2002年12月25日
平成15年度の予算案が閣議決定されました。予算編成の過程でマスコミからの関心はほとんどありませんでしたが、私は関心を持ち続けてきたことがあります。
国の行政の減量と効率化は図られたのかどうかという問題です。小泉総理は「負担に値する質の高い小さな政府」を実現すると指示しましたが、その基本方針は貫かれたのかどうかという関心です。
機構と定員の審査は総務省の所管ですので早速調査いたしました。総務省では、審査の過程で①組織・業務の合理化②民間委託等のアウトソーシング③IT化による合理化、を軸に減量と効率化を具体化してきたと言っています。
例えば、食料事務所業務の定員のうち、今後、主要食糧業務の定員(5900人)を3分の1程度まで縮減するとともに全体の定員(8843人)を約3000人削減するとしています。
一方、緊要な施策に対しては重点的に増員しています。例えば良好な治安の確保に517人、空港等におけるCIQの体制強化に209人、食品の安全の確保に74人、原子力の安全の確保に70人、公正取引委員会の体制強化に40人、金融システムの安定化に86人、証券市場の構造改革の推進に317人、知的財産の戦略的保護・活用の推進に40人などです。
新規増員数は全体で3093人となりますが、これは平成14年度の3239人から見れば抑制されているとのことです。
一方、これに対応する計画削減は4972人ですから純減数は1879人。過去最大級の純減数です。ちなみに平成9年度以降平成15年度までの各年度における純減数は、289,1035,1171,1499,1893,1756,1879とのことです。
定員削減計画に基づく削減のほか、郵政事業の公社化、造幣・印刷事業等の独立行政法人化で29.5万人の移行減もあります。
以上の結果、各省庁の国家公務員の定員は約81万人から約51万人と大幅に縮小されていますから、数字の上では「小さな政府」に近づいたといえるでしょう。けれども手放しで喜ぶのは早計です。「質の高い小さな政府」になったのかどうか検証しなければなりません。
行政は放置しておくと自己増殖します。ですから国民の目からの厳しい監視を忘れてはならないのです。予算案をこうした視点から見ることの大切さを私は痛感しています。
2002年12月13日
第155回国会が本日終了しました。マスコミからは無気力国会だったなどと酷評されています。確かに民主党にお家の事情があり、野党第1党として政権と対決する迫力に欠けていたのは事実でしょう。それが無気力国会と言われる大きな要因になったのではないでしょうか。
そうしたなかにあって公明党は与党ではあっても、ときには野党的な役割りも果たして政府に注文をつけ、軌道修正への舵を取り続けてきました。
経済問題では総合デフレ対策と補正予算の編成を実現させました。当初小泉総理は補正予算は考えていないと言明していましたが現在の深刻なデフレにストップをかけない限り、景気の回復はありえず不良債権の処理も進まないという公明党の主張に耳を傾けざるを得ませんでした。
また来年度の税制改正大綱の策定でも、企業への先行減税の財源を家計の負担増でまかなうのは筋が通らない、国民の理解も得られないと主張し、特定扶養控除の廃止を断念させることができました。
配偶者特別控除の廃止には同意しましたが、家計の負担増に対しては家計への歳出で配慮すべきとして、児童手当の拡充を実現させたのはよかったと思います。
児童手当の具体的な拡充案については、今後、検討を加えていくことになりますが、小学校3年生までの児童を対象とすることになるでしょう。
北朝鮮による拉致被害者を支援するための法律もこの国会で成立しました。拉致被害者ではありませんが北朝鮮から日本に帰ってきたいわゆる脱北者の方々を救済する方法も今後は考えていかなければならないと思っています。
また北朝鮮は核関連施設の凍結解除を表明し、電力生産に必要な核施設の嫁動、建設を即時再開することを宣言しました。これは米朝枠組み合意を崩壊させるもので、断じて認められません。
日朝国交正常化交渉は今のところ暗礁に乗り上げていますが、政府は毅然とした態度で交渉に当たるべきであることを重ねて訴えておきたいと思います。
2002年12月3日
フィリピンのアロヨ大統領が参議院の本会議場で演説し、私も拝聴しました。フィリピン大統領の訪日はラモス大統領以来で実に10年ぶりのことでした。
アロヨ大統領の父親はディオスダド・マカパガル第9代大統領(1961年~65年)。アロヨさんは幼少時から将来を期待され恵まれた教育環境で育ちました。
米国のジョージタウン大学に留学中は、クリントン前米国大統領と同級生だったそうです。1992年5月に上院議員に初当選。1995年5月の中間選挙では1600万票という史上最多得票で再選され注目を集めたのです。
1998年5月の大統領選挙では、当初大統領選挙に名乗りを上げたものの、組織力不足で副大統領選に立候補し、圧勝しました。副大統領時代、貧困問題の解決に奔走し、農業の近代化を成し遂げました。
2001年1月6日「ピープルパワー」がエストラーダ政権を打倒。1月20日、憲法規定に従って副大統領であったアロヨさんが後継大統領(第14代)就任宣誓を行ったのでした。
アロヨ大統領は当時のことをしのびながら、日本の国会で力強く語りかけました。
克服すべき課題は巨大であり、脅威は数多くあります。我々はただ勇気と一途な目的を持って前進し続けなければなりません。自由な人々は、敵を克服し、繁栄し、自由で居続けるための能力を自らの手に持っているからです。
我々の最重要目的は、新世紀の最初の10年で貧困を克服することです。これに成功しなければ、我々は我が国民に完全な力を与えることができません。貧しければ、人々は真に自由ではありえないのです。
開発は大きな課題です。グローバル化された世界では、単独で開発を行おうとすることは実際不可能です。我々は、このことをよく承知しています。要塞のような経済は枯れ果て、閉鎖された経済は死に絶えます。
自由と相互依存をテーマにした演説は強い自信と格調に溢れたものでした。議席からも何度も共感の拍手が起きました。私も、日本・シンガポールに続いて、日本・フィリピンの自由貿易協定が、一日も早く締結されることを心から期待しています。
2002年11月25日
政府・与党は平成14年度補正予算の骨格を決めました。「経済・社会構造の変革に備えたセーフティーネット(安全網)の構築」に1.5兆円。「構造改革推進型の公共投資の促進」に1.5兆円が柱となっています。
これに社会保障などの義務的経費追加分が1兆円超、今年度の税収不足2兆円超の穴埋め分を加えると総額6兆円超(国費ベース)の規模となります。
安全網対策では、不良債権処理の加速化に伴う企業倒産や失業などの事態に備えるため、雇用対策を強化したり、中小企業対策を充実します。新産業の育成や学校の耐震化、保育・介護サービス供給体制の整備なども盛り込んでいます。
また、公共投資は、直ちに着工できるなど即効性のあるものに限り、民間部門の都市開発投資、都市や地方の再生に向けた基盤整備、循環型社会の構築、地球環境問題への対応などに重点を置いております。
