2004年

2004年12月20日


 NPО法人オペラ徳島の第7回公演が12月18日徳島市で行われました。今年は『リゴレット』(ウエルディ作曲)全幕の上演でしたが、まことにすばらしい出来栄えでした。幕が下りた後も拍手が鳴り止みませんでした。


 オペラ徳島は1997年8月8日徳島県民オペラとして発足しています。1998年3月1日徳島オペラと改称し、オペレッタ『こうもり』全幕上演で旗揚げしたのでした。

 1999年9月13日には特定非営利活動法人(NPО法人)の認証を受けました。以来オペラ『カルメン』オペレッタ『メリー・ウィドウ』オペラ『椿姫』オペレッタ『こうもり』オペラ『カルメン』と毎年全幕上演を続けてきました。

 今年のオペラ『リゴレット』に続いて、来年はオペラ『魔笛』全幕上演を予定し、4月にはソリストのオーディションをするそうです。

 特定非営利活動法人がオペラを公演する苦労は並大抵ではなかったと思います。主役やソリストはオーディションで決めるとしても、オーケストラや合唱団、舞台装置や衣装などはすべて市民や地元の方々の厚意によるものと聞きました。

 オペラは総合芸術といわれます。私もヨーロッパやアメリカでオペラを見たことがありますが、その高い芸術性に感動したものです。

 それをこの徳島で再現しようとする人たちがいることを本当にうれしく思います。さらにその運動を支える人たちがこんなにも多くいることを誇りに思います。

 超満員だった会場。鳴り止まない拍手。込み上げる感動。これからも年末を飾る徳島の恒例の行事として定着して欲しいと私は心から思いました。      

・オペラ見てこの一年を締めくくる(和良)

2004年12月8日


 12月1日から5日まで無錫、蘇州、杭州、紹興、上海と4泊5日のパック旅行をしてきました。毎日バスで300キロ走る強行軍でしたが62人全員無事故で帰って来ることができました。


 四国日中平和友好会からも私を含め22人が参加しました。久保精助会長は80歳とおっしゃっていましたが溌剌としていました。毎日朝6時起床のハードスケジュールでしたがどの方も元気そのものでした。

 杭州と上海では四国日中平和友好会と永年にわたって交流を重ねてきた懐かしい中国の友人が駆けつけて下さり、民間友好を果たすこともできました。

 私はこの旅行で中国訪問8回目になりましたが、見違えるばかりの発展ぶりを見て大変嬉しかったです。

 「日中友好の金の橋は特別な構造をしています。渡れば渡るほど強靭になるのです」と言ったのは今は亡き孫平化中日友好協会会長でした。私は直接聞いたことがあります。

 現在の日中関係は政低経高といわれています。まことに残念なことです。経済だけでなく、政治の分野でもあの日中友好条約締結時の初心を忘れず、熱い信頼関係を築いてもらいたいものです

 今回の旅で私はこんな俳句をつくりました。

    ・黄を染めし湖畔の柳ここ無錫
    ・水路にも冬の日こぼる蘇州かな
    ・杭州はすずかけの黄に埋まれをり
    ・冬霞墨画となりし西湖かな
    ・ほの暗き堂宇に紅葉明かりかな
    ・訪ね来し魯迅の生家初時雨
    ・王義之の歌詠みし庭初時雨
    ・紹興は冷たき雨に沈みをり
    ・短日や酒蔵巡りて暮れにけり
    ・冬の雨豫園の甍濡らしをり
    ・上海の夜の灯紅し初時雨

 永年にわたって民間友好を進めてきた四国日中平和友好会がこれからも一層発展するよう心から祈っています。

2004年11月20日


 無年金障害者救済法案(与党提案の議員立法)が衆議院厚生労働委員会で修正可決しました。この国会で成立する見通しです。


 この法案は国民年金が任意加入だった時代に未加入のまま障害を負ったため障害基礎年金を受け取れない主婦や元学生などに特別給付金を支給するものです。

 在日外国人などを支給対象に加えるかどうかについては、法案の附則に「今後検討し、必要と判断した場合には措置する」との内容を盛り込みました。

 これにより1991年より前に障害者となった元学生(約4000人)と、1986年以前に障害を負った専業主婦(約20000人)が救済され、来年4月から特別給付金が支給されます。

 支給額は障害1級で月額5万円、同2級で4万円(支給額には自動物価スライドを適用)で、障害基礎年金の国庫負担分(約6割)とほぼ同水準になります。

 高額所得者には支給制限がありますが、全額国庫負担です。自己申告制で社会保険庁が認定・支給の事務を行い、申請の受付は市区町村が行います。

 無年金障害者の救済については私も厚生労働委員会で何回か取り上げました。元学生や専業主婦そして在日外国人の障害者やご家族の皆さんにもお会いして切実な声をお聞きしたことがあります。

 当時の厚生労働省はまことに冷たい対応でしたが、今回政治の力で救済の手が差し伸べられたことに私も心から喜んでいます。

 法案作りに奔走された与党の皆さん、なかんずく公明党の皆さんの労を多とします。今後は国の立法不作為などと司法から二度と指弾されることのないよう一層のご奮闘を期待しています。

2004年11月12日


 東京、浜松、滋賀、東京と4泊5日の旅をしてきました。まず最初の東京は会社の取締役会に出席。次の浜松は私が社会人としてスタートしたヤマハの先輩や同僚と旧交を温めてきました。


 その後、引佐郡細江町に吟行して俳句の句会に出席しました。私は2年8ヶ月前から俳句をはじめましたが、俳句の面白さを教えてくれた最初の先生は百合山羽公さんの弟子である井村経郷さんです。

 井村先生は三ヶ日町に住んでいる現役の散髪屋さんですから、句会はお休みの月曜日になります。今回も懐かしい方々とともに万葉の旋頭歌に詠われた吾跡川柳の堤防に吟行してきました。

 その翌日は滋賀県に参りまして会社の研究所や工場を6箇所見学して来ました。琵琶湖畔をはじめ、最近町村合併して誕生した湖南市や、信楽焼きで有名な信楽町にも行ってきました。

 比叡山にある会社の山荘に宿泊したのですが、琵琶湖に昇る朝日を見ることができました。まことに感動的な風景でした。

 旅の終わりはもう一度東京に帰って衆議院議長公邸で行われた前議員の懇談会に出席しました。ここでは懐かしい皆さんとお会いでき、党派を超えて話が弾みました。皆さんお元気で私などはまだまだ若輩でしっかり頑張らねばと決意して帰ってきました。

 この旅で作った私の吟行句です。・吾跡川の柳の土手の秋日傘・冬の蝶二羽のあと追ふ視線かな・蜜柑褒め一個いただき遠江・紅葉は木ごと枝ごと葉ごとかな・溝蕎麦の隣の花は赤のまま

 秋は食の進む季節でもあります。こんな句もできました。

 

・前菜にむかごのありしけふの席

・鴨饅頭大根おろしとともにあり

・丸大根メーンディシュでありにけり

・利休和え柿と蒟蒻仲良かり

・緋蕪の香の物あり食進む

 旅の折々にお世話になった皆さんに心から感謝いたします。皆様のご健勝をはるかに祈っています。ありがとうございました。

2004年11月1日


 今月17日に結党40周年を迎える公明党は昨31日、東京・江東区の東京ビッグサイト国際会議場で第5回全国大会を開きました。私もOB議員としてご招待を受け、参加してきました。


 引き続き党代表に選任された神崎武法代表は「政治家人生のすべてをかけ死力を尽くして戦っていく」と決意を披瀝しました。いつも沈着冷静で大言壮語をしない神崎代表を知っている私としては格別な思いがしました。

 東京都議会議員選挙、衆議院選挙、統一地方選挙、参議院選挙と続く2007年までは まさに天下を決する政治決戦の時期であり、神崎代表の並々ならぬ決意を私は感じた次第です。

 大会では「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」立党精神を『不変の原点』として堅持していくことを確認しました。

 また「持続可能な社会保障制度の構築」「国際テロの時代における『新しい平和主義』」「地域の再生」の3課題に対する処方箋も明示しました。

 憲法や教育基本法をめぐって活発な論議も展開されました。将来の国のかたちを決定づける重要課題が山積する中で日本の政治全体に責任を担う政党として公明党の果たすべき役割の重要性についても議論が交わされました。

