2010年

2010年11月26日


 日本とポルトガルの間に修好条約が結ばれて今年で150年になります。それを記念するツアーに参加してきました。


 ポルトガルの船乗りが種子島に来て火縄銃を伝えたことはよく知られていますが、このことによって日本の戦国時代が早く終わり、織田信長の日本統一が加速度的に進んだとの説もあります。

 歴史をどう見るかは評価の分かれるところですが日本人が最初に出会った西洋人はポルトガル人だったことは確かであり、カステラや天麩羅を教えてもらったこともよく伝えられています。

 徳島県人の私にとってはポルトガルは「モラエス」の生まれた国として特別の親しさを感じます。リスボンに生まれたモラエスは海軍軍人として来日し、神戸でポルトガルの総領事を務めますが、晩年は亡き妻の菩提を祈りつつ徳島で生涯を閉じます。

 ツアーには徳島から6人が参加しました。皆さん徳島日本ポルトガル協会の方々でモラエスに関心があり、リスボンでは道に迷いながらもモラエスの生家を探し出し、感銘を深くしました。

 四宮信隆特命全権大使ご夫妻からは在ポルトガル日本国大使館でディナーを御馳走になりました。四宮大使は着任早々にも関わらず、温かく歓迎をしてくださり、一行は大感激しました。

 今回のツアーではリスボンをはじめ、中世の城壁の町・オピドスや大西洋に面した漁村であり、夏はポルトガル最大の避暑地になるナザレにもまいりました。

 大学都市・コインブラでは有名なファドを聴くこともできました。孤愁と訳される「サウダーデ」がポルトガル人の心といわれますが、ファドを聴いて少しはわかったような気持ちになりました。

 最後の訪問地となったポルトではジャパンウイークのオープンセレモニーに参加しました。種子島から里帰りした火縄銃がまず口火を切り、岡山や、米沢など各地の火縄銃保存団体の方々が自慢の火縄銃を次々に披露しました。

 ポルト市の市庁舎では市長主催の歓迎宴が行われ、これにも参加しました。日本各地から各種の団体が参加されており、日本とポルトガルの友好が幅広く広がっていることに嬉しくなりました。

 会場では日本側代表の国際親善協会会長・愛知和男氏にお会いしました。愛知さんとはともに衆議院議員として同じ屋根の下で過ごしてきましたが、これからはお互いに健康に留意しつつ民間人として国際親善に尽くしていきましょうと誓い合いました。

2010年10月25日


 上海万博の入場者が予定された7000万人を超えたようです。10月31日の最終日までには何人になるのでしょうか。すでに大阪万博をはるかに超えていますから、史上最高の人出になることは間違いありません。


 私も10月22日に行ってきました。この日一日で90万人の入場者があったとあとで聞きましたが、確かにどこの駐車場も中国全土から駆けつけた団体の大型バスで満杯になっていました。

 東京駅周辺から品川駅周辺までといわれるほど広い会場ですが、どこに行っても人、人、人でした。私たちは朝一番に日本産業館へ行きましたがここでも2時間ほど待ちました。

 そのあとオーストラリア館に行ったのですが、入口は長蛇の列です。入場できるまで3時間はかかりそうなのでギブアップして昼食のレストランを探しました。

 レストランもどこも満席です。それでも根気よく歩いてガイドさんに紹介していただいた四川料理の有名レストランを探し当てました。

 そのレストランはルーマニア館の前にあったのですが、ガイドさんが教えてくれたように比較的静かな地域にあり、席も空いていてゆっくりと食事ができました。

 料理もおいしく快適でした。しかもも飲み物も含めて4人で600元。この値段は中国では高いためお客が少ないとのことでした。

 600元は日本円では9000円ほどですから一人2250円ということになります。料理の豪華さといい、味といい日本ではとてもこんな値段ではいただけない四川料理でした。

 食事の後、待ち時間の少なそうなアルジェリア館に入りました。アルジェリアは地中海に面したアフリカの国ですが、古代ローマの時代から栄えた地域で今も沢山の遺跡が残っています。

 古い街並みを再現した石造りの街の石畳を歩くと本当にアルジェリアにいるような気分になりました。

 ところで万博の会場内では地下鉄とフェリーが無料で利用できます。私たちは両方利用してみました。どちらも大勢の人が乗り合わせていましたが、どの人もマナーが良く快適でした。