財源については、社会保障費などの義務的経費の追加分は既定経費の節約分を充て、安全網対策と公共投資、税収不足の穴埋めは国債を追加発行することとしています。
これにより国債発行額が30兆円を超えることになりますが、引き続き財政規律の維持に努め、2010年をメドにプライマリーバランス(基礎的な財政収支)を黒字化する目標は堅持すると小泉総理は宣言しています。
補正予算の規模について様々な意見があることは承知していますが、財政の規律を守りつつデフレ克服を図るにはどうすればよいか。知恵を結集し、中味の濃いものにしたいと思います。
平成14年度の補正予算とともに平成15年度の本予算も年末にかけ、同時進行で編成が進むことになります。いわば15か月予算の編成といえるでしょう。日本再生のメッセージが届けられるメリハリの効いた予算となるよう大いに働きたいと決意しています。
2002年11月12日
街角に公明党のポスターが目立つようになりました。「与直し」とか「生活与党」の言葉が特に人目を引きます。大きく手を広げる神崎代表の姿に爽やかな気合を感じるという人もいます。食パンやおにぎりのポスターは生活感にあふれているという嬉しい声も聞きました。
公明党は11月2日に第4回党全国大会を開催しました。この大会では神崎代表が再選されました。その神崎代表から私も中央幹事、四国議長に再任され、決意を新たにしています。党大会では運動方針や重点政策も決定しましたが、「与直し」と「生活与党」はこの党大会から生まれた新しい公明党のキャッチフレーズといってよいでしょう。
「与直し」は「世直し」の間違いではないのかという質問をよく聞きます。これは間違いではないのです。もちろん「世直し」の意義も含んでいるのですが「与党を直す」という意味でもあるのです。与党のなかで公明党としての存在感を発揮していくという決意を表明したものでもあるのです。
今までも公明党は与党の中にあって国民のためになる改革にはアクセルを、いわゆる右傾化にはブレーキを踏み続けてきましたが、これからも一層その役割を果たしていこうと決意したことを御理解していただきたいと思います。
「生活与党」これはもう言うまでもないかも知れません。言葉のとおり「生活者の与党」になるということです。政治は国民のためにある。政治家は国民の公僕である。その決意に立って政治を国民の手に取り戻そう。これは公明党の初心ですが、今こそ全議員が初心に立ち返って国民の与党として大いに頑張っていこうという決意を表明したものと私は受け止めています。
統一外地方選挙で公明党は現在まで80ヶ月間全員当選を続けています。党員、支持者の皆様のお蔭です。この上げ潮を作って下さった全国の皆様に心から感謝します。
来年は統一地方選挙の年です。是非とも全員当選を勝ち取りたいと思っています。「与直し公明党」「生活与党、公明党」を国民の皆様に御理解いただけるよう頑張りたいと決意しています。
2002年11月1日
政府・与党は総合デフレ対策を決定しました。不良債権処理の加速策を含む「金融・産業の再生」。税制改革や規制改革などの「経済活性化に向けた構造改革加速策」。中小企業・雇用への「セーフティーネットの拡充」などが柱になっています。
まず不良債権処理加速策で政府は当初の急激な会計ルール変更を伴うハードランディング(強行着陸)路線を修正しました。その一方で「2004年度には、主要行の不良債権比率を現状の半分程度に低下させる」と銀行の“貸し渋り”や“貸しはがし”に歯止めをかけています。
不良債権回収を軸とする整理回収機構(RCC)とは別に再生可能な企業の銀行から債権を買い取る「産業再生機構(仮称)」を創設し、企業再建を支援することにもなりました。
税制改革では研究開発・投資促進減税や相続税・贈与税見直しなどで1兆円を超える先行減税を実施することも決めました。
地域金融機関の経営合理化による“貸し渋り”“貸しはがし”を受けた中小企業を念頭に「セーフティーネット保証」の対象拡大も明記しています。
また補正予算の編成に関しては「今後の税収動向を踏まえ、引き続き必要な措置を検討する」の表現に留めていますが私は編成されるものと期待しています。
不良債権処理は手段であって目的ではありません。目的はあくまでも経済再生、産業再生です。にもかかわらず不良債権処理や公的資金投入が自己目的化しているのではないかと思われるような議論が展開され、私は心を痛めていました。幸い今回の総合デフレ対策の結論に落ち着き一安心しています。
この総合デフレ対策を日本が自信を取り戻し元気になるきっかけにしたいと念願しております。
2002年10月18日
第155回国会が本日、始まりました。会期は12月13日までの57日間です。内閣改造後初めて開かれる国会ですが、課題は内外に山積しています。とくに拉致問題と経済対策は最大のポイントといえるでしょう。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による拉致被害者のうち今回5人の帰国が実現しました。けれどもこれは問題解決の第1歩にすぎません。拉致問題の真相解明はもちろん被害者や御家族に対する支援に政府も国会も全力を挙げて取り組むべきです。
北朝鮮では高濃縮ウラン製造施設建設を含む核兵器開発を進めていたことも明らかになりました。これは1994年に北朝鮮の核開発凍結を決めた米朝枠組合意に違反しています。
日本政府は日朝国交正常化交渉の中で拉致問題とともに核開発疑惑も最優先課題として取り上げるべきでしょう。そして北朝鮮に対して核開発の即時中止と核査察の実施を求めることは当然と考えます。
もう一つの国会の焦点はいうまでもなく経済対策です。私自身、東大阪市や高崎市を訪問して中小企業の事業主から生の声を聞きました。高松市では、各種団体の皆様から悲鳴にも似た訴えを聞かせていただきました。今の日本の実体経済は誠に深刻な状況にあります。
デフレが続く限り不良債権は増え続けます。金融不安の再燃も避けられません。かといって不良債権の処理を加速すれば企業の倒産、整理、縮小を伴い、雇用不安が一挙に増大する危険があります。
デフレ進行と不良債権増大の悪循環を断ち切るためにはどうすればよいか。デフレスパイラルから脱却するためには何をすべきか。私は今こそ総需要と総雇用を増大させるための政策を総動員すべきと考えます。一人一人の政治家が大胆に発言し、政府に補正予算と減税の先行実施を強く働きかけていくことが大事であると強く決意しています。
2002年9月28日
第23回世界連邦日本大会が本日、徳島市で開催され私も出席しました。世界連邦とは世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)を作ることです。国際紛争を国家間の武力行使で解決するのでなく、法に基づいて平和的かつ公正に解決しようとするものです。