 公明党は結党以来「政治腐敗の根絶」「清潔な政治の確立」に取り組んできました。私が現役のときも政治家個人に対する企業・団体献金の禁止、あっせん利得処罰法や官製談合防止法の制定などを実現しました

 なのに今なお「政治とカネ」をめぐる不祥事が後を絶ちません。日本の政治が腐敗と決別できるようすべての政治家が襟をだだしてこの問題に取り組んで欲しいと私は思います。

2004年10月25日


 日本列島を台風に続いて地震が襲いました。新潟県中越地方を中心に震度6強を連続して観測した地震は24日現在で21人が死亡。けが人は1700人以上。82000人が体育館などに避難しているとのことです。


 今後も震度6規模の余震が心配され、住民は寒さと怖さの中で眠れぬ夜を過ごしています。「家の中は怖い」と毛布に包まって野外で過ごす人もいます。

 震度6強とは「立っていることができない。多くの建物で窓ガラスが割れる。耐震性の低い木造家屋は倒壊するものが多い」というものです。それが何度も来、これからも来るという恐怖。私には身のすくむ思いがします。

 新幹線も大きな被害を受けました。乗客を乗せた列車が脱線したのは新幹線40年の歴史で初めてのことでした。

 この列車は地震に遭ったとき時速200キロで走っていました。けが人が出なかったのは不幸中の幸いといえるでしょう。

 脱線した車両は下りでしたが、上り線側にはみ出して止まっています。そこに上りの列車が突っ込んできたら大惨事になるところでした。

 「幸運」で免れた大惨事。生かされた「阪神」の教訓。と報道した新聞もありましたが、早期の自衛隊出動などはよかったと私も思います。

 しかしながら、初動対応に当たった23日の首相官邸には小泉首相も細田官房長官も3人の官房副長官さえ姿を見せなかった。公邸から指示をしたとか、議員宿舎で待機していたなどと言い訳しているようですが、まことにみっともないと私は思います。

2004年10月12日


 徳島県鳴門市で10月7日から11日まで開かれていた「世界の少年少女絵画展」を、最終日の昨日私は見てきました。


 この絵画展には世界161カ国・地域の子供たちから、10万点の作品が寄せられたそうです。そのうちの代表作200点が展示されていましたが、印象に残るものばかりでした。

 中華人民共和国の11歳の少女は民族衣装を着た世界中の人々が手をつないでいる絵を描きました。

 トルコの12歳の少年は鯨に乗っておとぎの国にやってきた少年少女を描いています。大きな太陽も大喜びで眺めています。

 モンゴルの7歳の少女はパオで行く家族を描いています。動物たちも一緒です。馬に乗った少年はみんなを見守るように見えます。

 インドの6歳の少女は鏡の前でおめかしをするお母さんとお母さんに抱かれた赤ちゃんを描きました。お母さんと赤ちゃんを正面から描くために鏡に映った顔を描いています。すごい着想です。髪飾りをしたお母さんと赤ちゃんの真ん丸い顔がいい表情をしています。

 バングラデシュ、クウエート、ルーマニア、エジプト、ロシア、フランス、南アフリカ、メキシコ、キプロス、パラグアイ、ニュージーランド、オーストラリア、韓国、北朝鮮の子供たちの絵も色彩が豊かで感動しました。

 世界には今も紛争が絶えません。何の罪もないのに戦争で死んでいく子供たちがたくさんいます。この世の中から戦争をなくすのは私たち大人の責任です。子供たちの未来を奪う権利は誰にもないのです。

 国の意思を決定する政治家はもっと真面目に真剣に平和の問題に取り組んでほしいと思います。肌の色や宗教を超えて輝く子供たちの絵を見ながら私はつくづくそう思いました。

2004年10月1日


 徳島県では今日1日「吉野川市」が誕生しました。現在進められている市町村合併は「平成の大合併」といわれていますが、徳島県ではこれが最初の合併となります。


 吉野川市は鴨島、川島、山川、美郷の麻植郡4町村が合併し、徳島県では5番目の市となります。人口は46074人(8月1日現在)人口では小松島市を抜いて徳島、鳴門、阿南市に次いで4番目となります。

 官から民へ、国から地方へ、この改革の方向は私も正しいと思います。地方の中でも住民に一番近い市町村が活力を持つ。そのための改革でなければなりません。

 ところが最近の風潮を見ると住民自治の場としての市町村の権限と財源を確保するという趣旨が薄らいでいるように思えてなりません。

 三位一体の改革とは地方税、交付税、補助金の一体的な改革であり、その趣旨は地方にできることは地方に任せるという精神からいって自主財源を充実することにあると考えます。

 それがいつの間にか国と地方の行政改革、財政改革の手段の一つとして使われるようになってしまっています。地方切捨てという言葉まで出るほどでまことに残念でなりません。

 第2次小泉内閣が発足しましたが、今国民が真に望んでいることは何か。それがわかっていないのではないかと思うことがたくさんあります。

 為政者は常に謙虚に民の声に耳を傾けるべきです。市町村合併は歓迎されなければなりません。卑しくも地方の切捨てとか、弱者の切り捨てとかの言葉がまかり通るような世の中にはしてほしくありません。

2004年9月24日


 プロ野球の再ストは回避されました。9月18,19日プロ野球史上初めて行われたストは大きな注目を浴びましたが25,26日に予定していた再ストが回避されたことはよかったと思います。


 再ストが回避できたのは、オリックスと近鉄の合併を日本プロ野球選手会が認める一方、経営者側の日本プロ野球組織も来季からの新規参入を認め、セ・パ両リーグ12球団に戻すことを視野に入れると約束したからです。

 今後は、新規参入球団の決定や営業譲渡される近鉄の選手の受け入れなどが課題となりますが、近鉄球団社長のいうように「雨降って地固まる」となるよう私も祈りたい心境です。

 最近の労働組合ではストの「ス」の字もめったに聞きません。それだけに今回の選手会の奮闘は強く印象に残りました。爽やかでさえありました。

 18,19日のストをきっかけに再度話し合いが進められ、経営者側が大幅に歩み寄る形で合意したわけですが、労使双方が真摯に話し合う機会がもてたことは、プロ野球の将来のためにも大変よかったのではないでしょうか。

 「この妥結が新しく魅力あるプロ野球のスタート」と再スト回避の記者会見で両者は口をそろえました。私もそうあってほしいと思います。

 プロ野球はファンあってのプロ野球です。足を運びたくなる野球、応援したくなる野球、子供から大人まで老若男女がともに楽しめる野球となることを心から期待します。

2004年9月15日


 横綱・朝青龍が快調に勝ち星を重ねています。5連覇ができるかどうか、関心は次第に高まっていくことでしょう。大関陣も頑張っていますので面白くなりそうです。


 朝青龍はモンゴル国出身で本名をドルゴルスレン・ダグワドルジといいます。高校時代に高知県の明徳義塾高校に相撲留学で入学しました。ですから高知県では今も郷土の力士として活躍を期待する人が殊のほか多いと聞いています。

 この8月にはウランバートルと東京で朝青龍の結婚披露宴が盛大に開かれました。高知県をはじめ四国各県からも大勢の方々がお祝いに駆けつけたようです。

 私も東京の披露宴に出席しました。会場は相撲界をはじめ、政界、経済界の来賓やファンの方々で超満員でした。アテネオリンピックのメダリストたちも大勢駆けつけていました。

 披露宴で感動したことがあります。それは宴の最後に朝青龍自身が出席者全員に述べた感謝の挨拶でした。予定にはなかったそうですが、気取らない自然のままの挨拶は深く心に残るものでした。

 一番感動したのは、見ず知らずの異国で相撲の厳しさに耐えて頑張る少年にモンゴルの母が送った言葉です。「その土地の水を飲んだら、その土地の人になりなさい」。この言葉を紹介するとき朝青龍の目に涙が浮かんでいました。

 披露宴にはもちろんそのお母さんはじめ両家の両親や兄弟姉妹も来ていました。家族を一人一人紹介し、出席者に感謝する。そこには23歳の好青年、朝青龍の晴れ姿がありました。

2002年末に結婚したタミル夫人と長女に囲まれたこの日の朝青龍は本当に幸せそうでした。「年間6場所全覇目指して頑張ります」とも語りました。あの日の姿を思い起こしながら私は連日テレビで声援を送っています。

