2006年

2006年12月27日


 スウェーデンのストックホルムから「こちらではこのお菓子をクリスマスに食べます。するとどの人も優しくなるのです」と書かれたクリスマスカードとともに「ぺッパーカーカ」なるお菓子を送っていただきました。


 早速、家族でいただきました。日本流に言うと生姜入りの煎餅といったところでしょうか。甘さは抑えてあって大人の味のするお菓子でした。

 私がストックホルムに行ったのは昨年の3月です。お隣のフィンランドのヘルシンキには3度行きましたが、ストックホルムに行ったのはこのときだけです。

 それでもストックホルムの町の印象は今も忘れることができません。春3月とはいえ私の宿泊したホテルの前の港には厚い氷が張り詰めていました。

 氷の割れ目にできた海面に鴨がたくさん来ていたことを覚えています。夜の食事を終えてホテルに帰る時には大雪となり、北の国に来たことをつくづく実感したものです。

 雪の旧市街はさながらサンタクロースの世界でした。綺麗な飾りつけ、足元を照らす蝋燭の光、蛍光灯ではなく暖かいランプの灯、中世がそのまま続いているような落ち着いた町のたたずまいでした。

 古いレストランに入ると地下室の下に古い地下室がありました。この地域の地盤は大変に固い岩盤でできているために古い家を取り壊すことなく、古い家の上に新しい家を建てるとのことでした。

 ノーベル賞を作ったノーベルはダイナマイトの発明者ですが、ダイナマイトは固い岩盤に苦しんできたスウェーデン人ならではの発明といえるでしょう。

 ノーベル賞の受賞パーティが開かれる旧市庁舎には受賞者が式場からパーティ会場に下 りる階段があります。どんな傾斜にすれば受賞者が一番輝いて見えるか何度も何度も実際に歩いて作り直したといっていました。

 パーティで使われる食器のセットも展示されていましたが、案外に質素でした。華美なものではなく、中身の濃いものを好むこの国らしい品揃えだと思いました。

 日本のクリスマスはもっと落ち着いたものであってほしいとつくづく思います。やっぱりクリスマスは北欧のものなのでしょうね。・クリスマススウェーデンからお菓子来る(和良)

2006年12月14日


 天草五橋に行ってきました。前日の雨が嘘のような冬晴れとなり地元の人もびっくりするほど雲仙も天草諸島もよく見えました。


 九州本土と天草諸島をつなぐ天草五橋は雲仙天草国立公園の名所であり、天草パールラインの愛称で親しまれています。

 天草五橋の完成は1966年(昭和41年)9月24日ですから、開通して40年が経っています。熊本市内から順に1号橋(天門橋)2号橋(大矢野橋)3号橋(中の橋)4号橋(前島橋)5号橋(松島橋)ですが今も大勢の観光客が来ていました。

 それぞれの橋がその時代の粋を集めた工法で作られていて面白かったです。「連続トラス」の橋、「ランガートラス」の橋、「ヤジロベー工法」で作られた橋、「本格的なパイプアーチの橋」などそれぞれが風光明媚な風景を一層際立たせていました。

 天草五橋ができるまでの天草は、時化のたびに船が欠航して九州本土と連絡が取れなくなりました。生活物資の運搬は止まり、急患が出ても搬送できませんでした。

 そんな天草の人々の思いを熊本県議会で訴えた人がいました。天草に生まれた森慈秀さんです。県議会議員1年生の森さんは一般質問で橋の必要性を訴えたのです。1936年(昭和11年)12月のことでした。

 あまりにもスケールの大きな話に周囲は冷ややかでした。議場には失笑と野次が飛んだそうです。しかし、森さんは真剣でした。

 提案から21年後の1958年(昭和33年)4月、森さんは架橋を実現させるため旧大矢野町長選に出馬し初当選します。

 天草では架橋の運動資金を集めるためにすでに「一人一円献金」運動が始まっていました。森さんは自らもその先頭に立ち、町長時代の3期12年の全給与を町に寄付しています。

 森さんが架橋構想を県議会で訴えてから30年後の1966年(昭和41年)天草五橋の開通式が行われました。パレードに集まった島民は25000人と伝えられています。

 天草五橋の開通から7年後の1973年(昭和48年)4月、森さんは逝去します。83歳でした。島民は町葬でその死を悼み、2号橋公園に銅像を建てました。

 大鳴門橋の中川虎之助さんを思い出す話でした。それにしても大鳴門橋の近辺にはどこを探しても中川さんを偲ぶものはありません。少し寂しいなと思いました。

2006年11月27日


 徳島県でホトトギス直系の俳誌として知られる「祖谷」の誌友の皆さんとともに世界遺産に登録された熊野古道に一泊吟行してきました。


 熊野古道とは、伊勢や大阪、京都と紀伊半島南部にある熊野の地を結ぶ道のことをいいます。古くから「くまのみち」「熊野街道」などと呼ばれて人々に親しまれてきました。

 2004年7月7日に世界遺産に登録されたのですが、熊野古道が自然と人との深い関わりのなかで形成された文化的価値を持ち、現在に至るまで良好な形で伝えられていることが高く評価されました。

 私たちが吟行したのは中辺路の熊野古道にある虚子、立子、汀子の句碑を中心にした一帯でした。この付近には「野中の一方杉」や「とがの木茶屋」「秀衡桜」「野中の清水」などの名所があり、この日もたくさんの観光客でにぎわっていました。

 句碑は「鶯や御幸の輿もゆるめけん」(虚子)「うぐいすの句碑守る老に別れ惜し」(立子)「中辺路は峡深き里暮れ早し」(汀子)と、それぞれ形の違った石に彫られていました。