徳島県は「世界連邦運動の父」といわれる賀川豊彦(1888~1960)が幼少期を過ごした土地でもあります。賀川氏は第2次世界大戦後いち早く世界連邦を提唱し1948年8月6日世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)を創設して副会長に就任。1960年に死去するまで運動を指導してきました。そんな背景もあり「今こそ世界連邦をー賀川豊彦の精神を生かそう」をテーマにしたパネル討論も行われました。
私は賀川豊彦の徳島県に全国から集われた皆様に歓迎の挨拶をさせていただきました。とともに世界連邦日本国会委員会のメンバーとして活動してきた体験をとおして2つのことを訴えました。
1つは世界連邦国会宣言決議を衆議院本会議で行うことの重要性です。1945年12月11日、尾崎行雄氏は30人の賛成議員を得て「世界連邦建設に関する決議」を衆議院に提出しました。けれども審議未了で廃案となってしまいました。決議案の採択はじつにそれ以来の悲願でもあります。
決議案が採択されてもすぐに世界連邦が実現するというものではありません。けれども日本がその方向を究極の理想として努力していくというメッセージを世界に発信することはまことに重要なことであると指摘したのです。
もう1つは国際刑事裁判所の設立条約の批准と国内法の整備を急ぐことです。国際刑事裁判所はジェノサイド(大量殺害)、人道に対する罪、戦争犯罪など国際社会にとって重大な罪を犯した個人を法によって裁くものです。憲法で「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを明らかにしている日本こそ率先して加入すべき条約であると私は強く主張したのです。
この日の会合で一番感動したのはノーベル物理学賞に輝いた湯川秀樹博士の令夫人であり、世界連邦全国婦人協議会会長をされている湯川スミさんの挨拶でした。「武力で平和は築けません。今、世の中は少しおかしくなっているようです。若い人たちに期待しています」とても92歳とは思えない凛とした声が今も私の耳に残っています。
2002年9月18日
小泉純一郎首相と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記との日朝首脳会談で、北朝鮮側から示された拉致問題に関する答えはまことに衝撃的なものでした。
日本政府が認定した8件11人の拉致被害者のうち、生存が確認されたのはわずかに4人でした。中学1年生で拉致された横田めぐみさんたち6人はすでに死亡していることが確認されました。このほか欧州で行方不明になった未認定の2人も死亡していました。
北朝鮮が発表したことが事実であるとすれば、痛恨の極みであり胸のつぶれる思いがします。全員の生存を願い、そろって帰国できることを求めていた被害者の家族の方々の深い悲しみを思うと言葉を失います。
金総書記は拉致の事実を認め「忌まわしい出来事で、率直におわびしたい」と謝罪したようです。しかしながら謝罪したから許されることではありません。
断じて許されない行為を行った関係者の処罰は当然なこととして生存者の早期帰国、死亡者の詳細な死亡状況など事実関係の明確化、ご家族への補償問題など誠意ある対応を求めたい。とともに二度とこのような拉致事件が起こらないよう改めて厳重に抗議したいと思います。
日朝会談では、拉致問題のほか、北朝鮮による核開発、ミサイル発射、不審船など日本の安全に関する問題も大きなテーマになりました。この問題では北朝鮮側はミサイル発射実験を2003年以降も凍結することを約束し、不審船についても「軍部の一部がやったとみられる」と述べ調査する考えを示しました。
過去の精算は日本にとって大きな問題でした。日本側は過去の植民地支配に反省とおわびを表明しました。同時に北朝鮮側が求める補償については、日本の経済協力で対応することとし、日朝双方が財産請求権を放棄することに同意しました。
拉致事件の衝撃的な事実が明らかになり、一部にはこの段階で国交正常化交渉の再開に合意したことを批判する向きもあります。けれども大局的に見て小泉首相の判断は間違っていなかったと確信します。
日朝関係の改善は朝鮮半島や北東アジア地域のみならず米国を含む国際社会の平和と安定にも大きくかかわっています。国交正常化交渉では両首脳が行った日朝平壌宣言をもとに実りある話し合いを進めてもらいたい。この交渉を通して国民の理解と納得を得るよう政府は一段の努力をするべきであると注文しておきたい。
2002年9月11日
米国同時多発テロから1年が過ぎました。昨年の今日私は総務副大臣としてシンガポールを訪問中でした。「ニューヨークの貿易センタービルが炎上。戦争になるかも知れません」ショッキングな第1報でした。
宿舎に帰ってテレビを見ると2機の飛行機が次々に貿易センタービルに突入し、崩壊していくではありませんか。世界中が恐怖に凍りついたあの映像です。
無残なつめ跡が今も残るニューヨークで「同時多発テロ1年追悼式典」が行われますが、私は改めて犠牲になられた全ての方々、そしてご遺族の皆様に心から哀悼の意を表させていただきます。
無差別テロは国際社会に対する挑戦であり、あらゆる文明、人種、宗教に対する攻撃でもあります。人類全体に対する絶対悪ともいえるでしょう。
国際社会は協調体制を整えアフガニスタンを支配していたアルカィーダを倒しました。けれどもその残党によるテロ再発の可能性がないとは言い切れません。
米国同時多発テロから1年たった今、痛切に思うことはテロリストは軍事行動で一時的に退治できても、テロリズムの解決にはならないということです。テロリズムという思想そのものを生み出す土壌にどう対処すれば良いのか。この根本問題にどう取り組むのかが国際社会の喫緊の課題といえるでしょう。
今、世界では貧困、飢餓、エイズ、麻薬、地雷、環境など人道の危機が一段と深刻さを増しています。これらの問題に「人間の安全保障」という立場から取り組んでいくことが結果的にはテロの温床を無くする地道な作業につながると私は確信します。こうした分野で日本が果たすことのできる役割は大きいものがあるはずです。
米国が準備を進めているイラクへの軍事行動についてもフセイン体制後の明確な展望のないまま軍事行動に走ることは、いたずらな混乱を生むだけに終わりかねません。イラク問題は国連中心の「対話」による解決を図るべきです。このことを日本は米国に助言すべきです。それが真のパートナーシップの務めだと私は思います。
2002年8月29日
衆議院財務金融委員会で長崎県と福岡県を訪問。国の会計、税制、金融などについて実情を調査してきました。
長崎県では福岡財務支局長、長崎税関長、福岡国税局長らから説明を受けました。このあと佐世保市のハウステンボスを視察し、森山社長から園内施設や再建計画について説明を受けました。
社長の話では、開園時年間600万人あった入園者が近年は370万人の水準で推移しているとのこと。平均宿泊日数を現状の1.6日から3日に上げるよう努力していると語っていました。他の施設にはない滞在型の施設づくりを再建計画の柱にしているようでした。
五島列島にも行ってきました。長崎港から福江港までジェットフォイルで1時間25分でした。その昔、日本を出る遣唐使が最後に寄港したのがこの港だそうです。
