのが四国の地理的な姿である。関東の東京、関西の大阪、中京の名古屋、九州の博多、といっ た具合に中心部に人口が集中した中核都市を持たないし、持てない地形だけに、四国の総合的な未来図はなかなか描きぬくい。
しかしものは考えようである。長所が短所となり、短所が長所となる発想もある。四県が独自性を発揮しながら、四国としての補完関係を保ち合っていくことはできるはずだ。大麻山の灯を見ながらそんな四国の青写真を描いてみたい。
十五、六年前のことになるだろうか。川の文明、海の文明という話を聞いたことがある。川には上流、下流があるが、海にはない。海の結ぶ都市と都市には上下関係がなく、平等であり、行き来が自由である。といった話だった。
都市と都市との交流が文化や文明を生むし、経済や生活を豊にする。瀬戸内海や播磨灘そして大阪湾に面した地域にたくさんの都市ができたのは、古代から海の道があったからだという話でもあったと記憶している。
考えてみれば四国の都市もそのほとんどが海に面している。繰り返し言うが、四国という地形のそのものが高い山を背にして東も北も西も南もすべてが海に顔を向けているのである。
海に向けている顔と顔を船で繋げば面白いことになるのではないだろうか。今は、道路を中心にした陸運の時代だが、四国にはもう一度、海運を復活させたら どうだろうか。そうすれば海に面した四国の都市は一斉に元気を取り戻すのではないだろうか。そんな夢みたいな私の青写真を描いてみた。
高松と徳島を結ぶJRの板野駅駅前に小さな記念館がある。徳島県が生んだ創作舞踊家・檜瑛司さんの記念館である。ここには檜瑛司さんがが子供達のために収集した徳島県各地の童謡などの作品が展示されている。
檜瑛司さんは本名を唐崎栄司といい、大正十二年(1923年)三月七日、鳴門市に生まれた。早稲田大学文学部を卒業して徳島県に帰り、昭和二十三年(1948年)に檜瑛司創作舞踊研究所を創設されている。
私が檜さんのことを知ったのは、捲土重来を期して炎天下を毎日毎日麦藁帽子に腰手拭、スニーカーに開襟シャツという姿で歩き続けていたころだった。たし か木頭村(現在の那賀町木頭)かどこかの鄙びた山里で昔から伝承されてきた踊りを復活させようという試みがされていることを聞いた。
その運動の中心者が檜 さんだった。「面白い人もいるものだ」「でも、嬉しいことをしてくれる人だ」「儲かる話でもないのに、一生懸命取り組んでいる。どんな人だろうか。ぜひ一 度お会いしたいものだ」私はつくづくそう思った。
そんな思いが通じたのか、ある日、檜さんから直接手紙が届いた。「徳島県下各地を取材して、一つの創作舞踊を作ってみました。ぜひご覧ください」と丁寧 に招待状が添えられてあった。私は喜んで出席した。
眉山の麓のお寺の庭に野外舞台が作られていた。真っ暗な闇に包まれた庭を数カ所に置いた「篝火」が照ら し出す。その光の中で「京女郎」に扮した白い羽衣のような衣をつけた檜さんが舞った。
幽玄の舞台だった。剣山を中心にした山岳地方に今も伝えられている「京女郎」の伝説。そして県下の各地に点在する「京女郎」のものといわれる無縁墓。その墓を一つ一つ訪ね歩き、その菩提をする心算で檜さんはこの作品を創ったという。
「徳島は実は民謡や民話の宝庫なのですよ」。「でも忘れ去られようとしている。残念なことです」。舞台が引けたあと、檜さんは初対面の私にいろんなことを 教えてくれた。「私は古いものを発掘して、新しい創作の光を注ぎたい。そして現代に蘇らせたいのです」。せつせつと語る檜さん。お聞きするうち、私はいつ の間にか檜さんの世界に引き込まれていた。
東京で檜さんの公演があったとき花束を持ってお祝いに駆けつけたら、御本人が飛んで来て楽屋まで案内してくれた。
この時の舞台は吉野川の芦原に見立てた 芦の生い茂る川を一人の船頭が舞台の下手から上手へそして上手から下手へ舟を漕いでいく。それだけのまことに単調なものだったが、山水画の名画を見るよう で強く印象に残った。後で聞いた話であるがこの創作舞踊は夭逝されたお兄さんの遺作であった。晴れの舞台で兄の遺作を演じた檜さんの心情に私は心を打たれ た。
