徳島県阿南市の橘湾というと、小学校の遠足で津之峰山に登った日のことを思い出す。春先の暑い日だった。カルスト台地らしい白い岩膚に山帰来の葉の緑が印象的だった。徳島では柏餅にこの山帰来の葉を使う。
汗を拭きながら登った頂上から、眠ったような橘湾が見えた。「阿波の松島」と呼ばれる美しいリアス式海岸には、大小の島々が浮かび、まるで一幅の名画のようだった。
その海岸の一部が埋めたてられ、四国電力の阿南発電所が操業を開始した。続いて、日本電工徳島工場が建設された。工場から出る排水で海は次第に汚れていった。そんな時代があった。
昭和五十七年(1982年)四月、その橘湾でタンカーが座礁する事故が起きた。重油が広い海面に流失した。公明党ではただちに調査団を派遣した。メンバーは私と当時の国久嘉計徳島県議、中川徳芳、湯浅優阿南市議である。地元党員の福田勇さんが出してくれた漁船に乗り込み、現場へ。静かな海面に黒い重油の帯が広がっている。重油が漂着した海岸では人力による必死の回収作業が続けられていた。
「気をつけて下さいよ。滑りますからね」私たちの漁船が接岸すると作業をしていた方々が、その手を休めて私達の手を取ってくれた。「流石は公明党ですね。一番乗りですよ」ヘルメットに染めた公明党の文字とマークを目ざとく見つけたのだろう。責任者の方が被害の概況と回収作業の進渉具合を手際よく丁寧に説明してくれた。
それにしても全くひどい。白砂青松の海岸は真っ黒な重油がべっとりとこびりついている。魚は逃げられるとしても、この海岸で採れる貝や海草はおそらく全滅だろう。漁業補償は保険会社との話し合いに持ち込めるが、漁業権を持たない一般市民の被害は一体誰が補償してくれるのだろうか。
重油が一旦海岸の砂に吸収されると、元に戻るには五年も十年もかかるという。日曜日など家族総出で貝ひろいを楽しむそんな庶民のささやかな喜びは、何の補償もなく無残にも奪い取られてしまうのだ。
橘湾の開発が進めば進むほど、こうした事故の起こる可能性はますます大きくなる。その後、橘湾の小勝島に電源開発と四国電力が共同で大規模な石炭火力発電所を建設したが、自然保護には慎重な上にも慎重な配慮をお願いしたいものである。
開発か自然保護かを考えるにあたって経済効果に偏った論議や、イデオロギーに偏った論議は、真に住民の側に立つ論議とはなりえない。砂をかむような意見の対立を生むばかりである。
活力あるふるさとを建設するために開発による産業政策の展開は避けて通れない課題であることは事実である。しかしながら、自然保護政策もまた人々の生存権に基づく基本的に重要な課題である。
双方の接点をどこに求めていくか。その最初の選択権はまず地元住民にあると私は思う。そのためにも関係者は開発に着手する前に全ての情報を判断材料として地元住民に提供すべきだろう。そして住民の方々もまた自己の利害に捉われるのでなくより高い視点に立って、住民の意見を一つのコンセンサスにまとめていく努力をすべきである。
ベンサムの言った「最大多数の最大幸福」という最大公約数がどこにあるか、賢明な判断が主権者である住民の手で行われることを私は心から期待したい。
一時は開発か自然保護かで大きく揺れた橘湾だが、関係者の粘り強い努力が実を結び、住民の皆様の御協力も得て最新式の大きな石炭火力発電所が環境への負荷も最小に事故なく操業されていることを今は心から喜びたい。
阿南市新野町は「阿波踊り竹人形」の創作された町である。阿波踊りのしなやかな身ぶり手ぶりを小さな竹の枝ぶりで巧妙に表現したこの竹人形は徳島県のお土産品のなかでは異色の存在だろう。
今ではかなり知れわたり徳島空港の売店をはじめ多くのお土産品にも並ぶようになったが、生産は今も家内工業に頼っているだけに、大型の高級品は注文して何か月か待たないと手に入らない。
「阿波踊り竹人形」を最初に考案したのは新野町の農家の人達だ。その一人が、現在、阿南市議会議員をしている鶴羽良輔さんの父、博昭さんである。私はもう三十年も前から大変に親しくさせていただき、仕事場にも何回かおじゃましたことがある。
新野町は筍の産地であり、竹薮がいたるところにある。博昭さんは近所の竹薮から取ってきた竹を薬品で処理したあと乾燥させて癖を取り、竹人形の手や足や 胴体になりそうなところを選んで素材とする。
それを作業机の前に並べて構想を練る。そして一つ一つをピンセットで組み立てて人形にしていく。根気のいる仕 事だ。しかし奥様とする息の合った仕事ぶりを見ていると「いいですね。いつも奥様と一緒にいられて」とつい声をかけたくなるほど家族的で暖かい雰囲気なの である。
私は二回、注文して作っていただいた。一回目は初めて中国を訪問したとき、当時の日中友好人民公社に寄贈した。二回目はやはり中国を訪ねたとき、北京の 日本大使館を訪ねて橋本恕(ひろし)全権大使に寄贈した。橋本大使は徳島県鳴門市の出身であったから大変に喜んでくれ、その場で大使の執務室に飾られた。
あの二つの阿波踊り竹人形は今どこにあるのだろうか。中国のどこかで中国の人の目に止まっていれば嬉しい。私は中国を親善訪問したとき、北京の人民大公 堂で中国の青年達に阿波踊りを披露したことがある。
私の阿波踊りの後について来る中国の青年達に即席で演技指導したのだが、私の歌う「よしこの」に合わせ て見事に踊る青年達の飲み込みの速さにびっくりしたものである。