遣唐使は四隻一組でしたが四隻揃って唐までたどり着けることはほとんどありませんでした。いつ海が荒れるかもわからない、誠に危険な旅でした。求道心熱い多くの青年が海の藻屑と消えてしまったであろうことを思うと残念でなりません。
福江市役所では、市長さんから島の現状について説明していただきました。厳しい財政の状況にもめげずスポーツによる交流を中心に夢のある島づくりに取り組む姿に感動しました。
麻薬や拳銃の密輸入を取り締まる税関監視艇の試乗や港湾改修工事の視察も有意義でした。
福岡県では日本銀行福岡支店長、門司税関長などと懇談した翌日、北九州市の安川電機に参りました。産業用ロボットの開発と製造では日本の先頭を走っている企業です。
永次会長自ら工場を案内してくれました。ロボットがロボットを組み立てる生産ラインにはびっくりしました。世界の工場といわれる中国もこの分野ではここまでは到っていないそうです。
国宝「漢委奴国王」金印が常時展示されている福岡市博物館も見学しました。「この地は大陸への玄関でもあり、いつの時代も大変に豊かでした」と語る田坂副館長の言葉が印象的でした。
長崎も福岡と同様に外国との交易で栄えた歴史を持っています。ヒト・モノ・カネが動く。これが経済の基本であると私は考えます。もっと大きく、もっとダイナミックに自由自在に動ける時代を創っていきたい。そんなことを九州の地で考えました。
2002年8月19日
時事通信社が15日にまとめた8月の世論調査によりますと小泉内閣の支持率は前月を5.1ポイント下回る37.9%に急落しました。先月反転した支持率はわずか1ヶ月で再び低下に転じてしまいました。不支持も6.5ポイント増の41.8%となり、不支持が支持を上回りました。
政党支持率では自民党が21.3%(同0.7ポイント増)公明党が4.6%(同1.0ポイント増)と上昇し、保守党は0.1%で増減なしでした。
一方、野党は、民主党4.7%(同0.1ポイント減)共産党2.5%(同0.5ポイント減)自由党0.9%(同0.5ポイント減)で軒並み低下しました。「支持政党なし」は61.0%(同0.2ポイント減)でした。
公明党の支持率が4.6%に上昇し、4.7%の民主党と肩を並べたことは注目されます。
支持率を上昇させる。8月17日18日に行われました四国の夏季議員研修会でもこのことをテーマに様々な角度から議論を深めました。
具体的な運動論は各地域で展開していくことになりますが、議員自らが自らを脱皮する決意で新しい分野に挑戦していくこと、毎日新しい人に会っていくことなどを決意しあいました。
甲子園球場で繰り広げられている夏の高校野球では四国勢が揃ってベスト8に進出しました。尽誠学園(香川)川之江(愛媛)明徳義塾(高知)鳴門工業(徳島)の4校です。ベスト8の半分が四国勢というのはすごいことだと思います。
勝ち進んできたゲームの一つ一つが感動的でもありました。最後まで勝利をあきらめないで見事な逆転劇を演じたことも度々ありました。
自分の運命を開くのは勇気であり、運命に耐えるのも勇気であり、運命を賭けてぶち当たってみるのも勇気である。ーースウェーデンの思想家であり、教育者であるエレン・ケイの言葉です。
勝利者は大体、心の中に勝つという答えを出している人である。―ー彼女はこうも言い切っています。夏季議員研修会を終え四国の各地に帰っていった皆様の御健勝を心から祈ってやみません。
2002年8月7日
政府は本日午後の閣議で勲章の等級廃止や簡素化を柱とした栄典制度改革案と関連政令改正案を決定しました。これによりますと現在19段階の勲章は9段階に簡素化されます。来年秋から実施されるとのことです。
今回の改正は、明治以来の栄典制度を1964年に現行の制度に改正して以来、40年ぶりの大改正といわれています。叙勲は現在、春秋の2回実施され、年間9000人が対象となっていますが「勲一等から勲八等など数字によるランク付けはおかしいのではないか」「女性の叙勲者が一割程度しかいない現実は見直すべきである」「受章者が公務員出身者に偏っているのではないか」などの意見が続出していました。
公明党ではこうした意見に加え、政治家は政治家になったこと自体を選挙民に感謝すべきであり、叙勲の対象から除外すべきと主張し続けてきました。今回の改正では「最初から特定の人々を対象外とすることはできない」とする意見が多く、見送られてしまいました。
制度として政治家を対象外にすることは実現できませんでした。けれども実際に叙勲を受けるかどうかの判断は政治家自身に委ねられているわけですから、私たちとしては辞退したいと思っています。
褒章については年齢にとらわれずに選考する姿勢が強調されています。今までほとんど受章者がいなかった「緑綬褒章」をボランティア活動などで実績のある個人らに授与したり「紅綬褒章」の授与要件を緩和して、人命救助に尽くした人に幅広く授与することなども盛り込まれました。「紫綬褒章」については年齢制限を撤廃するとしています。
選考方法についても地方自治体による候補者選考の際に一般からも推薦できる仕組みを導入するなど本当に対象としたい人が選ばれるよう具体的な検討を進めたいと思っています。
官尊民卑の代名詞のように受けとめられている叙勲制度を、国民から支持される栄典制度に大改革することは大変な労作業となります。今回の改革ではまだ十分といえない点も多くありますが、大改革への1歩になったことは確かだと思っています。
2002年7月31日
第154回国会が本日終了しました。この国会の思い出はいろいろありますが、私にとって特に印象に残るのは日本郵政公社法、信書便法など郵政関係4法案が成立したことです。総務副大臣在任中から議論してきたものだけに感慨深いものがあります。
郵便事業開設の発案者は前島 密(まえじまひそか)氏です。開国を迫られた江戸末期、氏は長崎で英語の勉強中、米国の郵便制度を知るのです。切手を張り、ポストに投函すれば全国どこへでも届く。合理的な制度です。それに比べて日本では、明治になっても情報の往来は飛脚でした。多額のお金が必要で一部の人達しか利用できませんでした。
渡英し、郵便や貯金事業を学んだ氏は郵便制度の導入を建議します。1871年(明治4年)郵便制度はスタートします。政府が当初、創設した郵便局は東京などわずか3ヶ所でしたが、1872年(明治5年)には北海道の一部を除いて全国に郵便局が開設されたのです。
わずか1年で全国展開されたのは、地域の素封家が自らの資産を提供して政府の事業に協力し、郵便の取扱所を開設したことによります。民衆が作り上げた郵便制度といえるでしょう。さらに郵便為替、郵便貯金、簡易保険制度が加わり、国民に愛され信頼されるネットワークが広がっていったのです。
今回の改革は130年ぶりの大改革といえるでしょう。一つは経営主体を国ではなく日本郵政公社にしました。自立的弾力的にできるだけ民間に近い形で経営し、いいサービスを効率的に提供できるようにしたのです。もう一つは信書の国家独占を排して、民間にも全面参入できる道を開いたことです。
ユニバーサルサービスという基礎はしっかり確保しながら、より質のよい、安いサービスを公社と民間の信書便事業者が互いに競い合う。そこにこそこの法案成立の意味があると私は思っています。そうでなければ国民のための改革とはいえないでしょう。