檜さんとの心の交流は自然に深まっていき、海南町(現在の海陽町海南)で私が国会報告会を開催していると「立て看板を見て来ました。私もこちらに来ていたものですから」と気軽に駆けつけて下さり、飛び入りで応援演説して下さったこともあった。
平成元年(1989年)十二月九日には徳島県文化賞を受賞した檜さんを祝賀する会が開かれた。私も参加させていただいたが、たくさんのファンに囲まれて檜さんは本当に嬉しそうだった。
徳島が大好きで徳島を文化の都にしたいと創作舞踊一筋に生き抜いてこられた檜瑛司さんは平成八年(1996年)一月逝去された。告別式には私も出席させていただいたが、老若男女を問わず大勢の方々が別れを惜しんでおられた。
今、徳島市住吉四丁目の御自宅では奥様とお嬢様が檜瑛司舞踊研究所を継承され、いよいよ発展されている。私がお伺いしたとき、檜瑛司さんの愛用されてい た部屋は机も書架も生前のままであった。大好きだった煙草が新しいものに取り換えられて机の上に置かれていた。
徳島県板野郡北島町には昔から繊維や化学の工場が多かった。どの工場にも母校の先輩や同級生あるいは後輩がいていつも 親しいお付き合いをしていただいてきた。ことに組合の皆さんは私が衆議院選挙に出馬して以来、ご推薦をしてくださり、暖かいご支援をしてくださった。私は 今も心から感謝している。
私が衆議院選挙に初出馬したのは昭和五十五年(1980年)六月のことであった。与党の造反によって内閣不信任案が可決し突然の衆参同時選挙となった。 前の選挙からわずか七ヶ月での解散総選挙となった。誰も予想しなかった選挙であった。私も自分自身が候補者になるなど夢にも考えたことがなかった。あまり にも突然の初出馬であり、何もかも生まれて初めての経験だった。
嬉しかったのは公明党公認とともに当時の民社党からも推薦をいただいたことだった。民社党からは当時の委員長だった佐々木良作さんが、選挙戦が始まるや 否やわざわざ徳島まで駆けつけて下さった。若い私の手を握りしめ「必ず勝ちましょう」と激励してくださった。そして私とともに街頭演説に立ち集まった人々 に熱っぽく語りかけるすばらしい演説をして下さった。
ゼンセン同盟からは宇佐美忠信会長が来て下さり、組合の幹部の人達を集めて檄を飛ばして下さった。 「遠藤さん、組合の幹部の皆さんはあなたの高校の卒業生が多い。あなた自身が訴えていけば、みんな動いてくれますよ」と激励して下さった言葉を今も思い出 す。
私は百万の味方を得た思いがした。工場の前を通るときは必ず組合に寄るようにした。皆さん大きな拍手で迎えてくれた。二回目に通るときは組合員の皆さん を集めて下さり、挨拶をさせていただけるようになった。選挙の終盤戦になると、朝、工場の玄関の前に私とともに立って下さり、出勤する人達に訴えて下さる 組合幹部の人達も出てきた。私達はこれを「朝立ち」と呼んだ。
初めての選挙はそんな御苦労をいただきながらも次点に泣いた。「本当に申し訳ありませんでした」とお詫びすると「次回は必ず勝ちましょう」と激励してく ださった。私は二回目の選挙以降も組合の皆さんの暖かい御支援をいただいた。
連続六期二十年にわたって当選させていただいたのは組合の皆さんのおかげであ ると私は今も思っている。ありがたいことである。現在、選挙のとき組合の皆さんと一緒に「朝立ち」した当時の工場は閉鎖されてしまったが、工場の跡地を通 るたびにその時の姿を思い出す。
ところで、最近の北島町は、早咲きチューリップの産地形成に力を入れていて、毎年四月にはチューリップ祭りも開催される。県下で一番新しい県立北高校も 誕生し、一年中温水プールが楽しめるスポーツ施設もオープンした。大型のショッピングセンターも開設され町中に活気があふれている。工場の町から花の美し い健康と活力にあふれる町へと大きく変化しつつある。
私は現在、本籍地並びに現住所を徳島県板野郡藍住町勝瑞字幸島十二の十四に置いている。決まって「いいところですね」と言われる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと言ってくれる人もある。