 「秀衡桜」はまるで句碑守のように三つの句碑を抱きかかえるようにそびえていました。
「とがの木茶屋」には投句箱が置かれていました。

 その場で私はこんな句をつくりました。

・秀衡も行きたる古道冬ざるる
・投句箱置かれある茶屋冬紅葉
・親と子と孫の句碑守る大冬木
・虚子立子汀子の句碑や帰り花
・句碑守は茶屋のご亭主冬日差
・近道はこごしき坂の紅葉道

 冬の日は早く暮れます。中でも深い山の中にある熊野古道です。時雨れていたからかも知れませんが午後3時には暗くなってきました。

 そんな次第で急ぎ急ぎの熊野古道の吟行でしたが、少しは古代の雰囲気に触れた思いがしました。この吟行句会を企画立案し実行してくださった湯浅苔巌さんに心から感謝します。

2006年10月29日


 私は18日から27日まで家内とともに中欧を観光旅行してきました。関西空港からヘルシンキを経由してベルリン、ポツダム、ドレスデン、マイセン、プラハ、ウィーン、ブラチスラバ、ブタペストなどの都市を回ってきました。


 国別に言いますとドイツ(旧東ドイツ)、チェコ、オーストリア、スロバキア、ハンガリーの5カ国になります。

 ベルリンでは、今も記念として残してある「ベルリンの壁」を見ました。1989年11月9日、壁の崩壊とともに東西ドイツが再統一を果たしたのですが、旧東ドイツの時代に私は壁を見たことがあり、当時を思い出しました。

 旧東ドイツの時代に宿泊したブランデンブルグ門の前のホテルは綺麗に化粧直しされていました。ブランデンブルグ門は自由と開放の象徴となっていてパントマイムの大道芸人が繰り出し、お祭騒ぎのような明るい雰囲気でした。

 ドレスデンは初めての訪問でしたが、第2次世界大戦の大空襲から見事に蘇り、昔のままに復興された壮大で美しい建築群には圧倒されました。

 プラハでは中世そのままのプラハ城や1402年に建造され今も現役のカレル橋を見てきました。カレル橋から眺めた霧のドナウは絵のような美しさでした。街全体が世界文化遺産に指定されていることも最もだと思いました。

 ウィーンはハプスブルグ家が誕生した土地です。シェーンブルン宮殿やベルベデーレ宮殿、そしてリヒテンシュタイン城があるウィーンの森にも足を運びました。

 ブラチスラバはスロバキアの首都ですが私は知りませんでした。旧市街の中央広場には日章旗がはためく日本大使館がありました。「見つめる君」の彫刻が印象に残りました。

 ブタペストも初めての訪問でした。すばらしい快晴にも恵まれゲレルトの丘から眺めるドナウ川と王宮や国会議事堂などの風景は流石に世界文化遺産だと思いました。ドナウ川クルーズでは最高の夜景を楽しみました。

 今回訪問した都市の多くは冷戦時代には共産主義の陣営にありました。「今も形を変えた残党が少しいますが、大多数は資本主義の社会になったことを喜んでいます」と言った現地の人の声が印象に残る旅でした。

2006年10月12日


 安倍晋三首相が中国と韓国を訪問しました。中国では胡錦濤国家主席、韓国では盧武鉉(ノムヒョン)大統領とそれぞれ首脳会談を行いました。

 小泉純一郎前首相の靖国神社参拝で冷え込んでいた日中、日韓関係が改善されることになったことは大変意義深いことです。

 日本の首相の訪中は実に5年ぶりでした。政冷経熱といわれた両国関係を象徴す るかのように政治では疎遠な関係が長く続いていたのです。

 就任後最初の訪問先に中国を選んだのは戦後では安倍首相が初めてでした。中国も国賓級の歓待をしました。

 安倍首相は胡錦濤国家主席らの訪日を招請。胡主席はその場で同意したと聞いています。今回をきっかけに日中首脳は相互訪問を重ねながら信頼関係を深めていってもらいたいものです。

 日韓首脳会談は、日中首脳会談の翌日行われました。北朝鮮が核実験実施を発表したその日でした。

 安倍首相と盧大統領は、北朝鮮の核実験を「国際社会の平和と安全に対する脅威であり、断じて容認できない」と日韓が連携して対応をとることで合意しました。

 今回の安倍首相の中国と韓国の訪問は、北朝鮮が核実験の実施を発表するという緊急事態の中で行われただけにまことに意義深いものとなりました。

 北朝鮮の核実験の実施は、日本、中国、韓国のみならず東アジア全域の安全保障を揺るがしています。この事態に対して日本、中国、韓国がどこまで連携した対応ができるか。アジアをはじめ世界は見つめています。

 日本は国連安全保障理事会での制裁決議の議論を進めていくとともに、今こそ中韓両国との外交関係を発展させアジア全体の平和に積極的に貢献していくべきです。

2006年9月27日


 安倍新内閣が発足しました。私は国民の一人としてまず第1に中国や韓国との関係を正常なものにしてもらいたいと心から思います。


 安倍新首相は自民党総裁就任時に「改革の炎を、松明をしっかりと受け継ぐ」と述べました。小泉改革、小泉政治の継承への強い使命感があふれていました。

 改革は大事です。小泉政治があればこそ不良債権の処理や景気回復、歳出削減などが進んだことは確かでしょう。

 けれども正直言って「負の遺産」も残しました。靖国神社参拝に端を発した中国や韓国との外交関係の冷却化は誰の目にも明らかです。

 政権の交代は政策転換の機会でもあります。継承すべきは継承し、転換すべき は勇気を持って大胆に転換すべきです。

 安倍新首相自身「首脳同士が胸襟を開いて話し合うことが大切だ」と言っています。今更言うまでもありませんが外交方針の転換は政権発足直後が最大のチャンスです。

 田中首相は内閣発足2ヵ月後に日中国交正常化を実現しました。中曽根内閣も内閣発足2ヵ月後に電撃的に韓国を訪問して教科書問題でこじれていた日韓関係を修復しています。

 安倍内閣もこうした過去の事例を参考にして大胆に中国や韓国との関係修復に取り組んでもらいたいものです。

 私の親しい中国の友人からも中国の国民は安倍内閣に期待していますとのメイルが届きました。政冷経熱ではなく政熱経熱の両国関係になってほしいと念願するのは私だけではないのです。

