徳島県の最高峰である剣山の山ふところに抱かれた徳島県美馬郡木屋平村(現在は美馬市木屋平)を初めて訪れたのは、昭和五十一年(1976年)十月。台風十七号で穴吹川が氾濫、穴吹町(現在は美馬市穴吹町)古宮地区に大規模な土砂崩れがあった直後のことである。
この台風十七号は徳島県下各地に大きな被害の爪跡を残した。私達は大型トラック十数台分の救援物資を県下各地の被災地に送り届ける大救援活動を実施した。私は陸の孤島となった木屋平村へ飛んだ。
脇町(現在は美馬市脇町)の中学校のグラウンドからは、緊急出動していただいた自衛隊のヘリコプターで木屋平村の役場の下の中学校のグ ラウンドまで運んだ。救援物資は、米、味噌、醤油、ラーメンなどの食料品から、毛布や衣類、タオル、トイレットペーパーなどの雑貨に、赤ちゃんのオシメや 粉ミルクまで、大型トラック二台分である。その救援物資を小分けしてヘリコプターで運んだ。私もそのヘリコプターに乗り込んだ。
眼下に山全体が崩れ落ちたかのような古宮地区を見下ろしながら、救援物資を積載したヘリコプターは山と山に囲まれた擂り鉢のようなところにある木屋平村に到着した。
中学校のグラウンドには木屋平村の公用車が出迎えに来てくれていた。早速、村役場へ。作業衣に身を固めて目を真っ赤にして飛び出してき た人がいる。村長の藤田巌夫さんだ。「助かります。本当にありがとうございます」。私の手を固く握りしめて子供のように喜ばれる村長の姿に、私は夜も眠れ ぬほど村民のことを心配し続けてきた責任者の心に触れる思いがした。
自衛隊のヘリコプターは脇町と木屋平の間を二十数往復して救援物資を空輸した。救援物資は役場の前に山のように積まれていった。「一軒 一軒の御家庭にまで運ばれていくのは大変でしょうね」。と尋ねると、村長さんは「何をおっしゃいます。あとは私達でやります。きょうは遠いところを本当に ありがとうございました。こんな時でございますからお茶も出ませんが、お帰りになりましたら皆様にくれぐれもよろしくお伝え下さい」。と丁寧な返事が返っ てきた。帰途のヘリコプターから役場を眺めると、村長さんはいつまでも手を振り続けておられた。
後日談だが、村長さんは役場の人達とともに重い救援物資を時には背中に背負いながら山道を一軒一軒配って歩かれたという。
木屋平村へはその後何度もおじゃました。神山町から川井峠を超えて入ると、左手に剣山が峰々を従えながら、くっきりとその雄姿を見せて くれる。標高千九百五十五メートル。四国山脈の背骨に位置する徳島県下第一の高山ながら、剣山がその全容を車中から眺望できるのは、国道四百三十九号線の この辺りだけだろう。晴れた日なら頂上にある測候所まで判別できる。
山里の人々は純朴である。どこの家庭を訪問しても「まあ、おつけなして」。とお茶が入る。救援物資のことも昨日のことのように憶えてお られて台風十七号の時の思い出話に花が咲く。窓辺に真っ赤に熟した柿。その向こうに、はるか彼方まで見はるかせる山々。時の過ぎゆくのも忘れ、心と心の対 話が続く。そんな木屋平村のゆったりした風景が私はこよなく好きだ。
「山に亀裂が入っているのです」。「杉の大木が根こそぎ倒れ ています」。「山がゴォーッ、ゴォーッと動いているのです。この まま放っておいたらいつ大災害が起きるかわかりません」。公明党半田町議の林武次さんからそんな報告が公明党の県本部に入ったのは昭和五十七年(1982 年)七月のことだった。
剣山山麓。とりわけその北斜面は全国でも有数の地すべり地帯である。私はとっさにあの昭和五十一年(1976年)の台風十七号による穴 吹町古宮地区の地すべりを思い浮かべた。山がそのまま土石流となって谷を埋め、道路も民家も全てを一夜のうちに押し流してしまった。救護物質を運ぶヘリコ プターから見たあの凄惨な光景を鮮やかに思い出していた。
