2014年

2014年12月16日


 14日に投開票された第47回衆議院選挙の結果、自民党290、公明党35で計325議席となり、与党として定数の3分の2(317)を上回りました。


 自民党は公示前の295議席には及びませんでしたが、公明党は公示前の31議席を4議席上回り、現行の小選挙区比例代表制では最多となる35議席を獲得しました。


 安倍晋三首相(自民党総裁)と公明党の山口那津男代表は15日午後、国会内で会談し、衆議院選挙の結果を踏まえ、引き続き自公連立政権を継続することを確認しました。


 安倍首相と山口代表は8項目にわたる自公連立政権合意を交わし、それぞれ署名しました。連立政権合意では冒頭に選挙の結果に決しておごることなく、必ずやその負託にこたえていかなければならないと自らを戒めています。


 そのうえで我が国の再生を成し遂げる具体的な施策として①景気回復、経済再生の実現②地方創生・女性の活躍③社会保障と税の一体改革④東日本大震災からの復興と防災・減災対策等⑤エネルギー・原発政策⑥積極的平和外交⑦選挙制度改革と定数削減⑧憲法改正を掲げています。


 注目されるのは社会保障と税の一体改革の中で消費税の軽減税率については「関係事業者を含む国民の理解を得たうえで、税率10%時に導入する。平成29年度からの導入を目指して、対象品目、区分整理、安定財源等について早急に具体的な検討を進める」と明記したことです。


 軽減税率については公明党が一貫して主張してきたことですが、連立政権合意書の中に明記されたことは素晴らしいことだと私は思います。この合意のままに実現されるよう強く期待しております。

2014年11月21日

 

 本日、衆議院が解散しました。政府は臨時閣議で12月2日公示、14日投開票の衆議院選挙日程を決めました。

 

 衆議院選挙は2012年12月に自民、公明両党が大勝し、民主党から政権奪還して以来、2年ぶりに行われ、この期間の安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」の信任を問うものになります。

 

 安倍首相はアベノミクスの経済政策をさらに進め、デフレ脱却を間違いのないものにするために来年10月に予定されていた消費税の10%への引き上げを2017年4月に延期すると表明しました。

 

 これは前回の選挙で国民の信を問うた民主、自民、公明の「3党合意」に盛り込んだ消費増税の時期を変更するものです。

 

 安倍首相の言うように税制は民主主義の基本であり、消費税という国民に直接関係の深い税制を変更する以上、衆議院を解散して国民に信を問うだけの大義があると私も思います。

 

 民主党政権は、マニフェストになかった消費増税を選挙で世に問うことなく決めたことで国民の信を失いました。国民との約束という最も民主的なルールを踏み外したからです。この轍を踏んではなりません。

 

 衆議院選挙は政権を選択する選挙です。今後の政権運営を引き続き自公政権に任せて、アベノミクスを継続し、デフレを脱却するか、それとも具体的な経済政策を何一つ提示できずに離合集散を繰り返す野党に政権を委ねるのかを問う選挙なのです。

 

 私は安定した自公政権の実現により、2017年の消費税10%を受け入れられる環境を整えてもらいたいと強く切望します。

 

 そのためには地方や家庭にまでアベノミクスによる経済効果を反映すること、そして軽減税率の導入によって消費税の逆進性を緩和することです。この二つを自公政権に期待したいと私は思います。

2014年10月29日

 

 東京からお客様が来たので大歩危峡の舟下りを楽しんでいただいた後、祖谷のかずら橋にご案内しました。

 

 大歩危峡はいつもの年より水量が豊かでした。水は藍色に澄み渡り、舟乗り場付近では川魚が群れを成して泳ぐ姿がよく見えました。

 

 船頭さんの説明も長くなく短くもなくほど良い加減で紅葉の始まった渓谷の美しさをじっくりと堪能していただくことができました。

 

 祖谷のかずら橋の付近には大きな駐車場ができていて大変便利になっていました。秘境の面影は今も残っていて紅葉した木々がかずら橋に景観を添えていました。

 

 ここも水の量が例年になく豊かで橋の下を轟々と流れる水は壮観でした。橋のたもとにある滝も轟々と音を立てて落ちていました。

 

 昔ながらの鮎やあめごを串に挿して炉辺で焼いたものや地元では「でこまわし」と親しまれるじゃが芋や蒟蒻、豆腐を串に挿した味噌焼きは今も人気があり、私たちも茶屋でいただきました。