 私が最初に上海に行ったのはもう30年も前になります。そのころは空港の周りは田圃ばかりでした。10年ほど前に行った時も市内にはまだ古い住宅がせめぎ合うように立ち並んでいました。

 今回の旅行で私は中国の急速な発展ぶりを目の当たりにしました。それだけに昔の中国人の質素だけれど暖かな人情が人一倍恋しくなりました。

2010年10月13日


 徳島城のある徳島中央公園で今年も小屋掛け舞台による人形浄瑠璃の公演が行われました。10月9日はあいにくの雨で公演が中止されましたが10日、11日の両日は晴れ渡った秋空の下で徳島の伝統芸術を多くの人が楽しみました。


 私も10日の午後、2時間ほど鑑賞させていただきました。舞台の幕間にはオカリナの演奏もありました。小屋掛け舞台の前に並べられた木造りの観客席で聞くオカリナの澄んだ音色は心を和ませてくれました。

 小学生の演じる人形浄瑠璃もありました。低学年と高学年の二つのグループがそれぞれ自分たちで創作した人形浄瑠璃を見事に演じ切りました。

 若い人たちが伝統芸能を継承してくれるのは嬉しいことです。指導に当たってくださった先生やボランティアの方々のお陰だと思いました。それにもまして小学生たちの喜びの表情がさわやかだったことが印象に残りました。

 人形浄瑠璃のクライマックスは何と言っても「傾城阿波の鳴門」。情感あふれる太夫の語りと三味線、細やかな人形遣いが1000人の観客を魅了しました。

 丸太とむしろで作った「小屋掛け」と呼ばれる仮設小屋は江戸中期から明治にかけて収穫後の田んぼなどに設けられ、地方巡業に来た大阪や淡路の一座が公演し、多くの人が芝居や人形浄瑠璃を楽しんだと伝えられています。

 このように古くから徳島県に伝わるものですが太平洋戦争の後は衰退し、徳島市では1971年を最後に途絶えていました。

 2003年10月。「話に聞く小屋掛けを作ってみたい」と徳島市に住む建築士が中心となって復活を計画。釘を使わず、丸太で骨組みを作り、むしろなどで屋根をふいて昔の姿を再現しました。約30年ぶりに「小屋掛け」が復活したのです。

 以来、毎年人形浄瑠璃の公演が行われてきました。今では「阿波人形浄瑠璃芝居」として秋の恒例行事になっているのです。

 郷土芸能がこうした形で復元され、継承されていくことは嬉しいことです。阿波踊りだけではない徳島の再発見は徳島の良さを改めて私たちに教えてくれます。

2010年9月23日


 昨22日は「中秋の名月」でした。この日、私は徳島県で活躍するNPO法人「蜂須賀桜と武家屋敷の会」の皆様とご一緒に「岳人の森」にある「観月茶屋」で月を見てきました。


 徳島市内から貸し切りバスで1時間50分ほどかかりました。鮎喰川沿いの道を神山町上分まで上り、土須峠の手前にある「観月茶屋」を目指します。対向車があると冷や冷やするほどの狭く暗い山道でした。

 海抜千メートルの「観月茶屋」は家族で経営するレストランです。京都や飛騨の高山で和食の修行をしてきた息子さんがここのシェフです。最近は徳島の食材を使った薬膳料理が人気を呼んでいます。

 さあ月を眺めようと空を見上げるとあいにく厚い雲が立ち込めています。そのうち雨まで降ってきました。料理はおいしいのですが、月が見えないのは残念でした。

 ところが食事が終った頃、空を眺めていると大きな虹が出ているではありませんか。その虹を眺めていると何と雲が少しずつ収まっていくのです。これにはびっくりしました。

 すっかり晴れ渡った空には月が煌々と輝いています。海抜千メートルの山から見る「中秋の名月」は心が清められるほど美しいものでした。

 「上の広場に観月の用意がしてあります」と自家用車でピストン輸送していただいた私たちを待っていたのは大きな焚火を中心にした丸いテーブルでした。

 総勢30人。徳島県外からの参加者もありましたが、月を眺めながら焚火を囲んでの談笑は時間の経つのも忘れるほど楽しいものでした。

 誰かが歌い出すと自然に合唱になり、輪唱の指揮をとる方もありました。誰もが幼い日に帰ったかのような若々しい気分になっています。

 雲一つない空に月が輝いていた時間は、1時間ほどでした。帰路に着くころには全く見えなくなりました。本当に幸運な「観月会」でした。

・月今宵「観月茶屋」を借り上げて
・虹の出て雲も収まり今日の月
・月今宵秋刀魚の鮨の峰の茶屋
・名月の空ひろびろと峰の茶屋
・名月や何故か幼い日の話
・友と友肩組み歌ひ今日の月
・輪唱の声澄み渡り今日の月(和良)