行動の人・林武次さんは、すでに地元住民千六百七十七人の署名を添えて、地元の半田町長、並びに半田町議会議長に早急な対策を要請する 請願書を提出したという。「よし、行こう」。私は即座に決意した。まず現場へ。これは十五年間の新聞記者生活で体に刻み込んだ私の体質でもある。
中野明参議院議員にも連絡をとったところ「すぐ、行きましょう」。と即座に返事が返ってきた。「調査なくして発言なし」。これは公明党議員の鉄則だが、東京の国会 議員が電話一本で飛んでくる。そんな公明党議員の強い責任感に裏打ちされた身軽さが私は好きだ。
昭和五十七年(1982年)七月三日、中野明参議院議員を団長とする公明党の調査団が早速、現場へ飛んだ。団員は私と県議会議員の国久 嘉計氏、それに地元の林武次町議だ。車の運転を買って出てくださったのは林議員の同僚で無所属の岡田清町議。若いが地元の人たちの安全を願う責任感にあふ れた人であった。
町役場で内藤町長の出迎えを受けたあと、千六百七十七人の請願者代表でもある吉田光行氏の案内で山道を登る。「本当に国会議員の先生が わざわざ来てくださったのですね。本当に。こんな山奥まで。私はそれだけで満足です」。中野参議院議員に何度も何度も御礼を述べる吉田さんはいかにも嬉し そうだった。
鎌尾谷の上流では約一キロメートルにわたって亀裂の入った個所を視察した。亀裂の中に持っていた杖を入れるとズッズッズズーッと全部 入ってしまう。その不気味さといったらなかった。ここで同行のテレビカメラマンと新聞記者に別れを告げ私達はさらに山奥へ。かつては祖谷に通ずる街道だっ たというが、これが道と呼べるだろうか。到る所、落石に削り取られ、夏草が生い茂っている。
先頭の岡田議員が腰に差していた山刀を引き抜き、木や草をなぎ倒して進む。そのあとを私達が四つん這いになって登っていくのである。登 り始めてもう二時間が過ぎている。全身汗びっしょり。それでも誰も引き返そうとはしない。私達に同行された脇町土木事務所や半田町役場の職員の皆さんも汗 を拭き拭き付いてこられた。
「あった。ここです」。難行苦行の末、辿り着いた三好郡東祖谷山村との境界に近い現場では約一キロメートルに渡って一メートルから五 メートルの段差がついていた。まさに山全体がずり落ちているのである。緑の山膚が無残に削り取られ、赤茶けた土砂が露出している段差を見ていると、今にも 立っている足場はおろか山全部がずり落ちていくのではないかという恐怖にかられた。
こうした実情調査をもとに、私達は七月六日、徳島県庁に三木申三知事を訪ね(一)大惣地区の地すべり危険区域について、県は正確な調査 を行い、国に対して指定地域の拡大を早急に要請すること(二)抜本的な地すべり防止策を確立し、予算化を促進すること(三)台風、集中豪雨などに対する地 元の避難体制を確立すること、の三点を特に申し入れ、一日も早く地元住民の不安を解消するよう要望した。
幸い私たちの要望は少しずつではあるが実現した。それでも私は台風が来る度にヒャーッとする。大惣地区の住民の皆さんのご心配はいかば かりであろうかと思う。「避難場所までどうして行くか。それが問題なのです。危ないときは、安全そうなところにテントを張って身を縮めている以外にありま せん」。そう語っていた請願者代表の吉田光行さんのことを私は忘れることができない。
自動車が通る道がない。だから歩く。大人も子供も、お爺ちゃんもお婆ちゃんもみんな歩く。買い物をしても全部自分で運ぶ。テレビや冷蔵庫は背負って運ぶ。平らなところはまだいい。立木に掴まりながら下りる急傾斜地は大変だ。
「生命がけですね」と言ったら「ずっとこんな生活ですきに、私達は慣れています。でも、若い人は皆出て行きますね」。そんな返事が返ってきた。