2006年9月19日


 元公明党委員長の石田幸四郎さんが18日午前8時50分、特発性肺線維症のため、名古屋市内の病院で亡くなりました。76歳でした。


 突然の訃報に接し、私は本当にびっくりしました。「また、徳島にも行きたいですね」と会うたびにおっしゃっていたのにこんなに早く逝ってしまわれるとは思いませんでした。

 私は昭和41年から44年まで名古屋にいました。その当時私は新聞記者をしていたのですが、石田幸四郎さんはどんなときも誠実で温厚でした。大きな心で包み込むかのように話されていた姿を今もはっきりと思い出します。

 昭和42年石田幸四郎さんは公明党の衆議院第1期生として衆院旧愛知6区から初当選しました。当時私は24歳。青年の一人として一生懸命に応援しました。

 昭和58年私は衆院旧徳島全県区から衆議院議員に初当選しました。石田幸四郎さんは自分のことのように喜んでくれました。

 平成元年5月、石田幸四郎さんは公明党委員長に就任しました。私が衆議院2期目の時でした。石田幸四郎さんが委員長になったことで党が急に明るくなったような気持ちがしました。

 石田幸四郎委員長は徳島にもよく来てくれました。いつも気さくで飾り気のないお人柄を慕ってたくさんの公明党ファンが徳島にもできました。

 台風のため飛行機が3時間遅れたときは「すまんすまん」といいながら講演会場に駆けつけてくれました。話のできる時間はほんの少しでしたが万雷の拍手でした。

 休日に鳴門で一緒に鯵を釣ったこともあります。このときは本当によく釣れて3つのクーラーが一杯になりました。それを東京まで持って帰っていただいたのですが、奥様が全部料理されて知り合いの方々にふるまわれたと後で聞きました。

 徳島に返却されたクーラーにはお礼の手紙とともに老舗の羊羹がたくさん入っていました。クーラーをお貸しした私の友人は感動していつもその話をしていました。

 石田幸四郎さんは、本当にいい人でした。温かい人でした。在りし日のお姿をしのびつつ心からご冥福をお祈りいたします。いろいろとお世話になり本当にありがとうございました。

2006年8月4日


 白血病のため、26歳で亡くなった徳島県小松島市出身のグラフィックデザイナー鈴木章さんの遺作展があす5日から7日まで徳島県三好市池田町のヨンデンプラザ池田で始まります。


 鈴木章さんが亡くなってからもう8年になります。月の経つのは本当に早いものです。徳島市で行われたお葬式のとき私は弔辞を述べさせていただきましたが、今もはっきりと覚えています。

 私は彼のご両親と30年来のお付き合いをしてきました。お父さんは秀三さん、お母さんは綾子さんで二人ともとても素敵な方です。秀三さんはキューイ栽培、綾子さんはピアノの先生をされています。

 鈴木章さんと初めて会ったのは秀三さんの実家がある徳島県上勝町でした。蜜柑畑の空き地でキャッチボールをしましたが、とても元気で快活な小学生でした。

 その章さんが突然白血病で東京の病院に入院したと綾子さんから聞いたとき、私はびっくりしてわが耳を疑いました。

 急遽、お見舞いに駆けつけた病室は無菌室で物々しい雰囲気でした。ところが本人はあのキャッチボールをしたときと同じ笑顔で迎えてくれたのです。

 骨髄移植の手術を受け、いったんは回復に向かいました。病室にパソコンを持ち込んで描いたコンピューター・グラフィックスの個展を徳島と東京で開催できるほどでした。

 ところが個展を開催した直後、個展を見届けるようにして他界されたのです。本当に残念なことでした。人生これからというときに本当に無念だったことでしょう。

 ご家族は章さんの遺志を継いで毎年遺作展を開き、売り上げの一部を骨髄バンクに寄付しています。海外でも開催されましたが大きな反響があったと聞いています。

 今年はあすからの三好市のあと、26日から27日まで海陽町の海南文化会館ロビー、9月7日石井町の名西高校「名高祭」で開催されます。徳島市以外の徳島県での開催は初めてです。

 生前「感謝の気持ちと生きている喜びを、大勢に伝えたい」と語っていた章さん。彼の作品を見るとそんな思いが伝わってきます。この機会に多くの人に見てもらいたいと私も思います。

2006年7月24日


 千秋楽で全勝街道を突っ走ってきた横綱を倒したけれど横綱昇進は見送られました。そんな大関・白鵬に私は心からの声援を送りたいと思います。


 1横綱4大関を倒しての13勝。先場所の優勝に続いての準優勝ですが「横綱は最後まで優勝争いに絡んでいるのが役目」という点では物足りないと見なされたのでしょう。

 初日に朝赤龍に敗れ、9日目に雅山に首根っこを押さえつけられて完敗しています。これで横綱・朝青龍の独走を許し、14日には早々と優勝を決められてしまいました。

 朝青龍に勝ったのは朝青龍の優勝が決まったあとですから文字通り「後の祭り」となってしまいました。

 そうはいうものの千秋楽の直接対決はまことに力の入る大一番でした。私も自宅でテレビ観戦しましたが全勝の横綱を力でねじ伏せた力相撲は見事なものでした。

 横綱昇進は見送られましたが、この一番が「青鵬時代」の開幕を告げるものと映ったのは私だけではないでしょう。

 朝青龍の一人横綱は来場所で17場所になり、史上最長をさらに更新します。新横綱の誕生はずっと待ちつづけられてきました。

 新横綱への最短距離にいるのは間違いなく白鵬です。それだけに「誰からも文句のつけようがない横綱昇進」を白鵬に期待したというのが今回の見送りの真意であると私は理解しています。