 

2010年8月25日


 政府が公表した本年4月から6月いわゆる第1四半期の日本の国内総生産(GDP)は中国のそれに及びませんでした。

 このまま推移すれば日本が41年間守り続けてきた「世界第2の経済大国」の看板を中国に譲ることは間違いないでしょう。

 この20年を振り返ってみても中国が着実に経済大国化の道を歩んできたのに対して、日本はバブル崩壊後の経済状況に対して有効な打開策を打てず、公的債務をGDPの倍近くまで膨らませてしまいました。

 失われた20年の根本原因は何でしょうか。さまざまな要因が考えられますが、最大のものは、我が国の政治家や官僚を中心とした国家の指導者がグランドデザインなしに対処療法を続けてきたことではないでしょうか。

 外交にも内政にも確たるグランドデザインがありません。本来、国政選挙は各党が描くグランドデザインを競うものですが、そうなっていなかったのは誠に残念でした。

 予算の裏付けのない選挙目当てのマニフェストを出して当選すれば実現できない理由をあれこれ語り、責任を転嫁する政党。その無責任な政党を支持し後で後悔する国民。そんな愚かな選挙をこれ以上繰り返してはなりません。

 世界中から、現在の日本は「沈みゆく国」といわれています。この現状をどう打開してゆくか政治家は党内の対立や政党間の対立にうつつを抜かしている時間などないはずです。

 24日の金融市場は、政府と日銀が円高阻止などの具体策を出せないことに失望感が広がり、円高と株安が世界的に連鎖する大荒れの展開となりました。

 景気がさらに悪化する「二番底」の懸念も高まっています。菅首相は「為替の急激な変動は好ましくない。注意深く見守っていきたい」と記者団に語ったそうですが、見守るだけなら誰にでも出来ます。この国の宰相の相も変らぬ軽さと無責任さにはほとほと愛想が尽きます。

2010年8月3日


 天皇陛下は3日午前、日本相撲協会の村山弘義・理事長代行に名古屋場所で全勝優勝を果たし、昭和以降、歴代3位の連勝記録を達成した横綱・白鵬関の活躍をねぎらう書簡を渡されました。


 宮内庁によりますと天皇陛下のお言葉を川島裕侍従長名で書簡にしたものを両国国技館で宮内庁側から村山理事長代行に手渡されたとのことです。

 書簡には「困難な状況にありながら、連日精励奮闘して幕内全勝優勝を果たしたのみならず、大鵬関の連勝記録を超え、歴代3位の連勝記録を達成した横綱白鵬関に、おねぎらいとお祝いをお伝えになるとともに、今後とも元気に活躍するよう願っておられる」などと記されているようです。

 横綱・白鵬関と日本相撲協会の村山弘義・理事長代行は3日午前、両国国技館で記者会見しました。紋付はかま姿の白鵬関は「陛下からのお言葉をいただき、これ以上のものはないと思っています。心から喜んでいます。光栄でございます」と話しました。

 村山理事長代行も「誠にありがたいお言葉に感激しております。心を新たにして大相撲の発展に精進と努力をしてまいりたい」と述べました。

 大相撲名古屋場所は野球賭博問題で、開催そのものが問われる前代未聞の場所でした。

 日本相撲協会は元大関・琴光喜や前大嶽親方(元関脇・貴闘力)を解雇するとともに幕内6人十両4人を謹慎休場させて開催しました。開催したものの、初日に満員御礼の出ない名古屋場所は1985年以降初めてでした。しかも15日間途切れることなく不祥事が報道をにぎわしました。

 日本相撲協会は優勝者への天皇賜杯授与なども自粛していました。「賜杯がなく、うれしさ、悲しさ、寂しい気持から涙を流した」と7月25日の名古屋場所千秋楽の表彰式を振り返る横綱・白鵬にとって今回の天皇陛下の書簡ほど嬉しいものはないでしょう。本当によかったと思います。

 私は横綱・白鵬関の妻である紗代子さんが徳島県人であり、知人のご息女である関係から今年2月21日に東京都内のホテルで行われた結婚披露宴に夫婦でご招待をしていただきました。お二人の幼いころからの写真を次々に披露するなど心温かな結婚披露宴でした。