衆議院議員に初当選した直後、私は徳島県美馬郡半田町(現在はつるぎ町半田)の樫尾集落を訪問した。曲がりくねった細い山道を上り下りしながら辿り着くとパッと視界が開けた。山道に一番近い農家に集落中の人達が集まってくれていた。
早速、座談会が始まる。話題の中心はやはり道を作ってほしいということだった。「わかりました。道は必ず作ります」。私が即答するとびっくりするほど大きな拍手と歓声が沸いた。
私は道を作ることには自信があった。しかし道を作っても働く場所を作らなければ若い人達は出ていってしまうのではないだろうか。そんな不安が心をよぎった。
過疎地に道を作ると、引っ越し荷物を積んだトラックが下りてくるだけ。道はできても人はいなくなる。そんな笑うにも笑えない話を何度聞かされたことだろうか。
「ところで道ができたあとの話ですけど、道を利用する地場産業はありますか」。と私が尋ねると、案の定「煙草もあかん」「蚕もあかん」「換金作物は皆あかん」。と、言ったきり誰もが黙ってしまった。
「まあ、ゆっくりみんなで考えてみましょう」。私達は気分転換のため、すぐ下を流れる谷川に下りてみた。
澄み切った水。そのせせらぎの中に綺麗な緑の植物が群生していた。「これは何ですか」。と聞くと「ワサビです。天然のワサビです。この辺には一杯ありま すよ」。と、どの人も別に気もとめない様子なのである。
「これだ!」。思わず私は叫んだ。「ワサビを栽培したらどうですか。生ワサビは町で買ったら一本千 円しますよ」。こんなことがきっかけで半田町樫尾ワサビ出荷組合が誕生した。その後、県の助成も受けて立派なワサビ畑も完成した。
そして昭和六十一年(1986年)四月二十八日、私は当時の三木申三徳島県知事とともに再び樫尾を訪問した。前々日には明石海峡大橋の起工式があり、何 かと忙しい時期だったが「私が案内します」と言うと三木申三さんは二つ返事で「私も行きましょう」と同行して下さった。
樫尾の人達は大喜びだった。新しい道も開通し、樫尾は見違えるばかりに活気づいていた。郷土料理である豆腐とジャガイモの味噌田楽をいただきながら知事 を囲んで「村おこし」の話は弾みに弾んだ。「知事を迎えたということは蜂須賀のお殿様を迎えたようなものです」。と、樫尾の長老が喜びを噛み締めるように 語っていた言葉が今も耳朶に残る。
三木申三さんは昭和五十六年(1981年)十月九日から平成五年(1993年)十月四日まで三期十二年間、徳島県知事を勤められた。私も選挙のたびに応 援させていただいたが剛直な性格と優しい性格を併せ持ち、約束を守る礼儀正しい人だった。
二人で樫尾を訪問したあの日からもう二十四年。十年一昔と言うか らもう二昔も前の話になってしまったが、私にとってはまるで昨日のことのように感じられる懐かしい思い出である。
徳島県美馬郡貞光町(今はつるぎ町貞光)から貞光川に沿って真っ暗な山道を車は走り続けた。曲がりくねった道、道幅も 狭い。車は一層スピードを上げる。「大丈夫ですか」思わず声をかける。「任しといて。ここは自分の庭みたいなものですきに」。運転を買って出てくれたのは 当時、無所属で村議会議員をしていた大森利香さんである。
車が止まったのは、一宇村(今はつるぎ町一宇)大佐古。徳島県下、最高峰の剣山はすぐそこと言 う。大森さんが「皆、待っとるでよ。早よう入りなさい」と自宅に案内してくれる。会場は、はちきれんばかりの人人人。拍手と歓声そして候補者の私を励ます 歌声が家中に広がった。満点の星座がきらめく深山の一夜であった。
衆議院選挙のたびに、私は大森さん一家にお世話になった。いつもご自宅を個人演説会場に提供して下さったばかりか私を支持してくださる支持者の皆さんと ともに村中の人々を集めてもくださった。時には私の遊説隊の一行を宿泊もさせていただいた。朝一番の街頭演説に立ち、力強く応援演説していただいたことも ある。