たしかに勝瑞という地名にはそんな謂れがあるらしい。私が衆議院選挙に初出馬したおり、先祖代々、この地に住んでおられる「中川のおじいちゃん」が、檄 文を届けてくださったことがある。和紙に墨も黒々としたためられたその檄文は、はじめに勝瑞の地名の縁起を示し、かつて阿波の一国を征した史実のあるこの 地から今まさに現代の英雄が出でんとしている。という趣旨の文脈であったと記憶している。
「中川のおじいちゃん」の名前は中川清さん。八十歳を越えても、健康そのもの。毎日自転車で走り回っていた。地元ではなかなかの名士で交際範囲がべらぼ うに広く、誰にも親切であった。家は私の家のすぐ隣であった。私達がここに新築、移転してきたときも、待ち構えていたように訪問してくださり、丹精込めて 育ててきたご自宅の植木をわざわざご自分で掘り起こして運んできてくださった。
お陰様で、わが家では正面玄関の門の黒松も庭の百日紅も「ここはこの木、 こっちはこれ」と「中川のおじいちゃん」に植えていただいたものである。「中川のおじいちゃん」は残念ながら逝去されたが、大きく育った植木を見るたびに その日のことを思い出す。
さて勝瑞の縁起であるが、その昔、勝利を願う武将の心を表現して名づけられたものと伝えられている。勝瑞には鎌倉時代の初期に小笠原氏の守護所が置かれ た。建武二年(1335年)には細川和氏が阿波守となり後にその職を弟、頼春に譲り、頼春の子、頼之もまたその弟、詮春に譲り、ここに阿波の守護所と して勝瑞城(勝瑞阿波屋形)ができあがったという。
その子孫、九代目の持隆が家臣の三好義賢に謀殺されたのもこの地で、以後は三好氏の居城となり、西国三十六カ国の守護職としてこの勝瑞城で天下を制したというのである。
徳島の中心はその後、長宗我部元親の手で一宮城へ移り、さらに蜂須賀家政の入国によって渭津の徳島城へと移るのであるが、三好氏が長宗我部之親に敗退す る天正十年(千五百八十二年)までの約二百五十年間は勝瑞城が徳島の中心として栄え続けてきたわけである。
今、勝瑞城跡を訪ねると、まさしく、強者どもの夢の跡といった寂しい風情で、往時の面影は全く見られない。しかしながら史実は史実であり、私達はそんな歴史の刻まれたふるさとを大切にしたいと思う。
最近、その史実に焦点が当てられ、勝瑞城がにわかに注目を集めている。平成十三年(2001年)一月二十九日、何と「勝瑞城館跡」が国史跡に指定されたのである。
これに先立つ平成六年(1994年)、当時、徳島県指定史跡であった「勝瑞城跡」を保存し、整備・活用するために藍住町では「勝瑞城跡公園整備事業」を起業。初めて発掘調査の鍬を入れたのであるが、以来、毎年のように新しい発見が続いたのである。
平成十一年(1999年)の調査では東西百二十メートル、南北百五十メートルと中世の城館としては最大級の遺構が確認された。濠に囲まれた敷地内からは客人の接待や宴会に使う「会所」や枯山水の庭園跡なども見つかった。
随所に工夫が凝らされた庭園遺構からは、茶の湯を愛する一級の文化人であった三好氏の優雅な生活ぶりがしのばれる。当時の勝瑞は全国的に見ても文化の先 進地だったようである。発掘が進み「勝瑞が輝いていた時代」の全容が解明されることを私は町民の一人として心から期待している。
四国三郎と呼ばれる吉野川がつくった沖積平野の中心に位置する勝瑞は今も昔も肥沃な土地に恵まれた景勝の地である。近年はとくに交通の要地として発展 し、高速道路や航空機へのアクセスも徳島市内以上によい。
将来の話だが本四架橋の大鳴門橋から四国新幹線が始まるとすれば新幹線の新徳島駅はこのへんにな るに違いない。かつて徳島県の中心として栄えた勝瑞が、時は流れ、再び徳島の中心地として脚光を浴びる日も近い。そんな大きな夢を私は膨らませている。
「青は藍より出でて藍より青し」という言葉があるが、藍といえば阿波即ち徳島のことであると徳島県人は誰でも思ってい る。四国三郎と呼ばれる吉野川の流域にはかつて日本最大の藍作地帯があり、阿波藍は全国に出荷され、質量ともに常に日本一を誇っていた。
そして巨万の富を 得た商人たちはその財力を背景に銀行や鉄道、船会社を作り、徳島の近代化に大きく貢献した。そう。藍を語らずして徳島の歴史を語ることはできないのだ。