 

 祖谷のかずら橋は最近では外国人にも人気があり、私たちが行ったときも数人の外国人に出会いました。

 

 大歩危峡と祖谷のかずら橋を観光した翌日は神山温泉に参りました。夜は我が家で「ぼうぜの鮨」を味わっていただきました。

 

 「ぼうぜ」は「イボダイ」のことですが、徳島県では秋祭の時季になると各家庭で「ぼうぜの鮨」を作るのです。

 

 新米と旬の「ぼうぜ」で作る「ぼうぜの鮨」には特産の酢橘と酢橘の酢を使います。家内が作る「ぼうぜの鮨」は人気があり、この日も二男の家族が来てお客様とともにおいしくいただきました。

 

 その翌日には鳴門に宿泊して釣りも楽しんでいただきましたが「ベラ7匹」の釣果でした。それでも「徳島は自然が残っていて本当に素晴らしい」と褒めていただき嬉しく思いました。

 

 こんな句ができました。

 

・大歩危の淵は藍色水の秋

・行く秋や大歩危峡に舟下り

・秘境かな紅葉早しかずら橋

・かずら橋渡り紅葉の谷渡り

・落人の憩ひし滝の水澄みて

・瀬戸の海波一つなき小春かな

・山の上のホテルに冬日暖かく 

2014年10月12日

 

 お陰様で耐震のための自宅のリフォームも無事終わりましたので、長野県、岐阜県、山梨県、千葉県に旅行して過ぎゆく秋を惜しんできました。

 

 長野県では中山道の妻籠宿に行きました。中山道は江戸と京を結び、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。

 

 中山道六十九次のうち江戸から数えて四十二番めとなる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交差する交通の要塞として古くから賑わいを見せていました。

 

 昔のままの面影を残すこの宿場町は外国人にも人気があり、私たちが訪問した時もさまざまな国から観光客が来ていました。

 

 宿泊した昼神温泉は中央自動車道の恵那山トンネル工事の折、掘り当てた温泉から始まった温泉郷ですが、立派なホテルや瀟洒な旅館が立ち並んでいました。

 

 六千人のユダヤ人を救った杉原千畝さんの故郷である岐阜県八百津町も訪問し、記念館を見学したあと、胸像のある「人道の丘」を散策しました。

 

 日本政府の意向を無視してまでもユダヤ人を救うために一外交官として「命のビザ」を発給しつづけた杉原千畝さん。その胸像の顔は穏やかなものでした。

 

 山梨県では葡萄で有名な勝沼でワイナリー巡りをした後、石和温泉で武田信玄が好きだったという「ほうとう」をいただきました。

 

 千葉県では日蓮大聖人の誕生の地である小湊や立宗宣言をした清澄寺を訪問したあと、房総半島の南端にある野島崎灯台にも足を伸ばしました。

 

 南房総の海岸線をドライブするのは初めてでしたが、個性にあふれた「道の駅」が各地に整備されていて「道の駅」を巡る旅ともなりました。

 

 今回の旅行でこんな句ができました。

 

・格子まで朝顔咲かせ妻籠宿

・コスモスを手桶に活けて妻籠宿

・街道の路地に明るき葉鶏頭

・百日紅咲き継ぐ山の湯宿かな

・秋晴や花も輝く記念館

・一木で棚埋め尽くしたる葡萄

・天に地に葡萄の棚の伸びる町

・新酒汲む葡萄の香り愛でながら

・水澄めり群れ出る鯛のくっきりと

・房総の南端巡り秋惜しむ 

2014年9月23日

 

 公明党は21日、東京都港区の品川インターシティホールで結党50年を記念する第10回全国大会を盛大に開催しました。私も山口代表からご招待をいただき参加させていただきました。

 

 大会で再任された山口代表は「不変の原点である『大衆とともに』の立党精神を全身にみなぎらせ、『次の50年』への新たな党の基盤を築き、次代を担う人材群を輩出していく」と力強く決意を披歴されました。

 

 また、連立与党として安倍改造内閣を支え、「国民のための政策実現に不退転の決意で邁進する」とも語りました。

 

 さらに明年春の統一地方選挙については「半数の候補者が新人となる選挙であり、何としても全員当選を勝ち取っていこう」と呼びかけました。

 