2002年7月24日
官製談合防止法案が本日、参議院本会議で可決し、成立しました。法案の提出者として衆議院、参議院で答弁に立ってきただけに喜びもひとしおです。
近年、国、地方公共団体等の職員が入札談合等に関与している事例(いわゆる官製談合)が発生しています。ところが公正取引委員会には、これに有効に対処する法律上の権限がありませんでした。一方で発注者である各省大臣や都道府県知事等においても入札談合の探知や調査が必ずしも十分に行われていない状況にありました。
公明党では、こうした状況は放置できないと考え、まず与党3党が協議するためのたたき台を作りました。与党3党ではこれをもとに検討を進め、一年余りの歳月をかけて作り上げたのが官製談合防止法案なのです。
この法案では入札談合等関与行為は以下の3類型としています。(1)談合の明示的な指示(2)受注者に関する意向の表明(3)発注に係る秘密情報の漏洩です。政省令に委ねるのではなく法律で明文化したのが特色です。
こうした入札談合等関与行為があった場合、公正取引委員会は各省各庁の長や地方公共団体の長、または、国もしくは地方公共団体が資本金の2分の1以上を出資している法人の代表者に必要な措置を要求できることとしています。
また要求を受けた各省各庁の長等は調査を実施し、必要な措置をとり、調査結果を公表しなければならないとしています。
さらに各省各庁の長等は当該行為を行った職員に対して損害賠償請求や懲戒事由の調査をしなければならないことも定められています。
このほか、入札談合等関与行為の防止に向けた関係行政機関相互の連携や協力についても定めています。地方公共団体等が自主的な努力をすることへの配慮についても規定しています。
この国会ではすでに「あっせん利得処罰法改正案」が成立しています。これは処罰対象に国会議員の私設秘書を加えるものですが、今回の官製談合防止法案の成立とともに国民の政治不信を解消するきっかけになってほしいと念願しています。両法案が利権の絡む口利きや談合を一掃する大きな力となることを期待しています。
2002年7月16日
東南海・南海地震特別措置法案が本日、衆議院本会議を全会一致で通過し、参議院に送付されました。今国会で成立することは間違いないでしょう。法案は災害対策特別委員長提案の形となりましたが、もともとの法案は与党3党が提出したものであり、法案提出者の一人として喜びにたえません。
東南海・南海地震とは遠州灘西部から熊野灘及び紀伊半島の南側の海域を経て土佐湾までの地域並びにその周辺の地域における地殻の境界を震源とする大規模な地震をいいます。この地震は高い確率で発生すると科学的な評価がなされています。
今世紀前半にも地震や津波による莫大な被害が広い地域で発生する恐れがあります。したがって事前の対策を着実に進めておく事が必要なのです。
法案の主な内容は
1、内閣総理大臣は東南海・南海地震防災対策推進地域を指定する。
2、中央防災会議は防災対策推進基本計画を作る。地方自治体等は基本計画に基づいた 防災計画をつくる。
3、推進地域の病院、劇場、百貨店等、不特定多数の者が出入りする施設はあらかじめ津波からの円滑な避難の確保などを定めた対策計画を知事に届け出る。
4、国及び地方公共団体は推進地域において避難地、避難路、消防用施設などの整備に努める。
5、国は観測及び測量のための施設を整備するとともに、必要な財政上、金融上の配慮をする。
というものです。
東海沖、紀伊半島沖、四国沖を走る南海トラフに沿って、フィリピン海プレートはユーラシアプレートの下に沈み込んでいます。沈み込むとき普段はユーラシアプレートも一緒に引きずり込むのですが、限界を超えると、はね返ってしまうのです。これが巨大地震発生の原因とされています。
巨大地震のうち最新のものは1944年の東南海地震と1946年の南海地震です。684年白鳳の地震以来11回の巨大地震の発生が歴史に残されています。
そこで問題は次の巨大地震が発生するのはいつかという事です。研究者の発表では前の地震から70年後と言いますから2020年以前という事になります。しかもいつ起きても不思議ではないという事ですからいよいよ大変です。“備えあれば憂いなし”とはまさにこういう時のためにある言葉でしょう。
2002年7月11日
駐日インド大使に続いて駐日パキスタン大使と意見交換をしました。トキール・フセイン大使は本音で議論したいと用意された原稿を使わず率直で明確な話をされました。
私はインドとの間で緊張状態が続くカシミール問題の解決策をお聞きしました。カシミール問題は1947年インド・パキスタン分離独立の時、住民の20%に過ぎなかったヒンドゥー教徒の藩王ハリ・シングがインドへの帰属を表明したことに起因します。過去3回のインド・パキスタン戦争のうち2回がカシミール帰属問題をめぐって起きているのです。
現在に至るまで50数年間続いてきたカシミール問題がインド・パキスタン両国を政治的にも経済的にも消耗させています。何にもまして犠牲になっているのはカシミールの住民です。したがってこの問題はなんとしても決着させなければなりません。そんな気持ちで私は大使にたずねたのです。
大使はこたえました。「国連決議(1949年)が求めている住民投票により、独立の意思が確認されれば、東ティモールのように独立国になっても問題ない」まことに明確でした。
巷間、カシミール問題の解決策としてあげられている選択肢にはない回答でした。私は「一つの解決策として東ティモールのように独立国になる可能性はありますか」とやや、控えめにお聞きしただけに真正面からの回答に少々びっくりしました。
通常カシミール問題の解決策としてあげられている選択肢には次のようなものがあります。1)国連決議に基づいてカシミールで住民投票を行うーパキスタンが要求、インドは絶対拒否。もし、住民投票を行えば、パキスタンへの帰属が決定するからです。2)カシミールを独立させるーインド・パキスタン共に反対、主要国も支持していない。3)インド領、中国領、パキスタン領になっている各地域ごとに住民投票を行い、インドに加わるか、パキスタンに加わるかを住民が決定するーパキスタンは受諾可能、インドは絶対反対。その他、国連の信託統冶下におくーインド・パキスタンともに反対。などです。
大使との短い意見交換でしたが、通常言われていることを鵜呑みにしてはいけない。やはり直接聞いてみなければ本当のことは解らないと思いました。カシミール問題が武力でなくて話し合いで解決されることを祈りつつ大使と固い握手を交わしました。
2002年7月8日
全国の先駆を切って高知県で党夏季議員研修会が開催されました。私も白浜一良幹事長代理、福本潤一参議院議員らとともに出席しました。高知県では8月に統一外地方選挙が集中しています。越知町、芸西村、土佐山田町、土佐清水市、安芸市の順に選挙があるのです。公明党の予定候補はあわせて7人ですが新人が3人、そのうち2人は女性です。