私は衆議院選挙に初当選した直後、藍の豪商であった徳島県板野郡藍住町の奥村家を訪問したことがある。芝生の敷き詰められた広い前庭から壮大な奥村家藍 屋敷が、夕日に輝いて見えた。ここだけは歴史の歯車が止まっていて、江戸時代に帰ったかのような錯覚をおぼえたことをはっきりと記憶している。
大きな門を抜けると広い中庭があり、その向こうに母屋があった。「奥村武夫」と歴史を刻む表札が掛かっていた。声をかけると、大きな返事がして、母屋の 隣の離れから「よく来てくださいました。どうぞお入り下さい。お待ちしていました。ゆっくりしていって下さいね」と笑顔で迎えて下さった人がいた。その人 が、奥村家第十一代当主の奥村武夫さんだった。
奥様もまじえて、話ははずんだ。奥村家の歴史はそのまま徳島の藍の歴史だった。当時すでに八十歳を越えていたと思われるが、子供のころの話を昨日のように生き生きと語って下さった。
奥村家は藍商人のなかでも五本の指に入る豪商であり、江戸時代から京・大阪はもちろん、江戸や長崎などの日本全国で商いを展開されていた。奥村家の商人 は全国に飛び、その時代のその地域の経済状況を手紙で奥村家に送っている。
今もその古文書は大切に保管されていて、時間をかけて調査を進めていけば、当時 の日本各地の経済状況を知る貴重な資料になる。そんな話を後日談になるが郷土史家として奥村家の調査をした三好昭一郎氏にうかがったことがある。
それはさておき、奥村武夫さんは長い話のあと、ぽつりと言われた。「こうした歴史のある屋敷を維持していくのは、結構、大変なのですよ」と。私は瞬間的 に思った。「この藍屋敷は奥村家個人の財産であるとともに徳島県の財産でもあるはず。これは何とかしなければ」と。
その後、私は衆議院の予算委員会で文化財を保護する観点から奥村家の保存をとりあげた。それがきっかけとなり文化庁の方々が調査にこられ「国の文化財と なる前に県の文化財としてまず指定を」ということで今度は県にお願いして、県の文化財に指定していただくことができた。
奥村さんは喜ばれ、町長さんとも相談された結果、藍屋敷を藍住町に寄贈することになった。こうして昭和六十二年(1987年)、旧奥村家藍屋敷の十三棟の建物が第十一 代当主・奥村武夫氏から藍住町に寄贈され、併せて十三万点に及ぶ奥村家文書も藍住町の所有となったのである。
これを機に藍住町では旧奥村家の屋敷内に展示一号館を新設し、平成元年(1989年)八月一日に藍住町歴史館「藍の館」(旧奥村邸)を開館した。オープンセレモニーの テープカットには私も御招待をいただいたが「藍の館」の前庭では、奥村家の人々が、現代風に工夫された藍の商品の数々をこぼれるような笑顔で店頭に並べて おられた姿が印象に残っている。
「藍の館」の誕生によって藍屋敷とともに藍の商品も現代に蘇生したのである。それはうれしい光景だった。現在の「藍の館」は観光バスのコースともなり、観光客がひきもきらない。若い人達にも藍のよさが見直されているようでうれしい限りだ。
徳島県の鴨島町(今は吉野川市鴨島)から土成町(今は阿波市土成)を抜け、香川県の白鳥町(今は東かがわ市白鳥)に至 る国道三百十八号は県境に「鵜田尾トンネル」が開通してずいぶん便利になった。私もよく利用させていただいているが、奥宮川内の渓谷は四季折々に豊かな表 情を見せてくれる。春はダムの湖畔の桜並木が万朶の賑わいを見せ、秋は満山が紅葉に染まる。
この渓谷沿いに「たらいうどん」の店が建ち並んでいる。大きな盥に釜揚げのうどん。渓谷の景色を楽しみながら、大勢で熱々の釜揚げうどんに舌つづみを打つ。まことに野趣に富んだ昔ながらの風景である。
農繁期は昼食のために家に帰る時間がない。そんな農家の人たちが野良でうどんをつくってみんなで食べた。それが「たらいうどん」の起源だという。だから 大勢で食べるほどおいしい。昔はうどんの出汁を宮川内谷川にたくさんいた「ジンゾク」という小魚から取ったが今は鰹節から取る。