 来賓として出席した安倍首相(自民党総裁)も「ともに力を合わせて来年の地方統一選挙に大きな勝利を得て政権奪還を『完成』させ、日本を世界の中で輝く国にしていきたい」と語りかけました。

 

 来年は戦後70年。再び日本が活力に満ちた国になるよう改革を進め、国民が安心して暮らせる社会を政治が実現しなければならない。その先頭に立つ責任が公明党にはあります。

 

 党大会では公明党が綱領に掲げる「中道」の今日的な意義や、これからの時代に求められる政治の在り方を確認し合いましたが、「中道」には幅広い合意形成の軸となり、政治の新しい進路を切り開いていく重い責務があります。

 

 その道は決して平たんな道ではなく、苦難を伴う道であり、開拓者の道でもあります。「中道」を旗頭とする公明党には勇気ある決断と行動で日本の新時代を切り開いていってほしいと私は心から切望しています。

2014年8月19日

 

 阿波踊最終日の15日、徳島城博物館で津田の盆踊を見てきました。あいにくの雨だったのですが定刻の数分前に雨は上がり、予定通り、徳島城博物館の庭園で上演されました。

 

 津田は徳島市の東端に位置する漁師町ですが、江戸時代には徳島城下でも漁業や海上交通の要衝として賑わった歴史があります。

 

 今に伝わる津田の盆踊は海で遭難した人々に捧げる鎮魂の精霊踊です。はるか沖に向かって「お父もんてこーい」「早うもんてこーい」と繰り返される涙声に引かれて浜辺に帰る新仏を待ってしめやかに踊ったのが始まりとされています。

 

 特別な踊り衣装を新調するのではなく、普段着のまま旗を押し立てて残された子を背に踊る「子持ち組」の女衆や「ステテコ組」と呼ばれる若衆、そして漁師町らしく大漁旗を浴衣にして踊る人もいました。

 

 私は県外の観光客とともに拝見したのですが、豪華な桟敷で見る阿波踊とは一味違った感動を憶えました。

 

 この津田の盆踊は昭和61年に保存会が設立されて以来、有志の皆さんの地道な努力が実を結び、平成元年には全国民俗芸能大会に招待されて全国に知られるようになりました。そして平成14年には徳島県無形民俗文化財に指定されています。

 

 庭園で踊りを披露した後、博物館の特設舞台に移動した津田の盆踊の皆さんは詰めかけた観光客にも「皆さんもご一緒に踊りましょう」と声をかけ、大きな踊りの輪が会場いっぱいに広がりました。

 

 私はこんな句を作りました。

 

・精霊を呼び寄す声や盆踊

・亡き人を呼び寄せ津田の盆踊

・精霊を呼び寄せ津田の盆踊

・残されし子を背に津田の盆踊

・よしこのの声透き通る盆踊

・阿波踊終はれば虫の夜となり 

2014年7月13日

 

 明日から我が家をリフォームすることになりました。工事は約2か月かかるそうです。その間はこの4月に我が家の隣に新築した二男の家に住むことにしました。二男も二男の嫁も孫たちも共に住むことを歓迎してくれて嬉しく思っています。

 

 古い建築基準法の時代に建築した我が家は耐震診断をしていただいた結果、予想される東南海地震には耐えることができないことが判明したので、全面的な耐震工事をすることにしたのです。

 

 耐震工事の機会に椅子での生活を想定して畳の部屋をなくしました。半月板損傷のときに痛感したバリアフリーにもしました。間仕切りのないリビングルームにアイランドキッチン、床暖房の工事もすることにしました。

 

 準備は1年前から始めたのですが、ほぼ新築並みの工事となるため大変な準備作業となりました。

 

 まず不要な家財道具の処分から始めたのですが、いざ始めてみると思い出の刻まれたものばかりで処分のできないものも多く、半分は処分したいと思ったのですが実際は3割ほどしか処分はできませんでした。

 

 全面工事となる1階部分の家財は倉庫に預けたのですが、それだけで大型トラック2台の荷物となりました。

 

 それにしましても35年間の蔵書はおびただしいものでした。古いものは全部捨ててしまいたい衝動にも駆られましたが、捨ててしまえば二度と手に入らないものが多く処分の仕分け作業には思いのほか時間がかかりました。

 

 記念の写真やアルバムも大変な量と数になりました。陶器やガラス製品など台所用品の整理にも時間がかかりました。写真もアルバムも本も陶器やガラス製品などの台所用品も重くて段ボールの箱に詰める作業は私たちの年齢には大変な重労働となりました。