2004年9月9日


 四国で初めてのJリーグチーム目指してプロサッカーチーム運営法人「徳島ヴォルティス株式会社」の創立総会が8日徳島市内で開かれました。


 同社には52の企業や自治体が出資し、資本金は3億8千2百万円。徳島市に事務所を置き取締役のうち高本浩司社長(37)と米田豊彦ゼネラルマネジャー(51)が常勤として経営に当たることになりました。

 飯泉嘉門徳島県知事も「Jリーグ実現へ記念すべき第1歩を踏み出すことができた。行政としても、県民の理解を得ながら役割を果たしていきたい」と話しています。

 徳島ヴォルティスは日本フットボールリーグで首位を走っている大塚製薬サッカー部(大塚FC)を母体に編成されるとのことで「Jリーグ入りは99.9%間違いない」とサッカーJリーグの鈴木昌チェアマンも太鼓判を押しています。

 Jリーグへの加盟申請は今月末までに行われる予定で、12月上旬に承認されれば来春のJ2参戦が実現します。県民の関心も大きく早くも大きな期待の声とともに安定した経営が続けられるか採算面を心配する声も出ています。

 この8月11日、鳴門市でイタリアから來日したセリエAのレッジーナと大塚FCの親善試合が行われました。私も試合を観戦したのですがまことに感動しました。

 試合は3対1で大塚FCが逆転勝ちしたのですが、テレビ観戦と違って、競技場で見るゲームには迫力がありました。「このチームが郷土のプロチームに成長してこんな感動を私たちに与え続けてくれたら」と私も夢を膨らませずにはおられませんでした。

 「多くの人々に夢と希望を与えることができるやりがいのある仕事。地域に愛され、誇りに思われるチーム作りに励みたい」と高本社長は就任の抱負を述べました。今後の活躍を心から期待したいと思います。

2004年8月27日


 第15回日本伝統俳句協会全国俳句大会が札幌市で行われました。徳島から20人が参加しました。私も初めて参加させていただきました。


 吟行地の石狩砂丘は石狩川が日本海に注ぐ河口で浜茄子が赤い実をつけていました。
にわか雨の後、稲光もあり変化に富んだ北の風景を楽しみました。

 稲畑汀子会長の選んだ特選句は次の句でした。

・大勢で来て一人ずつゐる花野
・石狩の夜は星よりの秋の声
・雷神の落としてゆきし今日の晴れ
・天高し海はその色もてこたふ
・とうきびを食べて北海道にゐる
・裏方の汗のしとどのありてこそ
・つかの間のそばえに消えし赤とんぼ
・変幻の空も楽しや蝦夷の秋
・二百万都市の夜景の露けしや
・どこよりも秋風高きポプラかな
・石狩の海にさ迷ふ稲の殿

 どの句も花鳥諷詠を旨とするホトトギスらしい自然な句だと思います。私にはとても勉強になりました。大変刺激にもなりました。

・残暑てふ言葉も知らず北の旅

・直行便残暑の中に帰りけり(和良)

 

 秋本番の北海道から残暑の徳島に帰ったらまた台風です。今年は本当に台風の当たり年ですね。

2004年8月16日


 蜩の最後の声の遠ざかる(稲畑汀子)蜩(ひぐらし)は明け方や夕暮れによく鳴きますが夏の真昼に鳴きしきる蝉と違って、あわれみもあります。


 お盆が終わり、徳島では阿波踊りが終わりました。59回目の終戦記念日も終わりました。
暑さ寒さも彼岸までとはよくいったもので、もう秋の気配を感じます。

 アテネではどうでしょうか。第28回夏季オリンピック・アテネ大会は13日夜(日本時間14日未明)開会式が行われ、17日間にわたって競技が行われていますが少しは涼しくなったのでしょうか。

 私は昨年夏アテネに参りましたが、連日の猛暑には閉口しました。オリンピックのために路面電車を走らせるのだと意気込んでいましたが、工事は一向にはかどっていませんでした。

 最近では水泳のプールも工事が遅れ、結局は屋根なしになったと聞かされていましたので正直なところ無事開催できるか心配していたのです。

 ギリシャの人は最後は必ずきちんと仕上げますからと友人から聞いていましたがまさにそのとうりでこれがギリシャ風なのだと変なところで感心したものです。

 それにしても1896年の第1回大会を開催した近代五輪発祥の地に国際オリンピック委員会加盟の全202カ国・地域が参加した意義はまことに大きいと思います。

 開会式では新生イラクに大きな拍手が送られ、北朝鮮と韓国の選手はそろって入場行進しました。平和の祭典ならではの風景でした。

 日本の選手の活躍も連日報道されています。この平和の祭典が文字通り世界に平和をもたらすものとなることを心から祈っています。

2004年8月8日


 サッカーのアジア・カップ決勝は7日、北京で行われ、日本が開催国の中国を3-1で破り2連覇を果たしました。通算3度優勝は大会最多タイ記録です。


 私もテレビで観戦しましたが、テレビでは決勝戦の放送に入る前に、決勝戦に至るまでの日本チームの足跡が詳しく放映されました。

 とくに準々決勝・ヨルダン戦のPK戦は絶体絶命のピンチからの劇的な逆転勝利でした。
こうした経験が日本チームに見違えるばかりの逞しさと勝利への執念を与えたに違いありません。

 今回の大会でとても残念だったことは中国人観客から日本代表らに激しいブーイングが浴びせられたことです。

 中国政府は「礼儀や協力が必要」「一部ファンの過激な行動には反対」など、スポーツと政治を切り離した冷静な観戦を呼びかけましたが、決勝戦でも「君が代」が聞こえないほどでした。

 なぜこんなことが起きたのか。私達は冷静に考えることが大切です。一時の感情にとらわれると敵対感情の悪循環を生みかねないからです。

 経済のグローバル化に伴って両国の国益が真正面から衝突するようになり、これに小泉純一郎首相の靖国神社参拝も加わって対日感情が悪化。一部の偏狭なナショナリズムが火に油を注いでいるという人もいます。

 日本でも中国の経済発展への警戒感に加え、日本国内で増える中国人犯罪などが対中感情を悪化させています。中国側の極端な反日行動はこれをさらに悪化させかねません。

 国益の衝突による摩擦は政府間の対話で解決できるはずです。両国政府は両国民の間にある摩擦を小さなうちに解消し、世世代代の友好を互いに喜び合える両国関係を一日も早く築いてもらいたいものです。

2004年7月29日


 阿南市伊島町で還暦の同窓会をしてきました。伊島町は高校の友人の出身地で昨年下調べしてありましたので今年はクラス全員に声を掛けました。


・浜木綿の咲きし港に友集ふ

・浜木綿を戸毎に咲かせここ伊島(和良)

 集まったのは16人。茨城、千葉、神奈川、兵庫、岡山と遠来の顔もあり、皆元気一杯でした。夢中になって釣りをする友の顔は少年のように輝いていました。

・鯵を釣る還暦の友幼な顔(和良)

 たまたま家族連れで来ていた人たちも交えてバーベキューをしたり、子供たちと海で遊んだり、時間の経つのも忘れるほどでした。

・サッカーの少年一人カンナ燃ゆ(和良)

 翌日は伊島小学校、中学校を皆で訪問しました。校門のカンナが見事に咲き誇っていました。一人でサッカーの練習をしている中学生がいました。来年中学校に入学する予定の子供はいないと言っていました。

・にぎはいのあとの暗闇花火終ゆ(和良)

 伊島町での同窓会を終えた夜、私は小松島市の花火大会に行きました。花火が終わった後の夜空は寂しいほど静かでした。

 今年は記録的な猛暑が続いています。私はおかげさまで元気に過ごしています。皆様のご健勝を心からお祈りしています。 
         

2004年7月12日


 晩年を徳島市で過ごしたポルトガルの文人・モラエスの生誕150年を記念して徳島では特別展(モラエスとハーン展)をはじめさまざまな事業が行われてきました。


 今秋には徳島市の眉山山頂にモラエスの等身大の銅像が建立されると聞いています。記念事業実行委員会の皆様はじめこの運動に協力された多くの方々に心から感謝したいと思います。

 モラエス(1854~1929)はポルトガルの海軍軍人・著述家です。1898年(明治31年)来日し、神戸・大阪総領事を勤め日本女性と結婚。徳島で没します。

 多くの著書がありますが「極東遊記」「大日本」「日本通信」「オヨネとコハル」「日本精神」「日本歴史」「徳島の盆踊」などが知られています。

 記念事業実行委員会から私も「モラエス俳句集、歌集」をいただきました。いい句がたくさんありますので、少し紹介したいと思います。

・モラエスを語る母在る夏座敷(谷本栄子)