選挙が終わると、私はよく泊り込みで一宇村の方々にご挨拶に伺った。そのときも大森さんが案内してくれた。あの谷この谷、あの峰この峰に、点在する支持 者の皆さんのお宅を一軒一軒訪ねた。何故か秋から冬にかけての季節が多かったように思う。誰もが東京に出稼ぎに出した子供が帰ってきたかのように歓迎して くださった。
秋から冬にかけての季節は干柿の季節でもある。ちょこんと屋根をつけた干柿用の櫨は二階屋の屋根に届くような高さである。そこから干柿の長いスダレが何 十本何百本と垂れ下がっている。櫨は干柿が雨に濡れぬように、そして風通しの良いように工夫されている。寒風にそよぐ干柿のスダレは一宇村の初冬の風物詩 でもあった。
訪問した日の夜は、大森さんのご尊父はじめ奥様も交えて夜の更けるのも忘れて語り合った。戸外は凍るほどの寒さであっても家の中はいつも暖かかった。私 は特に土地の人が作った大きな固い豆腐が好きで、味噌をつけて焼いた豆腐田楽をいただきながら、膝を突き合わせて国会の報告をするのは最高に嬉しいひとと きだった。
政治談議が大好きで「もうこの辺にしませんか」と言わない限り、いつまでも話し続けた大森さんのご尊父は、ご長寿を全うされていたが、残念ながら、その後、逝去されたと聞いた。心からご冥福をお祈りしたい。
大森さんのお宅には、十五、六年前に訪問したことがあるが、その折も近所の人達と心ゆくまで話し合うことができた。一宇村の干柿は現在も人々に良く知られているが、この干柿が出回る季節になると、私にはいつも干柿のスダレの風景が瞼に浮かぶ。
正月映画といえば「男はつらいよ」の時代があった。渥美清さんの車寅次郎いわゆる「フーテンの寅さん」が演じる人情味 あふれる物語であり、いつも失恋で終わってしまう男の恋の物語でもあった。
毎年、新しいマドンナとなる寅さんの恋人、そして妹・さくらをはじめとする葛飾 柴又の暖かい家族や周囲の人々と寅さんが織り成す赤裸々な人間と人間の関係。温かさのなかに、ちょっぴり悲しい現実があり、はかないロマンスがある。そん な人情味にあふれたシリーズが毎年、日本人の心を温め続けた。
「男はつらいよ」第四十九作のタイトルは「男はつらいよ寅次郎花へんろ」だった。ロケ地は高知県、公開日は平成八年(1996年)十二月二十八日と決ま り、秋からの撮影を控えていた。
ところが同年八月四日に名優・渥美清さんが亡くなった。「男はつらいよ」のシリーズは打ち切りとなり、公開予定日の平成八年(1996年)十二月二十八日に「渥美清さんへの追悼映画」として公開されたのが山田洋次監督、西田敏行さん主演の「虹をつかむ男」であった。
映画「虹をつかむ男」は徳島県美馬郡脇町(現在の美馬市脇町)を舞台にしている。脇町は映画では光町になっている。「虹をつかむ男」が封切りされた日、 私は子供のころよく通った徳島市蔵本町の懐かしい映画館に行った。妻と一緒に並んで切符を買った。わくわくする思いで映画を見た。
この映画には平成七年(1995年)に閉館し取り壊しが予定されていた脇町劇場が「オデオン座」として登場する。古い壊れかかった映画館「オデオン座」 で映画の大好きな主人公の西田敏行さんが、町の人達を集めて名画をたて続けに上映する。
そして「雨に唄えば」の名曲に合わせて、ジーン・ケリーよろしく タップダンスを踊る。あるときは小学校の小さな分校まで出かけて映画会をする。そんな場面の数々が今も鮮やかに目に浮かぶ。
ところで廃館寸前だった脇町劇場は、この映画で一躍注目を集め、後に町指定文化財として修復された。映画がきっかけとなり、映画で登場した「オデオン 座」の名前で見事に復元したのである。今やすぐ近くにある「うだつの町並み」とともに全国にも知れわたる観光の要所となっている。