 

 リフォームの準備作業がこんなにも大変なことになるとは想像もしていませんでした。段ボールの箱詰めだけで1か月かかりました。毎日毎日、箱詰め作業と処分作業が続きました。

 

 家財道具をはじめ箱詰めされた荷物の一切が運び出されて、がらんどうになった我が家はずいぶん広く感じられました。いよいよ明日から耐震工事が始まります。

 

 完成予定は9月15日、毎週、工事の進捗状況を確認して関係者と打ち合わせの会議を行うことも決まりました。東南海地震が来ても大丈夫な家に生まれ変わりゆく我が家をこの2か月間しっかり観察していきたいと思っています。

2014年6月18日

 

 愛知県武豊町に住む長男の家族と飛騨高山に一泊旅行してきました。飛騨高山には何回か行ったことがありますが、長男夫婦に運転してもらって高速道路で行く旅行は快適でした。

 

 高山では「ひだホテルプラザ」に宿泊しました。温泉も料理も大変良かったです。総勢7人で一つの部屋に泊まったのですが部屋も広くて快適でした。

 

 3人の孫たちも大喜びでした。家族全員がホテルで用意してくれた甚平を着てゆったりした気分でホテルライフを楽しみました。

 

 宮川の朝市にも家族全員で徒歩で出かけました。老舗の味噌屋さんに立ち寄ったり、自分の畑で栽培した赤かぶを漬物にして売っている方から話を聞きながら土産に買い込んだり、楽しいショッピングとなりました。

 

 古い町並が続く上三之町は私の好きなところですが、この日もたくさんの観光客が来ていました。外国人の姿も以前より多くなっているように感じました。

 

 きれいな水の流れる家々の玄関先には季節の花が咲き競っていました。古都の情緒を大切にしてこの町に住む人たちの気概を感じる風景でした。

 

 飛騨高山のあと、ユネスコの世界文化遺産に登録された白川郷合掌造り集落にも足を運びました。

 

 白川郷には過去に2回ほど行ったことがありますが、今回は高速道路が開通して秘境の感じはしなくなっていました。

 

 ここもたくさんの観光客が来ていました。外国人の数もめっきり増えていました。それでも合掌造り集落は昔のままの風景が残るようによく手入れされていました。

 

 今回の旅行でこんな句ができました。

 

・残雪や飛騨高山は山の古都

・葉柳の下に陣取り朝の市

・玄関に鉄線咲かせ古都に住む

・水盤の水に冷やして菓子を売る

・甚平のお子様用も用意され

・植田はや合掌造り映しをり

・百年の昔のままにあやめ咲く

・虹鱒の泳ぐ小流れ雪解水

2014年6月5日

 

 高校の同窓会で長良川の鵜飼を見てきました。長良川では1300年以上前から鵜飼が行われていたそうです。長良川の鵜匠は世襲で受け継がれ、正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といいます。岐阜市には現在6人の鵜匠が活躍しています。

 

 私たちが宿泊したホテルは創業150年の老舗旅館「十八楼」です。俳人芭蕉が吉野行脚の帰途、鵜飼見物のために立ち寄った草庵を「十八楼」と名付けたのがこのホテルの起源と伝えられています。

 

 芭蕉は「十八楼記」の中でそのことを書き残し、次の3句を残しています。

 

・このあたり目に見ゆるものは皆涼し

・またやたくひながらの川の鮎なます

・おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

 

 句碑は「十八楼」の庭園にありました。この句碑を眺めた後、私たちはホテルにある船着場から鵜飼を観光する舟に乗り込みました。

 

 長良川の鵜飼は岐阜県重要無形文化財に指定されていますが、1300年の時の流れを越えて幽玄の境地にいざなってくれるものでした。

 

 漆黒の闇に鵜舟の掲げる篝火が浮かび上がります。そしてその篝火に照らし出される鵜匠と鵜はその息遣いまで見えるほどでした。

 

 鵜飼のフィナーレは6隻の鵜舟が横隊になって浅瀬に鮎を追い込んでいく「総がらみ」です。鵜匠と鵜、そして鵜舟が一体となって鮎を追い詰めていく伝統漁法は見ごたえのあるものでした。

 