 「相撲の土俵は戦う場所。また、いい成績を残せるよう祈ります」と語る白鵬。白鵬の綱取りへの青年らしいはつらつとした再挑戦を全国の相撲ファンが期待しています。

2006年7月13日


 上﨑暮潮さんが句集「眉山」を発刊されました。「眉山」は「花鳥阿波」「藍倉」に続く暮潮さんの第3句集で平成11年から平成17年までの作品386句が収まっています。


 私も早速購入して鑑賞させていただきました。386句はホトトギスの稲畑汀子選の中からさらに自選されたものだけに味わい深いものばかりでした。

 暮潮さんは大正11年徳島市に生まれ、名古屋帝国大学工学部を卒業しています。昭和16年にホトトギスに初入選して以来ホトトギスへの投句は欠かしたことがないそうです。

 昭和21年俳誌「祖谷」の創刊に加わり、62年からは主宰をされています。私の高校時代の恩師でもあり、私も先生のご紹介で3年前から「祖谷」の誌友に加えていただいています。

 句集「眉山」には徳島に生まれ徳島に住み徳島を愛し続けてこられた先生ならではの阿波の四季が見事なまでに活写されています。なかでも私が特に感動したのはこんな句です。

新春
 ・八重潮といふ一枚に初凪げる

 ・立春の光を海へ吉野川
 ・野の森のひとつは札所揚雲雀
 ・折からの雪飛ぶ眉山初桜

 ・伸びてきし藍に阿波の日阿波の風
 ・ほととぎす谷戸を変えれば猛々し
 ・楊梅を食うべすなわちモラエス忌
 ・つくづくと阿波は山国ねむの花
 ・吉野川火の海となる夕焼かな

 ・唄流るときはしづかに阿波踊
 ・飛入りを促す囃子阿波踊
 ・かなかなに落つるほかなき夕日かな
 ・土手よりも低き日輪藍の花
 ・月一つ飛島一つ我一人
 ・かく長く厚き太刀魚阿波の国

 ・冬至とは眉山頂上なる落暉
 ・眉山雪もよひ小諸の虚子をふと
 ・阿波も紀も遠き山並野水仙

 ごく一部の句を紹介させていただきました。いくつかの句は「祖谷」の句会で拝見したことがあり私には特に親しみがありました。ご関心のある皆様のご購読をお勧めします。

2006年6月21日


 日本銀行の福井俊彦総裁に対する信頼が大きく揺らいでいます。総裁がインサイダー取引容疑で逮捕された村上世彰氏のファンドに1000万円を拠出していたことが明らかになったからです。

 福井総裁は20日、運用実績などを国会に報告し関係資料を公表しました。それによりますと1999年10月に拠出した1000万円が2005年末には1231万円の運用益を生んでいるほか、途中で242万円の分配金を受け取っていたことがわかりました。

 金融政策の責任者である日銀総裁が、国民には低金利を強いる一方で自らはファンド投資で大きな利益を上げていたのです。

 総裁は、月給の30%を半年間自主返上し、ファンドの清算で得た利益と元本は慈善団体へ寄付したいと言っているようですが、問題が発覚してからの言葉ですから白々しく聞こえます。

 野党は国会での閉会中審査を通して福井総裁の責任をただすようですが、国民に見える形で徹底的に解明していただきたいと思います。

 特に村上ファンドから格別の支援を受けていた議員がいたことが明らかとなった民主党は腰が引けているのではないかと心配されています。この機会にそうした懸念を一挙に吹き飛ばしてもらいたいものです。

 これまでの福井総裁の国会発言を聞いている限りでは、中央銀行総裁としての責任の重さを本当に理解しているのか心配でなりません。

 「たいした額ではなく、巨額にもうかっている感じはしない」「残高が非常に大きくなっているという感覚は最近までなかったが、04年末と05年末の間でジャンプしている。非常に驚いた」こうした一連の発言を聞く限り総裁の金銭感覚は庶民から大きく乖離しているといえるのではないでしょうか。

 日本銀行は、総裁の資金拠出は内規に違反していないといっていますが、ルールに反していないからといって総裁の責任が免責されるものではありません。

 内規そのもののが国民の目線に立って見直されるべきでしょう。とともに「通貨の番人」としての日銀総裁の誇り高いノーブレス・オブリージュを期待したいものです。

2006年5月25日


 大手銀行6グループが過去最高の最終利益を上げていることがわかりました。なかにはトヨタ自動車と肩を並べる1兆円の純利益を出している銀行もあります。


 早くも国民から「儲け過ぎだ」「利益還元を」の声が上がっていますが当然のことでしょう。決算発表の前日の新聞に「わが社は振り込み手数料を無料にします」と全面広告を出していた銀行がありましたが、こうした国民の反応を予想していたのでしょう。

 金融機関の破綻は金融システムの破綻につながる心配があるという理由で、公的資金が投入されました。銀行の不良債権処理のために国民はほとんどゼロの預金金利に耐え続けてきました。

 本来国民に入るべきだった利子収入は340兆円といわれます。それが銀行の再建のために使われたといっても過言ではありません。

 その意味で銀行が厳しい時代を乗り越えられたのは国民の犠牲があったればこそといえるのではないでしょうか。

 銀行が過去最高の最終利益を上げたのはまことに喜ばしいことですが、銀行自身がどれほどの自己努力をしてきたのか。よく考えてもらいたいものです。

 公的資金の返済は当然のこととして、あのバブル期に急騰する不動産ばかりに目を奪われ過剰融資したのは誰か。バブルのアクセルを踏み続けたのは誰か。しっかり反省してもらいたいと思います。