この「オデオン座」の前を流れるのが大谷川である。岸辺には大きな柳の木が並び、旧市街地に灯が点ると古き良き時代の風情が漂う。川筋には名物の蕎麦屋 もできた。このあたりは脇町の中心地帯で、美馬市の脇町庁舎や脇町高校なども近くにあり、結構賑わっている。
私が初めて衆議院選挙に出馬したとき、この大谷川の河原で街頭演説会をしたことがあった。当時は今のように広い会場がなく、この河原に遊説車を乗り入れ て青空演説会をした。
地元の脇町ばかりでなく、美馬郡と三好郡の全域から支持者の皆さんが何時間も掛けて駆けつけて下さった。私は遠いところを来て下さっ た全員の方々と握手させていただいた。全身が汗でずぶ濡れになったことを憶えている。今は遠い昔の話になってしまったが、そのときのお一人お一人の表情ま で思い出す。
脇町にはその後、何百回も通った。山間部まで入り、農免道路で夏子から平帽子まで行ったこともあった。平帽子の人達は高原野菜を作っていた。農家の人たちから、お土産にと新鮮な野菜をいただいたことが懐かしい。
脇町には洋欄づくりで世界的に有名になった河野メリクロン株式会社がある。この会社の創業者である社長・河野通郎さんには今も親しくしていただいてい る。いつも新しい洋蘭の新種作りに情熱を傾けておられる。
河野さんの話によると新しい品種ができる確率は何億分の一だそうだ。そこに挑戦するからこそ世界 を相手に事業を展開していけるという。研究室で働く若い人達の仕事に対する意気込みには圧倒される。
二十年ほど前から毎年、後楽園の東京ドームで「世界ら ん展」が開かれている。私も鑑賞させていただいたことがあるが、河野さんが出品したものが一番、豪華だったように思う。同じ徳島県人として本当に嬉しかっ た。脇町から「虹をつかむ男」が次々に出て欲しいものである。
吉野川の南岸にある徳島県美馬郡貞光町(現在はつるぎ町貞光)と北岸にある美馬町(現在は美馬市美馬町)を結ぶ美馬中 央橋。この橋を見るたびに佐藤藤太さんのことを思い出す。佐藤藤太さんは貞光町の中央にある繁華街で印章店を営みながら、永く公明党の町議会議員を勤めら れた。
剣道の達人であった。日本刀を愛し、刀剣にはめっぽう詳しかった。刀剣の話になると自説を頑として譲らなかった。いつもにこにこ笑っていて、人なつっこ い方だったが、竹を割ったように一本気なところがあった。
佐藤藤太さんには何回も貞光町内を案内していただいた。貞光町といっても広い。山間部も深い。自動車の運転はそんなに上手ではなかったが、剣山へと続く山 道を一宇村(現在はつるぎ町一宇)との境にある貞光町端山までよく連れて行ってもらった。
山奥の急傾斜地であろうと臆することなく運転された。広い町内を ご自分の庭のように、所かまわず車で走り抜かれた。 私はいつも運転席の隣で座席にしがみつく思いで乗っていたが、幸い事故に遭ったことは一度もなかった。
そんな佐藤さんがしみじみ言われたことがあった。 「ここに橋を架けたいのです。この吉野川に貞光町と美馬町を結ぶ橋を架けたいのです」。滔々と流れる吉野川の堤防の上で対岸の美馬町を指さしながら佐藤さ んは自分に言い聞かせるように、きっぱりと断言された。
「私は町議会議員に初当選以来、ずっと言い続けてきたのです。いつも同じことを言っとると同僚から笑われることもありましたが、いるものはいるのじゃと 私は言い続けてきました。お陰様でもうじき工事にかかることになりました。嬉しいことです」。永年の主張が実った喜びを佐藤藤太さんは「 議員冥利に尽きます」と表現された。町の人達の喜ぶ姿が目に浮かぶのだろう。佐藤藤太さんの顔は子供のように輝いていた。
その後、美馬中央橋は完成した。佐藤藤太さんの根気よく粘り強い主張が地元の町長を動かし、県や国の関係者を動かしたのだ。地権者の皆さんにも御協力を いただいた。そんな皆さんの努力が実を結んだのであった。