・恋多きモラエスの阿波藍育つ(勝瀬千津)

・モラエスも聞きしか阿波の祭笛(豊田美枝子)

・モラエスの直筆見入る夏帽子(日下静代)

・地球儀を廻し想ひをモラエス忌(濱田康子)

 

 など徳島ならではの情感にあふれた句が心に留まりました。私も自己流ですがモラエスのことを偲んで俳句を作ってみました。

 

・よしこのを運び来る風モラエス忌

・モラエスの往きし通りの日傘かな

・ふるさとは心の中ぞモラエス忌(和良)

 俳句の世界ではモラエスはまだ知られていません。ですからモラエス忌も季語にはなっていません。

 阿波踊りの練習が始まる7月は徳島が最も徳島らしくなる季節といえるでしょう。モラエス忌がこの季節を表現する季語となるよういい句をたくさん作っていきたいものです。

 

2004年6月22日


 24日公示、7月11日投開票の参議院選挙を前に、日本記者クラブ主催の党首討論会が行われました。国会論戦が不十分だっただけにいいタイミングでの企画だったと思います。


 議論は年金改革と自衛隊のイラク多国籍軍参加問題に集中しましたが、討論を通じて与野党のスタンスの違いや論点も浮かび上がってきました。

 通常国会で成立した年金改革法について与党は「この法律が成立しなかったら年金財政に大きな穴が開くところだった」「年金一元化を含めた抜本改革は三党合意に沿って議論したいので、民主党は協議に参加を」と語りました。

 民主党は「国民年金を含めた一元化か。消費税を引き上げるのか。納税者番号制度を導入するのか。そうした問題に自民党が方向性を出さないと協議に参加しても抜本改革はまた先送りになる」と参加を渋りました。

 この点について公明党は「まず議論することが大事だ。公党間の約束一つ守れないようでは国民との約束も守れない」と糾弾していましたが、そのとおりでしょう。

 イラク問題で与党は「国連決議で多国籍軍の使命に治安維持と復興支援が明記された。自衛隊は従来どおり復興支援を行い、武力の行使はしない」と理解を求めましたが、野党はイラクからの撤退を主張しました。

 憲法改正問題についても各党の基本的な認識が示されました。改憲、加憲、論憲、創憲、護憲といろいろな立場でこの国の基本法を論ずるのはいいことだと思います。

 そのほか、この日は触れませんでしたが経済再生、地域再生、農業再生や文化教育に対する各党の考えも聞きたいものです。

 これらは皆、本来は国会の場で堂々と政策論争すべきテーマでしょう。国会は足の引っ張り合いをする駆け引きの場ではありません。国会が本来の姿になるとき日本はもっといい国になることでしょう。

2004年6月16日


 通常国会が終わりました。この国会では年金制度改革関連法や、道路公団民営化法、司法制度改革関連法、有事関連法など重要法案が審議され成立しましたが、迫力を欠いた与野党の攻防ばかりが目立ちました。


 その象徴が民主、共産、社民の野党三党が共同提出した内閣不信任案でしょう。このところ国会の会期末の恒例行事のようになった感もしますが今回も与党の反対多数であっさり否決されてしまいました。

 かつては内閣不信任案の提出といえば国会は緊迫の頂点に達したものです。深夜まで煌煌と明かりがつき、熱気がほとばしっていました。可決か否決か本会議を開催しなければわからない。そんなときはどの議員も戦場にいるような面構えに見えたものです。

 宮沢内閣のときですが、私は内閣不信任案が可決された瞬間の本会議場にいました。このときはすぐ解散総選挙になりました。そして自民党は選挙で大敗して下野。細川内閣の誕生という筋書きのないドラマに発展したのでした。

 政治とはそういうものだと思います。どんなドラマが始まるのか。そんなきっかけになるときでなければ内閣不信任案という野党の最大の武器は使うべきではないのではないでしょうか。私はそう思います。

 最近は内閣不信任案がバーゲンセールの商品のように扱われていて残念でなりません。これでは与党から「単なるパフォーマンス」といわれてもしようがないでしょう。

 審議ボイコットや、ピケによる委員会開会阻止、長時間演説、牛歩投票に加えて野党出身の副議長を使った議会制度無視の「解散宣言」もありましたが、国民の皆さんはこれも「単なるパフォーマンス」と見破ったのでしょう。同感しませんでした。

 国会がこんなていたらくでは本当に困ります。このままでは参議院選挙の投票率がとても気になります。国会に活を入れるためにも主権者として必ず投票には行きましょう。パフォーマンスでなく事実の上で国民のために働いてくれる党と人を選び抜きたいものです。

2004年6月6日


 年金制度改革関連法案が5日参議院本会議で可決、成立しました。この法案のポイントを整理、確認しておきたいと思います。


 まず、給付(年金額)では2004年10月から少子高齢化に応じて年金額の伸びを自動的に抑える仕組みを導入するとともに、給付の水準を厚生年金では現役世代の平均手取り収入の50パーセント以上と法律に明記しました。国民年金でも納めた保険料の1.7倍の年金が受け取れる計算となっています。

 次に、負担(保険料)では2004年10月から厚生年金保険料を現在の13.58パーセント(労使折半)から引き上げ、2017年度以降は18.3パーセントに。2005年4月から国民年金保険料も現在の月1万3300円から引き上げ、2017年以降は1万6900円になります。

 また、2005年4月からはフリーター対策として20歳代の低所得者に国民年金保険料の納付を最大10年間猶予し、育児期間中の保険料免除期間を1年から3年に拡大します。2006年7月からは国民年金保険料の免除基準を4段階に拡大します。

 このほか、2007年4月からは離婚した場合も厚生年金の分割ができる制度が始まります。専業主婦で「第3号被保険者」の加入届出を忘れていた人の救済も2005年4月からスタートします。

 働く高齢者の年金も働き続けようという意欲を高めるような仕組みになります。60歳代前半で働くと一律に2割カットされていた制度は2005年4月から廃止します。65歳以降の老齢厚生年金の繰り下げ受給制度も導入します。

 最後に年金財政の面では、2009年度までに基礎年金の国庫負担を現在の3分の1から2分の1に引き上げ、年金積立金も高齢化が最も厳しくなる2050年以降の給付に重点的に活用することによって今後100年間年金制度を安定的に継続しようとしています。

 この国会では年金制度そのものについて骨太の議論ができませんでした。この制度改革を土台として建設的な議論が深まっていくことを願ってやみません。

2004年5月31日


 元厚生大臣の森下元晴さんが4月29日の「みどりの日」に随想・写真集「山河 かえりなんいざ」を上梓されました。私は妻と二人で海部町鞆浦南町のご自宅までお歓びに行ってきました。


 お会いするのは久しぶりでしたが大変お元気でした。大きなご自宅に今は一人で住んでいると言っていましたが飄々としたお人柄は少しも変わらず、私の語る思い出に何度も呵呵大笑されました。私達は時間の経つのも忘れてしまうほど楽しいひとときを過ごしました。

 森下さんは大正11年4月12日生まれですから、今年82歳。41歳で初当選し、67歳で引退するまで8期25年間を衆議院議員として活躍されました。さわやかな引退表明は今でも語り草となっています。

 私は昭和55年、58年、61年に同じ選挙区で森下さんと戦いました。58年に初当選したときは「おめでとう。よかったね」と私の議員会館までお祝いに来てくださり「2回目の選挙が肝心ですよ。今から十分準備しておきなさいよ」と兄のように親切にしてくださったことを思い出します。

 森下さんは今回の私と妻の訪問をとりわけ喜んでくれました。墨痕鮮やかに謹呈と書いた本を二人にくださいました。

 私も4年前に私が謹呈した拙著「人間に乾杯」にサインをさせていただきました。森下さんに「この句はいい」と褒めていただいた俳句も添えました。

 ・葉桜を吹き抜けし風みどり色(和良)の句です。今年5月9日徳島市で開かれた第34回四国ホトトギス俳句大会で稲畑汀子選に入った拙句です。森下さんは「みどり色」に共感すると言ってくれました。