 鵜飼見物の翌日は金華山にある岐阜城にロープウエイで登りました。この城は斎藤道三や織田信長が居城として天下統一の野望を膨らませた城です。天守閣からは濃尾平野が一望できました。

 

 この後、愛知県の犬山城にも足を延ばしました。犬山城の天守は国宝に指定されており、現存する天守の中では最も古いと言われています。年季の入った天守閣の階段は誠に急な傾斜で私たちは玉の汗をかきながら上りました。

 

 今回の旅行は愛知県に居住する仁木肇さんと篠原常秋さんが入念な準備をしてくださって実現しました。お二人に心から感謝申し上げます。

 

 今回の旅行でこんな句ができました。

 

・瀬を渡る風の涼しき鵜飼かな

・篝火の照らし出したる鵜の猛り

・漆黒に鵜の影しかと鵜舟行く

・総がらみして鮎を追い込む鵜舟

・飢えて目の血走ってゐる鵜飼の鵜

・鵜の縄を緩めて鵜飼終はりけり

・川よりの風の涼しき鵜宿かな

・岐阜城は緑滴る山の城

・信長の城より雲の峰を見る

・万緑にロープウエイの呑み込まれ

・犬山の城は国宝心太

・天守への急な階段玉の汗 

2014年5月22日

 

 昭和58年に衆議院議員に初当選した同期生4人が今年も配偶者同伴で一泊旅行を楽しみました。今年は岡山県の日笠勝之さんご夫妻が何度も試行錯誤を重ねられた後、現地まで足を運んで入念な準備をしてくださって実現しました。

 

 神崎武法さんご夫妻は東京都から、森本晃司さんご夫妻は奈良県から、私たち夫婦は徳島県から参加しました。

 

 8人が落ち合いましたのは岡山県備前市の閑谷学校です。この学校は備前藩主・池田光政公が「山水清閑にして、読書講学に宜しき地」として寛文10年(1670年)に創学しました。

 

 閑谷学校は、領内の庶民だけでなく他領の者も受け入れるというまことに開放的なものでした。しかも、学校経営には学校領の学田・学林を設け、藩財政から独立させて永久存続をはかるという用意周到さでした。

 

 また、この学校には中国の孔子廟の楷の実を持ち帰って植えられた楷の木が茂っています。樹齢99年と伝えられるその楷の大樹は輝くばかりの若葉をつけていました。

 

 私たちは創学以来一貫して庶民教育の殿堂として三百余年にわたって活用され、多くの人材を世に出してきたこの学校を丹念に見て廻りました。

 

 そのあと、兵庫県赤穂温泉のぐらんそーる赤穂に一泊いたしました。ここでは瀬戸内海の海の幸を心ゆくまで堪能し、夜の更けるのも忘れて歓談いたしました。

 

 恒例となりました句会も開催しました。8人全員からそれぞれに感慨のこもったこんな句が出されました。

 

・万緑の赤穂に出会ふ君と僕

・集ひ来し笑顔と笑顔春の海

・閑谷にいにしへ訪えば若葉風

・楷若葉学びの志士の大樹にと

・閑谷の楷の若葉を仰ぎ見る

・春の海行き交ふ舟のゆったりと

・鶯や閑谷学校森の中

・閑谷は青葉若葉に鎮もれる

 

 ほぼ一年ぶりの再会でお互いに名残は尽きませんでしたが、来年もまた元気に集い合いましょうと約束を交わして解散しました。皆様のご健勝を心から祈ります。

2014年4月21日

 

 鳴門市の観音寺と阿波市土成町の神宮寺で牡丹を見てきました。ともに徳島県では有名な牡丹寺です。

 

 観音寺には150種380株、神宮寺には150種450株の牡丹が育てられていました。株ごとに開花時期が違っていて牡丹祭りの期間中、開花した牡丹が楽しめるように工夫されていました。

 

 古来、中国では高山に群生する牡丹を薪に、その根皮を薬にしていました。牡丹の根皮にはベオノールという薬効成分があり、止血剤や鎮痛剤として使用されてきたようです。

 

 その牡丹が鑑賞用として栽培されるようになり、則天武后や楊貴妃も好んだと伝えられています。

 

 日本には平安時代に中国より伝えられ、文学として登場したのは清少納言の枕草子が最初です。

 

 以来、多くの人々から「百花の王」として愛され親しまれてきましたが、種から育てる栽培は難しく文字通り「高根の花」でした。

 