平成十年(1998年)七月、元総理の三木武夫さんの長女・高橋紀世子さんが参議院選挙に出馬したとき、三木武夫さんの地元である土成町の方々が選挙事 務所でよく「たらいうどん」を作ってくださった。大きな竈を作り大きな鍋で、びっくりするほど大量のうどんを茹でて「たらいうどん」にしてくれた。私も大 勢の支持者の皆さんと一緒にいただいたが、素朴な味は毎日食べても飽きなかった。
この選挙で私は選挙事務長を務めたのだが、高橋紀世子さんは初出馬ながら十六万四千五百四十四票を獲得し、見事初当選した。土成町の皆さんの喜びはことのほか大きかった。町長さんはその日のうちに三木武夫さんの立像に当選の報告に行ったという。
高速道路の土成インターのすぐ近くにある土成公園にこの立像は建立されている。この立像には思い出が一杯ある。除幕式は平成五年(1993年)四月四日 に行われ、私も出席した。
三木武夫さんと私は昭和五十五年(1980年)、昭和五十八年(1983年)、昭和六十二年(1987年)、と三回の総選挙を互 いに候補者として戦った。三木武夫さんは、いつも厳しさの中に暖かさを秘めておられて、遊説車や立会演説会でお会いすると「頑張りなさいよ」と声をかけて 下さった。立像をみると私の目にはそんな在りし日の三木武夫さんの姿が二重写しになる。
三木武夫さんの弟子である海部俊樹さんが新進党の党首としてよく徳島に来ていただいたことも今となっては懐かしい。海部さんが来るたびにこの立像の前で 街頭演説会をした。すぐ近くにある三木武夫さんの菩提寺でお墓参りをしたこともある。いつもご住職が丁重に案内して下さったことを思い出す。この寺は牡丹寺としても有名である。私は牡丹の季節になると毎年、俳句の会の友人とともに吟行に行く。
高橋紀世子さんとのご縁から東京は渋谷区南平台の三木武夫さんのご自宅に家内ともども招待され、高橋紀世子さんの母であり、三木武夫さんの令夫人である 睦子さんの手料理で大晦日を過ごしたこともあった。
徳島の土成のご自宅にはお正月に招かれたことがあった。玄関の庭先で紀世子さんの長男である立君が大き な釜で山盛りのおでんを煮ていた。寒風の中でいただくおでんがおいしかったことをよく覚えている。
南平台のご自宅では三木武夫さんが残された書や絵、睦子 さん手作りの陶器を鑑賞させていただいた。また睦子さん、紀世子さん、そして紀世子さんの長女である麻さんと女三代の雛人形を見せていただいたこともあ る。
三木家の歴史を物語る品々を鑑賞させていただきながら政治や人生のことを語り合うのは本当に楽しかった。それにしても念願の当選を果たしながら「くも 膜下出血」に倒れた紀世子さん。その後、回復されたと聞くが、ご健勝を心から祈ってやまない。そして三木家のご家族の皆さんのご多幸を私は心から願ってい る。
米を中心とした水田農業地帯から野菜を中心とする園芸農業地帯へ。徳島県板野郡吉野町(現在は阿波市吉野町)の農村はその姿を大きく変えてきた。
そのきっかけは四十余年前の昭和四十年(1965年)、九戸の煙草栽培農家がレタスづくりに挑戦したことに始まる。農業の専門誌を見てレタスのことを 知った人たちが「人にできるものが、俺たちにできないわけはない。もっとよいものを作ってみせる」と当時、農業改良普及員もその栽培方法を知らなかったレ タス栽培にチャレンジしたのである。
何度も失敗した。けれども、くじけなかった。昭和四十七年(1972年)には冬レタスが、昭和五十二年(1977年)には春レタスが農水省の産地指定を 受けるまでになった。平成十二年(2000年)になると栽培農家も二百五十戸に増え、栽培面積も二百三十ヘクタール、生産額は年間十二億円に達した。
現在 ではさらに増え、今や徳島県産レタスの半分以上の出荷高となり県下一の生産量を誇っている。多くが京阪神に出荷されるが、京阪神市場では「吉野レタス」の 名で好評を博している。レタスづくりに挑戦して四十余年。今や高品質のブランド品にまで成長したのである。
「吉野レタス」は低農薬、有機栽培で品質は全国でもトップクラス。県内外の高級ホテル、レストランで使われている。メロンができるほどの有機配合肥料と 様々な栽培方法によって生み出されたほのかな甘みとシャッキッとした歯触りが好評のようである。
また品質の確保にも力を入れており、若採りをする。雨の日 は収穫しない。包装方法を工夫するなどの工夫と努力を重ねている。