研修会は予定候補の紹介から始まりました。候補者の皆さんがはつらつと抱負を語りました。会場からも暖かい拍手が寄せられました。8月の“高知決戦”に大勝利しよう!!来年の統一選挙の前哨戦を断呼勝ちとろう!!戸外はしのつくような豪雨となりましたが、場内は熱い熱気につつまれました。
3人の議員による活動報告も好評でした。なかでも室戸市の女性議員はパソコンを議会活動にフルに活用した体験を語り、注目を集めました。資料集めから、困ったときの相談までバソコン一つでできる。こんなに便利な宝箱はありません。と語る表情は自信にあふれていました。
活動報告につづいて、党本部職員によるパソコン研修会が開かれました。パソコンは距離の壁をなくす。時間の壁をなくす。誰れでもどこでも世界中の人と情報を共有できる。世界中に発信することもできる。公明党は全議員がホームページを開設しようと呼びかけています。高知県でもそんな息吹きにあふれたバソコン研修会となりました。
午後は国政の重要法案や循環型社会基本法、医療と健康保険法について学習しました。国会議員と地方議員の皆さんが国のあり方や地方のあり方をめぐって丁々発止と議論を交わす場面もありました。どの人も真剣に真面目に政治のあり方を考えている公明党らしい研修会になったと思います。研修会を終え、帰途につくと雨の止んだ空に虹が出ました。
・夕の虹土佐の豪雨をしめくくる(和良)
2002年6月28日
日露友好議員連盟の訪露団(団長は三塚博会長)の一員としてモスクワに行ってきました。
4泊5日の短い日程でしたが、イワノフ外相.セレズニヨフ国家院議長はじめぺフチン「統一」代表ら各党代表とひざを交えて意見交換してきました。
ザドルノフ露日友好議連会長ら日露関係に関心を持つ国会議員30数人とも日本食を食べながらじっくり懇談でき、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。
イワノフ外相との会見で私は二つのことをお聞きしました。第1点は年内に小泉首相の訪露は実現するか。第2点は来年中のロシアのWTO加盟は間違いないか。の二つです。
ともに日本の国民にとっても関心のあることですから、国民を代表する立場でこの国の責任者に直接たずねてみました。
小泉首相訪露の問題はカナダのカナナスキス・サミットで行われる小泉・プーチン会議での議題となるでしょう。両国の首脳会議は重要であり、入念な準備をしたい。と実務者らしい回答でした。
ロシアのWTO加盟については、時期よりも条件を重視しています。WTOに入ること自体は疑う余地もありません。できれば来年中に入りたいと希望していますが、条件次第です。経済の利益を不当に害する条件には賛成できません。具体的な話し合いを詰めたい。
とこの点では相当に準備が進んでいる印象でした。
シャバノフ国際問題委員会副委員長との意見交換会で私はロシアにおける核兵器の削減や解体処理の実態についてお聞きしました。
回答はロシアではアメリカとの交渉の結果、保有する核兵器と核を搭載できる兵器の3分の2を削減することになりました。しかし、具体的な解体処理の作業については議定書に書かれていないし、国際的なワク組みもありません。それが実情です。というものでした。
核廃絶についても理論的にはそれが一番正しい。世界中がそのようになることを期待しています。との発言もあり、印象に残りました。
ロシア滞在中、若い日本人女性がピアノ部門で一位に。バイオリン部門でも一位のいない二位に輝いたチャイコフスキー国際コンクールの表彰式が行われました。プーチン大統領もお祝いに駆けつけモスクワっ子とともに暖かい拍手を送っていました。ロシアも確実に変わりつつあります。そんなことを実感した今回の訪露でした。
2002年6月17日
中部徳島県人会総会に出席しました。現在、徳島と名古屋は中日本エアラインで結ばれています。一日に2往復あり、日帰りできるのは大変ありがたかったです。私は開会の30分程前に到着したのですが会場となった新幹線名古屋駅前のホテルはすでに懐かしい方々で一杯でした。
最初に声をかけて下さったのが中部県人会会長の米田展之さん。小柄ですが、精力的に動き回っておられて席の暖まる暇もありません。出席された方々全員に挨拶されているようです。「米田会長は本当によく頑張っていただいています」「いつも心から感謝しています」参加者からこんな声をたくさん聞きました。
私はすっかりうれしくなりました。実は米田さんは私の小学校・中学校の2年後輩なんです。いつも元旦に家族そろって帰省され毎年のようにお会いしていました。ふるさとのことをいつも心から大切にされる方でした。
10年ほど前、私は夜遅く米田さんから電話をいただいたことがあります。「回りの人達から選挙に出るよう勧められています。・・・・」話し合っているうちに自ら決意され「頑張ります」とさわやかに語られたことを今も鮮やかに思い出します。
米田さんは東京大学経済学部を卒業したあと、トヨタ自動車に勤務していました。将来は間違いなく役員に登用される方だったと思います。その人生を自らの意思で変更され、現在は公明党の愛知県議会議員として県民のために尽くされているのです。
中部は昔から白いキャンパスといわれてきました。東京や大阪に比べると自由自在に未来が描ける余地があるという意味だったと思います。その中部に今、愛知万博や中部国際空港という大きな夢が描かれています。しかし、現実には長引く不況のなか、どう明日への希望を見出していくか、まず足下から勝利していかなくてはなりません。
県人会につどわれた皆様が米田会長を中心に一層頑張って、ふるさと徳島に元気の出るメッセージを届けて下さることを祈りながら、私は帰途につきました。
2002年6月10日
駐日インド大使のアフターブ・セット氏と核の問題について意見交換しました。大使は1943年生まれで私と同じ歳です。慶応大学に留学したこともあり流暢な日本語を駆使しながら日本政府の要人や文化人との交流に活躍されています。詩人としての顔も持ち詩集も発表されています。
私達公明党との意見交換会でも最初は日本語で釈迦やタゴールやマハトマ・ガンジーの話をされ、日本の岡倉天心や横山大観などとの交流についても語られました。日本に対する深い知識と愛情が感じられました。
私は少しぶしつけと思いましたが思い切って聞きました。現在のインドは核保有国です。これはガンジーの無抵抗主義やパール判事の思想からは考えられません。なぜ核を持つのか。核に対する政策を聞かせて欲しい。
インドは本当は持ちたくなかった。けれども周りの国が核保有国となってしまった。しかもインドには核の傘が無い。だからいやいやながらも持たざるを得なかったのです。インドはどんなことがあっても先に核を使うことはありません。究極的には日本と同じように核廃絶を願っています。
大使の言葉は明快でした。日本政府の中に核兵器を(持たず、作らず、持ち込ませず)との「非核3原則」について見直すかのごとき発言をしたとの報道がありましたがとんでもないことです。「非核3原則」は国是であり、唯一の被爆国である日本は「非核3原則」を将来にわたって堅持しなければなりません。