 戦後は芍薬を使用した接ぎ木によって育てることができるようになり、急速に普及しました。今では品種改良が進みさまざまな牡丹が観賞用として栽培されています。

 

 牡丹の花びらは大変に薄いので太陽の光線に弱く、真昼の太陽に当たると花びらの先が黒ずんだり、縮んでしまうそうです。

 

 夜になると牡丹はその花びらをたたみ、朝になるとゆっくりと花びらを開くとも聞きました。牡丹の見頃は午前8時ごろとも教えてくれました。

 

 牡丹を見ていてこんな句ができました。

 

・花開く朝の牡丹を見に来よと

・花びらの薄き牡丹の日に弱く

・ぼうたんや秋田美人は日を避けて

・まだ固き蕾も数多牡丹咲く

・ふくよかに大振り牡丹咲き満てる

・株毎に犇めき咲ける牡丹かな

・鉢植えの牡丹品よく並べられ

・日向より日蔭の牡丹艶やかに

・大振りの牡丹のかくも妖艶な

・小振りなる牡丹のかくも凛として 

2014年4月14日

 

 美馬市脇町のデ・レイケ公園のチューリップ祭りと北島町のチューリップフェアでチューリップを見てきました。

 

 美馬市脇町には町の中心部を流れる大谷川に「デ・レイケ堰堤」があります。これは明治政府のお雇い治水技師だったオランダ人のヨハネス・デ・レイケが造ったものです。土砂流出を防ぐ弓状の堰堤は今も当時のままに整備されています。

 

 この堰堤を記念して「デ・レイケ公園」が造られ毎年10000本以上のチューリップが咲き競うチューリップ祭りが開催されているのです。

 

 私が訪問した時はまだチューリップは咲き始めたばかりでしたが、散り始めた桜と相まって素晴らしい風景でした。公園には風車小屋があり、オランダの風景をふと思い出しました。

 

 一方、北島町では戦後間もないころからチューリップ栽培が始められました。現在は年間60万本のチューリップを出荷するほどチューリップ栽培が盛んな町となっています。

 

 チューリップフェアも年々盛んになり、今年は65品種、38000本のチューリップが花をつけました。

 

 私は、本日、訪問したのですが一部に散り始めたチューリップもありましたがこれから開花するものもあり、大勢の家族連れが満開に咲き競うチューリップを楽しんでいました。

 

 チューリップを眺めていると平和のありがたさを感じました。チューリップフェアには家族団欒の姿が似合うとつくづく思いました。

 

 チューリップを見ていてこんな句ができました。

 

・原色の並ぶ明るさチューリップ

・オランダの風景をふとチューリップ

・なかんづく赤白黄色チューリップ

・太陽に微笑んでゐるチューリップ

・チューリップフェアに家族連れ多く

・チューリップ数へて数を教はりぬ

・ハネムーンてふ真っ白なチューリップ

2014年3月7日

 

 昨日、徳島市で開催された「宇宙、人、夢をつなぐ」と題する宇宙飛行士・山崎直子さんの講演会に出席してきました。

 

 山崎さんは2011年4月、スペースシャトル・ディスカバリー号で宇宙へ飛び立ち、国際宇宙ステーションのロボットアームを操作して補給物資をスペースシャトルから国際宇宙ステーションに搬入するなどの作業をしました。

 

 山崎さんの宇宙滞在は15日間でしたが、スペースシャトルは2011年限りで退役したため、山崎さんは日本人として最後のスペースシャトル搭乗者となりました。

 

 そんな山崎さんの講演は星を見るのが好きでプラネタリウムに足繁く通った少女時代の回想から始まりました。

 

 レーガン大統領が国際宇宙ステーションの計画を発表したのが1984年、日本がその計画に参加を表明したのが1985年、スペースシャトル・チャレンジャーの事故は1986年。その時、山崎さんは中学3年生だったそうです。

 

 1992年には毛利衛さんが宇宙へ飛び立ちました。そのころから山崎さんは自分も宇宙飛行士になりたいと思うようになり、候補者の採用試験に挑戦しますが門前払いされます。それでも希望を失わず、1999年、候補者に選ばれ、2001年に認定されます。

 

 しかし、それからが大変でした。飛行機の操縦訓練はもちろんのこと、ロシアでは雪の山中や海上に不時着した訓練があり、アメリカではロッキー山脈の山中で10日間に100キロを歩き続けるサバイバル訓練などが続きました。