 白鵬関の新郎としての感謝の言葉もすがすがしいものでした。相撲界を背負って立つにふさわしい風格さえ感じました。この横綱が日本の国技である大相撲を再建し発展させる大横綱の道を歩んでゆかれることを私は心から期待しています。

2010年7月12日


 参議院選挙が昨11日、投開票され民主党の大敗となりました。各紙の一面には白抜きの大きな凸版が並びました。

 「民主敗北 衆参ねじれ」(朝日)「民主大敗 ねじれ再び」(毎日)「与党大敗 過半数割れ」(読売)「民主大敗 与党過半数割れ」(日経)とどの新聞も民主党の大敗を大きなトップ記事で伝えています。

 敗因の分析は各紙それぞれですが、読売新聞は「唐突な消費税発言は財政再建への決意表明というより普天間飛行場移設や政治とカネの問題から国民の目をそらすためではないかとの印象を与えた」としており、小手先の選挙戦術が国民に見破られたと分析しているのは説得力がありました。

 さらに「不利なことから逃げる。弱点をつかれると反発し、言いたいことだけを言う。その身勝手な姿勢が国民から見放された」と菅総理のくるくる変った消費税発言を糾弾している点にも私は同意します。

 参議院選挙に入る前に私は国会の異常な終わり方を見て、普天間問題や政治とカネの問題から争点を逸らすようにして選挙に入った菅総理を「逃げ菅」と指摘しました。

 そして今回の参議院選挙はこの菅総理の狡さを見抜くかどうか国民が試されている選挙であると申し上げました。選挙の結果を見ると国民の皆様は鋭く見抜かれたと私は思います。

 菅総理は選挙の結果にかかわらず、総理を続ける意向のようです。「逃げ菅」「ずる菅」「ぶれ菅」と言われ「あ菅」「す菅」と言われながらもじっと耐えて総理を続けるようです。

 国会は衆参でねじれていますからどんな法案も野党の理解をいただかないと成立しません。本来「イラ菅」と言われる菅総理です。果たして耐え続けることができるでしょうか。

 9月には民主党の代表選挙があります。早くも菅内閣はそれまでしか持たないのではないかとの推測が生まれています。

 落選した民主党の候補者からは落選の原因は菅総理の突然の消費税発言にあるとの糾弾の声が上がり始めました。

 民主党内でも「諸費税は上げないと国民に約束して衆議院選挙に勝たしていただいた」それを菅総理は忘れていると怒っている人がたくさんいます。

 国会はどうなるのか。民主党はどうなるのか。いよいよ目が離せなくなりそうです。こんな時代だからこそ国民のための国会であり、国民のための政党であることを政党人は自覚してほしいと私は思います。

2010年6月16日


 鳩山首相の後を継いだ菅直人首相は予算委員会も開催しないで本日、国会を閉幕してしまいました。国会の開会中に交代した首相が野党から一対一の質問を受ける予算委員会を開催しないで国会を閉じるのはまことに異例なことです。


 野党は一斉に反発しています。私も国会は議論の場ですから新しい首相は国会の場で堂々と所信を語り、野党の議員の一対一の質問に丁寧に答えるべきだと思います。

 これでは新首相誕生のご祝儀相場があるうちに参議院選挙をしたいとの党利党略そのもので「逃げ菅」と言われても仕方がありません。ボロが出ないうちに選挙をしたいという姿勢は情けない限りです。

 予算委員会を開催すれば「政治とカネ」の問題や普天間基地の移転問題、口蹄疫対策の失敗など追及されることが山ほどあります。

 

 そうした具体的な問題に菅首相はどう対処していくのか国民の前で明確に述べるべきです。予算委員会を開催しないということはそうした問題に口を閉ざしたまま、選挙するということです。

 国民の前に争点を示さず、支持率の高いことを頼りに選挙戦に入る。この菅首相の戦略を果たして国民の皆さんは容認するのでしょうか。

 考えてみれば菅首相は鳩山内閣では副総理という立場でした。副総理は総理を補佐する立場です。本来なら鳩山首相が辞任すれば連帯責任を取って辞任すべきです。

 辞任しないばかりか、後継者になり、同じく鳩山内閣で重要閣僚だった人たちをそのまま登用しています。これでは中身はそのままで表紙だけを変えた居抜内閣に過ぎません。

 そんな内閣に対して支持率がV字回復しているのはどうしてでしょうか。私にはよくわかりません。

 今回の参議院選挙は国民が試されている選挙だと私は思います。国民は政治家を監視するべきです。国民は政党が党利党略ではなく真に国民のために働いているかどうかを見極めなくてはならないと思います。その上での一票の行使でありたいものです。