『象は痩せても象である』大使の近著です。『象』とは『日本』のことです。もともと巨大で強い力を持つ象は少々痩せたところでいささかもたじろぐ必要はないと大使は激励してくれています。私は核の抑止力というものがこの地球上で意味のないものとなるよう祈りながら、この本を読みました。
2002年5月31日
世界連邦日本国会委員会総会でドイツ文学翻訳家である池田香代子さんの講演を聞きました。池田さんは「グリム童話」や「ソフィーの世界」の翻訳で有名ですが、最近は世界中を感動で包んだインターネットの民話を「世界がもし100人の村だったら」という絵本にまとめて出版し話題を呼んでいます。
村に住む人びとの100人のうち20人は栄養が充分ではなく1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。すべての富のうち6人が59%をもっていてみんなアメリカ合衆国の人です、74人が39%を、20人がたったの2%を分けあっています。
すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い80人が20%を分けあっています。
75人は食べ物の蓄えがあり雨露をしのぐところがあります。でもあとの25人はそうではありません。17人はきれいで安全な水を飲めません。
もしもあなたが嫌がらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従って何かをし、ものが言えるのならそうではない48人より恵まれています。
絵本ではこのように世界の姿が次々に語られていきます。そして最後にこう締めくくっているのです。
もしもたくさんのわたしたちがこの村を愛することを知ったならまだ間に合います。人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救えます。きっと。
池田さんの絵本は今、各国の言語に翻訳され出版されています。池田さんはその印税を世界中の貧しい子供たちや難民となった方々に送られているそうです。私も政府が難民受け入れの在り方を再検討するよう働きかけていきたいと決意しました。
2002年5月22日
火山噴火のため全島民が離島して1年8ヶ月になる三宅島に行ってきました。自衛隊の大型ヘリで東京から1時間の距離ですが、そこは人を寄せ付けようとしない厳しい世界となっていました。
特に空港近辺は有毒ガスによる被害が大きく死の世界を見るようでした。森林は枯れ家屋は火山灰に埋まり屋根はボロボロに腐っていました。自動車も多くがもう使い物にはならないでしょう。
島を一周したのですが有毒ガスの被害を受けていないと思われる森林もありました。風向きが生の世界と死の世界を作っているのかもしれません。
火山の中腹にある村営牧場にも参りました。牛が放牧されていたという牧草地は厚い火山灰に埋まり草一本生えていませんでした。噴火のとき逃げ遅れたのでしょうか三頭の牛の遺骸が今もそのまま残っていました。
視察の後、私たちは衆議院災害対策特別委員会で、三宅島噴火災害に関する件について決議をしました。私たち特別委員会のメンバーは島民の皆様が一日も早く帰島できるよう火山活動が鎮まることを祈っています。とともに全島民が未来に勇気と希望を持ち安心して暮らせるよう全力で支援させていただきたいと決意しています。
2002年5月8日
この春、私は二つの美術館に行きました。東京富士美術館と信州・塩田平の無言館です。東京富士美術館では「フリードル先生とテレジンの子どもたち」を見ました。
ナチスの強制収容所で一人の女性教師が子どもたちの心に明るい希望の火を灯したのです。どの作品も死に直面した子どもたちが描いたとは思えません。無邪気で夢と想像力にあふれたものばかりでした。
国際連盟の視察団が来たとき、子どもたちは模範的な収容所であることを演出するため笑顔一杯で演技します。けれども視察団が帰った翌日、子どもたちはフリードル先生とともにアウシュビッツに送られ二度と帰ってこないのです。
無言館では戦没画学生の遺作が展示されていました。出征の前日まで一刻を惜しんで筆をとり恋人を描き続けた若者もいます。「ばあやんわしもいつか戦争にゆかねばならん。そしたらこうしてばあやんの絵も描けなくなる」とつぶやきながら筆を走らせた若者もいます。
作品を残した若者たちは出征したまま一人も帰ってきません。二つの美術館で見たもの。それは戦争の非情と残酷さであり、絶望のなかでも失わなかった人間の生命の美しさでした。
2002年4月26日
ロマーノ・プロディ欧州委員会委員長の国会演説を私も聞きました。EUが共通通貨ユーロの導入という歴史的な試みに挑戦し、欧州に一大資本市場を創設する道を開きつつあることは歓迎すべきことです。委員長の演説は自信にあふれたものでしたが特に印象に残るところが二点ありました。
第一点は中東での暴力の再発に対して軍事的行動は恒久的解決につながらない。皆に正義がもたらされることなくして平和が訪れることはありえないと断言されたこと。
第二点は現在の日本は深刻な経済的困難を経験しているが、必ずやその困難を克服されるでしょう。安直な悲観論の罠に陥ってはなりません。日本は自己を信頼し、その将来に自信を持つべきですと話されたことです。
日本とEUは合わせると世界の総生産の半分近くを占めるパートナーです。今後は経済的な交流ばかりでなく『人と人』の交流も大切にしたい。委員長は留学生の交換や大学間の協力を提案されたが、私も同感です。未来を担う人たちの心の交流こそ友好の土台となることは間違いありません。
2002年4月17日
最近の中国の発展はめざましい。日本への輸出品目を見ても従来は、繊維製品が中心でしたが、近年は、事務用機器、通信機器、電気機器なども急増。さながら世界の工場になった観さえします。
このまま推移すると技術的な付加価値が高く、わが国が得意としている製品すら競争優位を失いかねないでしょう。これがいわゆる中国脅威論であり、私達の周辺でもよく聞きます。消費者物価を引き下げ、デフレの主犯と指摘する声さえあります。
こうした日本の世論を気にしてか、小泉総理は海南島でのアジアフォーラムで中国脅威論に組みしないことを明言しました。つまり、日中経済関係は「脅威」でなく「挑戦」する「好機」に。「対立」ではなく「相互補完」を。そして日本の産業の「空洞化」でなく「高度化」を。と訴えたのです。私もこれに同感です。
中国もまた、WTOに加盟したのですから、国際的経済ルールのもとで成熟した日中関係を築く努力をするものと期待します。
2002年4月5日
春の甲子園にさわやかな旋風を吹かせた徳島県の鳴門工業高校。きょうの決勝戦で報徳学園(兵庫)に敗れはしたものの、健闘をたたえる声は今も巷に満ちています。
鳴門工業高校は昭和38年4月、学校創立と同時に野球部を創立。甲子園出場は春2回夏2回と4回を数えていますが、野球王国・四国の常連校から見ると、ほとんどノーマークの出場校だったといえるでしょう。
それが酒田南(山形)に7対5。大体大浪商(大阪)に3対2。広島商(広島)に19対1。関西(岡山)に3対1。と勝ち進み、あれよあれよという間に決勝戦に進みました。