 

 訓練の99パーセントは非常事態に対処するためのものであり、スペースシャトルや宇宙ステーションに搭乗したとの想定で行われる訓練はそれらをすべてやりきったときに始まるのです。

 

 いつになったら、スペースシャトルに乗れるのか全く分からないままに訓練を続けるのは心理的にも大変だったそうですが、それも訓練の一環であったと今は振り返っていますとのことでした。

 

 山崎さんは国際的なチームの一員として宇宙飛行士業務に従事するためには英語力はもちろんのこと、協調性、適応性、情緒安定性、意志力などの人間力が一番大切なことを学んだとも語っていました。

 

 そして「宇宙から見ると地球も宇宙に浮かぶ宇宙船でした」と宇宙から撮影した地球の写真を紹介しながら語りました。爽やかなその笑顔と共にこの言葉が印象に残る講演会でした。

2014年2月25日

 

 ソチオリンピックが閉幕しました。日本勢が獲得したメダルは金1、銀4、銅3の計8個。98年長野オリンピックの10個に次ぐ歴代2位で、海外で開かれた大会では最も多く、大健闘といってよい出来栄えでした。

 

 とりわけ10代の活躍には目を見張るものがありました。スノーボード男子の銀メダルは15歳の平野歩夢選手が取り、冬季大会での日本人メダリストの記録を塗り替えました。

 

 平野選手に続いて銅メダルを取った平岡卓選手は18歳。二人の爽やかな笑顔が印象に残りました。

 

 金メダルに輝いたフィギアスケート男子の羽生結弦選手は19歳。東日本大震災で被災し、それを乗り越えての快挙でした。

 

 ノルディックスキー・ジャンプ女子の高梨沙羅選手は17歳。期待された金メダルは逃しましたが胸のすくようなジャンプを見せてくれました。次回が楽しみです。

 

 一方で、ベテランが存在感を示した大会でもありました。スキー・ジャンプ男子の葛西紀明選手は41歳。7度目の大会出場で「レジェンド(伝説)」と世界から呼ばれ、それにふさわしい結果を残しました。

 

 個人で銀メダル、若手を率いた団体では銅メダルを手にして冬季オリンピックの日本人最年長メダリストになりました。

 

 5位と健闘したカーリング女子チームをまとめた小笠原歩選手は35歳。日本ではまだ珍しいママさん選手でした。

 

 オリンピックはメダルが全てではない。メダルよりもっと素晴らしいものがある。そんなことを改めて感じさせてくれた大会でもありました。

 

 フィギュアスケート女子の浅田真央選手はショートプログラムで失敗し出遅れたもののフリーではこの選手にしかできない圧巻の演技で世界中の人々に感動を与えました。

 

 過去の大会で7位、6位、5位、4位と入賞して、今回こそはメダルをと臨んだフリースタイルスキー女子モーグルの上村愛子選手は本人も満足する見事な滑りを見せましたが、今回も4位でメダルには届きませんでした。

 

 メダルに輝いた人もメダルを逃した人も見る人に大きな感動を与えてくれたオリンピックでした。日々、感動のドラマを演じてくださったアスリートの皆様本当にお疲れ様でした。 

2014年2月8日

 

 第22回冬季オリンピックがロシアのソチで開幕し、日本時間の8日午前1時14分から開会式が開催されました。私はテレビで拝見したのですが、その見事な演出は目を見張るばかりでした。

 

 広いロシアの代表的な土地の風景や風俗が紹介されたかと思うとトルストイの戦争と平和の名場面が著名なバレリーナの豪華な舞踏会で演出されるなど芸術性豊かな舞台運びでもありました。

 

 旧ソ連時代の機械化による国土の開発や宇宙開発の模様も壮大に演出されロシアの歴史を鳥瞰する演出でもありました。

 

 この大会には史上最多の87カ国・地域から約2900人が参加したのですが、選手の方々も観客席に着席して開会式の舞台が見られるようその入場行進を早目にするなどの配慮もされていて私は感心しました。

 

 私は旧ソ連時代に訪問したことはありませんが、過去に2回、モスクワとサンクトペテルブルグを訪問したことがあります。

 

 ゴルバチョフ大統領がリーダーシップを取られたペレストロイカとグラスノスチが国民の間にも定着してロシアが新しい時代に踏み出したころでした。

 