 もう一つ気になることは「融資活動による本業の儲け」が減っていることです。手数料収入に頼るのではなく、企業の将来性や経営者の経営能力を見抜き、大胆に投資する。そして成功報酬としての融資利益をいただくのが本来の銀行の姿ではないでしょうか。

 日本銀行は金融の量的緩和という世界にも稀な非常時政策を終止しました。あとはいつ公定歩合を引き上げるかでしょう。

 日本経済も長い不況のトンネルをようやく抜け出ようとしています。本来の経済活動に入ろうという矢先です。そんなときに銀行が過去最高の最終利益に浮かれていてはどうしようもありません。

 今日があるのはすべて国民のおかげと感謝しつつ、今度は国民に感謝される銀行となるよう努力に努力を重ねてもらいたいものです。

2006年5月11日


 私の母校である徳島県立徳島工業高校は一昨年創立100周年を迎えた古い歴史を持っています。今年は5月1日に創立記念式典が行われました。その1週間ほど前、私に「後輩が元気になる体験談を話してほしい」と記念講演の依頼がありました。


 50分間、500人の生徒と先生の前でどんな話ができるだろうか。1日考えた上で「やってみます」と返事しました。つたない体験談かもしれないけれど、後輩が「元気になった」と喜んでくれたらこんなにうれしいことはないと思ったからです。

 私はいつもノー原稿で話をするのですが、このときばかりはレジメを作りました。話が横道にそれたり、重複したり、話し忘れがないように論点を整理しました。焦点をはっきりさせるため、話を絞り込むことにも力を入れました。

 5日間ほど試行錯誤して話の結論部分は「人生にこうでなければならないという答えはない。答えは向こうからやってくる」「意志あるところ道あり。どんなところにも道はできる」「いい人でなければいい仕事はできない。だから、いい人になろう」「裏口から入るな。正面から堂々と行こう。生きがいこそ人生だからだ」という私の人生訓にしました。

 私の体験談とこの結論だけでは、話の押し売りみたいになるので、本論に入る前に枕を三つ並べることにしました。

 最初の枕は「21世紀は答えのない時代。20世紀は先行する欧米が答えを持っていた。わかっている答えを教えていればよかった。今は違う。30人の生徒がいれば30の答えがあるというデンマークの教育方針に学ぼう」という大前研一さんの話。

 二つ目は「論理だけでは世界が破綻する。論理偏重の欧米型文明でなく『情』や『形』を重んじた日本型文明を」という藤原正彦さんの言葉。100万部のベストセラー『国家の品格』から何箇所か引用させていただきました。

 三つ目は英国のケンブリッジ大学留学中「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と書かれた教授のサインに発奮した白洲次郎の話。マッカーサーを叱り飛ばした日本人の分厚い伝記小説を完読して、私自身が感動した箇所を話させていただきました。

 準備万端を整えて登壇したつもりなのですが、50分というのは意外に短いもので用意したレジメを全部話すことはできませんでした。それでも講演の後、皆さんから大きな拍手をいただき、大変うれしく思いました。

 後日、校長先生からは「豊富な知識と経験に基づいた話は本校生徒はもとより教職員にとっても、深い感銘を受け示唆に富むものでした」との丁寧な礼状をいただきました。「それはあまりにも褒めすぎですよ。こんな機会を与えていただきこちらこそありがとうございました」というのが今の私の正直な気持ちです。

2006年4月17日


 映画「バルトの楽園」の特別試写会(徳島新聞社主催)が16日、全国に先駆けて鳴門市文化会館で開かれました。冒頭、監督の出目昌伸さんが舞台で挨拶し「徳島の皆さんの協力ですばらしい映画ができました。どうぞご覧ください」と感謝の言葉を述べました。


 この映画は第1次世界大戦中に中国の青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ兵を収容した板東俘虜収容所(現鳴門市大麻町桧)を舞台に繰り広げられた人間と人間のドラマです。私も鑑賞させていただきましたが、涙が止まらないほど感動しました。

 とくにドイツ兵の父を尋ねてはるばると俘虜収容所まで来た混血の少女への松江豊寿所長の人間味あふれる対応。父が戦場で亡くなっていたことを知ったときの少女の悲しみ。父の遺品として渡されるペンダントの少女の写真には胸が締め付けられました。

 戦場で少女の父は鉄砲を打たないと上官にとがめられ、女々しいとそのペンダントをもぎ取られてしまったのでした。その上官は少女を前にして「あなたの父上は立派な軍人でした」と語ります。そして「ペンダントの鎖を切ってしまったのは私です。直してあげてほしい」と松江所長にお願いをするのです。

 上官のクルト・ハインリッヒ役は「ヒットラー最後の12日間」で主役を務めた世界的名優ブルーノー・ガンツ。松江豊寿所長は松平健。この二人の軍人としてまた人間同士としての友情も見ごたえがありました。

 ベルサイユで休戦条約が調印され、大ドイツ帝国が崩壊したことを知ったハインリッヒは戦死した部下とともにありたいと自殺を図ります。「なぜ死なせてくれないのだ」と攻め寄るハインリッヒに松江所長は「あなたは生き残ったドイツ兵のために生きなければならない」と語りかけます。

 松江所長の父は戊辰戦争で薩長を中心とする政府軍に負け、北海道の最果ての地に屯田兵として送られます。それでも生き続けました。生き続けることができたのは会津人の誇りを忘れなかったからだとハインリッヒに語るのです。

 生き抜くことを決意したハインリッヒは自由を宣告されたドイツ兵達とともにベートーベンの「交響曲第9番 歓喜の歌」を松江所長や板東の人たちに贈ろうと提案します。自らオルガンで「歓喜の歌」のメロディを奏でてみせるハインリッヒの指が私には震えているように見えました。