2010年6月3日


 鳩山由紀夫首相(民主党代表)が2日午前、退陣する意向を表明しました。沖縄の米軍普天間基地問題の迷走と「政治とカネ」の問題で混乱した責任を取って「職をひかせていただく」と緊急に開いた民主党の両院議員総会で述たのです。


 鳩山首相は民主党の小沢一郎幹事長にも辞任を求め、小沢氏も了承しました。民主党は4日にも新代表を選出することを決めました。

 「政権交代」の鳴り物入りでスタートした鳩山政権でしたがわずか8ヶ月半で自壊してしまいました。この8ヶ月半の間に国民の期待は失望に変わり世論調査の支持率でも10パーセント台という状態でしたから退陣は当然のことだったかも知れません。

 それにしても虚しさだけが残る辞任劇でした。鳩山政権が残したものは国民の政治への失望と不信だけでした。

 鳩山首相が辞めたから普天間基地問題が終わり、「政治とカネ」の問題が決着したのではないのです。鳩山さんの後を承継する民主党の代表はこの二つの問題をどう解決していくのか明確に語るべきです。

 普天間基地問題では実現不可能な「日米共同声明」を結び、それに沿った形で閣議決定しています。沖縄の人たちがこぞって反対している中でこの閣議決定を実行することはできないでしょう。この問題にどう活路を開くのか新代表は明確にする責任があります。

 また「政治とカネ」の問題では企業献金の全面禁止や秘書が行った政治資金上の違反行為に対して政治家も連帯して責任を問われる法律の制定などを新代表は明確に述べるべきです。

 私は今回の鳩山首相の辞任を参議院選挙対策と見ています。辞任への直接のきっかけが「このままでは参院選を戦えない」という参議院側から提起されたことからもそれは明らかでしょう。

 民主党は日本の政治のため日本の国民のためではなく単に自らの参議院選挙対策のために日本国の総理大臣の首を挿げ替えたのです。そんな民主党を国民は今度こそ罷免するのではないでしょうか。

2010年5月29日


 日米両政府は28日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移転先をキャンプ・シュワブのある名護市辺野古崎地区などとする共同声明を発表しました。

 鳩山由紀夫首相は同日夜、共同声明を受けた政府方針への署名を拒否した社民党の福島瑞穂消費者行政担当相を罷免しました。

 罷免された福島さんは「辺野古に基地を造らせないと沖縄の人々、国民に約束してきた。私は言葉に責任を持つ政治をしていきたい。その言葉に従ってサインしなかった」と語りました。

 確かに鳩山首相は「最低でも県外」と言い続けてきました。「辺野古の海を埋め立てるのは自然への冒涜である」とまで言ってきました。

 鳩山内閣が発足して以来、8ヶ月あまりになりますが普天間問題は迷走に継ぐ迷走を繰り返した挙句、辺野古という振り出しに戻ってしまいました。迷走の原因が鳩山首相の言葉の軽さにあったことは間違いありません。

 沖縄の人たちに大きな期待を持たせておきながら、沖縄の人たちの前で「米海兵隊について勉強不足でした」と頭を下げる姿に私は唖然としました。

 安全保障問題をあまりにも軽くとらえ、政治の漂流をもたらした鳩山首相の責任は重い。その責任の重さを首相は一体どこまで感じているのでしょうか。

 「最低でも県外」「私には腹案がある」「地元の同意と与党内の合意は当然の前提」などと機会あるごとに発言してきた一国の総理の言葉がこんなにも軽く虚しく白々しくてよいものでしょうか。

 鳩山首相は普天間飛行場移設と返還のスケジュールについて「できる限り2014年までに完了できるよう進めていく」と言明しましたが、実現可能性はゼロと言っていいでしょう。

 鳩山首相の言葉の軽さに弄ばれた沖縄県民の怒りは頂点に達しています。地元の同意のない計画が実現できるはずはありません。

 それにしても「言葉に責任を持つ」閣僚を「言葉に責任を持たない」首相が罷免したのです。世も末というべきでしょう。国民から罷免されるべきは「言葉に責任を持たない」首相であると私は思います。参議院選挙での国民の審判に私は期待しています。