今では対岸の美馬町には高速道路が走りインターチェンジもできている。高速道路を利用すれば全国 どこへでも行けるようになった。香川県への国道には三頭トンネルが貫通した。香川県へはもちろん岡山県へあるいは広島県や鳥取県への旅も日帰りできるよう になった。
貞光町を通る国道192号には道の駅・貞光ゆうゆう館が県外からの観光客の人気を呼んでいる。美馬中央橋の開通によって、貞光町と美馬町の一体 化はいよいよ進み、県西部の中心的な商業地域として大きく発展している。
こんな貞光町の発展振りを今は亡き佐藤藤太さんにぜひ見てもらいたかった。私はそんな思いで佐藤藤太さんの初盆の供養に佐藤宅を訪問したことがあった。 私がそんな思いを語ると、ご子息も同じことを言われた。ご子息は家業の印章店を引き継がれており、町内の人々からの信頼も厚い。
二重のうだつで有名な貞光 町の昔ながらの商店街に佐藤印章店はあるが、佐藤印章店の界隈は今も古き良き時代の風情がそのまま残っている。この二重うだつの商店街は衆議院選挙のとき はいつも佐藤藤太さんの案内で挨拶回りした商店街であり、私にとって思い出深い通りでもある。
穴吹川は徳島県の最高峰である剣山に水源を持つ川である。剣山から美馬郡木屋平村(現在は美馬市木屋平)を経て穴吹町(現在は美馬市穴吹町)古宮を下り吉野川に注ぐ。この穴吹川は澄んだ水で知られ、毎年の水質調査でも「四国第一の清流」と発表されている。
四国には「日本最後の清流」と呼称される四万十川(高知県)や坂東太郎(利根川)筑紫次郎(筑後川)四国三郎(吉野川)と日本の三大暴れ川の一つに挙げ られる吉野川など有名な河川が多い。そのなかで四国第一の清流と言えばいつもあまり名前の知られていない穴吹川の名前が挙がる。まことに痛快であり、嬉し い限りである。
もう三十年ほど前になろうか。ある夏の夜、真っ暗な山道を穴吹川に沿って、くねくね曲がりながら下りてくると突然に視界が開けた。ゆったりと流れる穴吹 川の川面に蛍が群れをなしていたのだ。美しい光の軌跡を描いていた。さらさらと流れる水音が、さながらBGMのように心地よかった。私は車を止め、しばら くの間、蛍のダンスに見とれていた。
穴吹川をいつまでも四国第一の清流にしておきたいと町の人達はいつも心を配っている。とともに川に親しみ、川と遊ぶことも忘れない。毎年八月の第一日曜 日に行われる筏下り大会は、全国から参加者が駆けつけるほどに人気がある。
私も穴吹町をよく歩かせていただいたことがある。穴吹川から少し山間に入った初 草、口山、古宮などの地域には特に思い出が深い。地元の支持者の方々とともに山の天辺でまで歩いて行き、手作りのお弁当をいただいたこともあった。「この へんは食堂がないからね。遠藤さんが来るというので、前の晩から用意したの。まあ、食べてみてちょうだい」。風呂敷を開くと大きな寿司桶に鰺とボウゼの姿 寿司が並んでいた。
私もこの姿寿司は大好物である。「こりゃあ、旨い。最高ですね」。思わず叫んだ。柚子酢が効いている。「なんだか、遠足に来た気分ですね」。誰かが言っ た。四、五人もいただろうか。暖かい日差しが降り注ぐ山の中で子供のようにわいわい騒ぎながらいただいた。あの寿司桶のお弁当の味は今も忘れられない。
口山地域では、葉煙草栽培に励む人達と野良に建つ小さな御堂で車座になって二時間も三時間も語り合ったことがある。山村にとって唯一といってよい現金収入源だった葉煙草栽培も今や斜陽産業となってしまったこと。他にこれといった収入源がない山村では若い人達が離村せざるをえないこと。このまま放置すれば 先祖代々にわたって切り開いてきた農地が、元の原野にかえってしまうのではないかと心配する人達。中山間地域で農業を営む人達の悩みは深い。