 映画はいよいよクライマックスに入ります。「第9」ははじめのうちは静かに過ぎ去っていった日々を回顧します。次第に戦争の荒々しい慟哭の日々となり、また静寂に戻ります。そして合唱が始まるとともに歓喜の歌の旋律が繰り返えされます。

 合唱は大合唱となります。観客も総立ちです。日本で初めて演奏された「第9」のなんと感動的な光景でしょうか。目の見えないドイツの負傷兵は「そこにドイツが見える」と言います。子供を戦争で失い、戦争を憎んでいた人も我を忘れて拍手をしています。

 映画はカラヤンの指揮する「第9」の場面へと変わります。すべてが終わって場内が明るくなってもまだ立ち上がれないほど余韻の残る映画でした。映画は6月17日から全国公開されます。皆さんにぜひ見ていただきたいと私は思います。

2006年4月10日


 先日のNHK番組「そのとき歴史が動いた」で白洲次郎のことが放送され、話題を呼んでいます。私もたまたま見ていたのですが「こんな日本人がいたのだ」と深い感動を覚えました。


 白洲次郎(1902年2月17日-1985年11月18日)は兵庫県芦屋市生まれの実業家。1948年(昭和23年)商工省に設置された貿易庁の初代長官に就任。1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行しています。

 このとき首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語を日本語に直し沖縄の施政権返還を加筆した話はあまりにも有名です。

 白洲自身は英国仕込みの流暢な英語を話し連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を向こうにまわして原則を貫き、主張すべきところは頑固に主張してきました。

 その姿はGHQの要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめたほどです。昭和天皇のダグラス・マッカーサーへのクリスマスプレゼントをぞんざいに扱われたと憤激し、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれています。

 また、GHQ民生局長のホイットニー准将に英語がうまいと褒められたとき「あなたももう少し勉強すればうまくなりますよ」とやり返したエピソードもあるほどです。

 英語のほうが流暢で、日本語は訥弁だったといわれた白洲が講和条約の受諾演説を英語でなく日本語にしたのは何故か。「講和条約は国と国が対等の関係で結ぶものであるから日本は日本語で行うべきである」白洲の説明はまことに筋が通っていると私も思いました。

 番組の映像でも日本語で書き上げたばかりの巻紙の原稿を読み上げる吉田全権の姿が見られましたが、クローズアップされた原稿は大きな字で加筆や推敲された跡がはっきりとわかりました。

 吉田退陣後は政治から縁を切り、実業界に戻るのですが、東北電力会長をはじめ大洋漁業や日本テレビなどの役員や顧問を歴任しています。

 身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能で80歳までポルシェを乗り回し、ゴルフを楽しんでいたそうです。享年83歳。正子夫人に残した遺言書には「葬式無用 戒名不要」と書かれていました。

 「葬式無用 戒名不要」の遺言はそのまま正子夫人にも受け継がれ、今お二人は兵庫県三田市の墓所に仲良く眠っているとのことです。

2006年3月31日


 桜便りが全国から聞かれる季節になりました。徳島では3分咲きのところが多いようです。今週から来週にかけてが見ごろでしょう。

 今年私は3月18日から21日にかけて一般開放された武家屋敷・原田家住宅(徳島市かちどき橋3丁目43)で蜂須賀桜を見てきました。

 蜂須賀桜は沖縄系のカンヒザクラと山桜が自然交配した雑種であるカンザクラの一種で、江戸時代まで徳島城御殿にあったといわれています。

 明治初期の廃藩置県に伴い、最後の徳島藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)が重臣の原田家当主・一平に守り育てるよう託し、現在の位置に移植されたようです。

 樹齢約250年というこの桜の開花は早く2月中旬には淡い紅色の花をつけます。以来3月中旬まで約1ヶ月にわたって咲き続けます。

 今年の一般開放では「蜂須賀桜と武家屋敷の会」(桑原信義会長)の皆さんが抹茶とお菓子の接待をしてくださいました。

 原田家の7代目当主・原田弘基さんも大阪から駆けつけてくださり、昔話に花を咲かせながらのお花見は格別に風情のあるものになりました。

 原田家住宅は江戸時代末期の武家屋敷で明治15年に城下からこの地に移築されたと聞きました。戦災にも遭わず、地震にも耐えて藩政時代のたたずまいをそのまま残しています。

 「蜂須賀桜と武家屋敷の会」では、武家屋敷と蜂須賀桜を保存しながら、次の世代へ引き継ぐために蜂須賀桜の苗木作りもしているようです。

 この苗木は県下の各地で植樹されています。私も2月12日「蜂須賀桜と武家屋敷の会」の皆さんやJRの幹部の方々とともにJR山瀬駅に植樹してきました。

 関係者の皆さんは「徳島県下のすべてのJRの駅に植えたい」といっていましたが私も大賛成です。どこの駅でも一足早い蜂須賀桜のお花見ができる。そんな徳島になればうれしいですね。

2006年3月23日


 「60歳でボケる人 80歳でボケない人」と題する講演が昨22日徳島市内の新聞放送会館であり、私も聞いてきました。


 講演したのは湘南長寿園病院(神奈川県藤沢市)のフレディ松川院長です。松川さんは25年間にわたって同病院で認知症のお年寄りを見てきただけに、経験を踏まえた話には説得力がありました。

 まず、ボケには前兆があるとして①何度も同じことを言う②好きだったものに見向きもしなくなる③おしゃれをしなくなる④物を探す仕草が多くなる⑤雑然としていても平気になる⑥風呂好きが入らなくなる⑦いつも同じ料理になる⑧塩加減砂糖加減がおかしくなる⑨同じ物を買ってくる、などをあげられました。

 次に、ボケる原因として「性格」「職業」「生活習慣」の三つを指摘されました。「性格」では「ボケる人は頑固で協調性がないなど偏りのある性格の人が多い。ボケない人は、おおらかで、感情が豊かで、自立心が強い性格の人が多い」と分析されました。