 森下さんは県下屈指の山林王といわれた素封家に生まれました。それだけに森林への愛着は年とともに深まるようです。

 「山河 かえりなんいざ」を私は一気に読了しました。「みどり」への賛歌に同感するとともに「愚に亡ぶ勿れ」と現代社会に警告を発する識見にも感動しました。森下さんのますますのご健勝を心から祈っております。

2004年5月24日


 小泉純一郎首相が22日、北朝鮮を1年8ヶ月ぶりに再訪問し、金正日総書記と会談しました。金総書記は5人の拉致被害者家族8人の帰国を受け入れましたが、3人は来日を拒み、5人が帰国しました。


 今回帰国できなかった3人は北京など第3国で家族と再会することになりました。日時は決まっていませんが、近日中に実現することが期待されます。

 また、今まで「死亡」とか「不明」とか主張していた10人の被害者についても金総書記は再調査を確約しました。

 小泉首相は北朝鮮の拉致や核問題での対応を評価し、双方で日朝国交正常化交渉の再開に合意しました。これを機に日本は国際機関を通じて北朝鮮へ人道支援することにもなりました。

 以上が日朝首脳会談の概略ですが世論の評価は分かれています。与党でも「おおむね期待どおり」から「少なくとも前進だった」「総理が行ったわりにはお粗末」と意見はさまざまです。

 野党も「基本的に歓迎したい」に始まり「外交を政局の道具にした」「単なるセレモニー」「外交的には大失態」と評価が分かれています。

 小泉首相は「期待外れという批判があるのも承知しているが、全ての責任は私にある。批判は甘んじて受ける」と言っています。

 大事なことは今回の5人の帰国をどう捉えるかだと私は思います。北朝鮮は拉致問題はこれで事実上決着したとして日本に経済援助を求めるでしょう。その術中に入ってはなりません。

 5人の帰国は拉致問題解決の終わりではなく始まりなのです。問題解決は今始まったばかりなのです。道はまだ遠いのです。そう腹を決めていく以外にないでしょう。

2004年5月16日


 国民年金の未加入・未納問題は「どこまで続く泥濘ぞ」の感じがします。公明党にも13人もいたことが判明しました。まことに残念です。心からお詫びしたいと思います。


 公明党に続いて民主党も33人の未加入・未納議員を公表しました。全政党に未加入・未納者がいたのですから、ここまでくれば自民党も足並みをそろえて党として公表すべきでしょう。

 小泉純一郎首相にも任意加入時とはいえ未加入期間があったことが判明しています。石原慎太郎東京都知事はじめ13知事と4政令市長にも未納期間があったことが分かりました。

 民放の人気キャスター4人にも未納期間があったことが伝えられています。額に汗して働き、乏しい収入のなかから保険料を納め続けている多くの善良な国民の皆様の怒りの声が聞こえてきます。

 大切なことは、国民皆年金制という世界に誇れる制度を持ちながら、自らの不注意が制度自体を空洞化させてしまっているというこの現実を厳しく直視して反省することだと私は思います。

 年金改革法案は参議院での審議となりました。年金を参議院選挙のための政局とするのではなく国家100年の大局に立った骨太の論戦を心から期待しております。

 損か得かなどという次元ではなく、どうすれば100年持つのかという次元で年金を考えてほしい。そして厚生年金と共済年金の一元化から国民年金を含む年金制度そのものの一元化も展望すべきでしょう。

 さらに医療保険や介護保険を加えた社会保障制度全体の一元化も考えるべきです。失業給付などの雇用保険もその中に加えていいかもしれません。

 今の日本の政治は時々刻々の動きに捉われすぎているのではないかと私は思います。もっと堂々とこの国のかたちをこの国の将来の夢を語ってこそ政治家ではないでしょうか。

2004年5月11日


 民主党の菅直人氏が代表を辞任しました。自身の国民年金未加入問題で国民や党の支持者に迷惑をかけたというのがその理由のようです。


 他党や他人の未加入問題では口を極めて痛罵しておきながら、自身の未加入問題には行政の ミスなどと説明し、責任を転嫁する姿はまことにみっともない限りでした。

 居直りを続けてきたものの、世論や党内からも見放され、とうとう辞任せざるを得なかった というのが実情ではないでしょうか。

 それにしても国会議員の国民年金未加入問題はまことに情けないとしか言いようがありません。自民党の安倍幹事長は「未加入は個人の問題であって、それだけ年金の給付が少なくなるだけ」といっているようですがこれは少しおかしいと私は思います。

 なぜなら国民年金制度は自分自身の年金は自分自身で責任を持つという自己責任の原則とともに国民全体で助け合っていくという相互扶助の原則からできているからです。

 日本国では国民皆年金制度を採っています。そのことを知らない人はいないでしょう。まして国会議員たるもの誰に言われなくても率先して国民の義務を果たしていくのは当たり前の話ではないでしょうか。

 当たり前のことすらできていない人は、この際きちんと責任を取ることを強く要望しておきたいと思います。

 今国会最大の法案である年金改革法案は衆議院を通過するようですが、審議時間の割には中身が乏しい感を免れません。

 国民一人一人の心に残るような本格的な骨太の論戦を参議院に期待したいと思います。年金は社会保障制度の骨格であり、人生の安心の基盤であるからです。

2004年5月5日


 欧州連合(EU)は1日、東欧のポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニアの5カ国と旧ソ連領のエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国、それに地中海に浮かぶマルタとキプロスの計10カ国を新たに加え、25カ国の体制となりました。


 EUは経済や通商のみならず、外交や安全保障など政治面での結束も視野に入れた世界史上先例のない連合体です。この壮大な歴史的実験に旧社会主義国が加盟したのはうれしいことです。

 EUは2度の世界大戦で真っ向から衝突した仏独両国が手を握ることでスタートし、その後は米ソ両大国の冷戦対立から距離を置くことによって参加国の拡大を図ることができました。

 その意味でEUは2度の世界大戦と冷戦の産物といえるかもしれません。今回の旧社会主義国の参加で冷戦は名実ともに終焉し、2度の世界大戦の震源地となった欧州に平和の枠組みができた意義はまことに大きいと思います。

 とともに「一つの欧州」となった拡大EUは総人口4億5000万人、GDP(国内総生産)8兆2500億ドルとなり、総人口で米国の約2倍、GDPで米国の約8割の巨大な市場が誕生したことになります。

 ユーロという共通通貨が誕生したとき「必ずドルに対抗できる世界通貨になります」という話を現地に伺った折、欧州銀行など通貨当局の幹部から何度も聞かされました。

 「経済のファンダメンタルズはドルを超えていますから」と力説もされました。その話のとおり為替市場ではユーロがドルを抜き、ユーロ高は今も続いています。

 世界の平和や経済の発展を思うと、私は米国と欧州に北東アジアを加えたいと思います。2極よりも3極の方がよりいいと思うからです。北東アジアの中では中国と日本の役割が大きいことは言うまでもありません。

2004年4月30日


 今年も徳島県植樹祭がみどりの日の29日に行われました。今年は10月24日に県立神山森林公園で開催される第28回全国育樹祭の記念事業として県立高丸山千年の森オープン記念式典の意義も込めて「森づくりフェスタ・イン・千年の森」として実施されました。


 県植樹祭には私はこれまで毎年出席してきました。今年も皆さんとともに出席させていただきました。会場の上勝町大字旭の「県立高丸山千年の森」は標高が1000メートル近い高地でしたが雲ひとつない晴天に恵まれ暑いほどでした。

 高丸山は勝浦川の上流、木沢村と上勝町の境にある標高1438メートルの山です。中腹はブナなどの原生林に被われています。

 このブナの森は第2次世界大戦中、政府から戦闘機のプロペラ用材として差し出すよう命令が下されました。このとき地区の世話役が政府に対して、集落の水源であるブナの森の大切さを訴えて、伐採を中止させたといいます。

 こうした土地の人々の努力もあり、昭和52年3月には徳島県自然環境保全地域の第1号の指定を受け、今回は千年の森として永く森の生態系が守られることになりました。

 ブナの原生林といえば青森県と秋田県にまたがる白神山地や、鳥取県の大山を私は思い出します。ともに現地まで行ってこの目で確かめ政府に保護を訴えたことがあります。木沢村の「しもあれ国有林」もそうでした。