かつて国会では新しい農業基本法を制定し、中山間地域に直接所得補償制度を導入するきっかけを作ったことがある。これをどのように具体化していくか、知 恵を出さなければならない。
現在、国は直接所得補償制度を米作だけに限定して全国一律に実施しようとしている。これは問題である。米作ばかりが農業ではな い。中山間地域に焦点を当てた農村政策をぜひ実行してもらいたい。
農業を産業と見る視点ではなく、農村そのものをどう維持発展させていくか、そうした社会 政策的な視点で見ることが喫緊の課題なのだ。徳島県はとくに中山間地域が多いだけに、避けることのできない最重要課題であると私は認識している。
徳島県美馬郡美馬町(現在の美馬市美馬町)と香川県仲多度郡まんのう町を結ぶ全長二千六百四十八メートルの「三頭トン ネル」が開通した。高速道路の徳島自動車道には「美馬インター」開設された。この二つのことから美馬町は、徳島県西部の交通の要衝として大きく発展しつつ ある。
美馬町を中心にしたこの地域の歴史は古く、国指定史跡「段の塚穴」や「郡理廃寺跡」を見れば飛鳥・奈良時代から文化が発展し、大化改新の時代には郡衛がおかれていたことがわかる。 私は美馬町の全域を何度も訪問させていただいたが、阿讃山脈の南面に広がる山間地はとくに勾配が急であった。びっくりするような急斜面を土地の人達はいとも簡単に登り下りする。その見事なハンドルさばきに感心したことを思い出す。
切久保、入倉、清田、丈寄、竜王山、惣後、藤宇、中村、野田ノ井などの鄙びた山里を訪問すると、時間までゆっくり過ぎていくような思いがした。差し出してくださったお茶をいただきながら自然に話が弾んだ。
ブロイラー(養鶏)もだめ。葉煙草もあかん。高冷地野菜や花卉・花木の栽培も収入が安定しない。と、話の内容は深刻なのだが、意外とのんびりした口調なのだ。それでも政治の話になるとどの人も一家言を持つ政治評論家となる。
「仕事がないときは一日中家でテレビ見とるからなあ」。「テレビを見るのが仕事やさ かい、しょうないわな」。「だから誰がどう言った、誰がこう言っとったわという情報はそのまま入ってくるんですわ」。「なるほど。よう、わかりました」。 私は土地の人々の情報量の豊かさに脱帽するばかりだった。
私は二十年間の衆議院議員時代に逓信委員をしていたことがあった。放送行政を担当する総務副大臣もした。国会でもよく話題になったが、確かに言論は自由 であり、マスコミには報道の自由がある。何を言ってもよい。これは周知の事実である。しかし意図的に真実を加工して報道することは許されない。
にもかかわ らず、現実には真実とはほど遠い、あるいは真実とは逆の報道がされる場合がある。この場合私たちはどう対処すればよいのだろうか。
電波は公共のものである。公共の電波を使って恣意的な報道をすれば、報道をしたマスコミ自身の自殺行為となることは間違いない。
とくにそれが個人のプライ バシーを侵害したり、名誉を棄損するものであれば公器による犯罪ともなる。 その重い責任を自覚して真実と事実に徹した報道を心がけてもらいたいものだと強く思う。
とともにマスコミの報道に接する側の国民にも私は注文したい。報道を鵜呑みにするのではなく、マスコミの報道に少し距離を置いてまずは自分自身で考えて 見ること。自分の判断で報道に接すること。自立した自分の意見を持つこと。国民自身がマスコミの報道を判断する見識に立つことである。
グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」を知らない人はいまい。この法則は金本位制のもとでの通貨の法則である。この法則がマスコミを含めた世間一般の 法則になってしまったら世も末である。
マスコミと国民の間にグレシャムの法則ではなく、その逆の「良貨は悪貨を駆逐する」そんなルールが自然にできること を私は望みたい。それこそ理想の民主主義国家像だと思う。