私も広島商との戦いをテレビで見ましたが、甲子園で連覇したときの池田高校を彷彿とさせるような痛快この上ない試合運びでした。無欲の勝利というのでしょうか。高校生らしいはつらつとしたプレーが印象に残りました。
勝因はいろいろ考えられますが、何といっても四国一と自慢する練習量でしょう。暗いニュースの多い世の中にさわやかな感動を送ってくれた球児に感謝するとともに、感動の源はやはり地道な日ごろの努力の積み重ねにあることを改めて知りました。
2002年3月26日
『永年在職議員』の特典制度が、一部を除いて4月1日から廃止されることになりました。国会議員歳費法改正案など関連法案が議員立法の形で今日26日衆院本会議に提出され、全会一致で可決されたのです。参院でも今週中に可決、成立する運びです。
廃止されるのは在職25年以上では、特別交通費(月額30万円)と肖像画作製費(100万円)の支給など。在職50年以上では、終身支給の憲政功労年金(年間500万円)。削減額は特別交通費だけで、衆参合わせて年間約1億8000万円。憲政功労年金は2003年からの廃止となります。
また、議員歳費の月額1割(年間165万円)削減も正式に決定しました。衆参両院であわせて年間17億1000万円もの削減となります。
デフレ不況に苦しむ国民の目線から見て当然のことであり、拍手を送りたいと思います。
2002年3月2日
四国横断自動車道・鳴門ー板野間(10・5キロ)の今夏開通を記念して、記念植樹が行われました。工事によって失われた自然を回復しようと1万本の苗木を植えたのです。私も地元の小中学生と一緒に参加しました。高速道路南側の斜面に、シイの木、ヤマモモなど20種類の苗木を植えつけました。
エコロジーの森を創る会名誉会長の三木睦子さんも参加されました。私のとなりで植樹されましたが84歳とはとても思えないお元気なお姿に感動しました。子供に帰って土いじりを楽しまれている様子でした。「おげんきですね」と声をかけると「このとうりよ」と立ったままの姿勢で手を足元までつけられる体の柔らかさにはびっくりしました。
鳴門市長の亀井俊明さんの話では、この日植えた苗木は地元に自生している木から実をとり、育てたもので、準備にも時間をかけているとのことでした。植樹の指導をされたエコロジーの森を創る会会長の森本康滋さんによると、もともと生えていた木を植えることによって人が壊してしまった自然が本来の姿に戻っていくのだそうです。
古来、文明は水と緑の森に覆われた肥沃な土地に栄えました。ところが、人々が多く住み着き便利な生活を楽しむようになると森は開拓され、利用され、ついには姿を消すに至ったのです。今は砂漠になってしまったところもあります。
もう一度、ふるさとの森を創ろうと立ち上がった人々に私は心から感謝したい。子供たちは教室の中の授業より面白かったと喜んでいました。一緒に参加したボランティアの方々もいい汗が流せたとうれしそうでした。私も久しぶりに心の底から、さわやかな充実感を味わいました。皆さん本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした
2002年2月19日
ブッシュ米国大統領の国会演説を私も聞きました。米国の現職大統領が国会で演説したのは1983年11月のレーガン大統領、1996年4月のクリントン大統領以来3人目でしたが、今回は特に関心を呼び、演説会場となった参議院本会議場は立見席も出るほどの盛況でした。
大統領は、停滞する日本経済の再生について、米国が70年代後半から80年代前半にかけて経済問題を克服した前例を示しながら「大胆な改革と大規模な競争原理の導入により、日本の繁栄と経済成長の新たな゙維新〟が始まった」と小泉首相の構造改革を支持しました。
また「日本は最も競争力の高い企業と世界の中で最も教育水準が高くやる気のある労働者を持っている」とも語り、日本の将来に明るい期待を寄せました。
テロとの戦いについては、文明とテロは並存しないと語り、テロを打ち負かすことによって、我々は世界平和を守る。ミサイルや大量破壊兵器の拡散が人類を脅かさない世界の構築が必要であることを強調しました。
大統領は結びの言葉で日本は最良の友人と政府を持っていると日米関係の重要性を語り、約30分の演説を終えました。
静かな口調でありましたが、自分の言葉で話す演説には説得力があり、新渡戸稲造や福沢諭吉の言葉を引用するなど日本への配慮も散りばめた格調高いスピーチだったと言えるでしょう。
2002年2月12日
政府・与党はサラリーマンらの医療費自己負担率を2003年4月1日から現行の2割を3割に引き上げることを決定しました。とともに政管健保の保険料率を年収ベースで8.2%(現行7.5%)とし、窓口での薬剤費一部負担を廃止することでも合意しました。
小泉首相が自民党内の根強い慎重論を一歩も引かずに押し切る形で決着したといえるでしょう。
私がここで注目したいのは、2002年度中に、保険者の統合・再編を含む医療保険制度の在り方、新高齢者医療制度の創設、診療報酬体系の見直し、など医療保険制度の抜本改革に対する基本方針の策定を関連法案の付則に盛り込むことを決定したことです。
私はつねづねサラリーマンの自己負担率を3割に引き上げる問題は医療保険制度全体の抜本改革と一体のものでなければならないと主張し続けてきました。
すでに自営業者らの加入する国民健康保険は3割自己負担ですからサラリーマンらの被用者保険も3割とし、すべての健康保険の自己負担率を一元化する。しかしそれは医療保険制度の一元化と一体のものでなければ意味がないというものです。
このことを昨年は政府・与党社会保障制度改革協議会のワーキングチームでも何度も発言し続けてきました。法案の付則とはいえ、このことが明記される意義は大きいと思います。政府は一日も早く、全国民が納得する医療保険制度改革の全体像を示すべきです。
国民に痛みを押しつけるだけでなく政府自ら悩み、戦い、この国の医療保険を持続可能なものとする抜本改革案をこの1年間で描き出すことを明記した法案の付則であると私は理解します。
2002年2月8日
衆議院では永年勤続議員への特典が四月から廃止されることになりました。つまり勤続25年以上の議員に対する特別交通費(月額30万円支給)と肖像画作製費(100万円支給)、勤続50年以上の議員に対する憲政功労年金(年間500万円支給)と胸像製作を四月から廃止することとし、速やかに法改正などの手続きに着手することになったのです。
公明党では庶民感覚からかけ離れ、時代にそぐわない特権は廃止すべきと主張し続けてきましたが、現下の経済状況を考えても議員が率先してムダな経費を削減するのは当然なことと思います。
2002年2月5日
武部農水大臣に対する不信任案決議案は否決されました。けれどもこれで一件落着したわけでは決してありません。
政府はこの際、BSEの発生を許した責任や危機意識の欠如、初期段階での不手際について猛省すべきです。
そしてBSE発生の原因究明や国産牛偽装事件の真相究明・再発防止に全力を挙げ、食品行政に対する国民の不信感を払拭すべきです。小泉総理自ら全力で取り組む事を強く期待したい。