 私達の気持ちが政府を動かしたのでしょうか。今ではブナの林や森が大切にされるようになりました。白神山地は世界遺産に登録され、まさに隔世の感がします。

 「ここから頂上まで40分です。見晴らしは抜群。剣山も雲早山も目の前ですよ」地元の町長さんの丁寧な説明を聞くと、一度は登ってみたいなと私は強く思いました。

2004年4月27日


 雲取山に登ってきました。この山は秩父多摩国立公園の中ほどにそびえ、標高が2017メートル。東京、埼玉、山梨の1都2県にまたがっています。東京都の最高峰であり、日本百名山の一つです。


 山梨県の「三条の湯」の山小屋で1泊し、朝6時から登り始めました。30分もすると全身汗だくです。着替えをして一気に登ります。幸い天候に恵まれ、涼風がとてもありがたかったです。

 難所の岩場では、この冬に登った人たちのアイゼンのつめ跡がたくさん残っていました。長い岩場を登りきったあとの緩やかな坂道で聞いた小鳥達の囀りは疲れを吹き飛ばしてくれました。

 頂上まで最後の40分は急な登りの連続で、まさに胸突き八丁の思いがしました。3時間30分。標準時間で登頂することができました。山頂から見た白富士の大きさにはびっくりしました。

 帰りがまた大変でした。山小屋まで何と3時間40分かかりました。徒然草ではありませんが、降りるときが大切なことがよくわかりました。

 下山して翌日少し足が痛かったですが翌々日にはすっかり回復しました。私は一昨年3月、煙草を止めるとともに毎日1時間歩き続けてきました。それがよかったのかなと思っています。

 健康は人生の全てではない。けれども健康でなければ人生の全てはない。という言葉を聞いたことがあります。これからも健康第一に歩き続けたいと思っています。

 今回の登山でこんな句ができました。

・山小屋の膳に蕨の添えてあり
・春眠を蹴飛ばして行く登山かな
・囀りや岩場のあとの緩き坂
・春の空雲取山に我立てり
・雲取に見たる白富士大きかり
・上りより下りの道のミモザかな
・帰り道若葉ひときは増えてゐし

2004年4月16日


 イラクで人質になっていた日本人3人が8日ぶりに解放されました。3人とも健康状態は良好の様子で本当によかったと思います。


 政府は「テロリストの卑劣な脅しに屈してはならない」と一貫して自衛隊の撤退を拒否し、米国やイラクの各界各層の人々を始め、広く世界の人々に解決への協力を要請してきました。

 人質解放にはイスラム聖職者協会など多くの方々の真剣な努力が実を結んだといえるでしょう。その方々に心から感謝したいと思います。

 それにしても思うことは川口頼子外務大臣も会見で言っていましたが、政府はイラク全土に「退避を勧告します」との渡航情報(危険情報)を出し続けているのです。

 イラクでは民間人や施設を標的とするテロ事件が頻発しており、日本人や日本の関連施設がテロの標的となる可能性があるからです。

 イラクへの渡航は、どのような目的であれ絶対に見合わせること、また、すでにイラクに滞在している人は安全な方法でただちにイラクから退避すること、を私も改めて強く勧告しておきたい。

 自己責任という言葉があります。自己責任とは何か。今の世の中ではどうあるべきなのか。もう一度この言葉の意味を一人一人が噛締めようではありませんか。

 3人が解放されて全てが解決したわけではありません。イラクでは新しく2人の日本人が所在不明になっているのです。政府の引き続いての忍耐強い努力に期待するばかりです。

2004年4月14日


 イラクの日本人人質事件は、犯行グループが「24時間以内の解放」を予告したものの一向に解放されず、こう着状態が続いています。


 なぜ、人質解放が実現しないのか。武装勢力間の意見調整の難航が障害となっているのではないかとか、米軍と武装勢力間の交渉のカードに使われるのではないか、などの見方があるようです。

 そうした中で、日本政府は、犯行グループと直接の連絡ができないため、現地の宗教指導者や部族長などを通じて早期解放を働きかけていると聞きます。

 イラク現地の武装勢力は意見がバラバラで、魑魅魍魎、跳梁跋扈の状態にあるようです。したがって現地からの情報も錯綜しているようです。

 何が実で何が嘘なのか、見当がつかない状態といっていいのではないでしょうか。日本政府は、見えない相手に対して重苦しい戦いを余儀なくされていると私は思います。

 人質解放の遅れに伴って、人質や家族への心情から、犯行グループの要望を聞いて、自衛隊を一時撤退させるべきではとの声が強まることが懸念されます。

 しかし、脅しに屈したらテロリストたちの思うつぼです。次々に同じ手口で凶悪なテロ事件を起こしかねません。

 テロの脅しに屈せず、人質救出に全力を尽くす。これこそ事態解決の本道であることは間違いありません。この本道を日本政府は貫くべきです。

 とともに、自衛隊はイラク人のための人道復興支援活動をしていることをイラクの人々に幅広く正確に伝える努力を日本政府はもっと徹底すべきだと私は思います。

2004年4月8日


 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐり、市民が福岡地裁に訴えていた損害賠償訴訟で亀川清長裁判長は7日、「参拝は職務の執行と認められる。宗教的活動に該当し、憲法の政教分離原則に反する」と首相の参拝を違憲とする判決を言い渡しました。


 判決ではまず1、本件の参拝は内閣総理大臣の職務執行と認められる。2、参拝は憲法によって禁止されている宗教的活動に当たる。と小泉首相の靖国参拝を違憲とする根拠を明示しています。

 次に3、信教を理由とした不利益な取り扱いや強制などはなく、この参拝が原告の信教の自由を侵害したとはいえない。4、賠償の対象となるような法的利益の侵害はなく、この参拝について不法行為成立を認めることはできない。と原告の賠償請求は棄却しています。

 私自身この判決はわかりやすく説得力のあるものであり、評価できるものと思いました。小泉首相はこの判決を謙虚に、かつ重く受け止めるべきです。

 判決の要旨を読んでとくに感じたことがあります。それは「小泉首相の参拝は、合憲性について十分な議論がないまま行われ、その後も繰り返された。今回、裁判所が違憲性の判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高く、当裁判所は違憲性の判断を責務と考えて判示した」と裁判所の考えを示したことです。

 小泉首相の靖国参拝をめぐっては福岡、東京、千葉、大阪、松山、那覇の計6地裁で提訴されましたが、大阪、松山では憲法判断に踏み込みませんでした。

 「なぜ憲法判断に踏み込んだのか」を判決理由の末尾で示した裁判長の異例の説明に行政を監視し、憲法判断を委ねられている司法としての使命感がにじんでいて、私はさわやかさを感じました。

2004年4月4日


 山形県米沢市で3日行われた政府のタウンミーティングで教育基本法改正に対して疑問の声が続出したようです。


 「今、何故教育基本法を変えるのか。その必要が感じられない」と言う声に始まりとくに「愛国心」や「公共心」を条文に盛り込むことについては強い懸念が示されたと聞きます。

 政府側が、少子化や社会状況の変化やいじめ、不登校といった課題などを理由に改正の必要性を述べたのに対しても「基本法のせいで問題が起きているとは思えない」との反論があったようです。

 また、子育て中の主婦は、家庭教育の大切さを条文に明記する考えについて「何で法律で家の中まで口を出されるのか。違和感がある」と述べたと報道されています。

 こうした国民の声に対して政府はどう答えていくのか。私は大変大切だと考えます。何故ならこの声は米沢市だけでなく日本全体の国民の声であると思うからです。

 私自身も現在の日本の状況が深刻な状況にあり、教育の重要性を痛感する一人ですが、教育基本法を変えることで対処しようとすることは、あまりにも浅慮に過ぎると考えます。

 教育基本法は憲法の精神を具体化したものといわれ、準憲法ともいえる法律です。この国の形をどうするのかということを憲法とともに議論するのであれば教育基本法を議論する意味はありますが、いじめや不登校を理由に議論するのは主客転倒の謗りを免れないでしょう。

 慎重の上にも慎重にというのはまさに国民の皆様の声でもあると私は痛感するのですが如何でしょうか。

2004年3月26日


 11月の米大統領選挙はブッシュ大統領と民主党大統領候補のケリー上院議員との一騎打ちとなりそうです。


 3月20日公表された米誌ニューズウィークの世論調査(18,19日実施)によると「もし今日が大統領選挙ならどちらに投票するか」との質問の回答は両氏ともに48%でした。現時点ではまさに互角。伯仲した選挙戦となることが予想されます。