もう二十年も前の懐かしい思い出であるが、あの青年達は今どうしているだろうか。阿波踊り のことを今も覚えていてくれるだろうか。一度、本場の阿波踊りを踊りに来てほしいものである。お会いできればとつくづく思う。
徳島県の東端・阿南市蒲生田岬のその先に大小三つからなる島が浮かんでいる。ササユリで知られる伊島である。戸数は約百戸。ほとんどが漁師である。紀伊水道に浮かぶこの島では港の近辺に家々が集まり、わずかな平地に軒を寄せ合っている。
私がこの島を初めて訪問したのは、昭和五十五年(1980年)六月、衆議院議員の選挙に初出馬した折りのことである。解散の日に出馬を決意するというあわただしい選挙戦であった。投票日まで四十日しかない。
名もない一介の青年がいきなり衆議院議員の選挙に出たのだから、誰もがびっくりした。それまでの常識からすればとても考えられないことだった。政見放送のビデオ撮りから遊説、街頭演説、立会演説会と何もかも生まれて初めて経験することばかりであった。
そんななかで一つだけ自信があった。体力である。三十七歳の私には、体力だけが厳しい選挙戦を戦い抜く唯一の武器だったのである。当時は徳島県の全県が一選挙区という中選挙区の選挙制度であった。選挙区が広いだけに遊説のスケジュールは過酷を極めた。
二十日間の選挙運動期間中、自宅で休めたのはわずかに三日。あとは上勝町や、木屋平村、東祖谷山村、由岐町伊座利、宍喰町など県下各地で宿泊した。当時は 宿泊施設も少なくほとんどが民宿だった。平均四、五時間、ときには二時間の睡眠時間しか取れなかったが、遊説のスタッフも私も元気一杯だった。
伊島に行ったこの日は朝五時に阿南市のホテルを出発、中林の漁港から支持者の方が用意してくださった船で伊島へ渡り、七時から七時三十分まで島内を遊説、その後、船で椿泊へ。阿南市内を遊説したあと那賀川沿いに奥深い丹生谷の山間部へ。
高知県境である木頭村北川まで街頭演説しながら遊説し、夜は個人演説会が三会場と立会演説会一会場に出席。深夜の山中を川口から赤松を経て日和佐町から由岐町伊座利まで走る一日四百キロメートルの強行スケジュールであった。
ところで南海に浮かぶ伊島は離島であり、しかも戸数が少ないことから全県一区という広い選挙区の衆議院議員選挙ではほとんどの陣営が遊説コースから外し ていた。これまでの選挙でも選挙期間中に衆議院議員選挙の候補者本人が島を訪問したことは一度もないという話を私は聞いていた。
それだけに「ぜひ行きたい」と私は遊説の責任者に無理矢理頼み込んだのである。その願望が実現して目の前に伊島の港の岸壁が見えてきたとき、それだけで私の心はときめいた。生まれてはじめて見る伊島は意外に大きかった。
岸壁にはすでに支持者の方々が待ち構えていてくださった。その方々の案内で島内をくまなく歩く。選挙標識とハンドマイクのあとに襷がけの候補者。桃太郎さながらの行列を島の人達は大きな拍手で迎えてくださった。
お年寄りの方々が家から飛び出して来てくださり、私の襷をさすりながら「本当に候補者本人ですか」と何度も何度も念を押されることもあった。選挙期間中 はいつもポスターだけで、候補者本人を見たことがないという人々の節くれだった手を堅く握りしめながら、私は心から決意した。
「政治の光は、どこの地域、 どこの人々にもまんべんなく行き届かなければならない。力の強い方、数の多い方へと傾いている今の政治は根本的に間違っている。政治という巨大な権力を民 衆の側に取り戻すのが私の使命であり、責務である」と。
伊島にはその後、何度もおじゃまさせていただいた。衆議院議員に二期目の当選をした翌年の昭和六十二年(1987年)十二月二十四日、私は伊島で移動市民相談会を開き、島の人達と夜を徹して語り合ったことがある。
このとき中学校が廃校になるという話を聞いて島の人たちは困っていた。私は阿南市の職員や教育委員会の方々にも臨席していただいて島の人たちの切実な声を聞いた。その後、文部省にも出かけて、島の人たちの生の声を伝えた。
その結果、中学校の廃校は取りやめとなり、小学校とともに新築することになった。そればかりか教職員の住宅も新築されることになった。また、保育所の整 備、診療所への医師派遣などの陳情を受けていたが、のちに全て実現した。島の人達に喜んでいただいたことが本当に嬉しかった。
私は衆議院議員を六期二十年勤めて後輩にバトンタッチした。議員を引退してからも島の人たちとも交流は続いている。漁業組合の組合長から「島に若者が 帰ってきました。その人たちが漁船を操業する資格を取りたいといっています。神戸まで行かないで地元で試験が受けられるようにできないでしょうか」と相談 されたことがある。
早速、後輩の衆議院議員に連絡して農水省と掛け合っていただき、試験官が伊島まで出張して試験をしてくださり、島の若者は伊島で試験を受けることができるようになった。組合長はとても喜んでくれた。
後日談だが、その組合長は私の高校の同級生の甥になることがわかった。世間は狭いものである。そんなご縁もあり、高校のクラス会も何度か伊島でした。組合長も一緒になって港での鯵釣や海岸でのバーベキューを楽しんだことが懐かしい。
はるかに遠い南の海に浮かぶ伊島は私にとって今も身近な島である。私はいつも伊島の皆さんの御健在を心から祈っている。