ところで最近の美馬町はパラグライダーやモトクロスなど若い人に人気のスポーツを楽しめる施設が整っている。大空を鳥のように自由に飛ぶパラグライダー には夢がある。私にはとても無理だが世界中に愛好者が増えている。
中国の大連で行われた祭典でエンジンを付けたパラグライダーを見たことがあるがまるで飛 天のように空を自由自在に遊泳していた。
モトクロスは浜松のヤマハ技術研究所に勤務していたころ、モトクロス専用のバイクの製造を間近で見てきただけに、より興味がある。
私の高校時代の同級 生・阿部光行君は最近まで毎年、美馬町の大会に出場していた。高校時代からスポーツが好きで体を鍛えていた彼の引き締まった身体をみると本当に羨ましくな る。
平成九年(1997年)三月三十日、待望久しかった三頭トンネルが開通した。この三頭トンネルは、徳島県美馬市美馬町 と香川県仲多度郡まんのう町を結ぶ全長二千六百四十八メートル(香川県側千百六十五メートル、徳島県側千四百八十三メートル)のトンネルである。
開通時は 徳島県で最長の道路トンネルであった。私は四月一日の供用開始の前日に行われたこの開通の日の開通式に出席し、テープカットさせていただいた。
このトンネ ルができるまでは、徳島県美馬市美馬町と香川県坂出市を結ぶ国道四百三十八号は、これまで未通の国道といわれた。徳島と香川の県境にある「寒風越」近辺が 未通だったからである。
三頭トンネルの開通で、国道四百三十八号は県境付近を最短距離で結び、国道として晴れて完通した。
私は開通式で祝辞を述べた。「このトンネルの開通は、 徳島県の美馬市美馬町と香川県の坂出市を直結しただけではありません。日本海側にある鳥取県の大山と徳島県の剣山を直結したのです。朝、大山を出発すると 高速道路で直接、瀬戸内海を渡り、この三頭トンネルを経て、夕方には剣山に登れるのです。このルートを私は大山―剣山ルートの開通と呼びたいのです」と。 開通を喜ぶ参加者から大きな歓声とともに盛大な拍手をいただいた。
美馬市美馬町の人達の喜びは大きかった。高速道路「徳島道」の美馬―脇町間の開通式にも私は出席したことがあるが、地元の人たちの喜びようはその時以上 と私には思われた。日常生活になくてはならない身近な生活道路だったから、地元の人たちはその開通が手放しで、嬉しかったに違いない。
三頭トンネルの開通祝賀会はこの日、香川県の琴南町でも行われたが、こちらも大変な盛り上がりだった。町の人達が大勢駆けつけていた。
その昔、田植えを 終えた徳島県の「キタガタ」の女性は、早乙女となって、牛とともに峠を越えて香川県に田植えの手伝いに行ったという。「カリコ牛」の風習である。それほど に徳島県の「キタガタ」の農家と香川県の農家の結び付きは古い。
よく世間では「讃岐男に阿波女」と言われるが、働き者の阿波の早乙女は讃岐の農家にとって なくてはならない女性だった。なかには「カリコ牛」だけ返して早乙女は息子の嫁にもらった農家があったかも知れない。
それだけに三頭トンネルの開通は、年 配の人ほど感慨深いものがあった。祝賀会場では、いたるところで徳島県と香川県の人達の熱い交歓風景が見られた。
三頭トンネルの開通は、美馬市美馬町ばかりでなく、徳島県の県西部の観光客の増加にもはっきりとあらわれている。吉野川を挟んで美馬市美馬町の対岸にあ るつるぎ町貞光の道の駅・貞光ゆうゆう館でも「お陰様で、最近は香川ナンバーの車がうんと増えました」と嬉しい話を聞いた。
各種の調査でもその傾向は、 はっきりと見てとれる。道路は町と町を結び、人と人を結ぶ。そして文化と文化を結ぶ。「地域の時代」は地域と地域が互いに競争し合う、大交流、大競争の時 代でもある。三頭トンネルがいよいよ活用され、その力を発揮することを心から期待したい。