 「職業」では、手や頭を使う人はボケない。定年まで身分が保障されている堅い職業の人はボケやすい。公務員や教員は要注意とのことです。

 しかし、「性格」や「職業」は簡単には変えることができません。変えることができるのは「生活習慣」しかありません。

 では、どんな生活習慣にすればボケないのでしょうか。松川さんは言います。①歩く②本を読む③料理を作る④同好会などに参加する⑤旅行する⑥恋をする⑦日記を書く、の7つを実践すること。一言で言えば頭を働かせる習慣ををつけることが最大のボケ予防になるとのことです。

 私の周囲には80歳、90歳、100歳になってもかくしゃくとしている人が多くいます。とくに俳句の句友の皆さんの若さにはいつも感動しています。吟行という行動を通していつも新しい発見をし、創作する日ごろの生活習慣がそんな若さの源泉となっているのでしょう。

 ・河豚刺の皿の花びら掬ひけり(郁子) 郁子さんは徳島市にお住まいのホトトギス同人です。83歳とお聞きしていますがいつの句会にも参加され、みずみずしい句を発表されています。 この句にもそんな繊細な感性があふれています。

 私はこんな先輩に囲まれて俳句を作ることのできる喜びを毎日感じています。この創作への意欲こそ私のボケ予防法と決めて俳句の道に精進したいと思います。

2006年3月17日


 真冬が戻ってきたかのように日本列島が冷え込んだ14日、徳島県では徳島市内で3センチの積雪があったほか、三好市の西祖谷や東祖谷などの山々も久々に雪に覆われました。


 降雪や凍結の影響で同日午前10時までに県内で52件の自動車事故が発生、うち4件は人身事故だったようです。

 幹線道路は朝から渋滞し、長い車の列ができました。吉野川に架かる吉野川大橋が凍結し、新町川に架かる末広大橋は閉鎖されたため、国道11号や55号ではとくに渋滞がひどかったようです。

 また、神戸淡路鳴門自動車道の淡路島全域が午前9時35分まで通行止めになり、京阪神とを結ぶ高速バス68便が運休になりました。

 私はこの日、朝早くから車で高知市まで行く用事がありました。心配しながら出発したのですが、高知への高速道路は凍結も渋滞もなく、快適でした。

 とくに三好市から高知市までの山間部は従来交通の隘路で冬場は心配されたものでした。ところがほとんどの区間がきれいに整備された4車線となっていました。

 雪は降り続けましたが、トンネルの区間が多いためか、雪を気にしないで走ることができました。むしろ山々の雪景色を楽しみながらのドライブとなりました。

 南国にいて雪の備えをするのは難しいものですが、この日はとくに道路の整備の必要性を感じました。徳島県は橋が多いので橋の凍結防止をもっと考えておく必要があると思いました。

 時ならぬ雪は迷惑千万でしたが、私には俳句の句材となった「春の雪」でした。

・天花粉まぶしたるごと春の雪
・風吹かばもう消えてゐる春の雪
・山ごとに濃淡のあり春の雪
・ひとときの薄化粧かな春の雪
・天辺はもう解けてゐる春の雪
・渋滞の列ながながと春の雪
・超多忙交通巡査春の雪
・始発便空席目立つ春の雪(和良)

 

2006年2月27日


 史上最多の80カ国・地域が参加して開かれた第20回冬季五輪トリノ大会は26日夜(日本時間27日未明)閉幕しました。


 この大会に日本は国外開催では史上最多となる112選手を送り「メダル5個」を目標にしていましたが結果はフィギュアスケート女子を制した荒川静香さんの金メダル1個に終わりました。

 一時は「メダル0」も心配されただけに荒川静香さんの金メダルには本当に感動しました。私も競技の映像を何度も見ましたが完璧といってよい出来栄えだったのではないでしょうか。

 荒川静香さんはかつて「トリノは年下の人たちの大会だと思っていた。私は解説者で行くのかな」といっていたことがあるようです。彼女にとってトリノへの道はそれほど遠かった。そして金メダルへの道ははるかに遠かったに違いありません。

 「伊藤みどり以来の天才」といわれた彼女は5歳でスケートを始め、小学校3年生で3回転ジャンプを決めたそうです。中学校時代には全国中学校大会優勝、全日本ジュニア3連覇。高校時代には長野五輪にも出場しています。

 2004年3月には早稲田大学を卒業。ドイツでの世界選手権で左太もも肉離れを起こし、坐骨を折りながらも優勝しましたが、その年12月の全日本選手権は怪我のため途中で棄権しました。

 翌年の世界選手権では9位に。まさに天国から地獄に落ちた思いだったことでしょう。そのどん底から復活し、今回の五輪代表に選ばれたのでした。

 本番ではショートプログラムで上位だったサーシャ・コーエン(米)や、イリーナ・スルツカヤ(ロシア)が緊張感からか転倒してしまいました。

 そんな中、彼女の緻密で正確で美しい競技は余裕さえ感じられるほどでした。それは地獄から這い上がった精神力の美しさであったかもしれません。

2006年2月17日


 トリノ冬季五輪で日本選手が苦戦しています。「メダル5個」の目標は下方修正が必要な雲行きです。 関係者からは早くも「差が歴然としていた」「騒ぎすぎ」「浮かれすぎだった。地に足がついていない」「今回は選手を過大評価していた」など、反省の弁がしきりです。