農業政策は土地改良事業に象徴される構造改善事業とともに営農政策が大切であることを忘 れてはならない。つまり整備された土地で何を作るか、何を作って収入を得るかである。その政策がなければ整備された土地も無用の長物となってしまう。
農作物は市場で取り引きされるから、良いもの、希少価値のあるものでなければ高値がつかない。工業製品のようにコストの上に利益を乗せて希望小売価格を つけて売買するわけにはいかないのだ。戦後の日本の農業を概観してみると、営農指導はなかなか難しく、成功例はあまり多くなかったのではないかと思わざる を得ない。
営農指導を専門とする農業改良普及事務所の方々と意見交換しても、普及員の皆さんの献身的な努力にもかかわらず、良い結果を出すのは容易でない のが実情のようである。
ある地域で成功すると他の地域でも同じことをする。同じものをたくさん作ると価格は下がってしまう。この堂々巡りが繰り返される。結局はその地域でなければ作れないブランド力のある農産物を作り出していく以外にない。
そうなると結論は地元の人たちの熱意次第となる。作り出した農作物を他の地域ではいくら 真似しても真似できないものに仕上げること。これが農作物の差別化であり、個別化つまりブランド力となるのだ。
最近は漁業でも「関鯖」「関鰺」のように個別化されたブランド品が出回り始めた。釣り上げた漁師の名前や日時まで入っていると聞く。誰が何処でどんな方法で釣り上げたのか、そこまでわかれば消費者も安心して購入するに違いない。
農作物もコメの自由化以来、そんな傾向が出始めている。産地の表示は食の安全の観点からも今や必須の事項である。吉野町の煙草栽培農家の人たちが何度も 失敗を重ねながら作り出した「吉野レタス」が今後も徳島県を代表するブランド品として日本中で好評を博しつづけて欲しいと私は願っている。
吉野川第十堰は徳島県の板野郡上板町第十新田(北岸側)と名西郡石井町藍畑第十(南岸側)を結ぶ堰。吉野川を分流する ために設けられている。「第十堰」というが「第十」は地名であって吉野川にある十番目の堰というわけではない。
この堰の改築計画が全国的な話題となった時 代があった。建設省や徳島県は抜本的な治水事業として現在の固定堰を可動堰に改築するといい、住民は計画の進め方が一方的で自分たちの意見が反映されてい ない、従って住民投票によって計画の是非を住民に聞くべきである、と訴えたのであった。
古来、吉野川は暴れ川で、吉野川の歴史は洪水の歴史でもあった。屋根がそのまま船となる家屋や、軒先に小舟をぶら下げた家、お城のように高い石垣を築いて、その上に家を建てるなど、周辺の人達は大変な苦労を重ねて吉野川とつき合ってきた。
洪水から住民の生命と財産を守る。そのために抜本的な治水事業として第十堰を改築すると建設省や徳島県は計画の正当性を訴えたが、住民投票の結果は反対が多数を占め、計画は白紙撤回された。
ところでこうした公共事業を進めるに当たって、ぜひ思い起こしていただきたい人がいる。青山士(あきら)さんという内務省の技監である。青山さんは、明 治十一年(1878年)に静岡県で生まれ昭和三十八年1963年)、八十四歳で亡くなっている。若い時に単身でパナマ運河の建設現場に行き、日本人として唯一人、土木工事を勉強して 帰国。戦前の二大国家プロジェクトといわれた荒川の放水路、信濃川の大河津分水路を完成させた。
私が強調したいのは、青山さんの公共事業に対する取り組みの姿勢である。それは端的に記念碑に表れている。荒川の方には「比ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナ ル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ神武天皇紀元二千五百八十二季荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と書いてあって、最高責任者である青山 さんの名前はない。