 大統領選挙の争点は第一にイラク問題をはじめとする安全保障の問題、第二に経済政策でしょう。イラク問題ではブッシュ大統領は自らを「戦時大統領」と位置づけ再選を狙っていますがイラクの治安は回復せず、テロが頻発し、イラクを民主主義の国として新生する試みは難航しています。

 戦争の大義とした大量破壊兵器も未発見であり、単独行動主義や先制攻撃論でアフガニスタンからイラクまで戦火を広げたブッシュ政権の軍事政策自体が問い直されることになるかも知れません。

 経済政策では、減税というカンフル注射で景気を持たせている現状をどう打開するかでしょう。財政と貿易の「双子の赤字」への根本的な対処の仕方も重要です。

 現在の米国は戦時経済で好況に見えますが雇用情勢は回復されていません。本格的な景気回復には消費の裾野を広げる雇用の回復が必要です。ここをどうするか。私は大統領選挙の大きな争点だと考えます。

 米大統領選挙が世界的に注目を集めるのは唯一の超大国の動向が世界の平和と繁栄の行方に大きな影響を及ぼすからです。

 日本にとってもまことに重要な大統領選挙だと私は思います。今年は7月に参議院選挙がありますが、11月の米大統領選挙はそれに勝るとも劣らない大きな政治的な意味を持っているといえるでしょう。

2004年3月15日


 徳島市内の鮎喰川に架かる「こんにゃく橋」が撤去されそうです。「こんにゃく橋」は高徳線の鉄橋の下流にある木の橋です。正式には浜高房橋というそうですが、渡るとゆらゆら揺れるのでみんな昔から「こんにゃく橋」と呼んできました。


 私のよく知っている写真家の三好和義さんの写真集に「こんにゃく橋」と麦藁帽子の子供の風景写真があります。そしてこの子供は私自身の子供時代の原風景ですと三好さんは解説されています。

 ところで私もこの子供は全く私自身であるかのように思います。麦藁帽子、ランニングシャツ、半ズボン、腰に手ぬぐい、釣竿に、玉網という出で立ちで日の暮れるれるのも忘れて遊んだのが「こんにゃく橋」のあたりでした。

 私たちの世代にとってはかけがえのない原風景なのですが、この橋は、昨年の台風で橋板が流され、今も通行できないままになっています。そればかりか管理者の徳島市は「幅が狭く危険」と、この際撤去を検討しているというのです。

 背景には同市飯谷町の潜水橋から乗用車が転落した死亡事故で「市が転落防止措置を怠った」との地裁判決が出たことにあるようです。

 国交省は昨年二月、後世に残したい四国の水辺風景八十八箇所を選定。「こんにゃく橋」をその一つに選んでいます。私も何とかして残したいものだと思います。

 徳島は水の都であり、吉野川や鮎喰川に架かる潜水橋は、台風と橋との共存という知恵の産物であったと思います。最近は次々に潜水橋が撤去されていますが、頑固に原風景を残すこともあってよいのではないでしょうか。

2004年3月5日


 国民の政治不信はここに極まれりといった感じがします。民主党の佐藤観樹衆議院議員のことです。佐藤議員は公設秘書の給与を国から騙し取った疑惑が明るみに出て本日議員を辞職しました。


 佐藤前議員は民主党の両院議員総会会長であり、政治とカネを所管する自治相兼国家公安委員長の経験を持つ当選11回のベテラン議員だっただけに私も本当に驚きました。

 名義借りによる秘書給与詐欺事件では、民主党の山本譲司元衆議院議員が平成12年に詐欺罪などで逮捕・起訴され、実刑判決を受け服役しました。社民党の辻元清美元衆議院議員も今年2月、詐欺罪での有罪判決が確定しています。

 辻元元議員の疑惑が発覚したのは平成14年3月です。佐藤前議員はその当時から1年以上も給与詐欺を続けていたと見られています。これが事実とすればまことに悪質といわざるをえません。

 それにしても民主党の不祥事はいつまで続くのでしょうか。今年に入っても、古賀潤一郎衆議院議員(民主党除籍)の学歴詐称問題や、選挙違反による連座制で衆議院議員3人が失職しかねない問題などで世間を騒がせています。

 特に古賀氏の問題は党を離れたから知らぬ顔というのではまことに情けない。党として辞職勧告決議案を出すなど明確なけじめをつけるべきです。

 比例区選出の佐藤氏の辞職と違い、小選挙区選出の古賀氏の辞職は補選となります。だから、辞めさせられないというのではあまりにも党利党略に過ぎるでしょう。これでは売り物の「クリーン」が泣きますよと私は民主党に申し上げたい。

2004年2月19日


 NHKのプロジェクトX「海の革命エンジン 嵐の出漁」(2月3日放送)に登場した船外機開発のリーダー・安川力さんからお手紙をいただきました。安川さんは前回にも紹介しましたがヤマハ時代の私の上司です。


 「余りの反響の大きさに私自身驚いています。もう30年以上も前の話ですので、今の私にはかかわりの無いことになっていただけに、当時の気持ちに自分を戻すまでに時間がかかりました」

 「一つの放送番組を纏めるのに、あんなに膨大な資料とビデオ撮りと時間をかけるものだということを初めて知りました」

 「この放送が、今の時代の若者達に少しでも夢と勇気を与えることができれば、参画した意義があったかもしれないと思っています」

 安川さんらしい謙虚な言葉が綴られていました。私は改めていい先輩を持てて幸せだと感じました。

 プロジェクトX「我ら茨の道を行く」(2月17日放送)では倒産の危機にあったトヨタ自動車が「国産乗用車開発」に打って出る苦闘のドラマが紹介されていました。

 開発の命運を託されたのは工場叩き上げの現場主任・中村健也さんでした。今は亡き中村さんは数々の名言を残しています。

 「開発は闇の中を行く夜行列車だ。度胸で走りきれ」すごい言葉だと思いました。現場に生きた人ならではの迫力が心に迫ってきます。戦後の日本の奇跡的な発展はこうした人たちによって成されたのだと改めて思いました。

2004年2月11日


 NHKの人気番組に私の昔の上司が登場しました。2月3日に放送されたプロジェクトXにです。この日のプロジェクトⅩは「海の革命エンジン 嵐の出漁」でしたが、この船外機の開発リーダーとして登場したのが私のヤマハの時代の上司である安川力さんでした。

 

 番組では「世界の海に革命を起こしたエンジンがある。その名は『船外機』。取り付け1分で、手こぎの小舟がモーターボートに変身する。世界中の沿岸漁業で使われ、漁獲量を飛躍的に伸ばした。今、日本が世界シェア1位を誇る」と船外機を紹介していました。

 船外機そのものは95年前、アメリカで開発されたのですが当初は30時間も使うと壊れてしまいました。そこでバイクメーカーのヤマハが耐久性に優れたバイクのエンジンを転用して生産に乗り出すのですがうまくいかず、社内でも赤字を出すだけの「損害機」と呼ばれる有様でした。

 そこに送り込まれたのが安川さんでした。番組の中では伝説の名車・トヨタ2000GTの開発をし、その生産中止のショックで会社を辞めようかと思っていたときに社長から呼び出され「漁業革命に力を貸してほしい」と頼まれたときの様子が再現されていました。

 安川さんたちはエンジンの改良を重ね、過酷な条件で連続500時間運転可能なエンジンを開発します。ところがブラジルからもスリランカからもクレームが続出します。それを一つ一つ解決し、困難を乗り越え、世界に市場を開いていくのです。そんな人々のドラマに私も感動しました。

 私がヤマハにいたのは番組にも出てきたトヨタ2000GT開発までで、それ以降は退社していますから今回の番組で紹介された船外機開発のドラマは知りません。けれども同じ技術者としてヤマハにいたことを大変誇りに感じました。

 安川さんとは退社後も何回かお会いしました。ご自宅に伺ったこともあります。ご自分で書いた油絵をさりげなく部屋に飾られていました。今年も年賀状をいただきましたが、私はテレビ見ましたよと早速便りしました。先輩がいつまでもお元気で活躍して下さっていることは嬉しい限りです。

2004年2月3日


 学歴詐称疑惑が指摘されている古賀潤一郎衆議院議員を民主党は除籍処分にしました。
当初は離党で対処しようとしたのですが強い世論にこれでは党がもたないと判断したのでしょう。それにしてもこの右往左往振りはみっともない限りでした。