2010年4月28日


 小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会は27日、小沢氏を不起訴(容疑不十分)とした東京地検特捜部の処分を不当とし、「起訴相当」と議決しました。


 審査会は市民から選ばれた11人の審査員で構成されていますが全員一致の議決であり、この議決は重く受け止めるべきだと思います。

 議決を受け、特捜部は再捜査を行い、原則3カ月以内に改めて起訴か不起訴かを決めます。
特捜部が再び不起訴をを決めた場合は審査会で再協議を行い、再度起訴すべきと判断すると小沢氏は裁判所が指定する弁護士によって強制的に起訴されます。

 兵庫県明石市の歩道橋事故で明石署元副署長や、JR福知山線脱線事故でのJR西日本の歴代3社長に適用されて注目されたばかりの強制起訴です。

 東京第5検察審査会は議決の中で政治資金規正法の趣旨・目的は、政治資金の流れを広く国民に公開し、その是非についての判断を国民に任せ、これによって民主政治の健全な発展に寄与することにあると述べたあと2点について指摘していることが注目されます。

 すなわち「秘書に任せていた」と言えば、政治家本人の責任は問われなくてよいのか、という指摘と「政治家とカネ」にまつわる政治不信が高まっている状況下にもあり市民目線からは許し難い、という指摘です。

 また結論を「本件については、小沢氏を起訴して公開の場(裁判所)で真実の事実関係と責任の所在を明らかにすべきである。これこそが善良な市民としての感覚である」と結んでいることも注目されます。

 特捜部はプロの集団ですから公判が維持できるかどうかを基準にして容疑不十分を理由に不起訴を決めたことと思います。それに対して検察審査会は善良な市民としての感覚から起訴すべきと議決したのです。

 善良な市民の期待に応えるべく、特捜部は再捜査に最大限の努力をしてもらいたいと思います。政治が信頼できない時代であるからこそ国民の東京地検特捜部への期待は大きいのです。

 それにしても5月末までに結論を出すといっていながらいまだに迷走している米軍普天間飛行場移設問題といい、鳩山政権はいよいよダッチロールの状態に入ってしまいました。

2010年4月2日


 公明党元代表の神崎武法さんが健康面の不安などを理由に議員辞職されました。神崎さんの辞職に伴い、2009年の衆議院選挙比例九州ブロックで同党次点の遠山清彦さんが繰り上げ当選します。


 神崎さんは検事などを経て1983年の衆議院選挙で初当選。細川政権(1993年から1994年)で郵政大臣、1998年から2006年まで公明党代表を務めました。

 神崎さんは、昨1日記者会見して衆議院議員を任期途中で辞職し政界を引退することを表明しました。記者会見では26年間の議員生活で最大の仕事は1999年の自民党との連立政権樹立であったと語りました。

 そして首相にももの申す「イカンザキ」をアピールしてきたが、2006年まで8年間にわたった代表時代を「自民党との距離感に苦労した」と振り返りました。

 引退の理由として挙げた健康問題では2002年から腎臓の治療が続き、イラクへの自衛官派遣に先立つ2003年の現地視察直後には手術を受けていたことも明かしました。

 現在、神崎さんは週3回の人工透析を続けているとのことです。私は神崎さんとは1983年の衆議院選挙に初当選した同期生です。そんな関係もあって特に親しくお付き合いさせていただいてきましたが、神崎さんの健康状態がこんなにも悪化しているとは知りませんでした。

 初当選が同期だった奈良の森本晃司さん、岡山の日笠勝之さん、そして福岡の神崎武法さん、そして徳島の私とこの4人は同期生のなかでも特に仲がよく最近は毎年1回夫人同伴で家族旅行を楽しんできました。

 昨年も岡山の倉敷で旧交を温めました。その折も神崎さんは少し腰を痛めてはいましたが元気はつらつとしていました。腎臓病など想像もできませんでした。

 私は神崎さんを大学生時代からよく知っていますが、本当に物静かで謙虚で我慢強い人でした。権謀術数、魑魅魍魎の世界に最も遠い人でしたから、現実の政治の修羅場で疲れ果てたのかもしれません。

 誰が言ったのか知りませんが「健康は人生の全てではない。けれども健康なくして人生の全てはない」と言う言葉があります。

 神崎さん。26年間本当にお疲れ様でした。どうぞゆっくり静養してください。人生はこれからです。後輩のためにもまだまだ頑張らなければなりません。そのためにも健康を回復してください。神崎さんがいつまでも元気でいられるよう奥様よろしくお願いいたします。