信濃川の方は私も平成六年(1994年)九月二十六日、見学させていただいたが、二つの記念碑がある。一つには表と裏があり、表には「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と 書いてある。裏には「人類ノ為メ國ノ為メ」と書いてある。人類のため、国のためというのが青山さんの考え方であり、当時の世相を思えば、まことに革新的な 思考といえよう。
もう一つの碑は従業員一同の碑であるが「本工事竣工のため四星霜の久しきに亘りて吾等と吾等の僚友が払いし労苦と犠牲とを永遠に記念せん がために」と書かれていて、ここにも青山さんの名前はない。
版画家の棟方志功さんも“人類ノ為メ國ノ為メ”という言葉はいい言葉だ、と何度も褒めている。私は全ての公共事業はこの精神で進めてもらいたいと思う。
以上の話は私が平成十一年(1999年)二月十七日の衆議院予算委員会第八分科会の質問で紹介したもので会議録に掲載されている。吉野川第十堰改築計画は住民の理解と 協力が得られず、白紙撤回されたが、洪水の不安は解消されずに現在に至っている。住民の理解と協力を得て抜本的な治水のための公共事業が一日も早く実施さ れることを私は心から祈っている。
今はJRとなったが、昔の国鉄に鍛冶屋原線というのがあった。当時は板西駅といったが、今の板野駅を起点に、犬伏、羅漢、神宅、鍛冶屋原といった駅々を つないで走るローカル線中のローカル線だった。むろん単線で、はじめのころはデゴイチが走った。あとになってディーゼル車がいつも一両か二両編成で、のこ のこ走っていたように記憶している。
阿讃山脈の山裾に広がる桑畑を横切って走るその鄙びた姿は、今も忘れられない。私は小学生や中学生の頃、毎年、夏休みになると鍛冶屋原 の叔母の家へ泊りがけで遊びに行ったものである。最初は父や母に連れられて行ったが、いつのまにか一人で行くことが私の夏休みの年中行事のようになってい た。
徳島本線の蔵本駅から乗ると佐古駅で高徳線に乗り換え、板西駅で鍛冶屋原線に乗り換える。二時間くらいかかったように思う。ちょっとした 小旅行気分であった。
高徳線から鍛冶屋原線に乗り換えると車内の雰囲気がガラリと変わる。不思議なもので乗っている人々の顔つきまで違う。どことなく人の 良さそうなのんびりした顔なのである。いつも満員だったためしはなく、三々五々乗り込んできた人々は四六時中、にぎやかに語り合っていた。
大きな荷物を 持ったおばさんが乗り込んでくると、誰ともなく手を貸してあげる。ここにいると全く知らぬ者同士でもすぐ友達になってしまう。そんな人なつっこさが鍛冶屋 原線の車内にはあった。
鍛冶屋原では、時には一ヶ月の夏休みのほとんどを過ごした。短いときでも一週間はいた。朝から晩まで蝉時雨の中であった。大きな銀杏の老木が茂る「オイッチョウさん」の広場で一日中、真っ黒になって遊んだ。長い釣瓶で汲み上げた井戸水のおいしかったことも忘れられない。
当時は桑畑のなかに、橡の林がいたるところにあった。橡林は蝉と甲虫の宝庫である。蝉は魚を掬うタモ網さえ持っていけば面白いほど獲れ た。橡の木の下のやわらかい土をほじくり返すと、甲虫がうようよいた。いつ行っても虫籠がすぐ一杯になってしまう。徳島の市内ではとてもこんなことは考え られない。眉山だと一日歩いても甲虫一匹も見つけられない。私は宝の山にいるような気分だった。
あれは何という川だったのだろうか。鍛冶屋原では叔父さんに連れられて魚釣りに行くのも楽しみだった。畦道を自転車で走っていった。さほど大きくはない川だったが、鮒や鯰が面白いほど釣れた。
こんな懐かしい思い出も、もう五十年以上前の昔話になってしまった。すでに鍛冶屋原線は廃止され、線路跡に立派な県道が走っている。宅地の造成が進み橡林はほとんどが切り倒されてしまった。今では蝉や甲虫の数もめっきり減ってしまった。
鍛冶屋原の叔母さんは九十歳を超えても元気で、子供のころ遊んでもらった話をすると、「そうやった、そうやった」。といかにも懐かしそ うにうなずいてくれたが、今は故人になってしまわれた。時代の進展とともに、形あるものは必ず変わりゆく。けれども少年の日の「鍛冶屋原線」はいつまでも 私の心に刻み込まれていることだろう。