 長い閉塞感から解放され人々の顔には笑顔があふれていました。それでも経済的には豊かではなく、モスクワの街には旧ソ連時代の車が悪臭のする排気ガスを吐き出しながら走っていました。

 

 今回のソチオリンピックの開会式を見てロシアも大きく変わったことを私は実感しました。豊かになったロシアでこの平和の祭典が実り豊かに開催されることを私は心から祈っています。

2014年1月29日

 

 私事で誠に恐縮ですが、第17回ふるさと情報全国俳句大会で私の句が特選賞に輝き、今年のふるさと情報カレンダーの冒頭に掲載されました。

 

 味噌入れるだけの男の浅蜊汁、というなんでもない句です。それが高田風人子さんの選で特選賞になったのです。そのことを伝えると浜松の旧友からは技巧のない男らしい句と褒めてくれました。

 

 もう4,5年前になりますが、この全国俳句大会では最優秀賞に輝いたこともあります。その時もカレンダーの表紙に掲載していただきました。

 

 突っ張って引っ張って薄氷かな、というのがその時の句でした。この句もありのままを詠んだものですが、浜松の旧友が言うように技巧しなかったことが評価されたのかも知れません。

 

 この全国俳句大会は選者に有馬朗人、稲畑汀子、山崎ひさを、成川雅夫、高田風人子、大久保白村、大高霧海、佐治英子、小川濤美子、中村菊一郎さんというご高名な方々が並びながら投句料が無料という大変珍しい俳句大会なのです。

 

 私はそこに惹かれて毎年投句しています。毎年のカレンダーには特選賞、最優秀賞に続いてたくさんの入選句が並びます。

 

 その句を一句、一句鑑賞するのがまた楽しみでもあるのです。ご高齢の方から中学生や、小学生の句まで掲載されています。

 

 選者の方々の句も紹介されています。1月は有馬朗人さん、2月は稲畑汀子さん、3月は大高霧海さん、4月は佐治英子さん、5月は高田風人子さん、6月は稲畑汀子さん、7月は有馬朗人さん、8月は小川濤美子さん、9月は成川雅夫さん、10月は中村菊一郎さん、11月は大久保白村さん、12月は山崎ひさをさんの句が本人の直筆色紙をコピーして紹介されているのです。

 

 なかなか読みごたえのあるカレンダーになっているので、毎年捨てるのが惜しく今年も、大切に保存していくことになりそうです。

 

 それにしましても投句料無料で全国俳句大会を続けていくのは大変なことだと思います。今年は第18回大会になりますが、大会事務局の皆さんのご努力に敬意を払いながら投句を続けたいと考えています。 

2014年1月6日

 

 新年あけましておめでとうございます。我が家では3人の息子たちが家族全員を伴って帰省しましたので総勢で15人という大家族でお正月を迎えました。

 

 年末から4日までそれはそれは大変な賑わいでした。とくに家内は席の温まる暇もないほどの忙しさでしたが3人の嫁たちがよく頑張ってくれました。お陰様で一家団欒の日々を過ごしながら、心を一つに新年を迎えることができました。

 

 息子たちが帰ってようやく静寂を取り戻した我が家で私は今、家内とともにゆっくりと年賀状を読んでいます。

 

 今年もたくさんの方々から年賀状をいただきました。数えてみますと360通を超えています。一切の公職を卒業した身には多すぎる数ですが、これほど多くの方々が年賀状を送ってくださったことに心から感謝しています。

 

 久しくお会いしていなかった方からお元気な近況を寄せていただくとそれだけでうれしくなります。私のホームページを毎日楽しみにしているという年賀状もたくさんいただきました。

 

 私と同じように定年退職して以来、余暇を上手に活用されている人もたくさんいらっしゃいました。家族旅行をしたり、野菜作りに汗を流したり、公民館活動をして地域のために頑張っている人もいました。

 

 それぞれの皆さんが新年を迎えて一層はつらつと頑張りたいと決意をしたためられていました。私もそうした皆さんに負けずに今年も精一杯頑張ろうと決意しました。

 

 最近は、メールなどの便利なツールが発展して年賀状の数が減っていると聞きますが、お正月に炬燵の上でゆっくりと一枚一枚の年賀状を読むのは本当にうれしいものです。この日本の良き伝統をいつまでも伝えていきたいものだと私は思います。