2010年3月8日


 大阪府東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。近鉄奈良線の八戸ノ里駅に降り立つと菜の花が迎えてくれました。


 記念館は駅から徒歩で8分ですが、道の両側に菜の花の植木鉢が並べられていて菜の花を辿って行けば自然に記念館に到着しました。

 記念館も菜の花が満開でした。ボランティアの人たちは花に水をやったり、庭の掃除をしたりして忙しそうでした。どの方も本当にいい顔をしていました。

 「遠いところからよくいらっしゃいました」とねぎらわれて館内に入ると菜の花越しに書斎が見えてきました。机の上には万年筆などの筆記具や原稿を推敲する際に使った色鉛筆や大きなルーペなどが置かれていました。

 周囲の書棚には、未完に終わった『街道をゆく-濃尾参州記』(朝日新聞社刊)の執筆の際に参考にした資料などが置かれてそのままの状態で保存されていました。

 この書斎を見た後、安藤忠雄さんが設計した記念館に向かいました。ガラスの回廊にも菜の花が咲き競っていました。

 展示室の大書架には圧倒されました。高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ2万冊もの蔵書がイメージ展示されていました。

 展示室の隣の司馬遼太郎さんの自宅には6万冊の本があります。玄関、廊下、書斎、書庫と家の中は本でいっぱいなのです。それらの本はそのままに保存されていて見学者が見ることはできません。

 そのためのこの大書架が作られたとのです。この大書架を見上げていると司馬遼太郎さんの執筆の世界に私もいる思いがしました。

 大書架には司馬遼太郎さんの初版本が揃えられているほか、日本中、世界中の地理ら歴史の資料をはじめ多種多様な事典や辞典、さらには国や地方の文献などがずらりと並べられていました。

 私は今、「坂の上の雲」を読み返していますが、日露戦争に対するあまりにも詳細な記述に日々圧倒される思いです。大書架には膨大な数の日露戦争の戦史録が並べられていましたが、これを全て読みきった上で執筆したことを知り、司馬遼太郎さんの旺盛な取材力に改めて感銘しました。

2010年2月26日


 トヨタ自動車の豊田章男社長は24日午後(日本時間25日早朝)、トヨタ自動車の大規模リコール問題をめぐる米下院監視・政府改革委員会の公聴会に出席し、証言しました。


 豊田社長は一連の問題に対する対応の遅れを謝罪した上で「顧客第一主義を徹底させるため、自らの指揮でトヨタを変えていく」と約束しました。

 公聴会では情報開示に対する厳しい質問が続きましたが、豊田社長の「売上拡大を急ぎすぎて基本とする品質面がおろそかになった。これからは、基本の品質を第一に考えて取り組んで行く」という旨の発言が注目されました。

 米国を含む世界で事業展開しながら、各国現地法人との意思疎通が欠けていた点も認め「より透明性の高い会社に変えていくことが社長としての私の使命です」とも語り、リコールなど安全・品質問題に迅速に対応できる体制作りを主導する決意も示しました。

 元来、トヨタは日本を代表する企業として高い品質を誇ってきました。トヨタが「品質第一」の原点に戻ることはトヨタが今後も世界企業として存続するために必然なことです。

 豊田社長は公聴会の後、トヨタの米国の販売店や工場関係者との対話集会に出席。「公聴会で私は独りぼっちではなかった。全米のトヨタの仲間や世界の仲間たちが支えてくれた」と英語で語り、感極まったのか涙ぐんでいました。

 「私たちは100パーセントあなたを支持する」と従業員代表は豊田社長に語り掛けていました。そんなテレビ報道を見て私はこれならトヨタは信頼を回復できるだろうと思いました。

 トヨタが米国に輸出車としてクラウン30台を出荷したのは1958年(昭和33年)6月のことでした。トラブルが相次ぎディラーに見放されて対米輸出が中止になったこともありました。

 こうした挫折を乗り越え、米国での失敗を教訓として国際商品としての自動車の高い品質を築いてきたのがトヨタの歴史でもあるのです。

 トヨタの関係者全員が「お客様第一」を今一度肝に銘じて、失われた信頼の回復をしてもらいたいものです。今回の失敗を労使が一体となって乗り切り、次への飛躍台とできるよう私は念願しています。