 この問題はこれで終わりにしてはいけません。こうした人物を公認した責任政党として民主党はどの党にも先駆けて辞職勧告決議案を出すべきと私は思います。

 ところでまたまた菅民主党代表が問題発言をしました。1月21日の衆議院本会議での代表質問で「海外の戦地に戦争目的で自衛隊を送らないとしてきた憲法の原則を大きく破る」「自衛隊がテロ攻撃を受けた場合に反撃するのは、武力行使になるのではないか」などと発言したのです。

 これに対して新聞各紙もいっせいに反発しています。読売新聞では「菅氏は『武力行使』と『武器使用』を混同した議論を展開している。憲法が禁じているのは『国際紛争の解決の手段』としての侵略戦争である武力行使だ」と指摘し「次第に派遣反対の論拠が失われ『憲法違反』と言い募るしかなくなったのだろうか」と酷評しています。

 産経新聞も「戦争目的というが、憲法で禁止されているのは国際紛争、すなわち国家間の紛争を解決するための武力行使であり、今回の派遣がそれに当たらないのは自明の理である」と論破しています。

 新聞ばかりではありません。身内の鳩山前代表からも、菅氏の発言は「党内のコンセンサスではない」といわれるしまつです。間違った事実認識に基づいて間違った議論を組み立てるのはどうやら菅氏の常套手段のようですがこれでは野党第一党の党首の名が泣きます。

 菅氏の狙いは今夏の参議院選挙を念頭に対決姿勢を国民に印象づけることにあったのでしょうが「イラク復興支援法に基づく自衛隊派遣に反対」から、いきなり「自衛隊派遣自体が憲法違反」にまで反対の論拠をエスカレートさせたのはまさに『イラ菅』らしい豹変振りでした。

2004年1月28日


 まことに情けないことになりました。これほどまでに国会議員の質が落ちてしまったのかと思うと怒りさえ込み上げてきます。民主党の古賀潤一郎衆議院議員のことです。


 古賀氏は昨年の衆議院選挙で初当選しましたが、学歴詐称が明確となり、民主党を離党するという。そして歳費はいただかないからこのまま議員でいさせてほしいとのたまうのです。そればかりか、議員を続けながら勉強して大学の単位をとり学歴詐称とならぬようきちんと卒業したいとおっしゃるのです。

 街頭演説で涙ながらにそう語る彼の姿を見て私は心から悲しくなりました。一言で言えば「政治ごっこ」している「幼児」の姿としかいいようがありませんでした。どうやら議員となるべき人ではない人を議員に選んでしまったようです。

 民主党の対応もまことに情けないものでした。「虚偽だったかもしれないが学歴詐称の意思があったとは思えない」とはどういうことなのか。「虚偽」もしくは「錯誤(思い込み)」の行為は「詐称」とはならないとでもいうのでしょうか。

 公職選挙法第235条1項には「公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴(中略)に虚偽の事項を公にした者は2年以下の禁固又は30万円以下の罰金に処する」と書かれています。虚偽をしたことをもって詐称の意思があったとするのは当然でしょう。

 総選挙に負けても勝った勝ったと喜んでいるのが民主党です。もともと国民大衆の普通の感覚からかけ離れているからしかたがないのでしょうか。

 それにしても身内に対するチンプンカンプンで大甘な対応は情けない限りです。こんな政党に大事な日本の政治を任すことはできないと私はつくづく思いました。

2004年1月19日


 第159通常国会が今日19日召集されました。会期は6月16日までの150日間で、イラクへの自衛隊派遣の承認や年金制度改革などが焦点でしょう。私も外野席からじっくり見ていきたいと思っています。


 それにしても最近の菅民主党代表は狂ってしまったのではないかと思わざるをえません。もともと「イラ菅」と親しい仲間からも言われるほどその激情ぶりはつとに有名ではありますが、今回のはまことにお粗末です。

 1月13日の民主党大会で菅代表は「日本の政治が公明党を通して創価学会という一宗教団体に支配されてはなりません」などと公明党と支持団体である創価学会に対して事実を捻じ曲げるとんでもない中傷発言を行い、敵意をむき出しにしました。

 さらに記者会見でも、映画の「エイリアン」になぞらえて「(選挙を通して)自民党の内側に公明党が入り込んで、自民党をコントロールしている」などと暴言を吐く始末でした。

 神崎公明党代表は1月16日の自民党大会に出席し「自民党と公明党の関係が成熟し、小泉首相の下でさまざまな改革が進んでいることに対する驚きと嫉妬の念ではないか。そこに自公を分断しようとの意図を感じる」と言っています。

 私もこれでは野党第一党の党首の名が泣くと思います。野党第一党というのは時の政権に正々堂々と政策論争を挑み、これを論破して国民の信を得ていくべきです。

 またその党首は日本の針路に対して明確なビジョンを示し、この国とこの国の国民に対して強い責任を持つことを瞬時も忘れてはなりません。言葉の遊びに終始しているのはまことに情けない限りです。

 二大政党制がマスコミで宣伝されていますが、これではまさに羊頭狗肉でしょう。真に責任ある野党第一党は今世紀中に現れるのでしょうか。日暮れて道遠しの感を禁じえません。

2004年1月9日


 年賀状は答礼のものに限り、かつ自筆でなければならないという申し合わせが衆議院議員時代にはありました。そんな束縛から解放されて今年、私は20年ぶりに印刷した年賀状を出すことができました。


 年賀状は自分でパソコンを使って作りました。古い住所録を一つ一つ新しいものと照合しながら、そしてお一人お一人のお顔を思い浮かべながら、自分自身でまず年賀状の住所録を作りました。

 次に、裏の絵も自分の気に入ったものを二組作ってカラー印刷しました。最近のパソコンのカラーは綺麗ですね。年賀葉書はもちろんインクジェット紙を使いました。

 年賀状の製作と印刷には20日ほどかかりましたが、私にとってはとても充実した日々になりました。パソコンに郵便番号を入れただけで住所が出てくるのは驚きでしたし、とても面白いものでした。

 年賀状受付開始日に郵便局に出したのも生まれて初めての経験でした。たくさんの方々が差し出されているのを感心しながら見ていたものです。

 新年になりました。我が家にもどっさり年賀状が届きました。一枚一枚お一人お一人のことを思い浮かべながら拝見しました。

 なかには私が出していないにもかかわらず丁寧な一言を添えて近況を伝えてくださった方も数多くあります。私は「すみません。遅くなりましたが」と反省しながら返事の年賀状を書きました。

 そんなこんなで今年私が出した年賀状は560枚。いただいた年賀状は442枚となりました。

・賀状うづたかしかのひとよりは来ず(桂 信子)という句があります。ちょっと気になる118人の皆様のご多幸とご健勝を祈るばかりです。

2004年1月1日


 皆様新年明けましておめでとうございます。昨年末はイランで4万人もの方々が地震で死亡したという悲しいニュースがありました。悲しみと寒さの中で新年を迎えた人々のことを思うと心が締め付けられます。


 今年こそは戦争や争いごとのない平和で安穏な日々を期待したいのですが、世界の実情はその方向とは全く逆の方向に向かっているようでまことに残念です。

 少しでもいいから世界が平和に近づくように祈るような気持ちで私は新年を迎えました。みなさんもおそらくそうでしょう。

 日本国中から、そして北京やサンパウロ、ワシントンからも新年を祝って年賀やメールをたくさんいただきましたがその文面には平和を祈るものが例年以上に多かったように思います。

 在日ルーマニア大使には年末に徳島までお越しいただきました。私は眉山山頂に案内し、徳島空襲のことを説明しました。美しい町並みが全くの灰燼に帰した死の町であったことを説明するのは大変難しいことでした。

 古代壁画から世界25ヶ国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで西洋の名画1074点を陶板で再現した大塚国際美術館にも案内しました。

 ここでは門外不出の「ゲルニカ」をはじめ、戦争で散逸していたエル・グレコの祭壇画の衝立復元を鑑賞したり、レオナルド・ダ・ビンチが描いた「最後の晩餐」をそのまま復元した食事まで試食させていただきました。

 大塚国際美術館には「第九の怒濤」もありました。波濤逆巻く大海原の中で漂流物にしがみつく小さな人間は、激動する世界の中の日本のように私は思いました。