 私も毎日テレビで観戦していて何かおかしいなと思っていました。日本選手からスポーツマンらしいさわやかさを感じることが少なかったからです。

 これまでのところで敗戦の原因を分析するのは早計ですが、どうすれば見ている人に感動を与えることができるのか考えてほしいと思います。

 勝つことも大切ですが、負けても感動する負け方があります。「完敗でした」と語った日本人選手がいましたが、私はその選手にはさわやかさを感じました。

 人は五輪の競技を通して選手が自己の体力や知力や精神力の限界に挑戦する姿を見ているのです。真剣さを見ているのです。

 真剣な挑戦はドラマを生みます。筋書きのないドラマが生まれるのです。私はそれをこれからの競技に期待したいと思います。

 後半には注目のフィギュアスケート女子もあります。日本の代表がどんな競技をするのか日本中が固唾を呑んで見守っています。

 五輪がこのまま何の盛り上がりもなく終わってしまっては情けないです。私はこれから生まれるドラマを楽しみにテレビ観戦を続けたいと思っています。。

 前半は不振だったけど後半はすごかった。やっぱり五輪はよかった。日本もよかった。と喜び合える展開になることを心から祈っています。

2006年2月6日


 衆議院・前議員会誌(平成18年・新春号)に俳句入門と題する私の拙文が掲載されましたので紹介させていただきます。


 私が俳句に興味を持ったのは、中学生のころです。四国は子規や虚子を生んだ松山をはじめ、私の徳島でも昔から俳句が盛んでした。

 そんな影響があったのか、社会人になって初めての給料で買ったのも秋桜子の季語集でした。今も大切に使っています。

 本格的に始めたのは、衆議院議員を勇退してからですからまだ2年ほどです。高校の恩師・上崎暮潮先生がホトトギスの同人で「一緒にやらないか」とお誘いを受けてからなのです。

 暮潮先生は、今年83歳ですが、吟行には毎回出席され、句会にも月に4,5回は出席されています。私も吟行、句会と大忙しです。句友の皆さんがいい人ばかりで毎日を楽しく過ごしています。

 暮潮先生に勧められて、日本伝統俳句協会の「花鳥諷詠」やホトトギス社の「ホトトギス」に投句も始めました。

 今年は「花鳥諷詠」の稲畑汀子選に

・灯を消して虫の世界に居りにけり

 「ホトトギス」の雑詠・稲畑広太郎選に

・三椏の花は照れ屋でありにけり
・ホトトギス百八歳の虚子忌かな
・観潮船二つ並んで帰りけり
・藍の葉の揺れて涼風届きけり
・藍若葉始まる苦労知りもせず
・眉山より老鶯しきりモラエス忌

「ホトトギス」の天地有情・稲畑汀子選に

・手作りの小川なれども柳鮠
・虚子の墓訪ねし道の著我の花
・歩み来し道はるかなり夕桜
・大渦といえど束の間春の潮
・寺町に虚子恋ふる句碑濃紫陽花
・句碑ひとつ入梅の日に生まれけり
・モラエスも見しかこの路地花樗
・雨上がり青田いよいよ競ひをり

などの句が入選いたしました。これからも俳句の道に精進したいと思っています。

2006年1月26日


 IT(情報技術)時代の寵児の陥落はまことにあっけないものでした。ライブドアの社長・堀江貴文氏が証券取引法違反容疑で逮捕されました。


 読売新聞で元東京地検特捜部長の河上和雄氏が語っています。「要するに彼は、小さな会社を次々と買収する中に、株価を吊り上げる技巧を凝らして金を集めたということ。言葉は悪いが、金銭至上主義の子供が背伸びをしただけのことだ」

 さらに「しかし、そんな彼の実像に多くの人々が厳しい目を向けてこなかった。良かれ悪しかれ、日本を代表する政党の幹事長や大臣たち、日本経団連の幹部、そしてマスコミも、ころっとだまされたと言える。彼を、改革の旗手とか、若手IT起業者の手本のようにもてはやした人々の、人を見る目のなさにあきれる」とまで言い切っています。

 私もまことに同感です。本人はもちろんのこととして、もてはやした人の責任もこの際はっきりとしていくべきでしょう。そしてこうした企業風土を生んでいる背景にもメスを入れるべきと考えます。

 本来こうした摘発は特捜部のような捜査機関が動く前に、金融庁や証券取引監視委員会、東京証券取引所が監視すべきであり、これらの機能がうまく働かなかった点も検証されるべきです。

 粉飾決算の疑いもあると報道されています。監査法人や監査役の責任も追及されなければなりません。

 ライブドアという会社がどれほど中身のある会社であったのか、私にはわかりません。けれども人の心まで「金で買える」という経営者は異常であり、どこかおかしいなと思っていました。

 中身のないバブルは簡単に弾けてしまいます。虚像は一瞬にして崩壊します。この事件は人間にとって大切なものは何か、企業にとって大切なものは何かを考え直す生きた教材かもしれません。

2006年1月2日


 新年明けましておめでとうございます。今年もたくさん年賀状をいただきました。ありがとうございました。


 新聞の新年号を読むと「人材育成」という言葉に何回も出会いました。これからの時代は「モノ」ではなく「ヒト」が発展のカギを握るということでしょうか。

 私が社外監査役をする会社ではグローバルに事業を展開するに当たって一番大切なことは人材育成であるという認識を持っています。そして人材育成のポイントは礼儀正しい人づくりにあると常日頃から社員教育が展開されています。

 昨年末、上海で中国エリアのマネージャー研修が行われまして私も参加してきました。研修の対象者は中国各地の有限公司の総経理や総監、董事長。つまり現地子会社の社長を対象に礼儀作法の研修が行われたのです。

 2泊3日で行われた研修では、航空会社のスチュワーデスの研修を行ってきた元国際線スチュワーデスの岩田真理子さんから、「接遇の基本」「短時間でよい第一印象を与えるための基本」などを学びました。

 「身だしなみと立ち居振る舞い」「名刺交換のマナー」「正しい敬語の使い方」などでは参加者自身によるオリエンテーションもあり、新入社員のように真剣に学ぶ『社長』の姿に感動しました。

 岩田さんは「小さなことほど丁寧に、当たり前のことほど真剣に」と接遇のポイントを語っていました。私もそんな気構えでこの一年を過ごしたいと思います。