2010年2月12日


 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体を巡る政治資金規正法違反事件では小沢一郎幹事長は不起訴になったものの小沢氏の秘書をしていた民主党の石川知裕衆議院議員は他の二人の秘書とともに起訴されました。


 現職の衆議院議員が逮捕され起訴されたのですからこの議員を公認した民主党の責任は重大です。民主党は国民に対してきちんと説明責任を果たすべきです。

 何故なら、衆議院選挙の際、国民は民主党公認というレッテルを信用してこの議員を選んでいるからです。民主党が品質保証したからこそ、国民は民主党を信頼して一票を投じたのではないでしょうか。

 石川議員は民主党への離党届を提出しました。「国会では予算案審議の最中で、民主党にこれ以上の迷惑をかけてはいけないと考え、離党を決断した」と記者会見で述べています。

 この離党届を受理した小沢幹事長は「私どもの方から積極的に離党を働きかけるのではなく本人自身の決断によるものだ」とあくまで自発的な離党であることを強調しています。

 民主党は石川議員の離党でこの事件を一件落着としたいようです。果たしてそれでいいのでしょうか。野党は離党による事件の幕引きは許さない構えです。

 自民党の大島理森幹事長は「議員辞職勧告決議案の採決、参考人招致、証人喚問などが予算案採決に応じる明確な前提だ。離党で済ませる話ではない」と語っています。

 公明党の山口那津男代表も「離党は国民に責任を取るものではない。民主党が自浄能力を発揮せず、トカゲのしっぽ切りでは政権担当の資格が疑われる」とコメントを出しています。

 第一生命が募集した今年のサラリーマン川柳にこんな句がありました。「チェンジとは言ってたことを変えること!」。これは民主党が衆議院選挙の際に掲げたマニュフェストが実現できていないことを皮肉ったものでしょう。

 民主党の鳩山由紀夫代表は野党時代に「秘書の不祥事は議員の責任」と厳しく追及していました。ところが民主党が政権党になり、自身が内閣総理大臣になった途端、言っていたことを見事にチェンジしています。政治家の言葉はこれほど軽くてよいものなのでしょうか。

 国会は国権の最高機関としての自浄能力を国民に問われています。今こそ議員一人一人が国民の代弁者として選ばれた責任を自覚して、国民への説明責任を果たしてもらいたいものです。

2010年1月20日


 通常国会が始まりましたが「政治とカネ」の問題で幕開けから与野党激突の波乱含みの展開になっています。


 「政治とカネ」の問題の一つは鳩山由紀夫総理の問題。母親から『子ども手当て』を12億円ももらっていたのにこれを隠匿し、あたかも政治資金として多くの個人から寄付があったかのような偽りの報告をしていたことです。

 野党時代「秘書のやったことは議員の責任」と声高に叫んでいたこの人が、自分のことになると「みんな秘書がやったこと」「自分は何も知らなかった」とすべてを秘書のせいにして全く責任を取ろうとしません。まことに恥ずかしい限りです。

 「政治とカネ」のもう一つの問題は小沢一郎民主党幹事長の4億円の土地購入疑惑です。この疑惑に関してはすでに現職の衆議院議員を含む3人の現元秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕されています。

 大手ゼネコンなどへの強制捜査も行われており、東京地検特捜部の狙いはダム建設を巡る企業の裏献金と贈収賄容疑を視野に入れているようにも見えます。

 民主党は「企業献金禁止」を政権交代のスローガンにして総選挙に望み、圧倒的な勝利を得ました。その選挙の責任者であったその人が企業から裏献金を受け取っていたことが事実であればこれほど残念なことはありません。

 小沢幹事長は「やましいことは一切ない」と断言しています。地検の参考人聴取にも応じると言っています。この事件がこれからどんな展開になるのか目が離せません。

 それにしても驚いたのは、小沢幹事長が「(秘書らの逮捕は)検察の公権力の乱用だ」と公然と非難し「最後まで戦う」と「幹事長続投」を宣言したのに対して鳩山総理がこれを承認し「ぜひ戦ってください」と激励したことです。

 鳩山総理はあとになって「指揮権発動を意味したものではない」と答えていますが、この総理の言葉の軽さにはほとほと呆れるばかりです。

 「政治とカネ」の問題で同じく脛に傷を持つ総理と幹事長が傷をかばい会い、閣僚も眺めているだけ、そしてひたすら沈黙を守っている民主党議員。そんな姿を見ると本当に情けなくなります。